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ジェンダーとジェンダーフリー概念の理解に関して

ジェンダーとジェンダーフリー概念の理解に関して
 
第3回講義録の中の、ジェンダー概念の説明の一部(3-1-1)
を紹介しておく。性教育やジェンダー平等、ジェンダーフリー攻撃がある中で、フェミのイストの中で仲間の足を引っ張るような意見があったことは、今後のためにも忘れるべきでない点であり、第3回講義録の公判で述べている、キャンセルカルチャ―→トランスジェンダーにかかわる内部対立の問題の整理のためにも必要と思う。
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(3-1-1の途中から)
●闘いの歴史を受けて
「女は男より劣っている」ということが証明もなく当然と思われていた時代があった。「女にはそれは無理だ、向いていない」というように多くのことが決めつけられてきた。だが、そんなことはなかった。その事実に基づいて女性解放の運動や思想は展開されてきた。
ジェンダーという概念とそのめざすものは、こうした歴史的な「性差別への反撃」「平等・人権獲得のための戦い」の歴史を受け継いでいる。その理論と社会運動がフェミニズムである。  
まずは、時代による変化、地域、国家、文化、民族、個人差…を大事にして考えるということを意識してほしい。
性は社会的に形成されるという観点は、分かりやすく言えば、「性は作られる」ということである。生まれたときから、親や周りの態度、与えられるおもちゃ、学校、ファッション、メディア(マンガもテレビもネット・SNSも新聞も映画もとても多様で影響が大きい)、社会の諸制度、スポーツ、アート、学問(辞書、教科書、学説)、政治や経済の場、あらゆるところで・ジェンダーというものの影響を受ける。
だから時代や国、文化、などによって主流のジェンダーも変わる。さらに個人差なども出てくる。性は多様になる。性は本質的に二種類しかなく、女性なら皆同じ性質をもっているなど無理な話である。ただ社会がその傾向を作るのである。それによってできる序列化されたものがジェンダー秩序である。
私は、当事者性や、マイノリティ性、自分の主観の尊重、セルフヘルプグループ尊重、などを認めつつ、同時に、シングル単位的に、カテゴリーを越える「多様性としての私」に至りたいと思っている。だから現時点において、フェミといえども、女性アイデンティティへのこだわりが、その他の問題へのバランスを欠いているような場合、問題だと思っている。
現実の歴史的な戦いは、女性という集団でも戦われてきた。本質主義と構成主義(社会構築主義)の関係で、フェミは社会構築主義の方のスタンスを主にとると述べたが、単純にどっちというのではもちろんダメである。構成主義を認めつつ、本質主義的な利用をしていくという戦略(戦略として本質主義的な面を重視するフェミニズム)もありうる。「すべて社会的に作られたものであるから、どうにでも変えられる」というような単純な「構成主義的な主張」があるとすれば、それはもちろん問題である。
しかしここは、性的マイノリティからの提起と絡んでくる。性的マイノリティの中でも、戦略として、あるいはその他の理由で、本質主義的スタンスをとるものもあれば、FTXといったように、むしろ「X」という性的アイデンティティを主張していき、このままの私を認めるようにというのもある。後者は男女二分法破壊的である。
私は大きく言えば、後者のスタンスを支持している。ジェンダーフリー概念を擁護するという立場は、こことつながっている。ジェンダーフリー批判をする人の中には、男女二分法のうえでの戦略をとっている人もいる。フェミニズムの歴史でも、男女の差異を大事にしたうえでの女性解放論(差異派)もあった。それに対して、私の立場は、性差を最も認めない「性差・最小派(極小論)」の方に近い。
マイノリティの立場にたって、マジョリティが支配する秩序を解体し、多様な性が平等に共存できるようにしていこうとするのがフェミニズムだと考えている(創造的破壊)。その時、男女の差はほとんどないとみて平等を求めていくのである。その意味で、マジョリティが、第2回講義で示した「性における多数派と少数派」の表を見て、自分にもマイノリティ側面、中間的な側面があることに気づき、そうしてマジョリティというもの自体の中に繊細な個々人の違いの感覚が生じて、マジョリティというもの自体が解体していくこと(マジョリティの特権の破壊)を目指している。それがシングル単位論である(第6回講義)。
それが「男らしくならなくっちゃと思ってきたけど・・」というジェンダーへの気づきであり、その先に、そうしたジェンダーの枠に収まりきれない「ユニークな私と言う個」への覚醒がある。ジェンダー秩序の上位に行きたいと思う自分のとらわれに気づきそこから自由になること。それをシングル単位(ジェンダーフリー)として伝えていきたいと考えている。
ジェンダー平等にはおおむね共感するが、きれいになりたい、痩せたい、モテたい、男性からかわいいと思われたい、結婚したい、子供を持ちたい、お金持ちになりたい、大企業で正社員で働きたい、というような人が多い中、そこに多くの人の生きづらさが絡まっているとして、この講義では、そのあたりのこんがらがった糸をほぐして、どうしたらいいか、考えの整理ができるようにしていきたい。
男女の違いはあるとしたうえでの平等とか、主流秩序にのっかったままの平等とかを言っているものが多いので、もっと深く本気で考えていこうというのがこの講義である。ネットではひどいフェミニズム理解(アンチ・フェミニズム)と、一部ひどい「攻撃的なフェミ的な人」がいるので、それを見てフェミニズムを馬鹿にしている人も多い。それだけがフェミニズムではないぞという思いで、「フェミをなめるなよ」と言う思いで、「おもしろい、深い多様性あるフェミ」を伝えていきたい。
ネットや世間にはあまりに浅いフェミやジェンダーの理解が多く、そこで止まっているものが多いので、ジェンダー秩序とからめて突っ込んで自分の生き方を考えていく講義としたい。
 
