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身体が先に語るとき──言葉にならない思いと、こころの葛藤を精神分析で眺める

心理学を学ぶ人には、オリエンテーションと呼ばれるものがあります。
人をどの理論で理解していくのか。
支援者として、何を土台に見立てていくのか。
学びを深めていくうえでの軸のようなものです。

私のオリエンテーションは、精神分析です。

ただ、実際の臨床では、病院という場の特性もあり、認知行動療法をはじめとした折衷的な関わりをすることが多くあります。
限られた時間の中で出会い、限られた頻度でお会いする。
そのような現場では、生活に役立つ視点や、取り組みやすい方法を大切にしやすいからです。

昨日、久しぶりに精神分析がオリエンテーションの先生によるGSVを受けました。
GSVは、グループで事例や見立てを検討しながら学ぶ場です。

学びの時間に触れるたび、やっぱり精神分析は面白いなあと感じます。

語られた言葉だけではなく、
抜け落ちること
言い間違うこと
受け取れないこと
身体にあらわれること

表に見えている出来事だけで終わらせず、人の内側にある動きまで考えていく視点に、私は強く惹かれるのです。

最近、身体にあらわれる症状について考える機会がありました。
もちろん、身体症状を心理だけで説明することはできません。
医学的な評価や治療はとても大切ですし、身体の病気には身体の理由があります。

けれど、身体にあらわれた反応をきっかけに、その人の内側では何が起きていたのだろうと考えてみる営みには、独特の深さがあります。

今回の記事は、実際のケースを扱ったものではありません。
日常の中で浮かんだ体験や連想をもとに、身体にあらわれる葛藤について、精神分析の視点と、感覚に近い視点の両方から書いてみたいと思います。

身体にあらわれる違和感を、責めずに理解するための視点についての文章です。


精神分析の視点で見ると

精神分析では、人のこころの中に、相反する思いが同時に存在していることを大切に考えます。

助けたい気持ちと、助けたくない気持ち。
近づきたい気持ちと、離れたい気持ち。
支えたい気持ちと、背負いたくない気持ち。

こうした揺れが言葉にならないまま、身体や行動ににじむことがあります。
複雑さを善悪や正しさだけで切り分けず、丁寧に見つめようとするところに、精神分析の深さがあるように感じます。

人は、いつも自分の本音をきれいに自覚できるわけではありません。
むしろ、負担に感じていたことや、少し距離を取りたかった気持ちほど、認めにくいこともあります。

優しくありたい。
ちゃんとしていたい。
見捨てない人でいたい。

思いが強い人ほど、言葉にしにくい感情を内側にしまい込みやすいのかもしれません。
しまい込まれた気持ちが、聞こえにくさや、動けなさや、抜け落ちることとして、少しずつ姿を見せることがあります。

起きた出来事を、病気や失敗としてだけ切り捨てるのではなく、どのような気持ちが宿っていたのかを丁寧に考えようとするところに、精神分析の面白さがあるのだと思います。

たとえば、耳が聞こえにくくなるという出来事を前にしたとき。
身体の器官に起きた不調として理解することは、もちろん大切です。

そのうえで、精神分析の視点からは、別の問いも生まれます。

受け取りたくない気持ちはなかっただろうか。
聞いてしまうと動かざるをえなくなる苦しさはなかっただろうか。
関わりたい気持ちと、距離を取りたい気持ちが、ぶつかってはいなかっただろうか。

内側にある葛藤は、いつも言葉として整理されるわけではありません。
身体の違和感や、抜け落ち、受け取りにくさという形で姿を見せることもあります。

もちろん、何でも無意識の表れとして読み解けばいいわけではありません。
深読みが人を苦しめることもあります。

ただ、何度も同じところで引っかかるとき、似たような形で止まることが繰り返されるとき、内側の葛藤が潜んでいるかもしれないと考える視点は、人を理解するうえで大切な手がかりになるように感じます。


