99:1 ⑨
ラジオディレクターから電話が来たのは、放送の一週間後の夕方だった。
「では別の音源を送ります。来週はそちらを流してください。このご時世ですから、政府も見逃しているのだと思いますが、過激な支持派も存在していますから、彼女の身の安全のために、情報を一切伏せて放送してください」
電話を切ったセドリックは天を仰いで息を吐いた。反響は予想以上だった。しかも肯定的な意見が多数を占めている。作戦の第一歩は大成功といえた。
『奴隷の烙印を押された女性にも、素晴らしい才能があると知ってほしい』
そう記した手紙と音源をラジオ局に送った。大きな賭けだった。もし受け取った者が奴隷賛成者なら、即座に逮捕される。覚悟と祈りでざわつく胸を抱えていた半月後「今日の午後一時」という連絡が来た。震えるほど緊張した。
深夜ではなく、真昼という暴挙に出たのは、ラジオ局に勤める大半が奴隷を飼えないサラリーマンで、エスティマ氏の集団自殺に憤りを覚えたからだ。
苛立つ彼等の元に届いたのがミラの歌。その衝撃は計らずとも察する。流すべきかの討論が行われたが「ラジオ放送における規定のどこを探しても『女性の歌を流してはいけない』とは書いてなかった」とディレクターの鶴の一声で放送されたのだ。
そうしてミラの歌声は電波に乗った。ある者は怒りの電話を掛け、ある者はボリュームを上げた。それでよかった。聴いてもらうことが目的だったからだ。セドリックは十曲録音していたミラの歌を次々に番組宛に送信した。
昼の一時、どの窓からも聴こえるミラの歌。軽快な曲から、じっくり聴きたいバラードまで。その数分間、確かにミラの歌声が世界を席巻していた。
喜ばしい反面、不気味さも感じていた。女性の歌が全国放送されているのに、政府は規制を掛けない。嵐の前の静けさかもしれないと、常に警戒し、いざとなったらミラと逃げるために、荷物を詰めたスーツケースを診療室のデスクの下に隠していた。
だが来訪者は思いがけない形を取ってやってきた。向かいの椅子に腰かけた、腕の筋が痛むという四十代半ばごろの初診の男性に、違和感を覚えた。受付にいるミラに聞こえるようわざと咳払いをした。警戒しろの合図。彼から目を離すまいと、セドリック医師は足を踏ん張った。
「では、腕を見せてもらえますか」
すぐに立ち上がれる態勢を取って尋ねた。はい、と男はスーツの内ポケットに手を入れると「私。こういう者です。お仕事中に失礼と存じてますが」と名刺を差し出した。
「単刀直入に申し上げます。こちらにいる奴隷のコンサートを私どもの劇場で開催させてもらえませんか。ご心配なく、政府の許可は取れています。我々は今奴隷の新しい可能性に着目していましてね、家事や出産以外の仕事を与える時期に来ているのではと考えています。そこで、今世間を騒がしている歌い手に、先駆者としてステージに立っていただきたいのです」
男は不敵な笑みを浮かべながら「よい返事をお待ちしてます」と診察室から出て行った。セドリックは手元の名刺に目を落とし、思わず声が出た。
「エスティマタワー支配人/セルシオ・バモス」
悪名高きエスティマ氏の手先。これは圧力か?しゃしゃり出るなという警告で、今夜のうちに逃げるべきなのか。セドリックは急に喉の渇きを覚え、足元のスーツケースに目を落とした。
診療後に看護師たちを集めて相談した。「止めたほうがいい」とみな反対した。これは罠だ、陥れる作戦だと怒り、ミラを連れて逃げて下さいと口を揃えて言った。
「ミラはどう思う?」
不安げな顔の彼女に注目が集まった。肩を震わせるミラは瞳を伏せながら「やらせて下さい」と小さくも、はっきり告げた。
「私が歌うことで、救われる人がいるなら。こんな私でもできることがあるなら…」
虐げられてきた彼女の、初めて聞く本音だった。秘めた怒りや望みをぶつけさせてやりたい。セドリックは決意を固めた。