●「ジェンダーフリー」概念に対してフェミニストの中にも「間違った理解」がある
フェミニストの中には一部、ジェンダーフリー概念を批判した人がいた(上野千鶴子、山口知美、斉藤正美氏など)。ジェンダーというのは性別・性自認であって、それをなくすことなどありえないというようなことを、当時、勢い余っていってしまった見解だが、これはジェンダーの多様な理解及びジェンダー秩序が整理できていない不適切な表現であったと私は考える(3人とも、ジェンダー平等を願うフェミニストであることは私は疑っていない)。
これに関して、拙稿でまとめた話を簡単に紹介しておく[1]。ここも知らない人もいるので、「伊田からの新たな指摘」の面がある。
ジェンダーフリーとは、社会的性別(ジェンダー)に囚われずに、行動したり考えたりすること、その考えで社会変革していくこと、ジェンダーに基づいて人を評価したり、ジェンダーの権力関係を正当化しないこと、ジェンダー秩序に囚われない言動をとることなどという意味である。
性別をすべてなくす(性別消去、ジェンダーレス、性自認自体をなくす)とか、みなを中性(1色)にしていくことを求めているのではなく、性別による「不必要・不適切な区別」「たった2色だけの扱い」をせず、ジェンダーの抑圧から解放されることを目指す概念である。ジェンダーフリーは、そうした考え方を基礎にして、文脈によって、目指す方向であったり、視点、考え方、生き方、状態、具体的制度設計などを意味したりする。けっして意識啓発だけを問題とする観念論などではない。
人間の中で男女の区別をなくし、1種類の「中性」人間だけにするなどということは、できるはずもないし、ジェンダーフリー論者も求めていない。
その逆に、ジェンダーフリーは、100人を100タイプ(100色)の個々人として、その違い・多様性を尊重していく概念である(その意味で、個人単位の平等論)。ジェンダー秩序の上位に行かないと幸せになれないという観念を解体しよう、そこから自由になろうという考えである。
ある一人の人間のアイデンティティとは、一つだけなのではなく、多数の属性、多数の側面、多数の性質の集合としてのアイデンティティである。ある面では、日本人であり、ある面では地球人であり、ある面では男性であり、ある面では家事好きであり、ある面ではサラリーマン等々なのである。したがって性的にも、みな一人一人異なる。男女の2種類しかないと決めつけ、それを規範として男女2タイプの枠に押し込め、しかも序列化していく伝統的な性別観のほうこそ、自由の抑制である。

