1 全四話『約束の日。木曜の朝』 鳥居はじめ
一、
職場でだれにも相手にされない私を、いつも『会おう』と誘ってくれるのは、親友の結衣(ゆい)のほうだ。
ありがたい。
やっと生きている実感が湧く。
高校時代からの親友の結衣が指定した地下街の喫茶店で、平日の朝から待ち合わせをしている。世間で話題のホラー映画をふたりで早朝から観るためだ。
喫茶店に入り、通りかかったウェイトレスにアメリカンコーヒーを注文したが、注文が通ってないのかまだこない。
例によって、約束の時間は十分ほど過ぎている。
まぁ遅れてはいるが、昔から約束の時間を逆算して家を出るのが苦手な結衣のことだ。上映時間までにはまだ時間はあるから、いつものことだとそんなに心配はしていない。
精神疾患の病気のせいで、最近特に職場での軽い無視を含む嫌がらせを受けている私の唯一のストレス解消法は、ホラー映画を観ることだ。ホラー物が苦手な結衣に会うたび『趣味悪いからやめた方がいいよ』と言われてはいるのだが、怖い物見たさというのか、あの刺激のあるドキドキ感がその瞬間だけでも、日常の嫌な事を忘れさせてくれる。
大抵はネット配信でのレンタル映画を借りて、自宅で焼酎の炭酸割片手に一人で観るのだが、『怖い』と今話題の『のっとり―2』という三週間前に封切られた映画をどうしても大スクリーンで見たかった私は、
『久々に会おうよ』とメールをくれた結衣を、無理にこの映画に誘ったのだ。
結衣とは仲がいいが、彼女と私は何もかも反対だった。
例えば、結衣は小柄だけど私の身長は高いほうだ。
結衣はショートカットで、看護師という職業柄そこまで派手に染めることはできないけれど、それでも明るめに髪の毛を染めている。
ショートが似合わない私の髪は、黒髪のストレート・ロング。
私は結衣の活発に見えるショートカットが羨ましいと思ってるが、逢うたび結衣は私の黒髪を褒めてくれる。
性格も違うし、趣味も当然違った。
『えぇ~、どうしてもホラーなの? 私がホラー苦手なのは愛架(あいか)も知ってるでしょう?』と結衣がメールで抗議してきた。
『私ひとりで観に行こうと思ったけど、仕事柄、休みがどうしても平日になるでしょ? いくら話題の映画と言っても、封切りから少し経ってるから、平日の映画館は多分人がまばらよ。周りに人がいない暗闇でのホラー映画の一時間半ていうのは、何度か経験あるけど、さすがに私でも怖いわ(笑) だから結衣お願い、私のわがまま聞いて』
『分かった。でも映画館の場所は私が指定させて。調べてからまた後で連絡する』とメールの返事がきて、しばらくして
『ホラーかぁ。やっぱり気が進まないけどなぁ。でも愛架に久々に会いたいしなぁ。仕方ないなぁ~ 了解。条件はふたつ。ランチを奢ること(笑) それとあのシネコンビルなら、その映画、付き合ってもいいわ。あの場所に行くのは怖いとは思うけど、大丈夫、私が絶対に愛架を守るから』と結衣の返事が返ってきた。
私は結衣が言う『あのビル』とはどこのことを言っているのかすぐに分かった。長い間私が精神疾患の原因のトラウマとなっている、三年前に大きな火災があった場所のビルのことだ。
もちろん四十数名の男女が亡くなったシネコンビル最悪の、火災事故を起こしたその商業ビルそのものは、事故後にすぐに取り壊された。
そしてそんな大きな事故があったことは世間のみんなはすぐに忘れたかのように、事故から三年後、下の二階はお洒落な雑貨店、アパレルショップ、レコードショップ、飲食店街などがテナントで入り、その上が再びシネコンビルとして立て直して、若い子中心に賑わっている。
しかし新しく建て替えられたとはいえ、そこはまさしく三年前のビル火災のとき、私はその場所にいてその火災事故に巻き込まれた当事者として、忘れたくても忘れられない場所だ。
三年前のあのときも、ランチを誘って来たのは結衣だった。そして私がランチの前に、上映中のホラー映画を観る事を提案したのも、思えばシチュエーションは似ている。三年前の当日映画を観ようと待ち合わせ場所に向かう途中で、結衣から携帯にメールが入った。
『ごめん。夜勤上りで、部屋でウトウトしちゃって、予定の電車に間に合いそうにない。ほんとにごめん。私のアパート、都心から離れてるから、一本乗り過ごすと乗り継ぎの関係でかなり遅れる感じなの。愛架は午後から用事が有るって言ってたから、悪いけど一人で映画を観てきて。その後に合流して久しぶりランチしましょう。ほんとに、ごめん。いつもの喫茶店、『スワン』の二階で待ってる。遅れても、絶対に行くからね』と連絡があり、私ひとりが映画館に入って、事故に巻き込まれたのだ。
幸い命だけは助かったとはいえ、私にひとりだけ事故に合わせてしまったと、約束の時間に遅れた結衣は今でも責任と罪悪感を感じていると思う。
