99:1 ㉑ 最終話
用無しになったと思われた人工母体だが、ひとつの成功例によって精度の高さが認められ、不妊に悩む夫婦のために使用の継続が決定した。大きな仕事を終えてホッとしたのも束の間、パルメザンのラボには世界各地からの依頼が絶えず、今度はその対応に追われた。
人工母体には「チーズ」という愛称が付けられた。この国のスラングで「いい女」 という意味だ。彼女のカプセルの上には「Cheese Mam」という名札が貼られ、出勤した研究員は「チーズマム、おはよう」と声を掛けるのが日課になった。頼りがいのあるビッグママはゴーダの次に人気者で、なにより働き者であった。
この母体は規則正しく動いていたが、アンドロギュノスの出産の報告はないままだった。もしかしたら母子共に死んでしまったのかもしれないと人々は諦めながら忘れていった。それでもパルメザンにとって彼女は特別な存在で、結末を無視できなかった。 力になれることがあるかもしれないと、今なら自信をもって言えるからだ。
♢♢♢
夏の始まりの明るい夕方だった。ラクレットが仕事帰りのパルメザンを待っていて、祖母が会いたがってるので来てくれないかと言った。多忙でずっと会えていなかったので、数か月振りに家を訪ねた。
「いらっしゃい」
祖母は背もたれの高いオークカラーの椅子にゆったり腰掛けていた。シルバーの髪を無造作に結い、星空のようにてらてら瞬く紫色のシルクのワンピースを着ていた。
「ずっと会いたかったのよ。パルメザン。戻って来てくれると信じていたわ」
こんなに華奢だったかと思うほど、数か月振りに再会した祖母は一回り小さくなっていた。自分と祖母とでは流れる時間の早さが違うのだとハッとさせられた。たおやかな笑みや凛とした声はそのままだったが、折れそうな首元が目に入ると切なさが走った。
「自分でもまだ困惑しております。けれどきっと間違いではないことをしたのでしょう。おばあ様にまたこうしてお会いできたことで立証していると、確信しております」
前に立つパルメザンを見上げながら祖母はぷっと吹き出し「真面目な顔して」とくすくす笑った。つられてパルメザンも笑い、混じり合った二人の声が庭先まで響いた。
「よくやりましたね。この世界に笑顔を取り戻してくれた。心から誇りに思いますよ」
すうっと伸びてきた、可憐なひなげしのような手をそっと両手に包んだ。
「ーずっと思っていました。あの時に両親が私を女にすると選択していたら、どんな人生が待っていたのだろうと。女になった自分を幾度となく想像しました。空白がずっとあったのです。失ったのは子宮ではない。心だったと。中学生の時、母のスカートをこっそり履いたこともあります。男になってゆく体を受け入れられませんでした。まるで呪うように奪われた臓器を所有している女性達に嫉妬し、果ては彼女らを消そうと思っていました。人工母体は私の代わりに子供を生んでくれる代理母だったのです。けれど、彼女が新しい私を産み落としてくれました。これが使命と気づかせてくれました。アンドロギュノスに生まれてなければ、こんなにも生や性に固執してなかったでしょう。私が女を諦められなかったのは、おばあ様を見てきたからです。あなたに憧れていたのです。毅然としているのに風のように軽やかで、なんて綺麗なんだろうと見とれていました。99:1であろうと、女性がいる限り、世界は明るくてうるさい。最近はどこにいても「ありがとう」と皆に声を掛けられるので恥ずかしくてかなわんのですが、それも案外悪くはないなと、やっと思えるようになりました」
「もっともっと恥ずかしい思いをなさい。人は人と交わることでしか成長できません。あなたの照れた顔を見て、あなたのようになりたいと思う誰かもいるのですからね」
見つめたまま手を強く握り合った。オレンジ色の西日が窓から差し込んで部屋を染めた。首を傾げて微笑む祖母はまるで宗教画の聖母のようだった。
「今日はお願いがあって呼んだのよ。私の写真を撮ってくれないかしら。亡くなった時の遺影にしたいの。そのために一張羅を着たのよ。私を一番よく知っているあなたなら、こんなおばあちゃんでもきっと綺麗に写してくれると思ってね。カメラも用意してあるわ。お化粧も少しだけにしてあるの。そのままの姿を残したくてね」
遺影など…。口にしようとしてパルメザンは止めた。祖母はそのために待っていたのだ。 これは孫である自分の役目だった。古い一眼レフを構えて祖母を撮影した。ポーズの要求はしなかった。なにもしなくても彼女は美しくて絵になった。分からないのは勝手に涙が溢れてくることだった。ファインダーが曇る。気がつけばカメラを下に置いて、祖母の膝の上に顔を伏せて泣いていた。優しい指がそよ風のようにそっと髪をなぞった。
