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【解説】ドルビーシネマ(Dolby Cinema)は結局何が凄いの?なぜ「黒」が最強の武器になるのか?


拙著のIMAXの記事を読んで、「IMAXのことは少なからずなんとなくは分かった。では、ドルビーシネマってのは一体何なんだ?映像が綺麗だとか、音が良いとか何となくは分かってはいるが、実際どんな技術なのかまでは理解していない」と思った人もいたかもしれない。

ということで、今回はドルビーシネマの解説をしていきたい。前回の記事に倣い、なるべく基本的かつ根本的な原理/技術部分だけを掬い取り、解説を行なっていく次第だ。

つまるところ、誤解を恐れずに単純化するとIMAXが「大きさ」の頂点だとすれば、ドルビーシネマは「正確さ」の頂点と言えるだろう。画面の巨大さを競うのではなく、スクリーンに届く光の1粒、音の1粒の質を、磨き上げた技術である。

それではいこう!


「映像・音・部屋」の3点セット


ドルビーと聞くと音響の会社を思い浮かべる人が多いはずだ。それは正しいのだが、ドルビーシネマは音の規格ではない。映像技術「ドルビービジョン」、音響技術「ドルビーアトモス」、そして劇場そのものの設計。この3点をまとめて認証した劇場だけが名乗れる、いわばフルコースの規格である。


出典:松竹マルチプレックスシアターズ「DOLBY CINEMA」公式サイト(https://www.smt-cinema.com/dolby/)

日本1号館は2018年11月にオープンしたT・ジョイ博多で、2026年8月時点で全国に11館ある。フル画角のIMAXが日本に2館しかないことを思えば、こちらのほうがずっと身近だ。

そしてドルビーシネマの場内は、壁も天井も床も、徹底してつや消しの黒で統一されている。理由は単純で、スクリーンから出た光が壁で跳ね返ってスクリーンに戻ると、それだけで黒が濁るからだ。どれほど完璧な映写機を作っても、部屋が光を反射すれば台無しになってしまう。ドルビーシネマとは、映写機の性能を100パーセント観客に届けるために、部屋ごと設計し直した劇場なのである。

では、その映写機は何がすごいのか。キーワードは「黒」だ。


黒を500倍暗く!

まず、映画館で「黒」がどうやって作られているのかから説明しよう。

大前提として、スクリーンは自分では光らない。あれはただの白い巨大な布であり、映写機が投げつけた光を反射しているだけだ。そして映写機の心臓部には、常に全力で光り続ける強力なランプが入っている。ランプは器用に明るくなったり暗くなったりはしない。上映中、ずっと全開である。

では、画面の明るい部分と暗い部分はどう作るのか。水道にたとえてみよう。ランプは元栓が全開の水源であり、映像の画素ひとつひとつに蛇口が付いていると思ってほしい。明るい画素は蛇口を大きく開けて光をスクリーンへ流し、暗い画素は蛇口を絞る。この時、黒は、蛇口を完全に閉めることで作る

映写機とは、数百万個の「光の蛇口」を高速で開け閉めして絵を描く機械なのだ。ここで喩えている蛇口の正体は、画素ごとに取り付けられた、髪の毛の断面より小さな鏡である。鏡の角度をパタパタと切り替えて、光をスクリーンに向けたり、ゴミ箱に向けたりしている。

さて問題は、この蛇口が完全には閉まらないことである。装置の中で光はわずかに乱反射していて、閉め切ったはずの蛇口からも、ぽたぽたと光が漏れてスクリーンに届いてしまう。ふつうの映写機では、全開の白と閉め切った黒の明るさの差は、せいぜい2,000対1。つまり映画館の黒とは、本当の闇ではなく「白の2,000分の1の明るさで光っている灰色」に過ぎないのだ。

ふだんは気にならない。だが思い出してほしい。映画館の場内が真っ暗になったとき、スクリーンがぼんやり灰色に浮かんで見えたことはないだろうか。あれが漏れた光の正体だ。

しかも映画館は、この粗がもっとも目立つ場所である。人間の目は暗闇に置かれると瞳孔が開き、網膜は暗さ専用のセンサーに切り替わって、30分もすれば感度は1万倍を超えるレベルまで上がる。映画館とは、観客の目が刻々と高感度カメラに変わっていく空間なのだ。上映が進むほど観客の目は肥え、灰色じみた黒色が目立っていく。