つまり、ジェンダーフリーとは、ジェンダーの意味の「伊田③④(規範、判断基準、および権力・差別関係)」[2]のレベルでジェンダー概念を理解した上で、従来の抑圧的・固定的なジェンダーから自由(フリー)になる(離れる、囚われないようになる)ことを目指すことであり、社会環境の面でも、「つくられた抑圧的なものとしてのジェンダー」、「ジェンダー・バイアス」、「ジェンダーに基づく差別・抑圧・暴力」「人を性的に差異化する政治」「ジェンダー秩序」から自由になる生き方や思想や社会の仕組みのことである。[3]
各人が囚われから自由になって、多様な生き方ができるためには、多様な生き方を公平・中立に取り扱うことが要る。そのためには、主流秩序・ジェンダー秩序の優劣・上下をできるだけ解体し、考え方や制度設計を「個人単位(シングル単位)」に変えていくことが必要なので、ジェンダーフリーの思想は、個人単位型の社会に変革していくという意味をもっている。
 
●ジェンダーフリーを批判する論理への批判
ジェンダーフリー批判の諸主張について、以下、私の見解を簡単に述べておく。[4]
まず、ジェンダーフリー概念を好ましく思わない人は、「ジェンダーフリーは、ジェンダー(という重要な視点)をなくすこと」「性自認自体、性の区分自体をなくすこと」ととらえていることが多い。これはジェンダーを「伊田②」のみに理解しているだけで、ジェンダーの定義「伊田③④」というものがあることをふまえれば、誤解は解ける。
次に、一部学者が、ジェンダー概念を、「分析道具」=「価値中立」に限定しようという立場に立って、ジェンダーフリーを批判する場合がある。だが私は、ジェンダーの研究は、自らの研究実践の政治性(価値非中立)を意識的/無意識的に、無視/排除しようとすべきではないと考える。しかも研究者が何か決定する特別な権限があるわけでもない。活動家などがジェンダーフリーを使ているときに勝手に分析道具だと決めつけて使用範囲を限定して足を引っ張る必要はない。
これにからむが、ジェンダーフリー自体が「よくない概念/意味不明の概念」という見方もあるようである。「ジェンダーフリーの意味が曖昧、あるいはジェンダーフリーが科学的でない概念だ、学術用語としてすら意味不明で定着していない」「ジェンダーフリーは、フェミニズムのアキレス腱」などという。
しかしこの点についても、ジェンダーフリー概念は、「抑圧的なジェンダーの呪縛から離脱して自分らしく自由に生きていこうとする」といった積極的な概念といえるのであり、そうだとすれば、ジェンダーフリー概念自体にはなんら問題はないといえる。ジェンダー平等をめざす運動の中においてかなり広く共通了解されていた概念であったという事実がある。研究者も多様であり、運動は研究だけではなく、運動と研究はつながっており、またつながるべきである。
バックラッシュ派(反フェミニスト)が、世間の偏見を使って、ジェンダーフリーにおぞましいイメージを植えつけて、「ジェンダーフリーはひどい=フェミ自体がだめ」と攻撃しているときに、それに間接的に加担してしまうような上野氏などの言説は間違いと言える。
「ジェンダーフリーはやはりジェンダーレスと同じとみなされる。誤解されやすいので使用しないほうがいい」という意見もあったが、「ジェンダーフリー」を悪い意味の「ジェンダーレス=人間の性の差異をまったくなくす平等」ととらえるのは、まさにバックラッシュ派の言い分である。
「誤解される」というなら、こういう意味で使っていますと正しい意味を示せばいいし、誤解されないように使えばいいのである。
「ジェンダーフリーではなく、男女平等、性差別反対でよい」というスタンスでの批判もあったが、男女平等やフェミニズムの主張を、ジェンダー秩序のとらわれからの解放、シングル単位論として具体的かつ豊かに展開することと理解すれば、ジェンダーフリー概念は非常に有効である。それを一部フェミニストは理解できなかったのである。
上野氏らは、バックラッシュ状況の中で、「主要な敵」のとらえ方を間違い、それまでフェミニズムの中で培われてきた有効な概念を見捨ててしまったのである。
次に、ジェンダーフリー=「行政による骨抜きの男女共同参画」とみなして批判する人もいた。「行政と学者の密着関係・一体化を示す概念だ」「この概念を使ってきた学者のメンツで使用存続にこだわっている」などという批判である。
これに対しては、私は次のように考えている。まず、1990年代後半に政府・財界が男女共同参画社会基本法制定を推進/容認したことなどを踏まえ、それは「男女関係なく能力主義的に働く人間をつくろうとする、新自由主義的な流れの産物」であり、「ジェンダーフリー」もそうしたものと同類とみて批判する人がいることはわかる。そうした一面は確かにある
。しかし、自民・社民・さきがけの連立政権であったという要因もあり、男女共同参画社会基本法には、フェミニズムの主張が反映したものとみなすことができる積極的側面もある。大沢真理氏のように、男女共同参画政策を進めていく上でジェンダー平等の精神、フェミニズムの精神を入れ込むことに尽力した人がいたという事実もある。男女共同参画社会基本法第4条にある「社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮されなければならない」という視点は、シングル単位的であって非常に積極的な内実を持っている。
私も新自由主義的能力主義には大反対で、北欧型の高福祉高負担の連帯社会(個人単位型の社会民主主義)にしていくことこそが大事と思って、シングル単位論を提唱してきた。そういう私の判断として、いまのバックラッシュの状況の中で、男女共同参画やジェンダーフリーを、新自由主義に対抗して、個人単位型の連帯社会にするものだと理解し、そのように宣伝し、政府の政策をフェミニズムの主張のほうに引っ張っていくことが重要であるという立場を取っている。
つまり不十分な行政主導の男女共同参画もあるが、「良心的な行政型男女共同参画」的なもの(世界的なジェンダー平等の潮流を受けて、性別秩序を差別が減る方向に一定程度進めていくもの。異性愛・性別二元制を前提にしており、ラジカルなフェミニズムほどの根本解決までは提起しないが、一定の積極性がある)や、「ラジカルなフェミニズム」的なもの(性別二元制・家族単位制度自体をみなおし、シングル単位型社会、社民主義的なシステムへの変革を展望していくというように、根本的に性差別・権力関係を減らす方向で制度と意識の大改革を求めていくもの)の性質をもっているものもある。
その違いをみずに、行政主導のものは全部ダメと切り捨てるのは間違いである。中間的な人たちにも、もっとフェミの積極性を理解してもらってフェミ陣営側に近寄ってもらうことが必要であるときに、むしろ行政にかかわる人すべてを攻撃してしまってフェミ陣営から遠ざけ、反対勢力を増やし、結果的にバックラッシュ派を喜ばせている点でも誤っている。
「ジェンダー平等」「ジェンダーフリー」よりも「女性解放」「男女平等」「性差別反対」がよいと上野氏はいうが、そのように対立させる必要などまったくない。そして実際、今時代はジェンダー平等という言葉で多くの人がフェミの主張に耳を傾けるようになっている。
結局、バックラッシュ派が男女共同参画やジェンダーフリーを〈悪玉〉に仕立て上げることで、それとともに性差別をなくしていく動き全体を葬っていくという政治を行っているときに、行政型男女共同参画を批判し、それと一体のもとしてジェンダーフリー概念も攻撃するという戦略は、敵を見誤っているといわざるを得ない。
とすれば、ジェンダーフリー=「行政による骨抜きの男女共同参画」とみなして批判するのではなく、「積極的なジェンダーフリーや男女共同参画」を支援するような対応が求められているのではないだろうか。ジェンダーフリー擁護に回るかどうかということと、バックラッシュといかに闘うかという問題とは別の問題ではない。
 
