99:1 ⑯
「もしかして新月さんじゃない?髪の毛ちょっとウェーブした人?」
「ああそう。確か新月って言ってた。知ってるの?」
「有名だもん。中秋で新月戦争が起きたって。四十人ぐらいで取り合って、新月さんの家にひっきりなしに女子が出入りしてたって。結局誰とも結婚しなかったけどね」
「うわー最悪。たらしなんだ。なるほどねえ」
「なにかあったの?」
「友達と一緒に見てたの。で、その子が新月さんに話しかけられたらすごい拒絶反応起こしたのよね。男性恐怖症だから感じ取ったのかな。危険だって察したのかもね」
「でも退屈な男より少し危険な方がずっと魅力的よ。遊びを知らない人間は人を楽しませることも知らないから気が利かなくて苛々するわよ。男に一番大事なのは成熟度よ。大人じゃないと女は疲れるわ。 そういう点でも新月さんはデキがいいのよ。とにかく優しいってみんな言ってる」
「優しいってどんな風に?」
「こっちの欲しいものをちゃんとくれるって。くだらないけど本音の質問ってあるじゃない。あなたは誰が死んだら一番悲しい?とか。それは「君だよ」という言葉を求めているだけで、本当の答えが聞きたいわけじゃない。でも馬鹿な奴は母親だとか、飼ってる猫だとか言うのよ。けど新月さんは「今君がいなくなったらすっごく寂しいな」って言うんだって。どうせ口だけでしょって分かってるけど、言ってもらえれば嬉しいじゃない。これぐらいのことうまくやってよって思うわよね。私も中秋に三回行ったけど、こっちをいい気分にさせることもできないくせに、鼻息荒くして押し倒すことしか考えてないんだから、うんざりしちゃう。私はニアミスで新月さんとは会わなかったけど、一回付き合ってみたかったなあ。恋をするなら、やっぱりドキドキしたいし、理想とする自分のままでいさせてくれる人の側にいたいわよね。新月さんはそれを叶えてくれる数少ない男の人なのよ」
絶対ルナの部屋でアクセスするわけにいかないと思った。いい加減な出任せ男。自分も彼女も一番嫌うタイプの人種。いかにもモテそうな綺麗な顔をしていて、まるで昔からの知り合いみたいに微笑んでくる。そんな軽薄な男と、真面目そうな上弦さんの弟は、よく一緒に暮らしているなと思った。
彼は私との再会をどう思っただろう。ミカは帰りのバスで思っていた。すぐに上弦さんの弟と気付かなかったことがショックだったろうか。もしかして、と先に言ったのはあちらだった。最後に会ったのは六年も前なのに、覚えていてくれたのはなぜだろう。
画面に映っていたのは自然な姿だった。車のカタログを見ながら新月と話している時の楽しそうな声。そつなく礼儀正しい彼より、バリアのない方がずっと素敵だった。ミカはバスを降りてすぐルナに電話をした。四回目のコールで「はい」 と鈴の声がした。今から行っていい?尋ねると、ルナは察したのか一瞬の空白のあとに「明後日締切りだから、仕事してるけど…」と言葉を濁した。
ためらいが口を塞ぐ前に一気に伝えた。ルナが嫌がるから短時間で済ませて、アドレスを写したらすぐ削除しようと思っていた。新月は魅力的かもしれないが、ルナには刺激が強すぎる。ミカも近付けたくなかった。
「これは私だけの都合だからルナには迷惑かけないよ。履歴も消しておく。そうすれば安心してパソコン使えるでしょ」
わずかな沈黙の後、そうね…と風がそよぎ、「分かった」と答えた。ホッとしているとか、ありがたいといった感情は特に受けなかった。
家を訪ねると、ルナはまるですすきのようにゆらりと出てきた。 元々線が細いが、さらに痩せた印象だった。けれど、大丈夫?と聞いたら気遣いの会話しかできなくなる。ミカはなるたけ明るく「突然ごめんねえ」と笑った。
「一弟さんと、何の話をするの?」
デニムのジャンパースカートのルナは壁に手を添えてミカを見つめた。ミカは少しドキリしたが、悟られぬよう微笑んだ。
「色々よ。私も一度も中秋に行ってないから、男の人のこと知らないじゃない。だから実際どうなのか聞いてみたくて」
「ミカ、結婚するの?渡航するの?」
「まだ考えてないよ。でもいつかは気持ちが変わるかもしれないでしょ。これが考えるきっかけになるかなって思って。男の人のこと、少し知りたくなったのよ」
ルナは壁に凭れ、肩までの髪を耳に掛けて小さな溜め息をついた。
