99:1 ⑮
「あれ消えたぞ」
新月は真っ暗な画面に向かって「もしもーし、聞こえてますか」と呼び掛けたが応答はなかった。こちら側のカメラのランプは点灯しているが、二人の女の子の姿は見えなくなっていた。
「向こうが消したんだろ。なんだったんだ一体。女島とは通信が遮断されてるはずなのに、混線したのかね」
上弦はパソコンから離れるとまたベッドに戻った。新月はデスクの椅子に座ったまま黒い画面を見ていた。白いTシャツから伸びた腕がだらんと垂れていた。彼は冬でも薄着だ。身軽さを好むため、二月でも家の中ではラフなシャツでいる。
一方で寒がりの上弦は、裏起毛のパーカーに、風が入らぬよう足首の締まったスウェットで万全の対策。だからルームシェアをしていても互いの室温は全く違う。今いるのは新月の部屋。薄着主義なので暖房が効いている。用があっても「上弦の部屋は寒いからやだ」と新月が来たがらないので、話をしたい時は彼の部屋に訪ねるしかないのだ。汗ばむ首元に指を入れて何度も空気を逃がしていた。
「ー妹がいるなんて、初めて聞いたな」
新月は椅子に凭れ、長い前髪から瞳を覗かせた。
「そうだっけ。別に本当の妹じゃないし。兄貴の嫁さんの妹なんてほぼ他人だろ。顔合わせの食事会と、結婚式と、子供が生まれた時の三回しか会ってないしな」
「なのによく覚えてたな。人に興味のない上弦にしては珍しい」
「つい最近写真を見たんだよ。いらないやつ消去しようと思って削除してた時、たまたま兄貴の結婚式の写真もあってさ。一週間ぐらい前だったから覚えてただけだよ。そうでなければ完全に忘れてた」
「可愛い子じゃん。お姉さんも美人?」
「そこそこな。兄貴がベタ惚れだったから」
「人付き合い悪いのに、おれより家族が多いなんて不思議だよな。両親も健在でさらに弟もいるんだろ。おれなんかもう叔母しかいない。家族が結婚すればその分家族も増えるんだから、上弦はいいよなあ」
始終にまにま笑ってるので本心が分かりかねるが、家族の話をする時だけ彼は瞳が翳る。三歳で父親を、二十歳で母親を亡くしているので、家族への思慕が強かった。唯一の身内は父親の妹の叔母だけ。けれどその叔母にも新しい家族ができてからは疎遠になり、天涯孤独といっていい境遇だった。
上弦にとって家族は煩わしい存在でしかない。たまの連絡も鬱陶しく、兄の挙式も呼ばなくていいのにと思いながら出席した。いないからこそ求めるかもしれないが、うっかりした発言で彼を傷つけたくなかったので、義理の妹の話なぞ、わざわざ教えることではなかったのだ。
「けど新月だって家族を増やすつもりないだろ。独身楽しんでるじゃないか。今期も渡航希望してないだろ?」
「でもおれは六回チャレンジしてるからね。結婚するつもりはあるよ。今期は仕事が忙しいからパスしたけど」
「その六回で何人と付き合ったよ?サルトが言ってたよ。新月が行くと女が群がってえらいことになるって。お前マッチングの時点で二十人ぐらいに声掛けてて、全員と会ってごちゃごちゃしてるらしいじゃん。本気で結婚相手を探してるとは思えないね。顔を利用して遊べるだけ遊んでるだけだろ」
「おためしをしてるだけだよ。あのね、したいのは男だけじゃないんだよ。上弦は一度も行ったことないから女のすごさを知らないんだよ。数が少ないからって受け身じゃない。より厳選しようとするからめちゃくちゃ積極的だよ。どんどん相性確かめましょうって向こうから迫ってくるんだから。動物の世界でもメスが相手を選ぶだろ。それと同じ。ともかく子供を増やさなきゃならないから、女性ホルモンを活性化させる薬を飲むらしいけど効果絶大よ。結婚に興味がなくても上弦も一度は行けばいいのに。今年で三十六だろ。今期もパスしてさ、あと四回しかチャンスないぜ」
新月は椅子から立ち上がり、ベッドに腰掛ける上弦の後ろに寝転がった。
「ほんとはなにか理由があるわけ?頑なに渡航を拒むのは」
上弦は口をつぐみ、雑誌に目を落としたまま息を止めた。
「妹のこと、わざとおれに黙ってた?」
場違いなほどの明るい光。なに言ってんの?と上弦は背中を向けたまま答えた。
「可愛い子だったもんな。おれが手を出すかもって心配した?」
