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『RUN/ラン』を見て考えた。「愛」と「支配」の境界線

※この記事には、映画『RUN/ラン』のネタバレが含まれます。まだ作品を観ていない方や、内容を知らずに楽しみたい方は、ここで読むのを止めていただくことをおすすめします。


子どものためを思って言った言葉が、
本当は自分の不安を落ち着かせるためだった。

親子のあいだでは、そんなことが起こるのかもしれません。

愛情と支配は、まったく違うものに見えます。
けれど、ときどき、その境界線は思っているより細い。

映画『RUN/ラン』を見ながら、私はその境界線について考えていました。


「ランっていう映画、見てみて。外国の。」

娘から、そんなLINEが届きました。

Amazonプライムで見られるらしいです。

何気ない会話でした。

「なんで?よかった?」

そう返すと、娘はひと言。

「依存の話」
「依存と復讐」

その言葉に少し引っかかりながら、私は映画を見始めました。

『RUN/ラン』。

母と娘の物語です。

でも、見始めてすぐに思いました。

怖い。

ずっと怖い。

最近の私は、昔ほど映画を引きずらなくなっていました。

昔は違いました。

人が傷つく場面を見ると、ただ「怖い」と思うだけでは済まなくて、痛みが自分の身体に入り込んでくるような感じがしていました。

画面の向こう側で起きていることなのに、こころと身体が勝手に受け取ってしまう。

そんな感覚がありました。

現実にはありえない設定の映画でさえ、何週間も映像を引きずり、関連するものを見るのが怖くなるほどでした。

悲しい話も苦手でした。

病気の話も苦手でした。

誰かの苦しみが描かれているものを見ると、自分と他人の境界線が、とても薄くなってしまう感覚がありました。

でも、今は少し違います。

最近は、残酷さが描かれる作品も、以前より受け止められるようになりました。

もちろん、平気というより、

「これは物語だ」
「これは私の現実ではない」

と、どこかで線を引けるようになった感覚に近いです。

昔のように、映像がそのまま自分の身体に入り込んでくることは少なくなりました。

だから私は、自分の中に境界線が育ってきたのだと思っていました。

けれど、『RUN/ラン』は違いました。

カンニバル映画より怖かったのです。

娘にもLINEしました。

「怖過ぎる。最近、カンニバルとかでも怖くないのに」

すると娘は、

「カンニバルの方が怖い」

と返してきました。

たしかに、普通に考えればそうかもしれません。

でも私には、『RUN/ラン』の方が怖かった。

なぜなのか。

見終わったあとも、ずっと考えていました。

途中まで、私はこの映画を「精神的に不安定な母親の話」のように見ていました。

娘も、

「最初はまあ、心理の話やと思ったけど。精神的な」

と言っていました。

でも最後まで見ると、単なる精神疾患の話では終わりませんでした。

そこにあったのは、依存であり、復讐であり、そして何より、支配でした。

私は途中で、いわゆる代理ミュンヒハウゼン症候群と呼ばれてきた状態を思い浮かべました。

自分自身が病気のふりをして周囲の関心を引くのではなく、子どもなど身近な相手を病気に見せることで、献身的な看病者として認められたい、同情されたいという形です。

映画の母親は、病気ではなかった娘を病気にしました。

歩けない子にした。

薬を管理し、生活を管理し、世界を狭めた。

そして、それを母親の愛のような顔で包んでいました。

娘は言いました。

「歪んだ愛だ」

私は、愛という言葉では受け止められませんでした。

それは、愛情というより、病的な支配に近いものだと感じました。

でも同時に、こころのどこかで、ひっかかっていました。

親の愛と支配は、とても遠い場所にあるものではない気がしたからです。

映画の母親がしていることは、もちろん虐待です。

許されることではありません。

でも、

子どもを自分のそばに置いておきたい。
子どもに自分を必要としてほしい。
子どもが離れていくのが怖い。

その感情の芽だけを見れば、親のこころの中に、まったく存在しないとは言い切れないのかもしれません。

親は子どもを守ります。

教えます。

導きます。

危ないことを止めます。

間違えないように伝えます。

その役割の中にいると、

「ああした方がいい」
「こうした方がいい」
「あなたのために言っている」

という言葉を、自然に使いやすくなります。

でも、その奥にあるものが、本当に子どものためなのか。

それとも、自分の不安を鎮めるためなのか。

その境界線は、思っているよりずっと細いのかもしれません。

映画を見終わったあと、娘ともう少し話しました。

私は、

「あのお母さんがどんな環境で育ったのか気になる」

と感じていました。

娘は、自分の子どもが死んで、精神的におかしくなったのだろう、という見方をしていました。

「まあでも、自分の子が死んで精神おかしくなったんだろうなぁ」

娘はそう言いました。

それも、とても自然な見方だと思いました。

私は、母親自身の育った環境や、過去の傷の方へ考えが向いていました。

でも娘は、映画の中で描かれた出来事から素直に受け取っていました。

その違いが、面白かったです。

同時に、少し怖くもありました。

親は、つい自分の考えを深めたくなります。

「本当はこうじゃない?」
「もっと奥にはこういう心理があるんじゃない?」
「私の見方の方が正しいんじゃない?」

そんなふうに、相手の見方に自分の解釈を重ねたくなることがあります。

でも、娘には娘の感じ方があります。

同じ映画を見ても、どこに恐怖を感じるか。

どこに納得するか。

どこに違和感を持つか。

それは違っていていいはずです。

その違いを、親である私が修正しようとした瞬間、私は小さく境界線を越えるのかもしれません。

劇中の母親のような極端なことをするわけではありません。

でも、

「あなたの感じ方より、私の理解の方が正しい」

