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【ネタバレあり予習】映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』原作既読者のための科学予習・完全版

あなたの名前を、忘れたとしよう。

自分がどこで生まれたのか、誰を愛したのか、昨日の夕食に何を食べたのか。その一切が消えている。だが不思議なことに、水の化学式がH₂Oであることは知っている。リンゴが木から落ちる理由も、太陽が8分20秒前の光を届けていることも、なぜか身体のどこかに刻まれている。

私含め多くの原作ファンが、この映画化をずいぶん長いこと待ち続けていたに違いない。想像するに、劉慈欣の『三体』をはじめとする海外ハードSFの波に乗って「こんな世界があったのか」と打ちのめされた人々が、次の一冊を求めてさまよい、たどり着いたのがこの小説だったのではないだろうか。あるいは単純に、ライアン・ゴズリング主演という一報を聞いて原作に手を伸ばした人もいるかもしれない。いずれにせよ、宇宙の恐怖ではなく宇宙への好奇心を、人類の暗部ではなく人類の善意を、これほど緻密な科学的考証の上に描いた作品は、そうあるものではない。初版の出版から5年が経つ。公開を機に原作を読み直した人も、初めて手に取った人もいるだろう。今回はそんな貴方に向けた記事を纏めた次第である。

想定読者の選定が、この記事を書く上で最も頭を悩ませたことだった。

この映画の観客は、おそらく大きく三種類に分かれる。世界的ベストセラーとなった同名原作小説を読んだことのある層。予告編や各種メディアを通じてある程度の情報を得た、いわゆるマイルドなネタバレ済みの層。そして一切の情報を遮断し、まっさらな状態で映画館に臨もうとしている層だ。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』はハードSFと呼ばれるジャンルに属する。ハードSFとは、物理学・化学・生物学といった自然科学の知識を誠実な考証の土台に据え、そこから物語を構築するSFの一流派だ。私のような宇宙物理学者にとっては馴染みのある概念が多いのだが、一般の読者からすれば見慣れない記述が並び、読み飛ばしたくなる箇所がちらほらあったかもしれない。映画公開を機に原作を読み返した人、あるいは初めて手に取った人の中には、「あの場面、なんとなく凄いことは分かったが結局何が凄かったのか」「あそこの理屈、実のところ腑に落ちていない」という感覚を持て余している方もいるのではないかと思う。

この作品に関して、原作を既読の方が未読の方に向けて「何も予習するな」と強い口調で諭す光景をしばしば見かける。その気持ちはよく分かる。この作品には、一切の情報無しに初めて読んだ・観た時にしか得られない種類の感動が確かにある。だから未読の方に対して私から何かを言うつもりはない。そのためこの記事はあえて、原作を読んだことのある方に向けて書いた。原作のあの場面は現在の物理学ではこう解釈される、あの設定の背景にはこういう科学がある、そういった寄り道を楽しみながら予習することで、映画をより豊かに味わってもらうことが目的だ。したがって、ネタバレを避けたい方は映画鑑賞後にこの記事を読むことをお勧めする。

それでは、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の世界に入ろう!


記憶を失っても、なぜ科学だけが残るのか

グレースが目覚めると、自分の名前も、ここがどこかも分からない。それでも彼は、窓の外に見える恒星の色と明るさから距離を推定し、紐につないだ重りを振り子として使って重力加速度を測定し、宇宙船の加速状態を把握してみせる。記憶を持たない人間が、科学者としての直感だけで状況を分析していく──この導入部の緊張感は、実は神経科学的に正確な描写の上に成り立っているのだ。

自転車の乗り方を、あなたは覚えているだろうか。おそらく覚えている。では、自転車に初めて乗れた日のことを覚えているだろうか。補助輪が外れた瞬間、誰かに背中を押してもらいながらよろよろと進んだあの朝の記憶、こちらはもしかしたら曖昧かもしれない。