ゆっくり振り向くと、不敵な笑みの新月が見ていた。三つも年下なのに、彼は全く遠慮せず、どんどん矢を射ってくる。うるさい!と叫びたくなる気持ちをぐっと抑えた。
「知ってたら手を出さないぜ。上弦が嫌がることはやんないよ」
「ああ是非そうしてもらいたいね。お前と兄弟になる気はないよ。本性を知ってるだけに、一番遠ざけたい。義理とはいえ妹を弄ばれたくないからな」
雑誌を持って立ち上がり「この部屋あちい。もう戻って寝るわ」と上弦は新月の部屋を出た。
冷たい廊下を突っ切り、斜め向かい自分の部屋に入った。服の中で濡れた汗が冷えてくる。スタンドを点けてパーカーを脱ぎ、ハンガーに掛けてあった紺色のトレーナーに着替えてからベッドに転がった。
なにが妹だ。上弦は腕で顔を覆った。クソ新月。人の気も知らないで。みんながみんなお前みたいに器用でいいかげんじゃないんだ。アホの遊び人め。 天井を見上げていると箱の中に閉じ込められている気分になる。出口がなく、息が詰まりそうに。
しばらく寝転んでいると、新月の部屋からベース音が響いてきた。新月が考え事をしている時の癖だった。彼は頭の中を整理したい時ベースをいじりだす。膝に置いて弾きながら気持ちのパズルを組み立てるのだ。
つまらないことを考えるなよ。遊び人のままでいればいいんだ。間違ってもおれと兄弟になんかなろうとするんじゃないぞ。地の底を跳ねるテニスボールのリズムは、夜の静寂に長い時間鳴り続いていた。
♢♢♢
朝食はいつも上弦が作る。朝食だけでなく料理全般を担当している。得意なわけでなく新月がやらないからだ。普通なら順番や担当を決めるものだが、ここにはそんな取り決めはない。新月は最初から「やらない」と宣言していた。それでも少しはやるのかと思っていたが、彼は本当にやらなかった。二か月に一度思い出したように部屋の片付けはするものの、放っておけば半年間も洗濯物を干しっぱなしにしている。だから上弦の仕事になった。潔癖症の厄介な性分だった。言う前に気付いて手が出ているのだ。
四十分遅れて「はよーす」と新月が起きてきた。今朝の気温は五度。なのに夕べと同じ半袖のTシャツのままだった。
「おーさみい。なんで暖房付けないの」
肩をいからせてダイニングに入ってくると、戸棚からカップを出して、コーヒーメーカーの下に置いた。もちろんそれも上弦がセットして沸かしておいたものだ。テーブルにはミルクも用意してある。
新月は独特の飲み方があり、半分まではブラック、残りにミルクを入れ、子供の飲み物ぐらいの濃厚なコーヒー牛乳にするのだ。琥珀からモカへと色が変化するのをかき混ぜずに眺めていて、ミルクの渦巻きが沈んだのを見届けてから飲むのである。だからミルクが必須だった。ズボラな彼が唯一自分で買って来るぐらい、冷蔵庫にミルクを切らしたことがなかった。
コーヒーを注いだ新月は「夕べのことだけどさ」と、アスパラベーコンを焼く上弦の隣に立った。
「女島の落雷のせいらしいよ。電波障害で混線して、ちょうど渡航サイトにアクセスしてた同士で繋がったっぽい。あちこちで同じ現象があったみたいで、ハギノからも「すげーことあった」って連絡来てたわ」
白い肌を震わせながら新月はコーヒーを飲んでいた。家事をしてるこちらに遠慮してるのか、ストーブを点けるのを我慢していた。たまには我慢させてやろうと上弦も点けていいとあえて言わない。そうなんだ、とアスパラを裏返しながら返事した。
「アドレス交換した奴もいるってさ。おれのPCにも履歴残ってるから、消した方がいいのか上弦に相談しようと思って」
相談。新月の口から初めて聞いた言葉だった。彼はいつも事後報告。店で見て気に入ったからと、勝手にリビングのソファーを買い換えたりする。四年前もいきなり犬を連れて帰ってきた。ショッピングセンターの前でやっていた保護犬の譲渡会で、交通事故で左後足を失った老犬のボーダーコリーの引き取り手がないと聞き「今日からうちの子ね」と相談もなく決めてきた。戻すのも酷なのでそのまま飼うことにしたが、そういう勝手な奴のくせに、パソコンの履歴を消去するかを尋ねるなど、別の思惑があるとしか思えなかった。もうひとつのコンロで温めているオニオンスープの火加減を調整しながら 「なんでおれに聞くのさ」と前を向いたまま訊ねた。
