主人が40%割引された日ー忘れられない可笑しな思い出の話
カーペットの端に、小さな丸いシールが落ちていた。
いつからそこにいたのか分からない。
買ってきた食品の袋を開けたとき、
パッケージがこすれて、そこだけ剥がれて落ちたのかもしれない。
白地に黒の二重丸。
どこかで見たことがある気もするけれど、どうしても思い出せなかった。
家事の支度でバタバタしていた私は、
その小さな存在をすぐに意識の外へ追いやった。
数日後にはシールもどこかへ消えてしまい、すっかり忘れていた。
ある週末の午後。
カーペットでくつろいでいた夫が、背中をポリポリ掻きながら、
妙にゆっくりとした足取りで歩いてきた。
ふと違和感を覚えて目を向ける。
「あれ?」
背中に、見覚えのある丸いものが貼りついている。
「ねえ、そのシール……」
「ん? なんだこれ」
「やっぱり、どこかで見たことあるよね」
剥がしてみても、やっぱり正体が分からない。
気になって調べてみると、
それはスーパーのバックヤードで使う値引き管理用のシールだった。
私は夫に、その丸いシールを見せた。
「あなた、40%割引されてたよ」
そう言うと、夫は一瞬フリーズし、それから大爆笑した。
もちろん、夫を割引価格で買ったわけではない。
数日前まで食品に貼られていたシールが、何日かの時を経て、
まさか夫の背中にペタリと貼り着くとは思わなかった。
我が家には、ときどきこうして不揃いなおかしな「落とし物」が紛れ込む。
あのシールの事件から数ヶ月が経ち、季節は秋へと移り変わっていた。
そして、その年のボジョレーの季節にも、我が家にはまた新たな
『落とし物』ならぬ『取り違え』が舞い込んだ。
ボジョレーヌーボーを毎年一本だけ買うのが、私のささやかな楽しみだった。
その年は、お気に入りのスーパーで
「ボジョレーともう一本ワインを買うとお得」という企画をやっていた。
深く考えず、ボジョレーとお店おすすめのボトルをセットで購入し、
涼しい部屋に置いておいた。
数日が過ぎた。
夜の空気にツンとした冷たさが混じる頃。夫が言った。
「そろそろボジョレー開けようか」
私は別の部屋へ向かった。
部屋は暗かった。
でも、わざわざ明かりをつけるほどでもないと思い、
手探りで手前の黒いボトルをつかんだ。
ガラスの冷たさだけを頼りに、そのままダイニングへ戻る。
「これこれ」
夫にボトルを渡した。
夫には、赤ワインを開ける前に
必ずボトルを振るという妙な癖がある。
日本酒でも、ドレッシングでも、ソースでも、
とにかくよく振る。
彼の中では、液体は一度均一にしてから味わうものらしい。
その夜も、彼はいつものように愛着を込めて
ボトルを上下に振った。
そして、スクリューを差し込み、一息おいて、
ポンと栓を抜いた。
——その瞬間だった。
まるで、消火器を発射したように、勢いよく液体が噴き上がった。
「ブシャー!!!」
白い泡の柱が夫の顔を跳び越え、天井の照明にまで届く。
「ウワー!!!」
夫は体を大きくのけ反らせ、叫びながら手をバタバタさせている。
向かいにいた私も、まるで「ムンクの叫び」そのものになった。
そこで、私の記憶が一気につながった。
そうだ。
私、ボジョレーと一緒にシャンパン……買っていた。
暗い部屋で、無意識に手前のボトルをつかんでしまっていたのだ。
夫は怒るどころか、
ビショビショになりながら、
「何でこんなことになるんだよー(笑)」
と大笑いしてTシャツを着替えに行った。
私は事情を話し、素直に謝った。
「そういう事か、
急に吹き出してびっくりしたからさ(笑)」
二人、苦笑いしながら床を拭き、
テーブルを拭き、
天井の照明は私が責任持って椅子に乗り、背伸びをして拭いた。
ボトルに残ったわずかなシャンパンで乾杯し、
今度こそ本物のボジョレーを開けた。
そんなこんなで、
我が家には夫婦だけが知る「我が家だけの名場面」が増えた。
背中に貼りついた、40%割引のシール。
天井まで届いた、シャンパンの噴水。
思い出というものは、ときどき予定表には書けない形で増えていく。
買い物を間違えたり、
暗闇でボトルを取り違えたり、
なぜか夫の背中に値引きシールがついていたり。
そんな予期せぬ小さなNGシーンが、
後になって、二人だけの掛け替えのない笑い話になる。
暮らしというのは、案外そういうものなのかもしれない。
特別な場所へ出かけなくてもいい。
何か大きなことを成し遂げなくてもいい。
日常の隙間に転がっている可笑しなことを二人で笑う。
そして何年か経ったとき、
「あのときは、ホントごめんね。でもあれちょっとだけ面白かったよね。」
「いやあ、あんまり面白くはなかったけどね(苦笑)」
と、二人で思い出す。
そうやって、ふたりの時間は少しずつ重なっていく。
値引きシールひとつでも。
シャンパン一本でも。
思い出は、ときどき意外な瞬間に更新されていく。
そして我が家では、どういうわけか、
その思い出にいつも少しだけ端が欠けた値引きシールが貼られている。
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