これは全く偶然ではない。「乗り方を知っている」という知識と、「あの日乗った」という体験記憶は、脳の別の場所に保存されているためである。

1972年、トロント大学の心理学者エンデル・タルヴィングは、人間の長期記憶を2つの系統に分類する論文を発表した。「エピソード記憶」とは、いつ・どこで・何が起きたかという個人的体験の記憶だ。昨日の夕食、初めてのキス、悲しかった日の天気、こういったものがエピソード記憶である。一方「意味記憶」とは、世界の仕組みに関する一般的な知識の記憶だ。東京は日本の首都であること、光の速度が秒速約30万キロメートルであること、水が100℃で沸騰すること、これらに「いつ覚えたか」という個人的な文脈はない。

この2つが脳の異なる神経基盤に依存していることは、臨床神経学が繰り返し示してきた。神経科学の歴史で最も有名な患者の一人、ヘンリー・モレゾンの名を聞いたことがあるだろうか?彼はてんかんの治療のために、1953年に海馬を切除された。術後の彼は、新しいエピソード記憶をほとんど形成できなくなってしまったのである。会話した相手を数分後には忘れ、何度会っても「初対面」として接した。だが言語能力は保たれ、手を使う技能は新しいものでも習得できた。「できる」という記憶と「体験した」という記憶は、解剖学的に全く別物であるということだ。

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』のグレースの状態は、こうした解離性健忘の一形態として神経科学的に整合している。自分が誰かというエピソード記憶は失われているが、科学的知識という意味記憶は残っている。ウィアーは「都合のいい記憶喪失」を書いたのではなく、脳の仕組みを正確に参照していると言えるだろう。

ところで、「自分が誰であるか」を失っても「世界がどう動くかについての知識」が残るとは、何を意味するのだろう。個人的な記憶とは、要するに私という存在の輪郭であり、失えば「私」は消える。だが科学的知識は、私という容器を必要としない。それは私以前に存在し、私以後も残る。グレースの記憶喪失は、この映画が科学について何を語ろうとしているかの、最初の伏線と言えるだろう。これに関しては後述する。



アストロファージという怪物

物語の前提を整理しよう。どうやら太陽の出力が低下しつつある。原因は「アストロファージ」と名付けられた微生物だ。太陽の表面に取り付き、光のエネルギーを吸収して自己増殖し、恒星を文字通り「食い尽くす」。そのまま放置すれば、地球の平均気温は数十年以内に致命的なレベルまで低下するという絶望的状況である。

太陽の出力が10パーセント下がると地球はどうなってしまうのだろうか?現代の気候科学の試算では、平均気温が約8〜10度低下するとされている。現在、1.5度の上昇を止めるために国際社会が必死になっていることを知れば、そのスケール感は伝わるだろう。これは小さな氷河期ではなく、農業の壊滅を意味する。

さて、アストロファージという名前についてだが、「ファージ(phage)」はギリシャ語の「食べる」に由来し、細菌に感染して食い尽くす「バクテリオファージ」という実在のウイルスから来ている(生物学ではとても有名なウイルスである)。アストロ(astro)は「星」。つまりアストロファージは「星喰らい」だ。グレースの命名のセンスは抜群だが、その物理的性質を聞いた物理学者は全員、首をかしげることになるだろう。なぜ首をかしげるのか、順を追って説明しよう。

アストロファージの名前の由来となったバクテリオファージはこんな形状をしたウイルスである。
画像:Kevin M. Gill / Wikimedia Commons, CC BY 2.0

アストロファージは可視光から赤外線、紫外線、X線、そしてガンマ線にいたるあらゆる電磁波を吸収するという性質を持つ。原作でグレースはセシウム137を使ってガンマ線をアストロファージに照射するが、ガンマ線が完全に吸収されてしまう。彼はこれを「50口径のピストルで紙を撃ったら弾丸が跳ね返されたようなものだ」と描写したわけだが、何がそんなに物理学的にありえないのだろうか。