「ずっと苦しめてごめんなさいね。けど、あなたならどちらを選んでも強く生きてゆけると信じていたの。あなたはとても思いやりがあって、子ぎつねが母親とはぐれて独りぼっちになった映画を観て、その子のために画用紙にきつねをたくさん描いて、仲間がいれば寂しくないよねと画面に貼ってあげていたのよ。なんて優しい子なのと思ったわ。相手の気持ちを分かってあげられる。この子なら大丈夫だと確信したのよ」
涙が止まらなかった。心を支配していた氷が溶けてゆく。祖母の膝の上がこんなにも温かいのだと今日初めて知った。今だけは女のように泣きたかった。
翌日の朝早く彼女は亡くなった。老衰だった。世界最高齢。SSM以前を知る唯一の女性の死去のニュースは全世界に同時に発信され、パルメザンの撮影した写真が映された。湖のような静けさと堂々たるまなざしは人々に感動を与えた。日課だった日記の最後のページにはこんな言葉が残されていた。
「女は太陽。女は大地。決してこの世から消えることはありません」
パルメザンにとって、まさに太陽で大地だった祖母は、そう宣言をして、長く、尊い生涯を終えた。
祖母の残した家の中を片付けながら、パルメザンも心の中を整理していった。身内はみんな死んでしまい、この家もどうしようかと考えていた。日の当たるいい家だが、あまり使う機会もない。ラクレットも退職金を払って暇を出したので、空き家になっていた。 結婚すれば寂しくないか…。ふとそんなことを考えた刹那、あのアンドロギュノスがどうなったのかとどうしても知りたくなった。彼女は子供を生んだのか、先方の病院に問い合わせてみることにした。
三日後に返信が届き、彼女のパートナーの男性が直接話をしたいと言っているがどうされますかと聞かれた。願ってもないことで「是非」と返した。すると数分後に画面が切り替わり、白いTシャツに、伸びた前髪の青年が映った。少しうつろな目をしていたが、利発そうな顔をしていた。彼は愛想笑いもせずに「こんにちは」と抑揚なく言った。パルメザンも「こんにちは」と一礼した。
「応じてくれてありがとう。私はパルメザン。遺伝子研究をしてる科学者です。あなたのパートナーについて教えてもらいたくてコンタクトを取らせてもらいました。差し支えなければ彼女の現在の様子を教えて頂けませんか」
なるたけゆっくりと尋ねた。アンドロギュノスという単語は敢えて避けた。彼はやや視線をずらしながら、シャツの袖から伸びる腕を擦った。
「信じられないでしょうが、彼女は妊娠十六か月目に入っています。本来なら母子の安全のために帝王切開して子供を取り出すらしいのですが、彼女の場合はそうできません。いつになるかも分かりません」
彼は小さく息をついた。パルメザンも驚いた。まだ妊婦のままでいるなど危険極まりない。なぜ手術をしないのかと問うと、彼女自身が子供を通して成長しているのだと青年は言った。
「彼女は耳は聞こえますが話すことはできず、字も読めません。天使のように綺麗で純粋な子で、子供のまま時が止まっています。今二十三歳ですが、二十歳になるまで初潮がありませんでした。僕のいた国ではアンドロギュノスには戸籍が与えられず、性別手術も違法なので、身体を隠して暮らしていました。けど成長するにつれて衰弱してゆき、もぐりの医者に診察してもらいながら体を維持していました。それで彼女を手術できる所へ行こうと国を出たのです。 すると不思議に彼女が元気になってゆきました。自国では歓迎されない存在と分かっていたんでしょう。密航船に乗った彼女は見違えるほど元気になりました。僕らはサーカスの旅芸人でしたが、彼女はどこに行っても人気者で、教えたことは一度でできてしまう芸達者でした。僕の初恋の人で、彼女も僕を好いてくれて、とても仲良しでした。以前友人がアンドロギュノスが妊娠すれば女性ホルモンが活発化されて、男性性が消滅するかもという話を僕にしました。正体を知られれば、彼女は研究材料か晒し者にされるので、彼の仮説に賭けることにしたんです。彼女に初潮があってから、ある国の小さな教会で結婚をし、子供を作ることにしたんです。正直すぐには無理だろうと思っていたのですけど、思いがけないほど早く彼女は妊娠し、それと同時に意識を失いました。船旅の途中だったので、わざと不法入国して掴まり、事情を話すと研究チームに協力するなら滞在を許可するというので、現在も留まっています。