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5 女性絶滅計画
よたよたと歩くフレンチブルドッグのゴーダは全然言うことを聞かない。こっちだと引っ張っても、へっへっへっと荒い息を吐きながら自分の行きたい方向だけを目指して短い四つ脚を動かしている。
「ゴーダ。そっちじゃない。うろうろするな。どうしてお前は真っ直ぐ歩けないんだ」
蛇行する犬に振り回されながら自動扉をくぐると、ロビーの中で秘書が姿勢を正して待っていた。
「おかえりなさい。パルメザン所長。今度の視察はどうでしたか」
筋トレが趣味の秘書は胸板が異様に厚く、グレーのスーツの襟元が広がってボタンがはち切れそうになっていた。
「どこも確実に人口は減っているな。これという打開策が見出せず危機的状況に追い込まれている。ところで君はどっちだ?パルミジャーノか?レッジャーノか?」
「レッジャーノです。兄は左分け、私は右分けと以前とお伝えしましたが」
「そんなこといちいち覚えてられるか。とりあえずこいつを頼む。首輪のチップの回収を忘れるなよ。5000時間分のデータが入ってるから国ごとに分けてファイルを送ってくれ。ところで例のアンドロギュノスはどうなった。いつこっちに移送される?」
「まだ決定しておりません。先方が自国で検査すると言って渡したがらないのですよ」
「どんな条件でも飲んでやれ。脆弱な設備で検査などされて神の子に傷でもついたら困る。二十年以上生きた両性具有の完全体は例がない。まさに新しい人類。髪の毛一本すら貴重なんだ。速やかに移送させるよう働きかけろ」
「ただちに。政府関係者に揺さぶりをかけますか?」
「手段は任せる。ただし手荒なことはするな。あの国だけがここ五年で人口を増加させた。世界のモデルケースになってる。平和と人権を重んじる国風だから、その所をうまく突けば引き渡すだろう。本人のためになる理由を作れ。下手にいじられて弱ってからじゃ遅い。急げ」
分かりました、と所長室の前でレッジャーノは頭を下げ、ゴーダのリードを引っ張って「こっちだ。行くぞ」と歩きだしたが、どんなに急かしても自分のペースでしか進まないゴーダに苦戦していた。ほらほらと声を掛けられても、ガニ股でよたつきながらのんびり角を曲がっていった。
パルメザンは生体認証で開く自室に入った。 白い床を歩きながらカツラを外し、顎の付け髭を取った時だった。
「パルメザン帰ったの?」
奥の部屋から声がした。グレーのシャツのボタンを外し掛けていたパルメザンは「はい」と指を止めてそちらに向かった。歩きにくいボロボロのスニーカーを早く脱ぎたかったが、また踵を入れて履き直した。
「失礼します」と声を掛けて白い扉を開いた。正面のデスクに祖母が座っていた。リクライニングチェアに寄り掛かり、肘掛けに両手を置いて微笑んでいる。ハイカラーのワインレッドのワンピースに、シニョンに結ったプラチナヘア。御年九十三歳というのに背筋もピンとしていて、仕草に品がある。パルメザンは彼女の前に立って一礼した。
「ただいま戻りました。おばあ様もご健勝のこと、大変嬉しく思います」
「ええ。お陰様でとっても元気よ。今朝もマーマレードをたっぷり塗ったトーストに、サラダとハムエッグ、トマトポタージュもたいらげたわ。デザートのナッツヨーグルトもね。午後からはスイミングに行く予定よ。たまにはあなたもどう?」
「仕事がありますので遠慮させていただきます。ところでおばあ様、なぜ私の机に座ってるのですか。今から業務がありますので、お話でしたら家でお願いします」
「待ってもあなたが来ないからこうして私から訪ねてきたのよ。パルメザン、あなたが責任ある職務に就いていることは承知してます。でも少し働き過ぎですよ。 今回の視察はどのぐらい行っていましたか?」
「十か月です。回る所が多かったので、少し長引いてしまっただけです」
「その汚い格好で大陸を転々としながら、何の情報を集めてるのですか。あなたは遺伝子工学の研究者ですよ。SSMによって汚染された遺伝子を正常化するのが第一任務ではないのですか」
「分かっております。そのための視察です。自然妊娠で女児が多く誕生する地域の因果関係を調べていたのです。大気汚染や水質、食事や生活スタイルを精査して解析していたので帰国が遅れたのです。ご心配おかけして申し訳ありませんでした」