ガンマ線を含む電磁波が物質と相互作用するかどうかは、「断面積」という量で決まる。名前は面積だが、「粒子同士がどれだけ衝突しやすいか」を確率として面積に換算した物理量だ。的が大きければ矢が当たりやすく、的が小さければ外れやすい、その「的の大きさ」を定量化したものだと思えばいい。原子核のガンマ線に対する断面積は極めて小さい。だから鉛のような高密度の物質でも、ガンマ線を完全には止められず、確率的に少しずつ減衰させることしかできない。鉛1センチメートルでも、強度は半分にしか落ちない。つまり鉛は「ガンマ線をいくらか吸収する」ことはできるが、「完全に止める」ことは原理的にできないわけである。

細胞1個の微生物がガンマ線を完全吸収するには、断面積が通常の物質の何億倍もなければならない。アストロファージはとてもとても小さい生物であるから、もうこの時点で矛盾しているため意味不明である。そしてここで、ウィアーが原作で最終的にこの謎に対して使った言葉が「超断面積性」であったことを覚えているだろうか?実はここ、物理学者がニヤリとする言い訳なのだ。「断面積」はそもそも素粒子物理学という分野で日常的に使われる概念で、素粒子加速器での衝突実験では「この反応の"断面積"は何フェムトバーンか」といったような議論が普通に行われる。フェムトバーンというのは途方もなく小さな面積の単位で(1フェムトバーンは10⁻⁴³平方メートル)、素粒子の世界では物事がその規模で起きている。つまりウィアーは実在する物理学用語をそのまま借用し、頭に「超」を付けることで「現在の物理学の延長線上に存在するが、まだ解明されていない現象」として処理したのである。完全な嘘ではなく、物理学の語彙の中に巧みに隠れた嘘だ。SFにおける「上手い言い訳」の教科書的な例と言っていいだろう。

アストロファージとE=mc²

もう少しこのアストロファージという怪物について見ていこう。この生物のエネルギー機構を理解するには、アインシュタインの名前が必要になる。

E=mc²は、質量とエネルギーが等価であることを示す式だ。式の意味を一言で言えば、「質量とはとんでもない密度で圧縮されたエネルギーである」ということになる。cは光速(秒速約30万キロメートル)であり、それを二乗した値をかけるのだから、ごくわずかな質量が途方もないエネルギーに相当する。

どのくらいか、想像してみてほしい。砂糖ひと粒ほどの質量(約1ミリグラム)を完全にエネルギーに変換できたとすれば、広島に投下された原子爆弾の約2倍のエネルギーが得られる計算になる。現代の原子力発電所ですら、ウランの核分裂でエネルギーに変わるのは質量のほんの0.1パーセント以下に過ぎないが、それでも都市を動かすために十分な電力が生まれる。

では100パーセントの完全な質量変換がいかにあり得ないか。現在の技術で最も効率よく質量をエネルギーに変換できるのは、物質と反物質を衝突させる「対消滅」という反応で、これが理論上100パーセントに最も近い変換を実現できる。だが反物質は自然界にほぼ存在せず、加速器で人工的に生成するしかない。そのコストは現時点で1グラムあたり数十兆ドルと試算されており、人類がこれまでに生産した反物質の総量はナノグラム単位、つまり砂粒の何億分の一にも満たない。その程度の量で都市を吹き飛ばすエネルギーを取り出すことすらまだできていない。完全な質量変換とは、現在の技術水準からすれば「いつか実現するかもしれない未来の話」ですらなく、「どうやって実現するかの見当すらついていない話」だ。アストロファージはその変換を、細胞1個で、しかも代謝として日常的にやっている。このような生物を前にすれば、現代の科学者全員がグレースと同じ反応をすることだろう。

アストロファージはこの変換を双方向でやっているというのだからさらに驚きだ。

太陽の光(電磁エネルギー)を吸収して質量に変える(エネルギー→質量)。そして蓄えたエネルギーを取り出したいときには、質量を「ペトロヴァ波長」と呼ばれる特定の赤外線に変換して放出する(質量→エネルギー)。つまりアストロファージは、E=mc²を代謝の基本原理として使う生物だということになる。