最後に、ジェンダーフリーを使わないという判断の一つとして、「この概念が攻撃を受けている、攻撃されやすい、誤解されやすい、したがって、フェミニズム陣営としては、そのような攻撃されている概念にこだわって相手の土俵に乗る必要はない、この概念を防御するのはムツカシイ、この概念の防衛で戦うのは得策ではない」「究極の解放像を求める過激な見解なので、世間には受け入れがたい、したがってここで防衛するのは得策でない」といった考えがあった。
だが、「戦争のない社会」「DVのないカップル関係」「環境破壊をしない開発」「差別のない社会」「セクシュアル・ハラスメントのない会社」など、今現時点での実現が非常に困難なことでも、目指していく方向性を示す考え方を提起し、使用していくことは有効であるように、理想方向をめざすジェンダーフリー概念を用いることは、それほど無茶なことではない。
そして防御するのが難しいのはジェンダーフリーだけではなくフェミの思想全体である。この概念が特に防御しがたいということはない(要は防御できるほどジェンダーフリー概念に自信をもてるかどうかであり、上記したように正しく理解すればなんら曖昧な概念などではないし、防御しにくいこともない)。
「攻撃されている概念/誤解されやすい概念」でも重要なものならこだわることが必要である。攻撃を恐れていること(自分が政治的状況に関わることに腰が引けていること)が実は問題なのかもしれない。そうだとすればそのこと自体を考える必要がある。
攻撃をおそれて口をつぐむような腰砕けではダメだろう。このようなときこそ、言論の自由、思想/学問の自由を掲げて、一人一人の覚悟をもって不当な言いがかりに立ち向かうことが求められている。ジェンダーフリーをめぐる戦いは、どうでもいいようなものではない。
これに関しては「茶色の朝」の話も知っておいてほしい。[5]
以上を一言でまとめると、今の情勢がバックラッシュ攻撃に対して、フェミ陣営が団結して対処すべきときだと思うから、および、ジェンダーフリー概念は有効な概念であるし、それを使っている、すばらしい現場の人を知っているから、この概念を批判するフェミニストに私は反対した(批判した人のその後の活躍では尊敬すべきところもあることを付け加えておく)。
 
