小説|青い目と月の湖 29
クロードは地面に四つ這いになったまま、体が落ち着くのを待った。
体から内臓の欠片が剥がれ落ち、体液が滴り落ちていく。
ぼとりぼとりと落ちるそれらは、黒い泥のようなものから液体に変化し、土に染み込んでいった。
一つ大きく息を吐き出して、地面から手を離した。
その手で顔を拭うと、魔物の青い血がべとりと手に付いた。
何度経験しようと、気味のいいものではない。
しばらくすると、血は風に揺られて黒い霧となり、大気に消え去った。
奴らは本当に死んでいるのだろうか。
断末魔の叫びは実はまやかしで、大気に紛れた後に何処かで再生でもしているのではないか。
そう思うと、口の隅に自然と笑みがこぼれた。
だとすれば、魔術師など、なんと意味のない存在だろうか。
顔や首などの素肌に浴びた返り血はほとんど消えていた。
両手で髪をかき上げ、首を振って立ち上がる。
髪の汚れも落ちたようだ。
ふと見ると、近くにいた役人が、不気味なものを見るような表情を固まらせて立ち尽くしている。
おそらくは、この場に不釣り合いな微笑をクロードの顔に見たのだろう。
間違っていはいない。
クロードの後方にはジョルジオの家で働いている女中が倒れていた。
彼女にのしかかっていた巨大な蜘蛛のような化け物を引き剥がし、丸く膨れ上がった赤黒い腹を地面の上で殴り潰した。
取り憑かれていた女と同じくらいの大きさで、月の湖を除けば、この村に来て一番の大物だった。
かなりの体力を消耗していた。
周りの人間たちには魔物は見えないにしても、クロードの行動は見えている。
自分たちには訳の判らない動きをして、息も絶え絶えになり、そして地面を睨みつけて不適に笑えば、当然不気味に思う筈だ。
同じ農園で働く男が、我に返って彼女に駆け寄り体を支えた。
許婚の間柄らしい彼は、彼女の名を何度も呼び続けていた。
大きな声が、クロードには少し耳障りだった。
「部屋に運んで安静にしていた方がいい。かなり苦しかった筈だ。医者は呼んでいないのか?」
役人が一拍遅れで返事をした。
「あそこに」
指を差された方を見ると、牛を放している牧場の仕切り柵に寄りかかっている男がいた。
ジョルジオよりは若そうだが、かなり年配の医者だった。
医者はクロードと目が合うと、慌てて女に近付いて脈を計りだした。
クロードは構わずに歩いた。
道に出ると、ここまで連れて来てくれた馬車が停まっていた。
馬を操っていたのは役人だ。
クロードはその名前を思い浮かべようとした。
いつもはウィルという細身の男がクロードの相手をするのだが、今日は珍しく小太りの男だった。
ハンスとも親しいらしい男で、パークスという名をクロードは思い出したが、それを振り返って呼ぶことはしなかった。
馬車を目に留めただけで、通り過ぎると歩き続けた。
歩いて帰るつもりだった。
しかし、しばらくすると馬車の音が背後から近付いてきた。
「クロードさん」
遠慮がちな声でパークスが呼びかけた。
クロードは立ち止まり、馬車の上のパークスを見上げた。
「お送りしますよ。すいません、ぼーっとしちまって」
クロードは一応「いいのか?」と、一言確認した。
パークスは「もちろん」と、ぎこちない愛想笑いで答えた。
藁を運ぶ小さな荷馬車だ。
これで役場にジョルジオ農園から使いが来て、そのままクロードを迎えに行ったのだ。
クロードはパークスの右隣に座った。
パークスがクロードに対してひどく緊張していることは明らかだった。
鞭を当てられ馬が歩き始めると彼は急ぐようにして言った。
「いや、そのね、実際現場に立ち会ったのは初めてだったから」
「災難だったな。妙な仕事を押し付けられて。ウィルはどうした」
「風邪で休んでるんですよ」
「風邪」
ただの風邪ならいいがと、クロードは心の中で思う。
パークスは勘のいい男のようには見えなかったが、クロードの呟きに何かを感じ取ったのか、慌てて付け加えた。
「大した熱じゃないそうですから。休みも少なかったからついでに休んでおこうみたいなね。飯も自分で作れると言ってたし」
「そう。それなら良かった」
「ああ、風邪と言えば、ハンスが風邪をひいて。ほら、季節の変わり目だしね。みんな体調くずしちゃうんだな」
「ハンスが?」
ええ、とパークスは笑顔で振り向いたのだが、隣り合わせのクロードと視線が合うと再び緊張をよみがえらせてしまったように、表情を多少引きつらせながら前に向き直った。
「明日は配達予定だったんだけどね、ハンスが風邪引いちまったから、様子によっちゃ日がずれるかも知れませんよ。あ、そうだ。幾らか持って行きますか?荷物になるだろうけど、パンくらいならすぐにでも用意できますよ。村長はクロードさんが言うならいつでも馬を貸してやるようにって言ってたけど、馬乗っていきますか?」
ハンスの病状に思いを巡らせ、返事をするのが遅れた。
クロードは一瞬何を聞かれたのか判らず、耳に入ってきたセリフを組み立てなおして答えた。
「ああ、いや、馬は必要ない。そうか、風邪を。すまない。ハンスの家に寄っていきたんだが、いいかな?」
「ああ、はいはい。よござんす。行きましょう」
パークスは面倒臭がる様子もなく、次の辻で右に馬車を進めた。
ハンスの不調が魔物のせいでなければ良いがと思うクロードの内心には、今度は気付いていないようだった。