「よし、いっちょ乗り込んでみよう。エスティマ氏は不名誉なイメージを払拭したいんだ。女性にチャンスも与えられるとアピールしたいんだろう。ミラを利用しようというのなら、こっちも利用してやればいい。向こうから大舞台を用意してもらった。これはチャンスだ。 本物の歌を聴かせてやれば、大波が押し寄せて世界がひっくり返る。制度を廃止させ、犠牲者を出さないためにも、勝負に挑んでやろう」
♢♢♢
一週間後、劇場を訪れたセドリックとミラは丁重に迎えられ、悪の根源のエスティマ氏と初めて対面した。富豪の悪人役でそのままドラマに出られそうな男だったが、連日のバッシングに疲弊しているのか、噂ほどの豪快さは見受けられなかった。だが言葉の端々には、どうやっても拭えぬ女性軽視が滲み出ていた。無意識のうちにミラにだけ横柄になる。それをいちいち指摘しても仕方ない。心を変えなければ態度も変わらないからだ。ミラがそうさせてくれると信じて契約を交わし、ひと月後、エスティマタワーの六十階にある大劇場『ブルーバード』での公演が決まった。
二人にはそれぞれ、ロイヤルスイートの部屋が用意された。食事もマッサージもラウンジも無料の最高級のもてなし。ここでレッスンを受け、バンドマンや美術監督と打ち合わせをしながら初演まで過ごす。
ステージ衣装で用意されたのは、背中の開いた青いドレスだった。これにしてほしいと選んだわけではない。デザイナーがミラのイメージで仕立てたのだ。あれはやはりただの幻ではなかったんだ。未来が自分たちに見せてくれた目映いデジャブにセドリックは感慨に耽った。
「こんな素敵なドレス、夢みたいだわ」
試着したミラは感激で声を詰まらせた。息を飲む美しさにセドリックも見惚れた。
「とても似合ってる。みんな君に釘付けになるよ」
「そんな…。みなさんをがっかりさせないようやり遂げます。私をここまで連れてきて下さった先生のためにも。本当にありがとうございました」
「僕は何もしてない。君の歌声が人を動かしたんだよ。けれどこれであのジンスクは崩れたな。主人が不幸になるってやつ。僕よりラッキーな男はいない。素晴らしい歌姫と出会えたからね。君の歌は心を動かす。きっとなにかが変わるよ」
公演の日時が発表されるとチケットを求める問い合わせで回線はパンク状態だった。実在しないのではという都市伝説にもなりつつあった歌姫がコンサートを開く。しかも会場はエスティマタワーの大劇場。話題にならないわけがなかった。「ミラ・ローレルのチケット、定価の五倍で買います」そんな文字が掲示板に並んだ。
「ミラ・ローレル」はセドリックがつけた。奴隷に名前は与えられないからもちろん本名ではない。ステージにだけ存在する架空の歌手の名前。魔力のある歌声で人を引き寄せる人魚伝説のローレライにならったものだ。ポスターもミステリアスに仕上げた。光の中に立つミラのシルエット。顔が見えないようにしてあるため、観客の期待は高まる一方だった。
♢♢♢
やがてコンサート当日を迎えた。既にチケットは完売。エスティマタワーの前には前日から人だかりができていた。広場を囲むように屋台やキッチンカーがぐるりと陣取りを始めていた。
「いよいよだな」
ミラと一緒に朝食を食べながら呟いた。はい、と向かいに座る彼女は落ち着いた表情で頷いた。昨日のリハーサルも上々。 ずっとおどおどしていたミラにも静かな自信が漲ってきたのが瞳の色に現れていた。
「もう僕からの助言はないよ。楽しみにしてる。それだけだ」
見つめ合う目に信頼が灯っていた。互いに小さく微笑んだ。
「始まるまで、少し散歩してくるよ」
セドリックは水を飲み干して部屋を出た。自分の方がずっと緊張していると思った。 一緒にいたらミラにも伝染する。いい状態でいる彼女を邪魔するわけにいかなかった。