パルメザンは頭を下げた。机の上に両膝を付き、重ねた指に顎を乗せている祖母は少女のような眼差しで見つめた。
「次の休みはいつですか。たまには一緒に食事でもしましょう。海辺に素敵なレストランがあるのよ。ブイヤベースがとってもおいしいの。ホテルと隣接しているから、眺めのいい部屋を取って息抜きなさいな」
「せっかくですが、あいにく次の休みの予定がありません。おばあ様こそゆっくりされて下さい。世界最高年齢の記録をまだまだ更新して頂きたいですからね。申し訳ありませんがやることが山積みなんです。そろそろ退室して頂いてよろしいでしょうか」
パルメザンは手を後ろに組んだ。一刻も早く体を洗って仕事に戻りたかった。祖母の目線の意味することを読み取れるが、敢えて汲み取らなかった。
「一分かりました」と祖母は頷いた。パルメザンは立ち上がる祖母に手を貸した。まだ自力で歩けるが、廊下が滑りやすいので補助のためだ。歩きながら隣にいる祖母をちらりと見た。ラメが光るマニキュアと、濁りのない美しいエメラルドの瞳。パルメザンは彼女の前に立つとコンプレックスを覚える。声が出ぬよう無意識のうちに息を止めている。
迎えに来ていた家政婦に引き渡そうとした時「本当においしいのよ。ブイヤベース。是非食べにいらっしゃいね」と、祖母は手を伸ばしてパルメザンの頬に触れた。あまりに突然で顔を引く時間がなかった。触れられるのが苦手で、普段なら咄嗟に振り払ってしまうのだが、 相手が祖母だからか完全に油断していた。
「ええ、近いうちに」うまく笑えてないのは分かっていたが、早く帰ってもらうには手っ取り早い。答えを聞いて安心したのか、祖母は帰っていった。
室内に戻ったパルメザンは急いでシャツを脱いでバスルームに入った。脱衣所の鏡に映る裸体。三十八歳の男性らしい肉体がそこにあった。190センチの身長。平たい胸。張った肩。隆起した腕。自然と外向く膝と足先。 顔をなぞるとざらつく髭の感触。どこから見ても男で、その象徴もちゃんとある。
自分の肉体に今も違和感を抱く。着ぐるみを被っているように本当の自分はどこかに隠れている気がする。どこもかしこも自由に動かせるのに、なにかがいつもマッチしない。それが今も下腹部に残る傷のせいだと分かっていた。 縦に四センチ。右の腹部にうっすら見える跡。触ってももう痛くないのに、ほんの小さな引きつれがずっと自分を支配している気がするのだった。
着替えてから白衣を羽織り、パルメザンは研究室へと向かった。彼が歩くと研究所の社員たちは立ち止まって一礼する。カッテージ国立遺伝子研究所の所長に就任している彼は期待の若き頭脳だった。胎児の先天的な病気の発見と治療において画期的な技術と手法を生み出した天才。国中に名の知られる彼は研究者たちにとって雲の上の人物だった。
チームは選りすぐりのエリートのみ。研究内容は常に内密。臨床実験の成果が出るまでは決して外部に漏れない。現在も十三人で組むパルメザンのチームは、一部の者しか立ち入れない特別施設で極秘の研究を進めていた。遺伝子研究の権威であるパルメザンなら、SSMによって開いた男女比率を埋める道を拓くと、国も莫大な費用を投じていた。
テクノロジーの発展が目覚ましいこの国では、起動するものはAIによって管理制御されていた。 声紋で動くエレベーター。パルメザンが地下三階に到着して扉が開くと「お帰りなさいませ所長」と研究員たちが出迎えた。
「留守をご苦労。なかなか有意義な旅だったぞ。チップの解析は終わったか?」
「間もなくです。ゴーダはずいぶん太りましたね。よほどおいしいご飯があったんですか」
「ここに戻る前の国でな。親切な国民性で、私をホームレスと勘違いして食事を提供してくれるんだが、ついでにゴーダの飯まで用意してくれるんだ。もらえるものはなんでも食う奴だから、あの通りぶくぶく太ってしまったわけさ。それでなくとも歩くのが遅いから、蹴飛ばしてやりたくなったよ」
「はは。ゴーダはああ見えて平和主義ですからストライキ起こしますよ。体力は超人並みですけど、気が殺がれたら徹底抗戦する頑固者ですからね」
「気を使ったよ。けどよく働いてくれた。疾病センターの検査でも異常はなかったんで、しばらくゆっくり休ませよう。ただ長旅で生活リズムが狂っているから、一週間ほどよく様子を見てくれ」
