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 人の心は変わる。年を重ねれば、夢も欲しいものも十年前とは違ってくる。むしろ自然なこと。同じままの方がおかしい。成長していない証拠だ。

ミカに新月への思いの丈を打ち明けたものの、内気なルナは直接伝える勇気がなかった。それでミカが仲介役となり、同居人の上弦から、新月の人となりや結婚の意思の有無を聞き出していた。あの日のルナの叫びと涙は薄膜が破れた音だった。

姉の夫への思いは薄れていないし、彼を忘れるための恋愛や結婚ならしたくない。誠実でない自分を許せなくなる。なのにここ最近、ミカはパソコンの前に座ると胸が弾む。アドレスを教えてもらった弟と話す時間が楽しみになっていた。まだ壁はある。新月とルナの案件から一ミリもずれないように話しているが、それでも会えるとときめきが走る。

「絶対止めた方がいい」と、新月の悪口を話す時だけ上弦の表情が豊かになり、口調もくだけるからだ。徐々に必要以上にかしこまらなくなり、どちらも傍らに飲み物を置いて会話をするようになっていた。会うのはいつも月曜日。新月は毎週月曜日は音楽仲間とスタジオに集まるので十一時ぐらいまで不在だからだ。ミカは彼と会う前は一時間メイクをし、鏡の前でファッションショーをして選んだ服を着る。上弦はいつもモノトーンのシャツ。洒落っ気のない服装だが彼にはそれが似合う。落ち着いた雰囲気に安心する。

「お二人で住んでると、料理とかも交代でやるんですか?」

「新月は全然やんないよ。それはおれがうまくなりたいものじゃないからって手も出さない。けどやらないならずっとやらない方がいい。棚とかぐちゃぐちゃにされたらどこになにがあるか分からなくなるから。あいつはそういう所ほんとに無頓着だから、散らかした物の片付けで苛々するよ」

「正反対ですね。ルナはすごい几帳面なんですよ。どんなに遅くなっても洗い物もきちんとして、アイロンも欠かさない。冷蔵庫の中もいつも綺麗で、食材を余らせたりしないんですよ。賞味期限が切れたものを見掛けたことないですもん」

「新月はレトルトなら三か月ぐらい過ぎてても平気で食うよ。今の所は腹も壊してないけど、そういうの全然気にしないから。話を聞く限り、ルナさんはしっかりされてる人みたいだから、新月みたいにノールールの人間と暮らすのは難しいんじゃないかね」 

上弦は鼻を擦って首を捻った。度々見せる彼の癖。ミカはいつもそれが気になっていた。男性が会話中に鼻を触るのは心配事か隠し事をしている時だという。同時に相手に好意を持っている心理の表れともある。ミカは頷きながらどれを意味しているか探っていた。横顔になると分かる鷲鼻の高い梁。それはとても男性くささを感じる。だから余計に目がゆき、触る回数の多さにも気付いた。何を考えながら話しているのか。つい手がゆく時に動く感情は何なのか、いつも気になる。

「上弦さんは結婚なさらないんですか」

思いがけないという顔をして「おれ?」と聞き返し、視線を逸らした。あー、そうねえ…、と首に手を当てて口を斜めにした。

「おれの方が実は、新月より厄介な人間だからな」

彼は卑下するような笑みを浮かべた。でもその時、彼の手はずっと画面に隠れたままで、一度も鼻に触れなかった。

  ♢♢♢

どうすれば彼女の友人が新月を諦めてくれるのか。上弦は苦戦していた。新月の悪口などいくらでも言える。朝までだって続けられる。彼のことならなんでも知っているからだ。けれど友達思いのミカを振り切れない。新月がいい人なら応援したいという、彼女の優しさが伝わってくるからだ。

大体自分で告白も出来ないような女が新月と対等に付き合えるわけない。あの放蕩息子を繋ぎ止めたいなら手綱捌きに懸かってる。新月は相手を邪険にはしないが、止まる理由がなければ離れてく。その代わり一度でも愛したら息を引き取るまで側にいる。 もし新月が中秋の島に行かずにここに止まっていたら、彼はきっと自分が寝たきりの糞尿垂れ流しのじいさんになっても介護をしてくれるだろうと確信もある。新月は決して人を見捨てない。やるべきことが分かれば潔くきっぱりやる。誰かのために動く幸福感の大きさを知っている。人を喜ばせるのは人間に不可欠な養分だと。 それがやれない者ほど枯れて朽ちる我が身を人のせいにする。

新月に会うまで上弦はそちら側だった。自分が嫌い。周りの人間も嫌い。朝起きた瞬間から、世の中にいる奴全員死んでしまえと思う毎日。できの良い兄と比較される劣等感。うまくいかないコミュニケーション。みんなが好きなものに興味が持てない。かといって特別な感性や才能があるわけでもない。捻くれ者になるに従って、研ぎ澄まされてゆく批判精神。そのうち全部が気に入らなくなり、世間を恨んで断絶しようとする。