さて、ドルビービジョンは何が違うのだろうか。ここでまで書いて、蛇口の比喩があまり適切でないと自分で勘付いてしまったが、このまま突っ走ってしまおう。蛇口を、1段ではなく2段、直列に付けたのである。1段目でほぼ止めた光を、2段目でもう一度止めるという仕様だ(2段の蛇口ってなんだ、聞いたことがないぞ)。

まず、1段の蛇口が、閉めても1,000分の1だけ光を漏らすとしよう。その漏れた光が次の蛇口を通るとき、また1,000分の1になる。つまり最終的な漏れは、1,000分の1のさらに1,000分の1で、100万分の1。漏れは足し算ではなく、掛け算で消えていくという仕組みだ。この仕組みは二重変調と呼ばれ、ドルビーシネマのコントラスト、つまり白と黒の明るさの差は100万対1に達する。同じ明るさの白を出しながら、黒だけが、ふつうの上映のざっと500倍は暗くなる計算だ。

500倍暗い黒は、もはや客席の暗闇と見分けがつかなくなる。すると不思議なことが起きる。スクリーンの「縁」が消えるのだ。横長の映画につきものの上下の黒帯も闇に溶け、映像だけが何もない空間に浮かんで見える。宇宙の場面では、画面のどこまでが映画でどこからが劇場なのか、わからなくなる体験を味わうことができるだろう。

しかも黒を沈めただけではない。画面が出せるいちばん明るい白も、従来の上映の2倍以上に引き上げられている。

ここで、この性能を呼ぶ名前を紹介しておきたい。まず一般論から始めよう。音でも光でも電気でも、何かの信号を扱う機械や規格には、扱える最大値と最小値がある。この最大値と最小値の比率のことを、一般にダイナミックレンジと呼ぶ。たとえば録音の世界なら、ささやき声のような小さな音と、割れんばかりの大歓声とを、ひとつの機材で両方とも忠実に扱えるほど「ダイナミックレンジが広い」ということになる。

映像の場合、最小値にあたるのが表現できるいちばん暗い黒、最大値がいちばん明るい白だ。つまり、ここまで説明してきたコントラスト100万対1という数字は、それ自体がドルビーシネマのダイナミックレンジである。そして、このレンジを従来より大きく広げた映像のことを、ハイダイナミックレンジ、略してHDRという。テレビやスマートフォンの仕様で「HDR対応」という表記を見たことがあるはずだ。あれはみんなこの思想の仲間で、ドルビーシネマの映像規格ドルビービジョンは、その劇場版の代表格である。黒を500倍深く、白を2倍明るくするとは、要するに、ダイナミックレンジを下にも上にも一気に広げるということだ。

なぜこの幅がそれほど大事なのか。現実の世界の明暗のダイナミックレンジが、映像の規格よりも桁違いに広いからである。夜の部屋で揺れるろうそくの炎と、その周りの闇。真夏の水面のきらめきと、日陰の路地。同じ視界の中に、何万倍という明るさの差が平気で同居している。

ところが従来の映像は、この幅のごく一部しか記録できない規格の中で作られてきた。だから太陽はただの「白い丸」として描くしかなく、まぶしさは白飛びでごまかすしかなかった。HDRの画面では、炎や金属の反射が、画面の中で本当にまぶしい。明るさを「それらしく描く」段階から「再現する」段階へ、映像が一歩踏み込んだのである。


暗い側は底なしに深く、明るい側は刺すように鋭い。夜の海に月光の反射だけがぎらりと走る、そういう画のための性能である。



レーザーという「最高に澄んだ絵の具」

先ほどは説明の都合上、映写機のランプから光が発せられると言ったが、ドルビーシネマの光源はランプではなく、赤・緑・青のレーザーを用いている。カスタム設計された4Kレーザー映写機が2台同時に稼働する。レーザーと聞くと「強い光」という漠然としたイメージを持たれがちだが、本質はそこではない。レーザーのすごさは、色が純粋なことにある。

前提として、人間の目に色を感じるセンサーは3種類しかない。おおまかに赤、緑、青に反応する細胞で、私たちが見るすべての色は、この3つの数字の組み合わせにすぎない。だからこそ映像は3原色の混合で色を作れる。そして絵の具と同じで、混ぜる元の3色が濁っていれば、鮮やかな色は永遠に作れない。