という空気は、日常の中にいくらでも入り込む気がします。

そこが、私は怖かったのだと思います。

病院で出会う人たちのことも思い出していました。

自分の感情を出せない人。

親の期待に沿うことを、自分の人生だと思ってきた人。

学校へ行けなくなった子。

家庭の中で、子どもなのに大人の役割を背負ってきた人。

背景は一人ひとり違います。

けれど話を聴いていると、「親が悪かった」だけでは語りきれない、もっと長い流れが見えてくることがあります。

親自身もまた、「親のレールに従うことが正しい」と教えられて育ってきた人だったのかもしれません。

自分の気持ちより、家の期待。

自分の違和感より、親の正しさ。

自分の人生より、誰かに認められる生き方。

そんな価値観の中で育った人が親になった時、本人に悪意がなくても、子どもの気持ちを聴くより先に、「正しい道へ戻すこと」を愛情だと思ってしまうことがあります。

その結果、子どもは自分の感情をしまい込むことがあります。

助けてと言えなくなる。

親の顔色を読む。

期待に応える。

いつの間にか、自分の本音がわからなくなる。

それは、愛着の傷として、人間関係の苦しさになることもあります。

「親が悪い」と言いたいわけではありません。

むしろ、親自身もまた、誰かの正しさの中で生きてきたのかもしれない。

そう思うからこそ、私は『RUN/ラン』をただの怖い映画として見られませんでした。

あの母親が特別におかしい人だった。

その一言で終わらせると、見えなくなるものがある気がしたのです。

愛情の名を借りた支配。

正しさの名を借りたコントロール。

親から子へ、気づかないまま渡されていく生きづらさ。

それは、遠い映画の中だけの話ではないのかもしれません。

私たちの暮らしの中にも、とても静かな形で残っていることがあります。

私は、映画を見ながら、怖い母親を見ていたのではなく、親である自分の中にも起こりうる小さな芽を見ていたのだと思います。

愛情は、あたたかいものだと思いたいです。

でも、愛情の形をしたまま、相手の自由を奪うこともあります。

心配の顔をしたまま、相手を自分の安心のために縛ることもあります。

だからこそ、怖いと思える感覚をなくしたくないと思いました。

「私は絶対に大丈夫」

と思うよりも、

「もしかしたら、私も境界線を越えそうになることがあるかもしれない」

そう思いながら立ち止まれる方が、親子の関係には風通しが生まれる気がします。

娘と映画の話をした時間は、怖い映画のあとに残った、少し不思議な温かさでもありました。

同じものを見て、違うことを感じる。

違うまま話せる。

その距離感が、今の私にはとても大切に思えました。

『RUN/ラン』は怖かったです。

でも、その怖さは、私をただ不安にしたわけではありません。

親として、人として、

「愛」と「支配」の境界線を、もう一度静かに見つめるきっかけをくれました。

そしてたぶん、私はこれからも、娘と違う考えを持つたびに思い出すと思います。

正しさを渡す前に、まず、相手の感じ方をそのまま置いておくこと。

それもまた、愛情のひとつなのかもしれません。

自分のこころを、少し外側から眺めてみたい方へ


映画を見ながら考えていたのは、

「相手を思う気持ち」と、
「自分の不安を落ち着かせたい気持ち」は、
ときどき近い場所にあるのかもしれない、ということでした。

だからこそ、自分のこころがどんな時に動きやすいのか。

どんな不安を守ろうとしているのか。

どんな時に、相手へ正しさを渡したくなるのか。

その反応を少し外側から眺めてみることは、
自分を責めるためではなく、
人との関係を少しやさしくする手がかりになる気がしています。

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でもそれは冷たさではなく、理解することで自分を責めなくてよくなるための、大切な方法だったのかもしれないこと。

その気づきが、とても丁寧に言葉にされていました。

「自分のことばを読むことで、自分を少し違う角度から見つめ直す」

この企画で届けたかった時間を、やよいさんの記事がそのまま見せてくださっているように感じました。
やよいさんの記事はこちらです✨

依存について、もう少し読みたい方はこちらもどうぞ。

「私は、こんなことを大切にしていたんだな」

そんな小さな気づきが、
自責ではなく、自己理解への一歩になるかもしれません。

映画が気になった方へ


この記事はネタバレを含めて書いていますが、
実際に映像で観ると、母と娘の距離感や、最後に残る怖さはまた違って感じられるかもしれません。

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最後まで読んでくださって、ありがとうございます。


実はこの記事は、書いてから少し時間を置いていました。

6000人ありがとう企画を先に届けたい気持ちもありましたし、
自分の中でも、まだ言葉になりきらない余韻が残っていたのだと思います。

でもやっぱり、たまにはこういう記事も届けたくなります。

すぐに役立つ方法ではないかもしれません。

けれど、映画や物語を通して、
自分の中にある小さな違和感や問いに気づくこと。

それもまた、こころを育てていく時間なのかもしれないと思っています。

ここまで読んでくださったあなたの中にも、
「愛」と「支配」の境界線を、少し見つめる時間が生まれていたら嬉しいです。

自分を責めるためではなく、
大切な人との関係に、少し風を通すために。

※私はAmazonアソシエイトとして、適格販売により収入を得ています。


こころは育っていく💗

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あいさん💗Iカウンセリングルーム セラピスト/ 臨床心理士×公認心理師|支援歴16年・2,000名超 もし、応援したいと感じていただけたら。 その気持ちを、そっと置いていただけたら嬉しいです🕊️ あたたかな応援を、ありがとうございます。