男女区分は上弦にとって都合のいい制度だった。自分をごまかしながらも周囲に溶け込める。マイノリティの上弦にとって保護色になれる環境は居心地が良かった。けれど二十二歳になると飢えていた男子は一気に島に渡り、初体験を済ませてくる。渡航期間が始まると異性愛者か同性愛者かがはっきりと分かれる。

 出生率を上げたい政府は同性同士の婚姻は許可していないが、差別する風潮もない。環境故に発生する自然現象と捉えていて、集う場所もあり、弾圧も排斥もなく愛を育める。狭い世界だからこその理解もあるが、渡航期間内は自分の異質さを感じずにいられなくなる。学生時代に思いを寄せてきた相手が中秋の島に渡ってから、上弦は扉に鍵を掛けて飲み込んだ。ひとりで生きてゆこうと決めて十年間沈黙の中にいた。

だが現れた。なんでもさくっと飛び越えてくる無邪気なカンガルー。 出会いはエレベーター。ヘッドハンティングされた新月の出社初日だった。 上弦が箱内にいると、閉め掛かったドアの隙間にぬっと手が伸びてきた。びっくりして慌てて開を連打した。左右にドアが開くと「どーもすいません」とへらへらしながら乗ってきたのが新月だった。 

そして初対面の上弦相手に「あー今日から広い職場で嬉しい」と顔を綻ばせた。上弦自身と上昇するエレベーターがリンクした。鍵のないドアが枠ごと外れた。「ではお先に」と新月が降りたエレベーターでひとり残った上弦は知らぬうちに笑みが零れていた。

毛並みのいい馬を見つけて買わずにいられるか。タイムリープの物語のように向こうからやってきたのだ。おれに恋をしろと。同居人の張り紙を見つけた時、一秒も迷わず連絡した。この運命を逃してたまるか。 手書きの紙には二行の注意書きが記されていた。

《家事の得意な方歓迎。☆家事をやらなくても怒らない方さらに大歓迎》

「そういうわけですけど、それでいいなら、僕はあなたがいいです」

部屋を見に行った時に新月は言った。誰かに選んでもらった初めての体験だった。ようやく見つけた安住の地だった。

「新月のことは、暮らさないと分からない。ある人にとっては迷惑千万。手が掛かる厄介な奴だよ。一か月で耐えられなくなるだろうね。でもあいつより面白い男をおれは知らない。他人にも自分にも偽りなく生きてる人間だから。 いいかげんだけど、信念は一度も揺らいでない。ためらわずに愛する。相手の全てを。理由もいらない。条件もいらない。受け身の天才だから決して逃げない。よける方法なんか考えたりしない。本当に新月が好きなら、まずは全部を信じることだ。ウダウダしている間に誰かがかっさらう。それでいいなら今のうちに締めることだ。新月は誰のことも侮辱しない。排除もしない。どんな人種もだ。だから心を見せてみろ。まずはそこからだ。陰に隠れたままで気が付いたら愛されてましたなんてムシが良すぎる。三流小説のヒロインだ。新月は前にしか進まない生き物だから、気が付いてほしいなら彼の前に立つことだ。本気で欲しいなら砕ける覚悟で当たってみろ」

上弦はカメラのスイッチを切った。画面が消える寸前の見開いたミカの目が忘れられない。けれどもうまっぴらだった。いい相談役でいるなど。新月の親友のふりをすることなど。以来ミカとは連絡を取らなくなった。それでも月曜日になるとパソコンに目が行く。彼女は気付いたのかもしれない。気が利く人間というのは勘がいいものだ。それならいい。悲しませたかもしれない。悪いことをしたと、胸が痛かった。 

 ♢♢♢

よかれと思った言動に間違いがある。今回もきっとそうだった。お節介が過ぎて結局全員を嫌な気持ちにさせる。それが私だ。

ミカは自己嫌悪が止まらなかった。ルナを心配しているのは嘘じゃないが、いつしかサブタイトルになっていた。彼と話したかっただけ。いい友人を演じ過ぎて嫌われてしまった。上弦にとって新月は親友。それをまるで悪い人のように、悪い人であることが嬉しいように笑っていた。「困った話」に過剰に反応して彼と仲良くなった気になっていた。目の後ろに涙が溜まってる。ふと突かれただけで一気に吹き出る状態だ。 ミカは忠告を止めた。本人が決めることと、口を出さないことにした。

いつしか彼らについて話題に上らなくなったが、ルナに思い詰めた様子はなかった。逆に吹っ切れたのか明るくなった。いつもは保守的で、目立たない色合いの服ばかり選んでいた彼女が「これどうかな?」と見せてきたのは、ひまわり色の袖なしワンピースだった。 ミカは驚いたが、ルナにとても似合っていた。