なぜならば結衣が約束どおりに来てれば、ふたりで別の場所でモーニングを食べてから、その次の上映時間にあのビルに向かう予定だったから、事故には遭わずに済んだはずだ。その日の午後の予定が詰まっていた私は、急きょ時間を変更して一つ早い上映時間の映画を一人で観ることにしたのだ。
火災の原因は後で知ることになるのだが、当時四階にあった映画館の真下の古着屋で、古着屋の店員の女の子に一方的に好意を寄せた若い男性客が、彼女に付き合っている彼氏がいると知って、裏切られたと一方的に逆恨みをして店の商品にガソリンをまいて放火したらしい。とても身勝手で短絡的で狂気に支配された犯行だった。
しかも多くの人が亡くなったというのに、不燃性のパーカーを着ていた本人は火傷を負ったものの、その場から足早に立ち去って、現在も刑事施設に収監され生き長らえている。
そのときの私は映画館の会場に入って、チケットの番号を確認しながら指定の席に着こうと階段を上がろうとしていたところで、場内の火災報知器が一斉に鳴った。何ごとかと映画館を見渡したが、客で埋まっている館内はざわついていたが、平静を装ってかだれも席を立とうとはしなかった。私も胸騒ぎがしながらも、しばらくみんなの動向を観察してその場の集団に合わせた行動をしょうとしていた。
今から思えば傍観者効果というのだろうか、そのときは未だ事態を楽観視してその場に様子を伺い立ち尽くしていた。このときすぐに行動しなかった判断ミスが、後になって命取りとなったと思う。
ゴムが焦げるような嫌な臭いが立ち込め、白い煙が漂い始めたら、館内の人々が騒ぎ始め、一人の客が突発的に大きな声を上げ席を立ったのを見ると、それが引き鉄(ひきがね)となり一斉に全員が席を立ち、集団パニックとなって我さきへと出口を求め殺到した。そしてその動線上にたまたま居た私をあっと言うまに突き飛ばし、そのまま出口に続く外の廊下に押し出した。
やがて聞いたこともないような怒号が頭上に響き、力づくでも他人を押しのけ外に出ようとする人々の、『死にたくない』という恐ろしいまでの凄まじい執着と本能とで、倒れて息の出来ない私の身体を容赦なく踏みつけ、蹴り、躓(つまづ)き、身動き出来ない私はそのとき死ぬと思った。
赤の他人がじぶんの命が助かりたいがために、私を殺そうとしている。私が名も知らない今日初めて会った他人に、ここで踏み殺されるのだと思った。こういうのが運命というやつなんだろうか? そういえばここのところ、何をしても裏目に出るようなことが続いていた。身に覚えのないだれかに強く恨まれているような、そんな予感があったのだが、それがだれだか分からなかった。怨霊とか生霊が来ていると言えば『能や平安時代の物語じゃあるまいし』と私は絶対に信じないが、科学的に証明されている『念いによるエネルギー』の存在は信じているからだ。
私が嫉妬される要素はまるで身に覚えがないが、確実にだれかが強烈に恨んでいる、そんな気が脳裏をかすめた。
それまで『死』に対して深く考えることもせず、『そのときが来たら、この世から消滅し斎場(さいじょう)の煙突から立ち昇る煙となり、風と共に、この世からお・さ・ら・ば・だ』などとのんきでいられたのは、けして悟っていた訳でもなく、この世のすべてに執着が無かったからでもなかった。
それは『死』に対しても『生きる』ことと同じくらい、そんなに興味を持てずどこか投げやりで過ごしていたから、罰(ばち)が当たったんだ。そう思った。
でも『死』をまじかに感じたそのときに初めて
『こんなところでまだ死にたくない』
『たった十九歳で死ぬのはいやだ』
『もっとやり残したことが有るはずだ』
『出来るなら人生をやり直したい。もっと他人のために生きる生き方がしたい』
『どうかもう一度チャンスが欲しい』という今までの私が知らない強い感情が沸き起った。
それはだれとも名も知らぬ大勢の他人から、私にとって世界にたったひとつの大切な命が、道端の雑草でも踏むように、理不尽にもそしてなんの躊躇(ためらい)もなくいとも簡単に奪われようとしていることへの、強烈な怒りだったかもしれない。
それと同時に今まで普通に生きてこられたことへの、
『当たり前という奇跡への感謝』という気持ちが沸き起こった。その瞬間、『生きよ!』と私に強く命令する、魂の奥底から湧出した不退転の決意に満ちた根源の生命力の言葉を聞いたような気がした。当たり前のようにそこにあったものが、失われようとしたとき初めてその大切さに気づいたという感じだ。
『なにがなんでも生きてやる!』という強い意思でもう一段の気力を振り絞り、私は必死で床を転がり這って、蹴られても踏まれてもそれでも床を転げまわるように這いずり回り、辿り着いた通路の一番端の僅かな空間に身を避けて、頭をかばい蹲(うずくま)った。その廊下のわずかな窪みが私の運命の明暗を分けたといってもいい。