地球上のあらゆる生命のエネルギー代謝は、突き詰めれば「電子のやり取り」だ。糖を酸素で燃やすとき、光合成で光を糖に変えるとき、アンモニアを酸化する細菌が生きるとき、どれも原子と原子の間を電子が移動する化学反応に過ぎない。原子核には手を触れない。物質の最も表面的な層だけを使って、生命は動いていると言えるだろう。

アストロファージはその一段、いや何十段も深いところに手を突っ込んでいる。原子の表面ではなく、質量という物質の根本そのものをエネルギー源にしている。化学反応と質量変換のエネルギー効率の差は、焚き火と核爆弾の差どころではない。同じ「燃料を使う」という言葉で括ること自体が、本来おかしいくらいの話だ。地球の生命とアストロファージは、エネルギーを得るという同じ目的のために、まったく異なる宇宙の法則を使っているのだ。

ペトロヴァ波長の正体


ここからが特に興奮する話だ。アストロファージが放出するペトロヴァ波長は、なぜ他の赤外線でも紫外線でもなく「あの特定の波長」なのか。その答えが解明される過程が、原作の白眉と言っていい場面だ。

まず「ニュートリノ」という粒子について知っておく必要がある。ニュートリノは物質とほとんど相互作用しない幽霊のような粒子で、あなたの体を今この瞬間も毎秒数百兆個が素通りしている。太陽の核融合で大量に生まれ、地球を反対側まで貫通して飛んでいく。あまりに素通りしてしまうので検出が極めて難しい。南極の氷の中に埋め込まれた「アイスキューブ」という観測施設はその難しさをよく示している。ニュートリノを検出するには、ニュートリノ以外のあらゆる粒子や放射線を遮って「ニュートリノだけが来る環境」を作る必要がある。そのために使われているのが、厚さ数キロメートルの南極の氷だ。宇宙から降り注ぐ他の粒子は氷に阻まれて届かないが、ニュートリノだけは氷をすり抜けて検出器に到達する。ニュートリノを捕まえるために、地球そのものを盾として使っているのだ。

南極にあるニュートリノ観測装置「アイスキューブ」

さて、アストロファージの細胞内部には、電子を持たない裸の陽子(水素イオン)が大量に存在し、高速で飛び回っている。これらの陽子が互いに衝突することで直接ニュートリノ対が生成される──というのがウィアーの設定だ。ここで正直に言っておくと、この設定は物理的にかなり大きな飛躍を含んでいる。「陽子の衝突からニュートリノ対が直接生成される」という反応は、現在の物理学には存在しない。エネルギーが足りないのではなく、そもそもそういう反応機構が知られていないのだ。96°Cという温度での陽子の熱運動エネルギーは、ニュートリノの質量エネルギーと実は同じ桁に収まっており、エネルギーの問題はウィアーが巧みに回避している。問題は反応そのものの存在だ。ウィアーはここで超断面積性と同様、現在の物理学には存在しない反応を静かに前提として置いている。

だが我々はSFを楽しむ善良なファンである。まずはこの飛躍を一度受け入れよう。

ニュートリノは「それ自身の反粒子でもある」という性質を持つ可能性がある(これを「マヨラナ粒子」と呼ぶ)。反粒子とは何か、まずそこから説明しよう。この宇宙に存在するすべての粒子には、質量は同じだが電荷などの性質が正反対の「鏡像」が存在する。電子にとっての陽電子、陽子にとっての反陽子がその例だ。そして粒子と反粒子が出会うと、互いに消滅して純粋なエネルギーに変わる。これを「対消滅」と呼ぶ。SF映画で反物質爆弾が最強の兵器として登場するのはこのためで、物質と反物質が触れた瞬間、質量のすべてがエネルギーに変わる。

