小川哲『火星の女王』
主要登場人物のひとりであるリキ・カワナベは火星のホエール社に所属する生物学者です。彼が火星で新種の生命体を発見したとする記者会見での言葉が印象的です。
「『谷底の射出ポッドで整合性エラーを見つけたとき』という意味であれば、『だからなんなんだ』と思いました」
「『だからなんなんだ』とは?」
「わざわざ火星までやってきたのに、どうでもいい物体が起こしたどうでもいいエラーを直すために命懸けで谷底まで行って、こんなものを見つけて一体何になるんだって。」
事実とは違う記者会見に巻き込まれたカワナベの心境をあらわすことばが『だからなんなんだ』になります。カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』にでてくるセリフ『So it goes(そういうものだ)』のように記憶にのこります。運命にながされながらも、少しだけの反抗をみせているように感じます。
リキ・カワナベがなぜ地球から火星にやってきたのか、彼の過去が徐々に明らかになっていくところも物語になっています。
そのインチキ記者会見を行ったのがホエール社CEOのルーク・マディソン。彼は地球で財を成して、さらに無限の富をもとめて火星にやってきた人間です。そういう意味でリキ・カワナベとは違う、表裏のある本心のわからない人物として描かれています。
火星に移住がはじまったころは、火星は富が地中に埋まっている夢のある場所でしたが、物語の時代ではそうではないようです。あまりにも地球から距離がありすぎて、思っていたより稼げない、生きていくのがやっとというのが現実となっています。夢は儚く消えていく火星から地球へ戻る人が多くなっている状態です。現在の地球ではAIバルブが膨らんでいますが、それがはじけた先にあるような世界が描かれています。
火星での夢をあきらめきれないマディソンが画策するのは、火星の地球からの独立です。新生命体をエサにすこしでも有利な状態で独立を進める、すべて彼の壮大なはったりによってです。そのはったりに登場人物たちが巻き込まれていく物語になります。
そして題名にある『火星の女王』とはリリーE1102のことでしょう。彼女は火星で生まれ育ったので名前のあとに識別番号がついているようです。建前では人間はすべて地球人で火星に生命体がいたらそれが火星人ということになっています。実際には同じ人間でも地球人、地球生まれの火星人、生粋の火星人と差別が存在するとリリーは感じています。
その火星人が地球から独立する騒動の一番の被害者がリリーです。彼女の母親が火星移住者を支援する組織ISDAの前火星支部長ということと、ISDAの火星での機器保守ミスにより盲目になっていることから独立派の標的になってしまいます。運命の流れに身を任せているうちに、独立の象徴となっていくところが物語の核となります。
マディソンのはったりに反感を持ちながらも運命に流されていくカワナベとリリー。カワナベは過去と決別しリリーは地球にもどるという希望を捨てます。二人がすこし意識を変え、火星の応援団長と副団長として活躍するところが物語のやまとなります。
小川哲さんの少し皮肉交じりの文章と二人が前向きに生きていこうとするラストから、独特ながらもさわやかで読み応えのある小説でした。