ふつうのランプの光は、あらゆる波長がごちゃまぜになった白色光だ。ここから色フィルターで「だいたい赤のあたり」を切り出しても、隣の波長が混ざった、少し濁った赤にしかならない。おまけに、フィルターで弾いた残りの光はすべて熱として捨てられる。

レーザーは原理が根本から違う。励起した原子の集団に光を通すと、通った光とそっくり同じ波長、同じ向きの光が雪崩のように増幅される。誘導放出と呼ばれる、レーザーという名前の由来そのものの現象だ。出てくるのは、事実上ただ一種類の波長だけでできた光であり、合唱にたとえるなら、全員が完全に同じ音程で歌っている状態で、物理的にこれ以上澄ませようがない、究極の純色である。

3原色がそれぞれ究極に澄むと、混合で表現できる色の範囲、専門的には色域と呼ばれる三角形が、目に見えて広がる。従来の上映では作れなかった深い赤、南の海のようなエメラルドの緑。ドルビーシネマの色が「濃い」のではなく「本物に近い」と評されるのは、盛っているのではなく、今まで劇場で再現できず捨てられていた色が、初めて届いているからである。


音を「座標」で配置する


ドルビーシネマを構成する重要な要素である「音」の話に移ろう。

まず、従来の映画館の音がどうなっていたからだ。映画館の音響は長らく、スピーカーを置き場所ごとのグループに分けて鳴らしてきた。代表的な規格である5.1chとは、スクリーンの左・中央・右に3系統、客席の後方の左右に2系統、これで5系統。それに地響き担当の重低音専用が1系統、合わせて「5系統プラス1」という意味だ。映画の完成データには、この全系統それぞれで流す音が、あらかじめ別々に録音されている。劇場の仕事は、届いた6本の音声を、対応する6方向のスピーカーでそのまま流すことだけである。

この方式の限界は、音の流す場所が6つしかないことだ。たとえばヘリコプターが観客の頭の真上を通り過ぎる音を作りたくても、「真上」という場所は規格のどこにも存在しない。前と後ろのスピーカーに音を振り分けて、それらしく聞かせるのが精一杯だったというわけである。

アトモスは発想を変えた。音のひとつひとつに「これは何の音で、いま空間のどこで鳴っているか」という位置情報を付けて記録するのである。ヘリコプターなら、爆音の録音に「右前の上空から現れ、頭上を横切り、左後方へ抜ける」という位置の動きが添えられる。写真に撮影場所のGPS情報が埋め込まれるのと似ている。ひとつの映画に、こうした位置付きの音を100個以上、同時に詰め込めるのだ。

出典:松竹マルチプレックスシアターズ「DOLBY CINEMA」公式サイト(https://www.smt-cinema.com/dolby/)

そして上映中は、劇場のコンピューターがこの位置情報を読みながら、「この位置で鳴っている音なら、この劇場ではあのスピーカーとこのスピーカーを混ぜれば再現できる」という計算を毎瞬繰り返し、天井を含む最大64系統のスピーカーへ音を割り振っていく。演劇にたとえるなら、従来の方式は、上演を録画した映像をどの劇場にも同じように配ることだった。アトモスが配るのは台本と演出指示である。台本に「幽霊の声、客席の右後ろから」と書いてあれば、大きな劇場でも小さな劇場でも、声はちゃんとその劇場の右後ろから聞こえる。この方式は2012年の『メリダとおそろしの森』で初めて採用され、いまや映画音響の標準になりつつある。

では、なぜ「天井」のスピーカーがそれほど画期的なのだろうか?答えはこうだ。上下方向の音だけは、スピーカーを本当にそこへ置かない限り、再現できないからである。

意外に思うかもしれないが、左右方向の音は、昔から「錯覚」で作れていた。ステレオの左右から同じ音を出すと、歌手が真ん中に立っているように聞こえる、あの現象だ。人間は音の方向を、左右の耳に音が届くわずかな時間の差と、音量の差から割り出している。この時間差の検出精度は10万分の1秒のオーダーという恐るべきものだが、逆に言えば、複数のスピーカーの音量バランスをうまく操作すれば、実際にはスピーカーのない場所で音が鳴っているように脳を騙せる。サラウンド音響とは、この錯覚を操る芸術だった。