彼女は眠ったままですが、子供はお腹の中で育っています。そして彼女も成長しています。自身が与える栄養によって育つ胎児から、彼女自身も成長ホルモンを与えられて大人になっているんです。この十六か月の間に七センチも背が伸びて、体付きも女性らしくなりました。これまで止まっていた成長を子供が促しているんです。それがいつまで続くかは分かりません。無理に取り出したりしたら彼女の命も危うい。互いが互いの生命を扶助しているからです。僕は見守るしかありません。それが現状です。けど子供か彼女のどちらかしか助からないと言われたら、迷うことなく彼女を選びます。そのために僕はずっとここで待機しているんです」
心拍数は下がっているが血圧は普通。冬眠に近い体質になっているらしかった。 質問の余地もないほど青年は理路整然と状況を説明した。パルメザンは頷くしかなかった。彼にとっては夫婦と命の問題。これ以上踏み込むのはモラルとして正しくなかった。知りたいことは教えてもらった。十分だった。
「お答え頂いてありがとう。よい報告が聞けるよう僕も願っているよ。これでも一応医学の知識もあるから、力になれそうなことがあれば遠慮なく相談してほしい」
ええ、ありがとうございます。青年は小さく頭を下げた。まだ若いのに彼にはもう父親の風格があった。彼女が無邪気な子供だったからだ。気を張って見守ってきたのだろう。時には叱り、何度も抱きしめながら。すると、―そういえば、と彼が言った
「パルメザンさん、あなたは覚えてないかもしれないけど、昔お会いしたことあるんですよ。夜すれ違ったんです。あなたは犬を連れてた。老人の格好をしてね」
青年は口を横に広げた。逞しくなった肩幅が時の流れを物語っていた。
「綺麗な月の夜だったね。あの犬はとても鼻が利いてね、世に影響を与える人間を嗅ぎ分けるんだよ。どうしても散歩をしたがるので出て行ったら君に会った。誰にも懐かないけど、 私としか散歩をしないんだ。なかなか面白い奴だろう?」
ははっと彼は笑い「光栄です」と、あの頃より精悍な口元をくいと傾けた。彼の瞳は金色の光彩を放ち、遠くを見つめる猫のようだった。
♢♢♢
パルメザンは祖母の家を売りに出した。思い出の品は自宅に移したので、もういいかと決心がついた。空き家にすれば朽ちるのも早いが、誰かに使ってもらえば維持してくれる。その方が祖母も家も喜ぶだろうと思ったからだ。
ゴーダをつれて散歩がてらに見に来ていた。天気のよい午後だった。過ごしやすい秋の入り口。モザイクレンガの敷き詰められた遊歩道の脇の芝生に立っていると「あらパルメザンさん」と背後から声を掛けられた。
祖母の家を管理している不動産会社の女性だった。ああどうもと挨拶すると、紺のスーツの女性もにこやかに返し、すいと手を横に伸べた。
「実はおばあ様のお宅を内覧されたいお客様をご案内してるんです。来月こちらに越してくるご予定で、ネットで見て大変気に入られたそうなんです」
彼女のすぐ後ろに二人の親子がいた。母親と高校生ぐらいの娘。この国の人間ではないとひと目で分かる風貌だった。ユキヤナギを思わせる儚げなほっそりした母親。その隣にいる娘は母親よりさらに細かった。だが病弱な様相はなく、歩き方もしっかりしており、 顔色もすこぶるよかった。そして彼女は若いのに語学が堪能だった。
不動産会社の女性に紹介されると「あのパルメザンさんですか?私尊敬してるんです。お会いできて嬉しいです」と甲高い声をあげて握手を求めてきた。体を斜めにしていた。腕が少し不自由らしい。
パルメザンは慌てて手を差し出した。強引に滑り込ませてくる手は見た目に反して肉厚で大きかった。なにかちぐはぐな少女だった。 彼女はあの騒動についてパルメザンに次々と質問し、こちらが忘れていたような細部まで記憶していた。
「あの騒動のおかげで移住の許可が降りたんです。あれがあってだいぶ国交が自由になりましたからね。おかげで肩の荷が下りましたよ。だからパルメザンさんには本当に感謝してるんです。実は私ね、一年前まですごく太ってたんですよ。樽みたいにぱんぱんだったんです。けどあの病気でうちのお父さんも亡くなって、ものすごく怖いのと、ものすごく悲しい経験をして、それから意識が変わっていったんです。ずっと自分が嫌いだったから、将来したいことが思い付かなかったんです。背が高いイケメンとかに生まれてたら、 みんなに羨望のまなざしで見られてめっちゃ気持ちいいのになあとか、自分じゃない人間になることにしか憧れてませんでした。