そしてどのくらいの時間が経っただろうか。朦朧(もうろう)とした意識が戻り気がつくと、強烈な刺激で眼が痛くてしばらくは開けることができなかった。そしてようやく眼を開けると、さっきまでの喧噪が嘘のような静寂の中、白煙が意思のない生き物の様に立込めているその通路には、だれも居なくなっていた。
ただ、刺激臭と煙が漂う中、なだらかに上に勾配する廊下の赤いカーペットの上に、男女の靴と思われる黒い塊が、あちらこちらに散乱している映像が、とても不気味に思え印象に残っている。
『どなたか生存者の方はいますか! いたら、返事をして下さい』と言う救急隊員らしき人の声が煙の向こうから聞こえた。
『助かった』私は壁に身体を押し付けながら体重を支えようやく立ち上がると、全身の痛みに耐えて片手を力なく上げた。
肌が焼けただれて、痛い。
『ここです』そう言ったつもりだったが、喉が痛く声はかすれて出なかった。
そのときの事故で、内臓の破裂は無かったものの、あばら骨が三本、そして右の鎖骨も折れたみたいだ。
病院の手術台の上で、薄れいく記憶の中で遠くに聞こえた医者の言葉で、それを知った。
その後、夜中にうなされ飛び起きたり、普段の生活の中でも、映画館での光景が突然フラッシュバックして、仕事中でもその場にしゃがみ込み震えることがある。
その事故のせいで、私は精神的に一時期おかしくなって、視覚的にも世界が歪んで見えるストレスが原因の『中心性漿液性脈絡網膜症(ちゅうしんせい・しょうえきせい・みゃくらくもうまくしよう)』を患った
他にも仕事にも支障をきたすほどパニック障害を発症し、仕事もしばらくは休職扱いとなり、だいぶ落ち着いたとはいえ未だ完全には治ってはいない。
なぜ今回、結衣がそのビルを指定したのか、想像はつく。結衣はもとの私に戻って欲しいのだ。
結衣に言わせれば、あの事故以来、私は変わってしまったようだ。
「あの日、愛架を誘わなきゃ、あんな事故に合うことも無かったのに、ごめん」と何かにつけて彼女は謝ってくる。私があの日を境に変わったのも、じぶんのせいであると感じているのだ。しかも結衣が約束の時間に遅れたため、私だけが事故に巻き込まれ、じぶんだけが無事だったことを、口にこそはしないがどこかでじぶんを責めている。
「あの死を覚悟した経験で私は、生きている有難さを知ったし、あれは運命みたいなもので避けられなかったことかもしれないし、それともあのとき、私が人生でなにか学ばなきゃいけなかった、必須科目の宿題みたいなことかもしれないから、そんなのいつまでも気にかけなくていいよ」と言うのだが、結衣は私が時々事故のフラッシュバックのせいで、精神的パニックを起こしその後の人生が変わったことを心配しているのだ。
結衣によると事故以来、私は考え方がネガティブになり、自信も失い、チャレンジ精神がなくなったらしい。なんだかクラゲのように漂いながら、流れにまかせ無気力に生きているように見えるらしいのだ。張り詰めていた全てが、あの事故の恐怖で一気に気の抜けたようになったらしい。
確かにそれまでの私は、将来の夢とか計画に向かう、人並に積極的な部類に入る人間だったと思う。
それはじぶんでも分かっている。
職場での人間関係や恋愛や実家とのことが上手くいかないのは、全てあの事故による精神的疾患のせいにして人生から逃げているのは分かっている。
『もうそろそろ過去の出来事を忘れ、新生し生まれ変わったつもりで、人生をもう一度立て直して欲しい』と、結衣はいつも思っていたのだろう。休みの日は引きこもり生活の私を誘い、月に一度は会って、あの事件のことや、生きるってことや、夢や希望を持つことの大切さなど定期的に話し合ってきた。
思えばこの三年間、結衣と私はカウンセラーとクライアントのような関係だったのかも知れない。
だから今回こそは過去を気持ちの上で清算し断ち切る意味で、三年前のあの場所を結衣は指定してきたと思う。
この三年間、私は結衣に職場の愚痴、不平不満、自慢と卑下ばかりを繰り返し聞いてもらっていた。結衣に対して、何ひとつ希望とか勇気とか愛を与えてなかった。
優しい結衣はいつもそれを笑って受け止め、黙って聞いてくれた。でも私もそろそろ変わらなきゃと思い始めていたところだ。だからあの場所に行くにはまだ凄い恐怖心はあったけど、今回結衣があの場所を指定してきたのは意味の有ることかもしれないし、これはじぶんを変えれるチャンスのサインなのかもと知れないとプラスに捉えた。
そう思い、あの火災事故跡に建てられた新しいシネコンビルに、初めて行こうと私なりに勇気をだした。(第二話に続く)