●2023年追記:伊田への批判は正しかったのか
この講義録をまとめている中、2023年5月16日段階で、昔、2006年に私のことを批判したmacskaさんのブログ記事を見つけた。まだ放置しているので、こういう考えを維持しているのであろう。私には不十分なところもあるが、大きく見て、当時の私のスタンス、そしてその当時から今まで、シングル単位論やスピシン主義、主流秩序論で主張してきたことはおおむね正しかったと思うので、以上の昔のまとめを掲載した。
 
それに対してこの人の、伊田は「フェミニズムを私物化」しているひどい奴、「マイノリティをダシにしているマジョリティの自己啓発セミナー」というのはあまりに一面的な批判ではないだろうか。この嘲笑的な口調は、寛容性がある姿勢だろうか。バランスが取れたものであろうか。伊田の著作をほとんど読んでおらず、私の活動も知らず、一部ネット情報だけを取り上げての反論となっているが、私の主張全体や活動全体を良いように見れば、このように攻撃的に言うものでもなく、大きく見てフェミニスト仲間であり、少しの違いとして共存できるのにと思う。
 
この記事が書かれたのは、上記の、ジェンダーフリー概念や運動を擁護するかどうかの時に、ジェンダーフリーを擁護する伊田に対して、ジェンダーフリーを批判する立場からの批判として、こうした口調や批判内容があったということである。
いちいちここで検討することはしないが、こんな風に書いていた人がいたということで、当時の「フェミニスト的な人たちの間」での対立が垣間見えるであろう。
 
なおこの問題は今回第3回講義であつかう「キャンセルカルチャー問題」「弱者の権利の乱用」「トランスジェンダーと女性の安全尾対立」にもかかわるとおもう。寛容の精神を持てるのか、自分は正義だと言って、相手を罵倒するのかといった問題でもある。
当時、私に対してこう書いた人や上記ジェンダーフリー批判をした人などは、意見が変わったなら、それを表明すべきであろう。ダイバーシティや人権といいながら、誰かを一面的に切り捨てる姿勢は、保守派だけでなく、一部のリベラル系理論家・社会活動家・フェミニスト、LGBTQ活動家などにもあるが、見直されるべき面だと思う。
まして「男だから」というような切り捨て方は、ジェンダー秩序の複雑性を見ていない姿勢であるというしかない。私も含め誰にも不十分な面があることがあるが、総合的に見て、適切な批判や意見交換にすべきであろう(後掲の弱者の権利の乱用と弱者男性論、ポリコレ・キャンセルカルチャー論など参照のこと)。
 
伊田を批判する意見の一例
 
macska dot org » フェミニズムを私物化する男性ジェンダー研究者
http://macska.org/article/136/
macska dot org » 「スピリチュアル・シングル論」は、マイノリティをダシにしたマジョリティのための自己啓発セミナーだ
http://macska.org/article/137/
 