ところが、耳は顔の左右にしか付いていない。真上から来る音も、正面から来る音も、左右の耳には同時に、同じ大きさで届いてしまう。時間差も音量差も生まれないから、あの錯覚が使えないのだ。

上下を聞き分ける手がかりは、耳たぶの複雑なひだが作る音色のわずかな変化くらいで、これは個人差が大きく、安定して騙すことができない。つまり「高さ」は、音響技術に最後まで残された、ごまかしの効かない方向だった。アトモスが天井に本物のスピーカーを並べたのは、そういう理由である。

効果がいちばんわかるのは、派手な爆発よりも環境音だ。アトモスの雨は、無数の雨粒として頭上に配置されるというわけだ。


結局、IMAXとドルビーシネマ、どう選べばいいのか?


IMAXとドルビーシネマは、優劣があるわけではなく、そもそも土俵とする競技が違う技術だと言えよう。

そのうえで、選ぶ基準は3つあると思っている。

第一に、その映画がどう撮られたか。IMAXカメラで撮影された映画は、IMAXの劇場でだけ画面が上下に大きく広がる。ノーラン作品のように「IMAX撮影」を看板に掲げる大作なら、まずIMAXで観る価値があると言えるだろう。逆に、ふつうのカメラで撮られた映画は、IMAXで観ても画面が少し大きいだけで、画角の恩恵はない。この場合、IMAXを選ぶ理由は当然弱くなる。

第二に、その映画の絵と音の性質。夜、宇宙、洞窟。暗い場面が支配する映画や、色彩の繊細さで見せる映画は、ドルビーシネマの黒と色が本領を発揮する。雨や風や街のざわめきといった環境音が豊かな映画も、頭上から音が降るアトモスの独壇場だ。反対に、明るい昼間の画が中心の映画では、ドルビーの強みはあまり出番がないと言える。

第三に、当たり前のことではあるが、どの劇場に行けるか。前回の記事で書いたとおり、IMAXの真価である1.43対1のフル画角を体験できるのは、日本ではグランドシネマサンシャイン池袋と109シネマズ大阪エキスポシティの2館だけで、それ以外の多くの「IMAX」は画面が小さめのデジタルIMAXである。一方のドルビーシネマは全国に11館あり、どの館でも品質が認証で揃っている。近所のIMAXがデジタルIMAXなら、勝負は「画面の大きさ」対「光と音の精度」の、ほぼ純粋な好みの問題になる。

そして身も蓋もない結論を言えば、いちばん確実なのは、気に入った映画を両方で観てしまうことだ。同じ映画がまったく別の顔を見せることに驚くはずで、それ自体が、この2つの技術の違いを知るいちばん確かな体験になる。

IMAXの原点は1970年、フィルムの面積という物量に賭けた思想だった。ドルビーシネマは2010年代、レーザーと計算で光と音を精密に制御する思想である。半世紀離れて生まれたふたつの答えが、いま同じ街の映画館で並んで営業している。どちらが上かを決める必要はない。映画館という場所が、配信の時代になってもまだ本気で物理の勝負を続けていること。それ自体が、チケット代に含まれたいちばん贅沢な部分なのだと思う。


ところで、前に日本の洋画ポスターについてデータを用いた分析を行った記事を執筆したが、最終的には「日本人は映画館に行かなさすぎるので、とにかく映画館に行こう」という結論になった。IMAX、Dolby Cinemaと非常に魅力的な技術が投資されているのが現代の映画館である。

だが、どれほど見事な技術も、それを支えられるのは結局、チケットを買って席に座る私たちしかいない。観客が行かなくなれば、100万対1の黒も、頭上に降る雨の音も、維持できずに最終的には消えていくだけだ。

配信で映画もドラマも十分に観られる時代である。それでも、映画館の体験だけは、この先どれほど技術が進もうと、足を運ぶことでしか手に入らない。前回のIMAXの記事と今回の記事で、少しでも興味が湧いたなら、今年は映画館で映画を観る日を、あと1日だけ増やしてみてはどうだろうか?

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Joshua Connolly 物理学者が映画について本気で考える、ちょっと変わった記事を書いています。「面白かった」と思っていただけたら、それだけで十分ですが、チップをいただけたらコーヒー片手にもう1本書きます。