外は薄い雲のかかった水色の空が広がっていた。夏は終わっても、湿気が肌にまとわりつく。タワーの周辺の広場は大賑わいだった。ずらりと並ぶ屋台。ポスターを掲げて「ミラ」「ミラ」「ミラ」とコールする若者たち。録音した彼女の歌をフルボリュームで流すフリーマーケットエリア。 支持者が盛り上がる傍ら、反対派もプラカードを掲げてコンサート中止のシュプレヒコールをしていた。暴動に備え、百人近い警官が等間隔で警備に当たっていた。カメラを構えた複数のメディアがあちこちでレポートを伝えている。
このコンサートにはそれほどの意義があった。奴隷の是非に変化が生まれているからこそ、答えを求めにこれだけの群衆が集まった。
4つの輪をお手玉するジャグリングや、少年を宙に浮かせる大道芸の一行もいた。妖精の衣装で踊る娘が笑顔で星の棒を振る。お祭りの騒ぎに乗じておこぼれをもらいに来た物乞いもいた。よたよたと歩くブルドッグを連れている足の悪い男が「やあやあ、今日は盛況ですなあ」とやにやしながら話しかけてきた。ポケットの小銭を渡すと、彼は斜めに歩いて行った。 まさに猫も杓子も集まっている。頑張ってくれよ。セドリックは武者震いしながら騒々しい広場を歩いた。
リハーサルからずっと慌ただしく、スタッフやスタイリストが何度も出入りし、ミラは水一杯飲む時間もないほど忙しかった。付添人のセドリックは居場所がなく、せめて邪魔にならぬように控え室の隅でじっとしていた。ミラを囲む人々は彼女を綺麗にしようと、ステージを成功させようと尽力しているからだ。夢のようだった。以前は眺めていたタワーで、今世界を変えようとしている。胸がいっぱいになり、気付かれぬように目を拭った。
開演十分前。三方向四段の客席はぎっしりだった。待ちきれぬファンが手拍子しながらコールを始めていた。一般客から政府関係者。味方もいれば敵もいる。奴隷支持派の男の靴の底から折り畳み式のナイフが見つかったことで、警備員の数は増え、会場内は圧縮された熱で溢れ返っていた。
髪をアップし、青いドレスで袖に立つミラは、呼吸が浅くなっていた。セドリックは彼女の横に歩み寄り、不安げに俯くミラの手をそっと握った。
「ー背中にある肩甲骨は羽の名残と言われているんだよ。昔は人間にも羽があったけど、地上で生活するようになって退化していったらしい。商売柄、人の骨を観るのが癖になってね。君の背中にくっきり浮き出た肩甲骨は本当に綺麗な形をしているよ。そして今小刻みに振動してる。きっと飛びたがっているんだ。羽ばたこうとしているんだよ。だから羽の力を信じるんだ。この会場は君の空だ。歌という翼が君を高みに連れて行ってくれる。今は何も考えないでいい。僕はずっとここにいる。君に危険が及びそうになったら誰より最初に走ってくる。必ず守ると約束する。だから安心していい。奴隷制度云々なんて忘れていい。ここにいるのは観客で、君の歌を聴きに来た。だから思う存分歌っておいで。失敗したっていいさ。なにかあれば僕が裸踊りでもなんでもやって謝るよ」
ふふっ、とミラは吹き出した。蒼白だった頬に赤みが戻ってきた。そしてセドリックと一緒に深呼吸を繰り返すと、輝きのベールが彼女をゆっくり包んでいった。首元の戒めも一緒に上下していた。セドリックは白い首に手を回した。カチリと音がして輪が解けた。
「おい、それは駄目だ」
支配人が飛んできた。「憲法違反だ。ステージが中止になるぞ」
「なぜだ。奴隷ならステージに立てないはず。だからここにいるのは奴隷じゃない。奴隷じゃないなら首輪をする必要はない。そうだろう。文句あるか」
セドリックは手に持った首輪を床に捨てると「これで歌いやすくなったな」と笑った。ほんの少し震えている彼を見つめて、ミラは目を潤めて頷いた。
開演二分前。バンドマンたちが所定の場所へと着いた。舞台監督がミラの元にやってきて登場のタイミングを確かめる。ミラ!ミラ!ミラ!と高鳴るコールと手拍子。会場は爆発寸前の着圧。耳の側に心臓があるように鼓動がどくんどくん唸る。