 
●2023年でも「あいまいな言葉を使うのは危ない」という山口智美氏
山口智美氏は、その後、日本社会においてフェミニストとして活躍しており、私はその活動を支持するが、上記、ジェンダーフリ―への批判のスタンスと同じ発想を2023年にも保持して表明しているので[6]、ここで、問題だと指摘しておきたい。
山口氏はジェンダーフリ―を批判したときと同じく、また、「ジェンダーアイデンティティー」ということばもあいまいだからこそ危険だと述べている。
まず、歴史的にジェンダーフリ―について、ゆがんだ整理をしている。
「解釈は人それぞれで、意識の問題を唱える人もいれば、「ジェンダーに基づく差別のない社会のことだ」と言う人もいました。」としたうえで、言葉のあいまいさがあるからそれを利用して「フリーセックスと同じ」「性差を否定する」などと攻撃したと、言葉のあいまいさを攻撃された原因にしている。
だが、右派が意識的に歪めて攻撃するのは慰安婦問題でも憲法9条問題でも常套手段であり、言葉があいまいだからではない。社会運動、社会的対立というものはそういうものである。トランプなどは、米国・民主党を「極左」などというのである。
右派が性教育やフェミニズム攻撃としてジェンダーフリー批判をした時に、この概念の意味はこうだと適切に言うのでなく、「この概念はよろしくない」というのは、どこを向いているのかと当時も思ったが、今回、ジェンダーアイデンティティという言葉についても、あいまいだと心配しているので、相変わらずの発想だなと感じた。
 
ジェンダーアイデンティティという概念をどういう意味で使うかが、社会的な闘争なのであり、右派は当然、これを「自分でそうだと宣言すればどうとでもなる性自認というものだ」とか、「性同一性障害の診断を受けた人だけが、女性、あるいは男性になれる」という意味で使うなど歪めるであろう。
 
それに対しては、ジェンダーアイデンティティという言葉を使わなければいいのではなく、トランスジェンダー差別をなくすために、当事者の性のありかたや生き方の自己決定と人権を尊重する意味として、使っていけばいいのである。
トランスジェンダーの権利を考えるとき、この概念をなくすことが有効などとは思えない。ジェンダーフリ―と言わなければフェミニズム攻撃がなくなると思うのが間違いなのと同じである。
 
山口氏はまるでジェンダーフリー概念を使ったフェミニストが皆、バーバラ・ヒューストンがこういったから使ったかのように言うがそれはまったく違う。日本の当時の実態を知らない謬論である。日本では、ジェンダー平等を考えるひとやフェミニストたちは、性別役割や規範(異性愛結婚するのが当然など)を強要する意味でのジェンダーに囚われなく生きるとか、ジェンダー秩序の状況(制度)を変えて多様性のある社会にするという意味でジェンダーフリ―といっていたのである。
「ジェンダー構造に敏感になること」の否定の意味でなど使っていない。バーバラ・ヒューストンが言葉の定義を決める権利を独占しているわけではないのである。
またジェンダーフリーは「意識や態度の問題という、後ろ向きのコンセプト」で、「ラジカルではない」としているのも間違っている。そういう使い方をした人もいたが、私を含め、そうでないラジカルな使い方をしていた人が多くいたのである。歴史的事実を都合よくゆがめるのは正しくない。
 
意味が複数あるのは、多くの言葉がそうであり、ジェンダーもそうである。山口氏の考えではジェンダーもダイバーシティも、シングル単位(個人単位)も、人権も平等も、主流秩序も、スピシン主義も、セクハラも、DVも、そういう概念を使うのは危ない、使わない方がいいとなる。
どの概念の理解も色々で、ネットを見ても定義や説明は多様で、右派は酷くゆがめて攻撃するからである。
山口氏は「ジェンダーフリーを使うにしても、自分たちで議論し、批判し、自分たちの言葉として使うべきでした。」というが、そうしていたのだから、何をいっているのかと思う。
 
山口氏の主張の文脈では、「問題は、なぜ利用される恐れのある言葉をあえて使うのか」といって、まるでジェンダーフリーを使ったために攻撃されて、「ジェンダー」という言葉すら使いにくい状況になったかのように書いているが、間違ったまとめ方である。
「あいまいな言葉が独り歩きし、それぞれが都合よく利用したのがジェンダーフリーです。」「あいまいだけどごまかしながら推進していたら、バックラッシュに遭ってしまった」というまとめ方は完全に間違っている。
 