通常、粒子と反粒子は別々の存在だ。電子と陽電子は明確に異なる。ところがニュートリノに限っては、「自分自身が自分の反粒子でもある」という奇妙な可能性が理論上存在する。もしそうなら、ニュートリノ同士が衝突したとき、それはそのまま対消滅になり、光子を生み出す。ニュートリノが実際にそういう性質を持つかどうかは現在の物理学でもまだ決着がついていない未解決問題だ。原作ではニュートリノがマヨラナ粒子であることが断定的に語られているが、ここでもウィアーはこの「答えが出ていない問い」に巧みに乗っかっていると言えるだろう。

さて、この「ニュートリノ2個が消えて光子になる」反応で生まれる光の波長は、ニュートリノの質量エネルギーによって一意に決まる。それがペトロヴァ波長だ。ニュートリノの質量の正確な値は現実の物理学でもまだ測定できていないが、ウィアーは特定の値を仮定することでペトロヴァ波長という必然的な数値を導き出した。

さらに、アストロファージの体温がつねに摂氏96.415度である理由も同じ論理から導ける。温度とはその物質を構成する粒子の平均運動エネルギーのことだ。アストロファージ内の陽子がニュートリノを生成するには、衝突時の運動エネルギーがニュートリノ2個分の質量エネルギーを超えている必要がある。その条件を満たす最低温度を逆算すると、摂氏96.415度という値が出るという論理である。

これより温度が上がると何が起きるか。余分な熱エネルギーは陽子の運動を速くするが、速くなった分だけニュートリノが大量に生成され、そのニュートリノはすぐに対消滅してエネルギーを外に逃がしてしまう。体温が上がろうとするたびに自動的に冷却される。逆に温度が下がるとニュートリノ生成が止まり、エネルギーが蓄積されて温度が上がる。アストロファージは素粒子物理学の法則そのものをサーモスタットにして体温を一定に保っているわけだ。

「96.415度で陽子の衝突からニュートリノ対が生まれる」という反応機構は現在の物理学には存在しない。だがそもそもこの物語は近未来を舞台としており、現在未解明の物理現象が発見された世界として読むことができるのではないだろうか。物理学者がこの物語を読んだとき、ペトロヴァ波長の根拠としてニュートリノの質量が登場した瞬間は、「ああ、近未来の話だ」と実は気づく小さなポイントである。現在の物理学ではニュートリノの質量の正確な値はまだ分かっておらず、その上限しか確定していないからだSFの設定と言ってしまえばそれまでだが、どんなSFも物語として成立させるためにどこかで現実の物理学から踏み外す瞬間がある。ウィアーの巧みさは、その踏み外しの場所を現実の物理学がちょうど「まだ答えを持っていない場所」に選ぶことにあると言えるだろう。

ところで作中でアストロファージの存在を最初に観測したのは、日本の太陽観測衛星「アマテラス」と、そのデータを解析したJAXAのチームだ。実際、日本は太陽観測の分野で世界をリードしてきた国の一つである。JAXAが運用してきた「ひので(SOLAR-B)」衛星は太陽磁場の精密観測で多数の国際的成果を上げており、太陽の表面構造と磁気活動の関係を解明する上で重要な貢献をしてきた。映画の中でJAXAのデータが人類の危機を最初に察知する、という設定は、現実の宇宙開発とも地続きの話として受け取れるだろう。


光で飛ぶということ

このペトロヴァ波長が、アストロファージを宇宙船の推進システムとして使う鍵になる。光には運動量がある。

これは日常感覚に反するが、実験で測定できる事実だ。懐中電灯を壁に向けて照らすと、光が壁を微弱に押している──「光圧」と呼ばれる現象だ。普段は無視できるほど小さな力だが、宇宙空間では話が変わる。彗星の尾が常に太陽と反対方向に伸びているのを見たことがあるだろうか?あの尾は太陽風と太陽光の光圧に押されて形成されており、彗星がどの方向に動いていても尾は必ず太陽の反対側を向く。光が物体を押す力は、宇宙規模では無視できないのだ。