「男って女を幸せにする気がないのにどうして結婚するのかしら。女は結婚したら幸せになれると思ってするのに、男の人は途中で投げ出してしまう。衣食住さえ揃ってれば生きてゆけるんだから、それで満足しろって思っているのよね。心があるってことを男の人は出来るだけ無視したがってる。相手のためになにができるか考えるより、自分の提示したものを喜んでくれる女が理想なのよね。よき夫がよき妻を作るって格言があるけど、本当にそうだと思う。暴漢に襲われそうになったら助けてやるのが守ることだと男の人は勘違いしてる。女にとって守ってくれるっていうのはそういうことじゃない。いつでも味方でいてくれる。ただそれだけでいいのに、滅多にないことを想定してヒーローになりたがっちゃうのよ。女にとって男の腕力なんかなんの役にも立たない。鍛えてほしいのは心の方なのに、なあんにも分かってない。私のお父さんもそうだった。人を喜ばせることに興味がないから「公平である」ことを常に条件にするの。 優しくしてほしいなら優しくしろ。そっちがしないならこっちもしない。ケチくさい男だなって自分の父親ながらうんざりしたわ。そのくせ浮気とかはちゃっかりするんだからひどいわよね。しかもバレた時、謝るより前にお母さんを責めるのよ。おれの携帯見たな、 プライバシーの侵害で人間として最低だって。私それでもう男の人が嫌いになっちゃった。 世界から女が減った理由が分かったもの。女に生まれたのに愛されないってすごく辛いことなのよ。男が軽視している部分こそが女にとって重要だと理解していない。お母さんはそのせいで精神を病んで死んじゃった。結婚なんかするな、手に職を持ってひとりで生きる方が幸せだって何度も言われたわ。すっかり刷り込まれて、男性アレルギーになってる。絵を描きながら一生静かに暮らすつもりだった。本当よ。けどね、私おかしいの。 あの雷の落ちた日から。どうしていいか分からない。ミカ、助けて。私蛹になっちゃいそう。体の中の成分が変わっちゃいそうで怖いのよ…」
ルナは壁に背を付けたまま、あの日のように膝を抱えて嗚咽を漏らした。
♢♢♢
テラスから歩道の桜が見える。枝の先までまんべんなく咲いている無数の花びら。桜の花は発光するのか、夜でもそこだけぼんやりと白くなっていた。
上弦はひとりでテラスでビールを飲んでいた。新月は会社の仲間との飲み会で、今夜は遅くなると連絡があった。人といるのが好きで酒も好き。だから新月が飲みにゆくと早くても一時まで帰らない。まだ十時前。かなり盛り上がっている頃だろう。
うららかな春の夜。ゆっくり好きなことに集中できる時間だが、 特にやりたいことも思い付かなかった。夕食の片付けも済ましてしまい、洗濯も干し終っている。家では仕事をしない主義で、実際急ぎの案件もない。手持ち無沙汰に、こうして外を眺め、東の空のアークチュルスと対になっていた。斜め下の階ではパーティーでもやってるのか、クラブミュージックのドラム音と笑い声が漏れてくる。
夜風に肩が冷えて、室内に戻って窓を閉めた。リビングのソファーに腰掛けて携帯の着信をチェックしたが、アプリの更新のお知らせが二件届いているだけだった。とてつもなく暇で、ひとりだなと思った。
新月の部屋から本でも借りようと立ち上がった。上弦は無断で部屋に入られたくないが、新月は何も言わない。内装デザイナーなどやってるので家具やインテリアにはこだわってるが、整理整頓が苦手でいつも散らかってる。古い映画が好きな彼の部屋には膨大な数のライブラリーとお気に入りのポスターが貼られている。詐欺師の男が亡くなった恋人の娘と叔母の家を目指すモノクロ映画が特に好きだった。ショートヘアの女の子の「ムスッとした顔」が可愛いという。ベッドの横にでは煙草を指に挟んだ少女とスーツ姿の男が、笑う三日月に腰かけている。
「信じていれば、どんな願いも本当になる。君が信じてくれたなら紙の月だって本物になる。この映画のタイトルはそういう意味なんだぜ」
君が信じてくれたなら。その言葉こそを信じる力が欲しいと上弦は思う。カテゴリー分けもしてない本棚はジャンルもばらばら。 航空機の歴史の隣には有名映画監督のアンソロジー。野生動物の写真集。デザインの画集。 色彩カタログ。仕事に関するものと趣味とが混在している。そこに「アポロ」の写真集を見つけた。「アポロ」 は朧地区にある老舗のゲイバー。中を開くと二十三歳の新月が映っている。
彼は完全なストレート。ゲイの要素は一ミリもない。撮影日にたまたま遊びに来ていた流れで掲載された。左半身タトゥーのスキンヘッドの男と頬を寄せ合っている。体に張り付くようなTシャツとロックスターのようなけだるい目付き。膨らんだ下口唇の笑み。少し長い髪も相俟って真性のゲイにしか見えなかった。
