川辺 悠『カラーズ。』感想
(1,599文字)
カルビーポテトチップスの袋から、色が奪われるなら。
私たちは、「日常」もまた奪われている。
こんなのはネットにいくらでも転がってっしょ
的な文を目にすると粟立つ。ゾワる。
うまいこと言ったろう、あわよくばバズりてぇ、的あさましさにだ。
川辺 悠『カラーズ。』 は、その手の「うまいこと言う」意思が無い。
言っておくけど川辺⸻no+eでは「コハクシス」のほうが通りがいい⸻は、やろうと思えば、「造作なくうまいこと言える」人である。
でも『カラーズ。』の作品世界を構築していく過程、川辺にとって、「端的にうまいこと言う」はいっさい必要のないものだったはず。
置き換えたり削ったり、そうした推敲の苦心はもちろんあり、むしろ執拗に、執念深く、それが繰り返された可能性が高い。
だがそれは決して「うまいこと言う」ためにではなく、「自分のほんとうを絞り出す、まさにこれしかない表現にまで至る」ために、だったはずだ。
それは、川辺が赤心からやりたいことであり、なおかつ同時に、心象をスケッチし示すために最適と思われる手法として、戦略として、採られたはずだ。
創作の書き手は、その物語を語るために最もふさわしいと思える設定を施す。
語りの主体。
人称(一人称や三人称など)。
パーソナリティ。
文体。
時代背景。
語り手が属する社会階層、集団など。
物語のタイムスパン。
物語のために最もふさわしいと思えるなら、性別だって作家に属するそれから変えるし⸻太宰治の『女生徒』はその好例⸻、覆う空気を調節する。
そのようにして、『カラーズ。』では、必然的な存在としての語り手が、物語を語り進める。
「カラーズ。」という言葉の余韻がいい。
「色たち。」という日本語では、こぼれおちるものを含む響きで、概念。
おそらく、それは、祈り。
語り手の祈りで、母親の祈りで、街の、世界の片隅に埋もれたり、消えかけていたりする、けれど確かにあると信じたくなる、祈りのはずだ。
カラフルな、色とりどりの、というよりも、ぼくには薄墨、あるいはペールブルーのモノトーンが支配する世界に、わずかに、ほんのり発光するかのように明滅する色、カラーズ。
そういうイメージで読んでいた。
個人的に嬉しかったのは、ぼくが最近送り出した「OUT'O フィクション」との響きあいを感じることができたことで、おそらくこれは宇宙でたったひとりぼくだけが感じ、受け取れたもの。
これは、申し訳ないゴメンけど川辺の意思も賛否も超えて、ぼく的に絶対のものなのだ。
幼少期。
その時期に受けた暴力の示唆。
母親視点(の語り)への切り替わり。
読んでいて「!!!」と思わずにはおられなかった。
本記事を書くにあたって、コハクシス名での下記記事も参考にはなったけれど、結局はもう物語は作者を離れ、ぼくの元に届き、内面化された。
『カラーズ。』が書かれなければならなかった川辺の内面については、今後個人的に親しくなってサシ飲みに行ったとしても、その場であまり聞かないような気がするし、聞いたとてそれは「参考程度」にしかならない気がする。
作家・川辺 悠が世界に対して選ぶべきいちばんのことは、物語として語ること、に尽きるわけだし、ぼくを含む受け手はその物語の力を受け止め、自己に内在化し、共により良く生きることに結びつける。
それしかないように思うのだ。
蛇足だろうけど、読書中にぼくが連想した各種創作についても記す。
小説
『思春期』(パトリシア・ディゼンゾ)
『ホテルローヤル』(桜木紫乃)
楽曲
Goodbye (ザ・ポストマークス)
Think (Instrumental) (カーティス・メイフィールド)
Scar Tisue (レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)
American Tune (ポール・サイモン)
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いつか有料記事に挑戦しますので、その時までチップ取っといてください笑