ではなぜ光子推進が「理論上最高効率」なのか。ロケットエンジンの効率は、つまるところ「推進剤をどれだけ速く後ろに噴き出せるか」で決まる。ガソリンエンジンが燃焼ガスを秒速数キロメートルで噴出するのに対し、より高性能なイオンエンジンはイオンを秒速数十キロメートルで噴出する。噴出速度が速いほど、少ない燃料で大きな推力が得られる。そしてその噴出速度の絶対的な上限が光速だ。光速で何かを後ろに噴き出せるなら、それは物理的に可能な最高効率のエンジンになる。光子推進とはまさにそれで、光そのものを推進剤として後方に放出することで前進する。

アストロファージはE=mc²変換でほぼ100パーセントの効率で質量を光に変え、その光を一方向に放出できる。理論上これ以上効率のいいロケットエンジンは存在しない。ヘイル・メアリー号は、アストロファージを船体に薄く塗布し、CO(一酸化炭素)を含む特定波長の光を当てることで繁殖速度をコントロールしながら推進力を得る設計だ。COがアストロファージの増殖スイッチになっており、これを調節することでエンジン出力を制御する。燃料は微生物そのものだ。

この推進システムで1.5Gという加速度(地球の重力の1.5倍で常に加速し続ける)を数年間維持すると、12光年先のタウ・セティ星系に到達できる。タウ・セティは地球から約12光年の距離にある実在の恒星で、太陽に似た比較的穏やかな性質を持つ。SETI(Search for Extraterrestrial Intelligence)、つまり地球外知的生命体の探索を専門とする研究プログラムが1960年代に初めて宇宙に向けて電波望遠鏡を向けた際、観測対象として選ばれた2つの星のうちの一つが実はこのタウ・セティだった。「もし宇宙に知的生命体がいるとすれば、まずこの星を調べよう」と人類が最初に夢想した星に、グレースは送り込まれる。ウィアーがこの星を選んだのは、偶然ではないだろう。



アンモニアで呼吸する生命体は、本当に存在しうるか?

物語の核心は、グレースが宇宙の果てで「ロッキー」と呼ぶ異星人と出会うことだ。ロッキーは地球人とまったく異なる環境から来ており、水ではなくアンモニアを溶媒とした生化学に基づいて生きている。

これは本当に可能なのだろうか。

まず前提として、地球の生命は「液体の水」を必要とするという強固なパラダイムがある。NASAの宇宙探索戦略も長年「follow the water(水を追え)」という原則に基づいてきた。なぜ水がそれほど特別なのか。

水は化学的に見て非常に優秀な溶媒だ。「溶媒」とは、物質を溶かして反応が起きる「舞台」のことだ。料理に例えるなら、水は具材(分子)を入れると全体に均一に混ざり合い、加熱すれば反応が進み、冷ますと反応が落ち着く──使い勝手のいい鍋のようなものだ。水はイオン性の物質もそうでない有機分子も幅広く溶かし、しかも0℃から100℃という生化学反応が起きやすい温度帯で液体として存在する。さらに水の分子は「水素結合」と呼ばれる独特の引力を持っており、これがタンパク質の複雑な三次元構造を安定させる上で不可欠な役割を果たしている。

だがグレース自身、博士論文でこのパラダイムに異議を唱えた人物として設定されている。彼の主張はこうだ。「あらゆる生命に必要なのは、結果として元の触媒の複製ができるような化学反応なんです」。液体の水は地球での一つの解決策に過ぎず、化学反応の「舞台」さえ用意できれば別の溶媒でも生命は原理的に成立しうる、という考え方だ。

アンモニアという舞台

アンモニア(NH₃)は、この観点から最も有力な水の代替溶媒候補として長年研究されてきた。

アンモニアが水の代わりになりうる理由を、水との比較で見てみよう。まず構造の類似性。水はH₂O、水素2個と酸素1個からなる分子だ。アンモニアはNH₃、水素3個と窒素1個。どちらも水素を含む曲がった形の分子で、「水素結合」を形成できる点が共通している。水素結合こそが水の優秀な溶媒性の根拠の一つだから、アンモニアも同様の溶媒能力を持ちうる。