特異な存在なのにどこでも馴染むのが新月の不思議なところだった。地味でおとなしい上弦こそどこにいてもしっくりこない。心を開いてないからだ。新月は常にオープン。 旅行に行っても必ず友達を作って帰ってくる。だからゲイバーでも燥げるし、女の子にも優しくできる。楽しいことが好き。争うことが嫌い。いつもそれだけをはっきりさせているから生き方に迷いがないのだ。
今朝のニュースで伝えられたアンドロギュノスの完全体が見つかったという報道に「うわーすげえ。天使じゃん。神の子だ。めっちゃ会いたい」と興奮気味に反応した。けれど医療機関と理化学研究所の双方で詳しい検査が行われると聞くと「上弦、天使の奪還計画を立てるぞ」と言い出した。
「おれが仲間集めて実行するから、上弦は計画を練ろ。切り刻まれる前に取り返すんだ」
信条的には本気なのだろうが、無茶苦茶だった。今も職場の人間と計画を立ててるのではないかと上弦は少しヒヤヒヤしていた。
その時、ピコッと音がした。不在なのに付けっ放しにしている新月のパソコンに着信が届いた知らせだった。画面が光っていた。
またか。こいつには節電という概念がないのか。上弦は息をついた。生活費は折半しているが、できれば光熱費だって無駄にしたくない。彼はそこそこ高給取りだが、欲しいものがあればすぐ買うので、給料前は上弦が食費を多めに出したりしていた。
無視していたが、続けて二度、着信音がした。こんな深夜に連続して来るなど緊急の用件かもしれないが、それなら新月の携帯に連絡するはずである。迷惑メールか確認するために画面を見てみると、記憶に新しいアドレスから三度着信が届いていた。
「おえ?」
思わず首が突き出た。義理の妹からだった。向こうも消去していなかったのだ。一度目は偶然でも二度目は違う。ここに用があるのだ。
うわどうしよう。上弦は焦った。相手は義理の妹だが、一応新月のパソコンだ。そのうち四度目のピコンが届き、上弦はたまらずカメラのスイッチをオンにしていた。
画面が切り替わり、驚いた顔をしている女の子が映った。この前より身なりを整えたミカだった。スタンドカラーの白いブラウスで、化粧もしている。緊張気味のすました表情で「あ…こんばんは」とよそゆきの声で挨拶した。
「すいません、夜遅くに。あの、お元気ですか」
彼女は頭を下げて笑みを浮かべた。条件反射で上弦も返した。
「はい。変わりなく。そちらは…お元気ですか」
「ええ。お陰様で。特に何も…はい」
二人は画面越しにしばらく愛想笑いだけしていた。ミカは笑うと姉にそっくりだった。 美人姉妹で、しっかりしている子というのが初対面からの印象。家族を交えての食事会の時も、率先して姉のいい所をアピールしたり、上弦の両親に酌をしたりと動き回っていた。年上の自分の方が食事会で無口だったことを上弦は密かに反省していた。
「あのー、今お時間よろしいですか?お忙しい…ですかね」
ミカは遠慮がちに言った。いや…大丈夫ですよ。話しかけるミカも、答える上弦も敬語のまま。微妙な関係性で、近付き方にも躊躇する。
やがてミカは連絡を取ってきたわけを言葉を選びながら話しだした。上弦はパソコンの前の椅子に腰掛けて頷いていたが、最後までちゃんと笑えているか自信がなかった。
予想より一時間早く新月は帰宅した。「ただいまっす」とリビングに入ってきた彼は、したたか酔っていたが、意識もはっきりして呂律も正常だった。
「コンビニ寄ってきたから、上弦の好きなわらび餅買ってきたぞ。五個あったから大人買いしてやった。食う?」
背中に緑色の龍の刺繍の入ったスカジャン姿の新月は、レジ袋から丸い透明容器に入ったわらび餅をひとつずつ出してテーブルに重ねた。
「ああ、じゃあひとつもらう」
新月はわらび餅とフィルムに包まれた小さいフォークを一緒に差し出した。季節を先取りした涼感だが、甘い物が欲しかった上弦にはちょうどよかった。チョコレートのように固くて水分のない物を噛む気分ではなかったので、つるりとしたわらび餅は最適であった。
「おれも一個食おう。あとは冷蔵庫にしまっておくから、食っていいよ」
新月は残りのわらび餅を冷蔵庫にしまった。二人で向かい合って食べた。ビー玉大のわらび餅が五つと、砂糖のまじったきなこ。さらりとした甘味。弾力も歯応えも大してないのにちゃんとおいしかった。
「 そういえば帰ってくる途中、変なオッサンいた」
新月はフォークでわらび餅を転がしながらきなこにまぶした。