けど私の周りでもたくさん人が死んで、その人達はもう帰ってこないけど、私はまだやれることがあるんだなって気付いたんです。生きていれば生まれ変われるんだって。それでダイエットしたら、同級生の男子に「可愛くなった」なんて褒められちゃったりして、女の子もいいもんだなって初めて思いました。自分に自信がついたことでやりたいことも出来ました。私先生になりたいんです。この国は教育システムが整っているから勉強したくて来ました。色んな知識を身に付けて、子供たちにたくさん夢を与えられる教育者を目指しています。新しい生活を始められるきっかけを作って下さって、ほんとにありがとうございました」
少女はへっへっへっと奇妙な声で笑った。すると呼応するようにゴーダもへっへっへっと同じ呼吸をし、おかしなハーモニーが絡み合って響き渡った。
「親近感感じるわあ」
娘が撫でると、珍しくゴーダは尻尾をバタバタ振った。滅多にない反応にパルメザンも驚いた。通じ合うものがあるのか、彼女にも使命があるのかどちらからしい。
昔読んだ記事が不意に脳裏を過ぎった。女性が銃を携帯する国であった二つの事件。乱射事件の取り調べをしていた刑事の男を撃った娘がいたが、彼は連続誘拐犯だったと、裁判で自分の行動の正しさを三時間も喋り続けて無罪を勝ち取ったというツワモノだ。撃たれた刑事は命に別条はなかったものの、娘とのやり取りに疲れ果てて罪を認め、一審で結審したという痛快な話だった。こういう奴は嫌いでないが、 近くにいたら厄介そうだと思っていたので覚えていた。
君かい?とは聞けないが、なぜかその話がちらつく。母親に促されてようやく娘は歩きだしたが「またお話聞かせて下さいね」と馴れ馴れしく手を振りながら去っていった。 玄関のエントランスを上がってゆく親子を見ていた。あの家は彼女たちが住むのかと思った。祖母とはだいぶタイプは違うが、どうやらお喋りに好まれる家らしい。
研究所へと向かう間も度々声を掛けられる。人嫌いだったパルメザンも慣れてきた。他人は自分を映す鏡。最近はパルミジャーノもレッジャーノもやけに気安い。立ち止まって会話を交わしていると、時々こんなことも言われるようになった。
「パルメザンさん、まだおひとりなんでしょ。うちの娘どうかしら」
いやいや 仕事が忙しくてまだ考えてませんよ。そう答えてやり過ごすが、そんな生活も悪くないのかと考えてみる。
「ゴーダどう思う?」
歩きながら尋ねてみたが、彼は荒い息を上げるだけだった。もう少しこいつが相棒かなと、垂れた耳と皮を見ながら思った。彼といるのが一番安らぐ。理解し合わなくても信頼している同志。ちょうどいい距離感で付き合える最高の他人。
それに比べて人間なぞ本当に面倒臭い。男に生まれようと女に生まれようと同じこと。 どっちを選んでもさして変わらないのが現実。常にくだらなく、常に問題を抱えている。幸福の度合いに差などないと。女の方が生きやすい女もいれば、男の方が生きやすい男もいる。それだけのこと。
あの少女が言うように人間は生まれ変われる。自分に不満があるならそうすりゃいい。次の世代に持ち越すことじゃない。今やれ。何度だって変えろ。やっと感受できた自分宛のメッセージ。こいつはずっとそう言ってたんだな。パルメザンは腹の傷跡に手を当て、センチになったな…と苦笑した。
歩道に面するカフェから音楽が聞こえていた。軽やかに響き渡る女性の歌声。 爽やかなメロディと愛の喜び。明るい午後にぴったりの曲で、 晴れやかな空にすうっと吸い込まれていった。
曲がり角に差し掛かった時に携帯が鳴った。アンドロギュノスが入院している病院からだった。息を飲んで足を止めた。すると、リードを引いてもいないのにゴーダがすとんと座った。なにかを感じ取ったように歩道に尻を置いている。
とうとう生まれたのか?画面を見つめる手が震えた。ここは賑やか過ぎるが、静かな部屋で聞くより、誰かが周りにいる方がいいと思った。雑踏の中ならまるで冗談のように受け止められる。新たな人類の誕生の知らせを。ふたつの性を持った神の子。どちらも選ばなかった両性具有者は男と女のどちらを生み落としたのか。パルメザンはゆっくりと指に力を込めてから耳に当てた。
「もしもし」
彼の横を休日を楽しむ人々が通り過ぎていった。笑い声に話し声。車のクラクション。 街には男も女もたくさんいた。着飾って、体を寄せ合っている。誰かが離したらしいオレンジ色の風船が高く浮かんでゆくと、みな一斉に見上げた。空から見ればそんな景色だった。
〈終わり〉