六時ちょうどに客電が消えた。ドラムシンバルのハイハットが鳴ったと同時に、津波のようなうねりと歓声が押し寄せた。ステージに向かう刹那「行きます」とミラは言った。セドリックは深く頷いた。
「いっておいで」
ミラは微笑み、ピアノ演奏が始まったステージに出て行った。光り輝く舞台へ歩いてゆく彼女の後ろ姿は二年前に見たビジョンと全く同じだった。あれは啓示。彼女がこのステージに呼ばれたのだ。翔べ!と心で叫んだ。
♢♢♢
大成功を収めたミラの初演から十三年後。明日ようやく奴隷制度の大幅な見直しを盛り込まれた新しい憲法が可決されようとしていた。女性就労の自由。新生児は二年間母乳で育つ環境に置くこと。そして名前が与えられる。この三つはかつての強固な奴隷制度から考えれば、 有り得ないほど大きな変革だった。
ここまでの道のりは決して平坦ではなかった。ミラのコンサートは大反響であったが故、混乱も生じた。奴隷制の是非を巡って起きた論争と分断。セドリックは常に先頭に立って戦い続けた。
音楽の才能のある女性を集めて事務所を設立し、あちこちでコンサートを開催した。まだ奴隷への強い依存が残る田舎の地方へ巡業に特に力を入れた。ひどい反発や妨害に幾度も遭った。車のタイヤがパンクさせられるなど日常茶飯事。会場前にバリケードが作られて入れないこともあった。その時は思い切って野外で決行した。鋭い視線と怒号が飛び交う即席のステージ。遠巻きに立つ村民たちを前に彼女たちは歌った。
やがて魔法に掛かったように彼等は目を見開き、構えていたレンガや石を地に落とした。ヤジも止み、最後は目を潤ませる者もいた。人の心を変えるには人の心しかない。貧しい村ではセドリックは無料で診察をした。地道なひとつひとつをこなし、講演会も積極的に行って奴隷制廃止を訴え続けた。
長年の努力が結ばれようとしていた時、セドリックは数年前に通り魔に刺された傷が癒えぬまま間もなく息を引き取ろうとしていた。ミラや、彼が育てた七人の歌手や支援者たちが病院に詰め掛けて名前を呼び続けたが、セドリックは静かにその生涯を終えた。最前線で戦い続けた熱き男とは思えぬような穏やかな去り方だった。
「せめて明日、法案の可決を一緒に見届けたかった」
誰もが口を揃えて悲しみに暮れた。彼の死亡のニュースは瞬く間に国中に広がった。正義という名の反逆者。一概に功績とは言いづらいセドリックの活動について、国営放送は言葉を濁しながら伝えたが、告別式には彼を英雄と慕う者たちが国中からやってきた。彼に救われた女性たちだった。
平和を象徴する白い花に敷き詰められた祭壇。嗚咽とすすり泣きがあちこちから聞こえていた。代表でミラが弔辞を読んだ。彼女は喪服ではなく、あの時の青いステージ衣装で壇上に上がり、セドリックとの出会いを回想し、彼の素晴らしい人柄について、涙を堪えながら語った。そして最後、彼の遺影に向かってこう告げた。
「セドリック先生。私は先生に出会い、愛の意味を知りました。先生そのものが愛でした。私は先生から愛を教わったんです。私達はこれからも歌い続け、たくさんの愛を届けてゆきたいと思います。どうか天国で見守っていて下さい。ああ先生、私はとても寂しい。こんなに早く逝ってしまわれるなんて。病に侵されても先生は最後まで戦われた。なんて皮肉なことでしょう。先生こそが、ご自身の正義の奴隷になってしまわれた。先生が望まれた平等な世の中を作るためには、どうやっても犠牲が必要なのですね。私達は常になにかの奴隷にならなければ、世界を変えてゆくことができないのでしょうか。それがとても悔しくてたまりません。先生、どうぞ安らかにお休み下さい。そして戦いに勝利したこの勲章をお受け取りください。先生の愛と正義が授けて下さった大切な宝物。ミラ。これが私の名前です」