反フェミの勢力がフェミの思想や運動を攻撃し、その中で、性教育もジェンダー平等も、ジェンダーフリーという概念も攻撃されたのである。右派が都合よく言葉をゆがめて攻撃するのは常であるので、ジェンダーフリーだけではないし、フェミニストは「ジェンダーフリーを都合よく利用した」のではない。「独り歩き」するかどうかは運動にかかっているのであり、社会が分断されれば、ダイバーシティーといった概念も「独り歩き」して、様々に解釈され利用される。実際、いまそうなっている。
 
「あいまいさ」などにこだわって、今また、右派との闘争の課題となっているジェンダーアイデンティティ概念に対して、こうしたスタンスをとるのは、その主観とは別に、客観的にはまたトランスジェンダーの運動側の足を引っ張る見解となるであろう。「監視していかねばならない」というとき、山口氏はジェンダーフリーの適切な使い方を擁護するように監視し戦ったのかということが問われている。
右派からのフェミ攻撃がある中で、東大で、ジェンダーフリー概念を攻撃する集会を開いたのは、フェミニスト側に立った行動だったのだろうか。
私はぜひ、山口氏達には東大での集会の過ちを認めてもらったうえで、もう一度仲間として共同で、共通の敵である、右派勢力・バックラッシュ勢力と戦っていきたいと思っている。
大きく見て、近年の山口さんの活躍は、ジェンダー平等においてプラスだと思う。そういう人には影響力があるので、修正すべきところは修正してほしいなと思う。「ジェンダーフリー」概念は批判するより擁護すべき概念ではないだろうか。
 
●性(ジェンダー)が作られるということの意味
性は作られる。絶対的に変えられない固定的なもの、本質的なもの、運命的なものではない。実際、変わってきた。だからこそ変えられる。この展望は、性差別に怒りを持ちその変革を望むフェミニストにとって希望である。
だからジェンダーという「社会的な性」の把握をし、社会の隅々にあるジェンダー秩序(本質だと言わんばかりに固定化されてきた性のあり様)の正体を暴き、差別だ、変革すべきだと指摘しているのである。
第2回講義でも詳しく触れたように、「多様性」とか「LGBTのひと、OK」という人は若い世代では多くなっているが、ではジェンダー秩序がなくなったか、主流秩序・ジェンダー秩序にとらわれていない人が多いかというとそうではない。だからこの講義で、真の多様性とは何か、を考えていきたいと思っている。世間に流れている浅い理解では不十分だということをわかって学んでほしい。
 
たとえば、主流秩序(男女二分法、性的な「多数派=普通」が当たり前)の社会ではLGBTQ+は生きにくい。たとえば結婚できない、社会保障制度や税制度を使えないところが多い、制服、着替え場所などの問題、就職が難しい、などなどがある。
これらをそのままにして「気にしない」「いろいろあっていい」は多数派の傲慢である。多数派の方の意識や態度や制度(特権)が変わらないまで、差別や偏見がなくなるはずがない。目指すのは、多数派の方や主流秩序が変わらないままの「きれいごとを付け足す」ような事ではなく、そうした根本が変わって、誰もが平等に生きていけることである。
そのためには社会を構成する個々人一人一人がどう生きるかがかかわってくる。主流秩序の構造の特権に乗ってその維持に加担しておきながら、口先で平等とか多様性といっても矛盾しているのである。
ではだれがそれを阻んでいるか。そこを見て、抵抗しているところと戦い、実際に変えていけるかどうかである。各自の言動が変わるかである。それなしに、単に「古い意識」だけの問題にし、上からの大きな意識の啓蒙だけで済むというスタンスを批判するのがこの講義である。
そのため、4回目以降で主流秩序への向かい方という各人のスタンスを問うし、税制や社会会保障の法律・制度や賃金や労働時間など様々なことをどうするのかということで、社会システムの話もしていく。社会システムと意識を総合して捉えるということで、主流秩序を鍵概念に考えていく。
以上