「いいよすごく。めっちゃ可愛い」

試着したルナは眩しかった。服の色だけでなく笑顔も。恋をすると女は綺麗になるというが、彼女はまさに一気に開いた大輪の花だった。空っぽだった容器に恋の喜びが詰まっている。新月への思いが心を満たしているからだ。こんなにピュアに愛せることが羨ましかった。自分は姉の夫への思いをずっともて余していたと今になってミカには分かる。苦しがっていただけで、好きになることを好きになっていなかった。兄と弟と、どちらへの気持ちの方が強いのか分からなくなって量っていた天秤。そんなのはもう不要だった。
月曜日の夜の空白を全身が寂しいと訴えていた。

九月の半ばだった。夜にルナと二人で古いモノクロ映画を見に行った。ルナは上映中ずっと泣いていて、帰りに劇場で売っていたポストカードを買うほど感動していた。十五夜前日の紺碧の夜は暑くもなく暗くもない。ゆっくり歩いて帰ることにした。繁華街は人の通りも多い。終わりかけている夏の余韻が笑い声と一緒にさざめいていた。

カフェスタンドで飲み物を買った。ミカはミルクティー。ルナは珍しくブラックコーヒーにし、半分飲んでからミルクを入れ、溶けて白く染まってゆく様子をにこにこしながら眺めていた。二人でカップを手に街路樹を歩き、駅が見えてきた時、ルナがおもむろに「あのね」と切り出した。 

「私、十月に中秋の島に行くわ。しばらく帰らないと思う」

ミカは何も聞き返さなかった。そう、とだけ返事した。もう不思議じゃなかった。彼女の心はとっくに渡っているからだ。キッチンの前で膝を抱えていた自分と決別して歩きだしている。幸せになりたいなら自分に素直になること。簡単だった答えを、気の弱いルナから教えてもらった。

 ♢♢♢

新月とルナは中秋の島で再会してから、わずか五か月で結婚に至った。身内が出席できない二人のために、結婚式は友人だけで盛り上げた。ミカも上弦ももちろん一張羅で列席した。友達の多い新月らしく、始終音楽と笑い声の絶えない、たくさんの祝福に包まれた式になった。

ミカが友人代表で祝辞を述べるとルナはぽろぽろと大粒の涙を零し、横に座る新月は彼女の頬を優しく拭いてやっていた。その光景にミカも感きわまって声を詰まらせた。中睦まじい二人の姿があんまり美しかったからだ。招待客らの目線も集まって余計に緊張し、 えっと、えっと…と言葉を探した。

「いつもの調子でやれよ。無理してかしこまるな!」

声ですぐ分かる。前髪を上げた広い額に黒い眼鏡。前のテーブルに座る上弦だった。紺のスーツに白いネクタイで笑いながらこちらを見ていた。義妹を見守る優しい兄のまなざしがあった。客達から拍手が湧いた。ミカもふっと気持ちが楽になり、マイクの前で息を吸い込んだ。なめらかに話せたのは、視線の端に彼がいたからだった。 どんどん勇気がわいてくる。本当は野次など飛ばす人でない。新月の結婚式を明るく楽しくやってやりたい彼の気持ちが伝わってくるからだ。

家族に向ける最後の挨拶で、二人の隣に呼ばれたのは上弦とミカだった。ローズピンクのドレスに着替えたルナは、一度新月と顔を見合わせて頷いた。泣かないでやるという約束を交わしていたのだろう。「ミカ」と、ルナはよく通る声で話し始めた。 

「いつも側にいてくれてありがとう。ミカと過ごす時間は私にとって一番安らげて、一番元気になれる時間でした。おいしいものをたくさん食べに行ったね。買い物もいっぱいしたね。女の子とやる楽しいことの全部をミカとしたよ。いい思い出には全部ミカがいます。それは私にとって、決して消えることなくきらきらと輝き続ける宝物です。でもここでひとつ謝りたいことがあります。実はミカに嘘をついてました。私は本当はそんなにしっかりしてる人間ではありません。ちゃんとしてるねといつも褒めてくれるので、ミカの来る日は一生懸命部屋を掃除してました。ひとりの時はもっと散らかってるんだよ。ミカに嫌われたくなくて、ガッカリさせたくなくて、頑張ってました。これがほんとの私だけど、これからも友達でいて下さい。大好きよ。ミカ」 

二人は抱き合い「私も大好き」とミカは耳元で告げた。可愛いカミングアウトは場を和ませた。

「ルナのことお願いしますね」

小さな声で新月に言うと、彼はミカを見つめながら顔を輝かせ「そっちこそ上弦のこと頼むよ」と笑った。同じ並びにいる上弦はずっと苦虫を噛み潰したような顔をしていた。ミカとルナと新月は同時に吹き出した。