「分かりました。我が研究所の大切な一員ですからね。観察しておきます」
「ところでリコッタとチェダーはどうだ。順調に育っているか」
パルメザンは助手のブリーに声を掛けた。ええ、と彼はカメラをオンにした。モニターに映しだされたのは二匹の黄色い子猿。所内の飼育施設で育てている猿で、木の上で毛繕いしたり、枝にぶら下がって遊んだりと機敏に動き回っていた。
「元気そうだな。食事は普通にしているか?」
「これといった変化はありません。朝はリンゴとトウモロコシ。昼はバナナとさつまいもを完食しています。尿にも血液にも数値の異常は見受けられません。至極順調な成長を遂げています」
「よし。来週から知能テストを始めよう。人工母体で生まれたこいつらが普通の猿と同じ、またはそれ以上の能力を持っているとしたら、この世から子宮はいらなくなる。どの国でも出生率を上げるために未だアナログな手段に頼っている。女性が子供を産むという概念に囚われてな。もはやそんなのんきな方法など時代にそぐわない。この二匹の猿が世界を変えるだろう。人工母体を使えば子供などいくらでも誕生させられる。そうなれば男性社会の和を乱す女性は不要になり、数十年後には絶滅するだろう。四つの国をじっくり見て回ってきたが、どこも女との共存を優先するあまりに秩序が狂っていた。マイノリティへの過剰な待遇というのは返って混乱を招くのだ。これから数万の規模で女が減ってゆけば、世界はようやく統一される。女性に特化した法整備が撤去されることで我々も負担がひとつ減るのだろう。着々と進めてきた女性絶滅計画もあと数年で大きな局面を迎えるはず。女が神のように振る舞っていた国もすでに混乱が生じているらしいな。女に銃を持たせるような、とんでもない国もあったが、彼女らもそろそろ肩の荷が下りるだろうよ」
パルメザンは軽く笑ってモニターを眺めた。未来を担う二匹の猿。子宮を使わず誕生した彼らは生き生きとしていた。女を世界から排除する。パルメザンはただこの信念に基づいてのみ長年研究に没頭してきた。
♢♢♢
四日が過ぎた頃「所長」と研究員のひとりが飛び込んできた。
「 例のアンドロギュノスなんですが、引き渡しは難しいかと思われます」
「なんだ?どうしたんだ?」
「実はさきほど先方から連絡がありまして、受精が確認されたと。妊婦は国際法で渡航が禁じられていますから、出国許可が出ないと思われます」
「受精?神の子が妊娠したというのか?」
「はい。妊娠の陽性反応が出たと言っていました。おそらく病院で厳重に管理されるでしょうから、引き渡しは無理だと思います」
信じがたい情報にパルメザンは呆気に取られた。アンドロギュノスが妊娠をするなど、 かつて聞いたことがない。稀に生まれる両性具有者は、国によっては抹殺されるか、小さい頃に性別手術を受けるかのどちらかだ。二つの性を保持したまま妊娠するなど有り得ない事態であり、パルメザンはなんとしても自分の手でくまなく検査をしたかった。
「じゃあ私が行く。先方にそう伝えろ」
研究所内は静まり返り、みな互いに顔を見入った。
「所長。それは無理です。行ったとしても施設内に入館できません。一般人も立ち入れないのに外部の人間など許可されませんよ」
「皆既病院のシステムにハッキングしてキーを作れ。三日以内に出発する」
「昨夜のうちに中秋の島に移送されています。彼女の担当は女性の産婦人科医のみになりました。女性でなければ彼女を診察できません」
「家族なら面会できるだろう。受精したというならパートナーがいるはずだ。そいつを探し出せ、より安全な環境で出産させた方がいいと説得するんだ」
「密航者だったので入管施設にいます。事情が事情ですから面会は難しいかと…」
「なんでもいいからやれ!どんな些細な情報でもいいからかき集めろ。監視カメラを遠隔操作して人の少ない時間帯を割り出せ。なんとしても奪い取るんだ」
普段は声を荒げないパルメザンに室内は再びしんとしたが、気迫に押された研究員達はすぐにおのおの動きだした。彼自身も己の中から吹き出す蒸気でじっとしていられなくなっていた。冷静さを欠いていると自覚しながらも納め方が分からなかった。
「外出してくる」
パルメザンは白衣をその場に脱ぎ捨てて研究室を出て行った。火のついた部屋に閉じ込められているような、逃げ場のない憤りを感じていた。