[1] 拙稿「「ジェンダー概念の整理」の進展と課題」大阪経済大学『人間科学研究』第1号(2007年)
[2] ジェンダーとは何かを、拙著『初めて学ぶジェンダー論』第2章の議論として確認しておきたい。私は、ジェンダーを、「ジェンダー」の意味の4つの水準から説明するようにしている。1つめは、単なる性別としてのジェンダーで、身体的性別「セックス」と同じ意味の場合である。2つめは社会的性別・性質としてのジェンダーである。そこに関して、それをベースに、自分は男だとかと自認する自分の「性自認」がでてくる。またどういう服装を選ぶか、話し方をするか、動作をどうするかなどの、「性表現」もでてくる。3つめは、規範および参照枠組みとしてのジェンダーである。こうあるべきと言われたり褒められたりけなされたりする基準としてのジェンダーである。4つ目は、「性に関わる差別/被差別関係、権力関係・支配関係を示す概念」としてのジェンダーである。ジェンダーの格差や差別や問題があるというときは、この4つ目が絡むことが多い。
[3] その意味で、ジェンダーフリーを、ジェンダー・バイアス・フリーの略だと限定的に規定するのは間違いである。それは一つの意味に過ぎない。
[4] 本稿に述べた点以外のジェンダーフリー批判については、拙稿(「Q33 ジェンダーフリーという用語は誤解されやすく危険なので、使わない方がいいという人がいますが、どうでしょうか?」日本女性学会・ジェンダー研究会編日本女性学会・ジェンダー研究会編『Q&A 男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング―――バックラッシュへの徹底反論』(明石書店、2006年所収)を参照のこと。
[5] フランク・パブロフ『茶色の朝』(大月書店、2003年)という寓話では、何もかもが「茶色」になっていく中で、はじめ、なんとなくそれに反発していた人々も、科学者や国の権威筋がそういうし、自分は仕事や雑事で忙しかったし、「流れ」に逆らってごたごたに巻き込まれるのはごめんだから、おとなしくそれに従っていく。自分自身が深刻な被害にあわない限り、「茶色」の広がりもやりすごす。自分が弾圧にあうわけではないからということで思考停止するのである。茶色を受け入れれば、「茶色に守られた安心」と「茶色の自由」がもらえるのだから。そして、図書館や本屋から批判的な書物がなくなるころには、「茶色に染まることにも違和感を感じなくなって」しまっている。しかし、やがて、自分には及ばないと思っていた「法」が過去にさかのぼって自分にも適用されることになって、はじめて彼は、自分の間違いに気づくのである。
『茶色の朝』はそんな話だ。このような思想統制社会への流れをとめるには、自分は大丈夫と思って、思考停止するのをやめることであろう。弾圧される人を「あいつは『茶色』を好まないのだから、弾圧されてもしかたがない」と思って、自分と「あいつ」を切断することをやめることが必要だと思う。私は、「そんな『茶色の自由・安心』はいらない!」と思うタイプの人が増えることを望んでいる。
長崎平和推進協会が、2006年1月に被爆者証言活動に対して政治的発言自粛を要請したことは日本の今の状況を象徴している。「国民の間で意見が分かれる政治的問題についての意見は慎んでいただきたい」と述べて、具体的には、「天皇の戦争責任、憲法改正、イラクへの自衛隊派遣、有事法制、原子力発電、歴史教育・靖国神社、環境・人権など他領域の問題」などで被爆者が自分の意見を言うことを抑制したのである。意見の違いがある問題に発言できないとなると、ほとんど何も話せなくなる。「従軍慰安婦」問題はその典型だろう。教科書からも「従軍慰安婦」の記述が消され、女性国際戦犯法廷と旧日本軍の「日本軍性奴隷」問題(天皇の戦争責任も絡む)を扱おうとしたNHKのETV2001「戦争をどう裁くか」(とくに第2夜「問われる戦時性暴力」)は放送直前に大幅改ざんされた。「中立・公平」という名の下でである。私たちは、どんな社会を望んでいるのであろうか。
[6] 「(耕論)ジェンダーアイデンティティー 「あいまいさの利用」心配 山口智美さん(文化人類学者)」(朝日新聞 2023年9月27日)、「標的にされた「ジェンダーフリー」 危うさは理解増進法のあの言葉も」(朝日新聞、2023年9月27日)

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