白いタキシードの新月はにやにやしながら挨拶の言葉を述べてから「ではここでお世話になった恩人にひとことお礼を述べたいと思います」と述べると「上弦!」と横を向いた。

「長い付き合いで、なかなか言える機会もなかったんでこの際だから言う。一緒に暮らした五年間、おれはずっと楽しかった。お前のいい所をいっぱい見た。だからここで発表する。お前が隠してる部分も全部ぶちまけるぞ。お前はシャイで不器用だけどとてつもなくいい奴だ。面倒臭いとこもいっぱいあるけど、それ以上に思いやりがある。 お前を嫌う人間なんかいない。本当だ。だから自信を持て。恐れるな。おれは家を出るけどお別れじゃない。死ぬまで親友。家族。恋人。なんでもいい。 お前よりおれを知ってる人間はいない。おれの取り扱い説明書は上弦が持ってる。ルナにも言ってある。おれのことが分からなくなったら上弦に聞けばいいって。おれはなにがあってもお前の味方だ。上弦もそうあってほしい。いつだって会える。おれと出会ってくれてよかった。愛してるぞ、心の友よ。ありがとう上弦!」

 新月は笑いながら手の甲で目を拭った。上弦は全く顔を上げぬまま、何度も後ろを向いては袖で顔を隠し「くっそお…」と、繰り返した。

式から四日後、仕事から帰ってきたミカが風呂を出てひとりでビールを飲んでいると、 パソコンの着信音がした。タオルで髪を拭きながらクリックすると上弦であった。 あっ、と思った。すっぴんで、しかもラフな家着。けれどもういいやと思った。これが私だ。取り繕うなんて意味がない。

ミカはカメラをオンにした。ぱっと映った上弦も、いつもよりもリラックスした様子だった。前髪を下ろし、ゆったりした緑色のカーディガンを羽織り「おっす」と気安い挨拶で敬礼した。彼もビールを飲んでいた。 

「出来上がってますね。何時から飲んでるんですか」

「さっきだよ。話し相手が欲しくてさ。今日は雨だから外に出る気しなくて。暇だったら少し一緒に飲まない?」

穏やかな声だった。ミカはパソコンの前に座り、手にしていた缶ビールを見せた。はは、と彼に笑顔が灯り、画面越しに「チィース」と乾杯した。 途中酒を変えたり、つまみを取りに行ったりと、何度も中座しながらも一時間以上も話が尽きなかった。

「そういえば新月さんとルナの結婚式がきっかけで付き合いだしたカップルもいるらしいですよ。すごくいい式だったから。みんなも結婚したいと思ったのかもしれませんね」

「結婚婚活パーティーか。ま、縁起のいい出会いだもんな」

「あくまで噂ですけど、あの混線も政府が仕組んだバグだったって言われてるんですよ。行かないにポチした同士がランダムに繋がるように仕掛けたって。普通なら男島と女島は通信遮断されてるのに。おかげで今期は渡航者増えたらしいですよ。作戦成功しましたね」

「新月はまんまと引っ掛かったわけか。それでもランダムでルナさんと出会ったんだから運命なのかね。あの新月が一発であの子だって思ったっていうんだから。画面に映ってたしかめっ面が最高に可愛かったんだって。おれたちがどうするって話している間に、二人はとっくに心を決めてたんだから、よっぽど惹かれ合ったんだな」

「あのルナが自分から告白したっていうんだからびっくりですよ」

「新月は先に言われたって悔しがってたんだろ。そうなると次はミカだな。ブーケもらったんだから。予定ありそう?」

「ないですよ。あったら上弦さんと飲み会なんかしてませんよ」

「はは。余りもののお相手ありがとう。でもよかった。一度に二人も知り合いが結婚したら寂しいからな。じゃあたまに一緒に飲もうよ。おれでよければだけど」

顔が火照るのは酒のせいなのか、ときめくせいなのか、今なら好きと言えそうな気がしたが、もう少しこのままでいたかった。他人だけど兄妹。兄妹だけど他人。一生離れない特別な関係。鈍感だけど素敵。ぶっきらぼうだけど可愛い人。一年前とは違う気持ちでミカはじっと見つめた。彼の後ろには、自分の代わりにと新月が置いていった古い映画のポスターがある。それはミカがルナと最後に観たのと同じ作品だ。信じてくれたなら本物になる。この気持ちもいつかきっと…と思いを馳せた。

「ところであの二人、今頃なにしてますかね。けんかなんかしてなきゃいいけど」

「大丈夫さ。新月はおれには遠慮ないけど、女の子にはめっぽう優しいから。きっと楽しんでるよ。とびきりのハネムーンをね」