「だってお前の妹じゃん。向こうも懐かしそうな感じだったしさ。でもおれのPCだから、 勝手に連絡取ったりしたら嫌だろ。それでどうした方がいいかと思ってさ」
「勝手に連絡取りたい理由があるわけ?おれと兄弟になりたくないんだろ」
「そうだけどさ、友達になるぐらいならどうかなと。上弦だってたまには女の子と話してみたら?女の子って会話めちゃくちゃだけど可愛いよ」
「そういうのが目的なら消せ。血は繋がってなくても妹だ。毒牙に掛けられない」
「画面で話すだけでもダメなの?へんなことしないよ」
「あーもういい。おれが消してやる。そこにいろ」
上弦はコンロを止めて、新月の部屋へと大股で向かった。うわーマジかよと言いながら新月はぴったり付いてきた。ねえちょっとさあ、考え直してよと訴えるのを無視してドアを開くなりパソコンの前に立った。毎度ながら電源が点けっ放しになっており、カチカチと作動させると昨夜の通信履歴が残っていた。緯度や経度を見る限り女島と分かる。そこには混線したとはいえ相手のアドレスがちゃんと記されていた。
上弦は〈消去する〉にカーソルを止めた。傍らに立っていた新月はなにも言わなかった。 ふて腐れるでもなく、上弦の決定を黙って見ていた。
あとは押すだけの指が止まっていた。多分消しても新月はごちゃごちゃ言わない。自分勝手な分、相手の意思も尊重するからだ。上弦はしばらく画面とにらめっこしていた。自分が消そうとしているものの正体。それを気取られたくなかった。 キーボードから手を離して姿勢を直した。
「なにかあったらおれが兄貴にどやされるんだから変なことするなよ。男はみんな似たり寄ったりかもしれないけど、女の子もそうとは限らないんだからな。 免疫のない女子にお前みたいのはカロリーが高すぎるんだ。怖がらせるんじゃないぞ」
アドレスをそのままに部屋を出た。前を通り過ぎる時、新月から笑顔が消えていた。キッチンに戻った上弦は体が熱くてどうしようもなかった。新月に屈したのか、自分に屈したのか分からなかった。胸の奥に秘めてある炎。 結婚を望まないわけを探られないようにするには、あのアドレスへの無関心を装うしかなかった。
八時半に二人揃って出勤する。電車通勤の新月を駅まで車で送ってから上弦は職場に向かう。昨年勧めていた会社を辞め、公認会計士の個人事務所を設立した。以前は飲食店の内装デザイナーをしている新月と同じビルで働いていた。六十階建ての高層タワーには複数の企業やテナントが入居しており、従業員用の食堂とカフェテラスのフロアの一角に掲示板が設置してあった。日用品の譲渡や、子猫の里親を募るチラシなどが貼られており、そこに新月がルームメイト募集の張り紙をしていた。ちょうど引っ越し先を探していた上弦はすぐに連絡をした。知り合いではなかったが、たまに見掛ける彼のことは覚えていた。
仕事終わりに待ち合わせをして内見に行った。広い造りの3LDKで、彼の部屋以外はどこも綺麗だった。専用の屋上も付いていて、椅子とテーブル、バーベキューのコンロなどが置いてあった。夏の花火大会の特等席だと、新月は近くにある土手を指差した。
「一緒に住んでた奴が結婚しちゃってね。いい場所だから引っ越したくないんだけど、 ひとりで住むには家賃が高いから、ルームメイトがほしくて」
眺望も良くて仕事場にも通いやすい。間取りも理想的だった。上弦はその場で決めた。 気さくで裏表のない彼とならやってゆけそうだと思った。実際これまで喧嘩をしたことがない。新月に腹が立つならそもそも彼と暮らすべきではないと、共同生活を始めて一か月で上弦は悟った。
彼は自由人。型にはまらない。何度も困惑させられたが、今では彼の買ってきたソファーに体が馴染み、もう死んでしまったが、三本足の犬はいい家族になってくれた。孤独だった彼を愛してやれたこと。二人で看取れたことに感謝したぐらいだ。
新月の根本にあるのは「幸せになるのに遠慮はいらない」だ。だから突飛でも許してしまう。新月は混線通信を単なる偶然と捉えていない。 やってきた、と思っている。なにかをもたらす存在だと彼自身が予感しているから、アドレスを消去するべきでない、そう思うよね?と賛同を得るために相談してきたのだ。