車を飛ばして隣町へと向かった。青と白の水平線が右横から伸びてゆくと、潮の匂いが入ってくる。海は嫌いだった。心を勝手に連れてゆくからだ。無限を思わせる風景が思考を鈍らせる。おおらかになりたくなかった。まあいいかと偽らずにやることを貫く。常に自分自身を正解にしていたかった。
リストランテ『マスカルポーネ』はランチを楽しむ客たちで賑わっていた。海が望めるテラスは満席で、特に昼下がりの女は良く喋る。この国では男女は秩序を保ちながら共同生活している。つまらぬ犯罪はあるものの、凶悪事件はほぼ起こらない。充実した社会保障。賃金も他国に比べて20%高い。医療費も学費も無料。女性の社会進出が奨励され、国民の幸福度の高さが安全な国を作っていた。
テラスの一番端のテーブル。風にたなびく白いパラソルの下に、家政婦と一緒にたっぷりのクリームといちごが乗ったパンケーキを切っている祖母がいた。葉の形のイヤリングに、ブルーのシースルーのワンピース。足下にはシルバーのハイヒールを履いていた。周囲には二十代ぐらいのOLや小さい子供を連れた若い母親もいたが、遠目にも祖母が一番美しかった。世界最高齢の女性として有名人の祖母はみんなに声を掛けられる。見知らぬ相手と握手をしたり写真を一緒に撮ったりしていた。愛想良くにっこりと。
パルメザンは彼女と本当に血が繋がってるのかといつも疑う。性格というより気質が違い過ぎる。まるで映画スターのようなまばゆさ。近寄るのに躊躇して立ちすくんでいると、気付いた祖母が「あら、来たのね。いらっしゃいよ」と手を振った。大きな声で呼ばれたパルメザンはやや背を屈めながら祖母の元に向かった。
「思ってたより早く来てくれたのね。ごちそうするわ。なんでも好きなもの頼んで」
祖母は体を揺らしてパルメザンのために隣の席の椅子を引いて座らせた。
「コーヒーだけで結構です。そのクリームを見ているだけでお腹いっぱいになりました」
「あら、足りないぐらいよ。自分でホイップして追加したいわ。スイーツは幸せホルモンのセロトニンを出してくれるのよ。あなたみたいに働き過ぎな人ほど食べるべきなのに。たまには頭を空っぽにしなくちゃ」
「考えるのが好きなのでお構いなく。おばあ様こそ糖分摂り過ぎじゃないですか。お年なんですから生活習慣病に気をつけないと。こんなものばかり食べていたら糖尿病になりますよ」
「もう十分長生きしたから好きなことをするって決めたのよ。これでも若い頃はあなたみたいにバリバリ働きながら、三人も子供を育てたんですからね。自分の時間なんか一分もなかったわ。ほーんとに忙しかった。毎日毎日残業して、会社を出たら今夜の献立で頭がいっぱい。帰りがけに買い物に寄って、帰宅したら少なくとも三時間は立ちっ放しよ。一通りの家事が終っても明日の仕事やメールのチェック。ベッドに入れるのは日付を越えてから。翌日は朝日が出る前に起床して、五人分のお弁当と朝食作り。子供達が独立する二十四年間ほぼそんな毎日。みんなが家を出た時はせいせいしたものよ。待望の孫も生まれたけど、旦那も息子たちも私より早く逝っちゃった。寂しいけどこれでしがらみもなくなったから、やりたいことをぜーんぶやろうと決めたのよ。豪華客船で旅行も行ったし、流行のクラブで一晩踊ったし、完走まで六時間半掛かったけどマラソン大会にも出場したし、エッセイも出版して、七十歳でアパレルブランドも立ち上げたわ。毎日寝る前に今日も自分を楽しませたか尋ねるのよ。うんうん楽しかったって答えるとぐっすり眠れるの。このパンケーキをたいらげることで私は今夜気持ちよーく夢の世界に行けるのよ。だから放っておいてちょうだい」
祖母は大量のクリームをスプーンですくうと「ああーおいしーい」と頬を押さえながら顔をふにゃりとさせた。
「なにか話したいことがあるんでしょ。ラクレット、ちょっと買い物に行ってきてちょうだい。明日ゴルゴンゾーラさんが来るから、ワインとつまめるもの用意してもらえる?あの人お魚が好きだからスモークサーモンなんていいわね。適当にいくつか見繕ってきてよ」
もう十七年間住み込みの家政婦をしているラクレットは祖母の交遊関係も把握していた。 知人の好みをちゃんと覚えているなどパルメザンには信じられないことであった。ラクレットが席を立つと、祖母はカップをソーサーに戻し「なにを聞きにきたの?」と視線を上げた。
「仕事の時間に訪ねてくるなんてよほどのことなのね。緊急なの?」