「ホワイトタイガーみたいな色した髪の長いオッサンでさ、ものすごいへっへっへっ言ってるブルドックを連れてるんだよ。目玉ぎょろぎょろさせて、よれよれよれよれするわけ。オッサンも足が悪いみたいで、斜め斜めに傾くんだけど、リードが長いもんだから引っ掛かりそうになって、脇に止まって通り過ぎるの待ってたんだよ。そしたらオッサンがおれに向かって「春は芽吹きますなあ、禍々しいものも、美しいものも、どんどん育ちますなあ」っていきなり言ったんだぜ。すげえびっくりした。全然知らない奴だぜ。一瞬異世界にいるのかと思ってぽかんとしたよ。しかもおれの目を見て、おれに狙いを定めて言ったからね。なんだったのか今も分かんねえ。あんな奴見たの初めてだもん」
「それこそ春だからな。いろんな奴が出てくるんだろ」
「ご陽気のせいかね。そうだ、来週会社の連中と花見やるから上弦も来いよ。誰でも参加自由だからさ」
「行けそうなら行くよ。でも酔っ払いの面倒は見ないからな」
「適当に抜けていいよ。ただのバカ騒ぎだから。ところで見つかったアンドロギュノスさ、皆既医大の病院にいるらしい。一般は立ち入れない特別病棟に隔離されてるんだってよ」
「密航者だったんだろ。偽装パスポートで大陸横断してたサーカス団の一員だったってな。 どこもその話題ばっかだよ」
「助けてやりたいなあ。希有な存在なだけで、害を及ぼすわけじゃないじゃん。検査と称して体中こねくり回して神秘の謎を解こうなんて傲慢だよ。そもそも性別で人間を分けるのが間違いなんだ。おれの母親が昔言ってたよ。女には権利はあるけど権限はないってな。まずはそこを見直すべきだったんだ。 女が全員銃を携帯してる国があるって言うけど、そんなの解決じゃない。相互理解の放棄だ。防衛という名の対立だよ。SSMは画期的な発明だったかもしれないけど代償が大きすぎた。女は生みわけをする際に「男を希望」したんじゃなく「女を希望しない」を選んだんだ。常に性別という呪縛に左右されるからだ。アンドロギュノスはそのつまらない価値観に属さない新しい人類だ。性別というもので区分けするこの国において、男であり女でもある生命体を奇跡というありきたりの言葉以外でなんと呼ぶんだろう。おれが最初に見つけたかったよ。そしたら行きたい所に行かせてやったのに」
新月はその後シャワーを浴びて出てきたが、酒のせいか、リビングのソファーで眠ってしまった。濡れた髪に半袖では寒いに違いなく、体を縮めて寝ていた。上弦は部屋から毛布を持ってきて掛けてやった。起こすよりもここで眠らせたかったのは、パソコンを見てほしくなかったからだ。
「私の友人のルナが新月さんを好きになってしまったようなんです。それで新月さんのことを教えてもらえませんか。どんな人か知りたいんです」
ミカからそう頼まれた。他人なら断っていたが、姉の夫に恋をしている彼女のいじらしさを長年見てきた。報われない思いを抱える辛さは上弦にも分かる。だからミカに会うと胸が痛くなる。彼女はいつも人のために自分を犠牲にする。誰かの幸せをいつも優先するのだ。
けれどそれは叶えがたい頼みだった。新月が彼女のアドレスを消さなかった理由を上弦もどこかで分かっていた。彼は性別論など語る人間でない。 酒のせいでもなくアンドロギュノスのせいでもなく、使命に目覚めたからだ。やるべきことを確信に変えようとしているのだ。
ソファーの前で膝を折り、上弦は眠る新月を見つめた。くせのある細い髪。白い頬。扇型の瞼。どれもが愛しい。彼を失いたくなかった。 張り紙は運命のいたずら。幸運の手紙。決して声に出せなくてでも、共に暮らせることに歓喜しようと決めたあの日。
行くな。新月。どこにも。自分の手に彼を止どめる魔法があることを願いながら新月の肌をなぞった。何人の女と遊ぼうとお前は必ず帰ってきた。やっぱ上弦といるのが一番楽だわと、面倒臭そうなふりして作ったバジルのパスタを啜る。ああうまいなあと。
当たり前だろ。おれよりお前の面倒見られる奴いるかよ。背中を向けて鍋を洗いながら笑みが零れる。安心する。彼の声がすること。また新月の世話を焼けることに。天使をつかまえたのはおれだ。誰にも奪還させない。守りを固めろ。ここだけが楽園。
静かな寝息を立てる新月とそっと口唇を重ねた。きなこの後味が残っているのか、こころなしか甘かった。わらび餅と同じ感触。おれの好きなものは全部ここにある。上弦は彼の胸に耳を当てて、規則正しい心音をずっと聞いていた。