だが上弦は、アドレスを消さなかったことを後々後悔する時が来る気がしてならなかった。胸が騒ぐというのはこういうことなのか。夕べから頭痛が治まらず、アスピリンも効かなくなってきた。右目をしばしばさせながら運転していたが、憂鬱な気持ちはなかなか抜けそうになかった。
♢♢♢
あの日を境に、ルナとの間に壁ができたとミカは感じていた。今まではドアツードア。ダイレクトな関係だった。けれど雷の日以来、彼女と連絡を取る際にためらいが生まれるようになった。
家にあるパソコンが望みもしていない場所とも繋がっていると知ったせいか、これまでは部屋の真ん中のローテーブルに置いてあったのに、今ではぴっちり蓋を閉じ、 壁際のチェストの上に移動されていた。少しでもなにかを遮断しようとするためか、上には白いランチョンマットまで被せてあった。あの日のことはもう片付けてしまったのよ、というルナの意思表示だった。彼女らしい対策かもしれないが、ミカは同じではなかった。
姉の結婚相手の弟の顔がずっと頭に残っていた。彼はいつもぶっきらぼうだった。「ああどうも」と心ばかりに頭を下げるだけで会話も振らない。背が高くてスマート。前髪を少し立てていて、眼鏡が似合っていた。彼は人と群れず、家族とも微妙な溝があった。生まれたばかりの赤ちゃんを見ても「へえ、ちっちゃい」とコメントしただけで、一度も抱っこせず、 三十分足らずで帰ってしまった。
ミカは姉ととても仲がいい。しょっちゅうやり取りしていて、定期的に甥っ子の映像を送ってきてくれる。家族なら当たり前のことだった。けれども姉曰く、夫の上弦さん兄弟は一切そういう交流がないという。
「男兄弟ってドライなのね」
姉は笑って言った。けれど姉の結婚相手の上弦さんはとても柔和で優しく、ドライなイメージは全くない。彼は進学塾の講師で、評判のいい先生だった。さわやかな笑顔で「ミカちゃん、これ知ってる?」とさりげなく仲間に入れてくれる。 明るくて嫌味がなく、男性への恐怖感や緊張感を和らげてくれたのが姉の夫の上弦さんだった。
ミカの中には常に彼がいる。姉の夫と分かっていても優しい笑顔が忘れられず、近況報告の中に上弦さんの話題はないかと密かに待っていた。姉とリモートで話している時も、彼がすいと横切ったりしないかと無意識に端の方に目を走らせている。
上弦さんはなにしてるの?髪切ったって言ってたけど、どんな感じになったの?胸の中で問いながら画面を閉じる。心のお喋りも閉じるように。 姉の夫に片思いをしているなど誰に言えよう。男が有り余ってる世界で、一番好きになってはいけない人をどうして好きになってしまうのか。 親友のルナにも打ち明けていない。口にしたら氾濫が止まらなくなり、自分もろとも崩れてしまう。だから心に堤防を作り、塞き止める術を身に付けたと思っていた。
けれど弟に再会しただけで、もう水が膨れ上がっているのだ。彼は以前より柔らかい物腰になっていて、こちらを見つめる瞳は兄の上弦さんを思い出させた。すぐに弟と分からなかったのは、忘れていたのではなく彼が変わっていたからだ。
もう一度彼に会って話をしたかった。そのためにはあのパソコンが必要だったが、貸してほしいとルナに言い出せずにいた。 彼女にとってのパンドラの箱。開いたら災いが起こるかのように封印されている。ミカにとっては姉の結婚相手の弟で、連絡を取りたいと切り出してもいいはずだった。不自然なことではない。なのにためらっている。彼の先にいる上弦さんへの邪な恋心がブレーキを掛けるのだ。どんな言い訳しても不純で、パソコンを開く瞬間に自らを軽蔑せずにいられなくなると目に見えているからだ。
そしてあの通信障害は自分達だけに起きた偶然ではないと翌日職場で知った。落雷で電波が乱れ、繋がらないはず同士が繋がってしまったらしかった。
「じゃあミカも誰かと繋がったんだ。どんな人だった?」
同僚は興味津々の顔で尋ねた。ミカも職場では面白ニュースのように気軽に話せた。
「それがびっくりでさ、お姉ちゃんの旦那さんの弟と繋がっちゃったんだよ。お互いに驚いたもん」
「すごいね。そんなことあるの。じゃあ弟さんも渡航サイト見てたんだ。中秋に行くの?独身なんでしょ?」
「そこまでは聞いてない。無愛想な人だし、結婚しそうにないけどね。ルームシェアしてるとかで、一緒にいたもうひとりの人はすっごい美形で妙に馴れ馴れしかったけど」