感覚に近い視点で見ると

もうひとつ、もっと感覚に近い受け取り方もあると思っています。

身体に出る不調。
なぜか起きる抜け落ち。
言いたいこととは違う言葉。
入ってくるはずのものが、うまく入ってこない感覚。

日々の中で起きる出来事は、まだ言葉になっていない気持ちからのサインかもしれません。

無理をしているよ
本当は少し苦しいよ
抱えきれないものがあるよ
立ち止まった方がいいよ

内側からの小さな合図が、身体や出来事を通して届く。
感覚に近い視点では、そのようにも眺められます。

たとえば、ムカムカしているとき。
本当は怒りがあったのかもしれません。
はらわたが煮えくり返る、という言葉があるように、身体の感覚が気持ちを先に語っていることもあります。

のどが痛いとき。
飲み込んだ言葉があったのかもしれません。
言いたいことを我慢していたのかもしれません。

頭が痛いとき。
頭を抱えるような思いや、考えすぎるほどの負担が重なっていたのかもしれません。

もちろん、身体症状をすべてこころの問題として考えるわけではありません。
身体には身体の理由があり、医学的な視点はとても大切です。

けれど、身体に起きたことをひとつの手がかりとして眺めてみることは、自分の内側を理解するヒントになることがあります。

精神分析の言葉を使うと、抑圧や葛藤という整理になります。
感覚に近い言葉で受け取ると、サインや流れという表現になるのかもしれません。

理論としては、やはり精神分析の見方にこころが向きます。
人のこころの複雑さを、複雑なまま受け止めようとする深さがあるからです。

一方で、日々の中では、もっと感覚的に受け取っている自分もいます。

なぜか引っかかる。
なぜか入ってこない。
なぜか身体が止まる。

理屈より先に、何かのサインかもしれないと感じることがあります。

感覚的な受け取り方には、やわらかさがあります。
無理に説明しきらなくてもいい。
すぐに答えを出さなくてもいい。
今の自分には少し無理があったのかもしれないと感じてみる。

その姿勢は、ときに自分を守ることにもつながるように思います。

身体に出ることも、抜け落ちることも、もしかすると、こころが自分を守ろうとした結果なのかもしれません。

そのように眺めてみると、責めるしかなかった出来事が、少し違って見えてきます。

精神分析のように、無意識や葛藤として考えること。
感覚に近い形で、内側からのサインとして受け取ること。
どちらも、自分の内側を理解するための大切な手がかりになりうるのだと思います。


あなたには、どちらがしっくりきますか

無意識や葛藤として考える方が、今の自分には近いでしょうか。
言葉になる前の感覚やサインとして受け取る方が、今の自分にはなじむでしょうか。

理屈でも感覚でもいい。
自分に合う形で、自分の内側を少し見つめてみる。

そのことが、身体の不調や、なぜか繰り返す抜け落ちを、ただ責めるだけで終わらせないための助けになるかもしれません。

身体の反応や違和感を、自分の内側が何を守ろうとしていたのか、という視点で眺めてみる。
そのような見方は、こころの守り方を知るヒントにもなるように感じています。

感じたことがあれば、コメントで教えていただけたら嬉しいです。
どちらがしっくりくるか。
読みながら、どの部分に引っかかったか。
そんなことも、よければ聞かせてください。


あとがき

久しぶりに精神分析の学びに触れて、あらためて感じたことを少しまとめてみます。

人は、言葉で説明できる部分だけで生きているわけではないのだと思います。
うまく言えなかったこと。
なぜか止まってしまったこと。
身体に出たこと。

そうした出来事の中に、その人らしい切実さがにじむこともあるのだと思います。

身体の訴えをうかがったあとに、その方のお話をゆっくり聴いていくと、身体が先に知らせてくれていた感覚が見えてくることがあります。
そのような時間に触れるたび、身体とこころは別々ではなく、つながりの中で動いているのだと感じます。


日常の中で起きた違和感や、うまく説明できない引っかかりを、ひとりで抱え込まずに言葉にしてみたい方へ。
メンバーシップでは、小さな体験も、心理の視点から一緒に眺めていく時間を大切にしています🌿

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あいさん💗Iカウンセリングルーム セラピスト/ 臨床心理士×公認心理師|支援歴16年・2,000名超 もし、応援したいと感じていただけたら。 その気持ちを、そっと置いていただけたら嬉しいです🕊️ あたたかな応援を、ありがとうございます。