次に温度の問題。水は0℃から100℃の間で液体として存在するが、アンモニアは大気圧下では-77℃から-33℃が液体の温度帯だ。地球ではどこでも気体として揮発してしまうが(あの鼻を突く刺激臭を持つ気体だ)、より低温の天体であれば液体のアンモニアが「海」として存在しうる。土星の衛星タイタンがしばしば候補として挙げられるのはこのためで、表面温度が約-179℃のタイタンにはアンモニアを含む複雑な大気と、液体の炭化水素の湖が実際に確認されている。

ただしアンモニアにも欠点がある。水に比べると有機分子を溶かす能力が限られているし、電気の通しやすさ(電気伝導性)も低い。地球型のタンパク質や核酸(DNAの仲間)がアンモニア中で同じように機能するかは疑問だ。だからアンモニア生命体は、地球生命と同じ分子を使うのではなく、アンモニアという溶媒に最適化された別の生化学を持つと考えられるだろう。

ロッキーは何を「燃やして」生きているのか

では、アンモニアベースの生化学はどんな代謝反応を使うのか。

地球の好気性生物、私たちを含む、が行っているエネルギー代謝を大まかに言えばこうなる。食事で取り込んだ糖などの有機物を、吸い込んだ酸素で「燃やす」。この反応で二酸化炭素と水と熱が生まれ、そのエネルギーを「ATP」という分子に蓄えて細胞の仕事に使う。呼吸とは平たく言えば、体内で炭素化合物を酸素で酸化させる燃焼反応だ。炭素と酸素が結びついてCO₂になり、水素と酸素が結びついてH₂Oになる。その過程で放出されるエネルギーで私たちは動いている。

アンモニアを溶媒とする生命体の代謝を設計するとすれば、窒素化合物の酸化還元反応が有力な候補になる。実は地球にも、アンモニアからエネルギーを得る細菌が実在している。「硝化細菌」と呼ばれるグループで、土壌や水中に棲み、アンモニア(NH₃)を亜硝酸(NO₂⁻)へと酸化する過程でエネルギーを取り出す。この反応では電子がアンモニアから引き抜かれ、その電子の流れがエネルギーを生み出す。人間が糖から電子を引き抜いてエネルギーを得るのと、原理は同じだ。

ロッキーの体内ではこれに類似した代謝が機能していると考えられる。そして「燃焼」の結果として何が排出されるか。原作の答えは美しい逆転になっている。水だ。

なぜ水が出てくるのか。アンモニアはNH₃、つまり窒素1個に水素原子が3個くっついた分子だ。この水素原子が代謝の過程で引き抜かれ、酸素と結合してH₂O、水になる。私たちが炭素化合物を燃やして二酸化炭素を吐き出すように、ロッキーは窒素化合物を燃やして水蒸気を吐き出す。地球の生命圏全体の前提であり、NASAが「水を追え」と言い続けてきたあの水分子が、ロッキーにとっては処理すべき廃棄物だ。

ここで少し立ち止まって考えてみてほしい。ある生物にとっての「燃料」が、別の生物にとっての「廃棄物」になるという逆転は、地球の歴史でも一度起きていることだ。約24億年前、シアノバクテリアと呼ばれる光合成細菌が爆発的に増殖し、その「排気ガス」として大気中に垂れ流したのが酸素だ。当時の地球生命にとって酸素は猛毒であり、このシアノバクテリアの廃棄物によって既存の生命の大半が絶滅した。「大酸化イベント」と呼ばれる地球史上最大級の環境激変だ。酸素を燃料として使う現在の私たちは、かつての「廃棄物汚染」の生き残りである。ロッキーが吐き出す水が、彼の惑星の生態系においてどんな役割を果たしているか。そう考え始めると、想像が止まらなくなる。

もう一つ重要な点がある。私たちヒトを含む地球の多くの生物は、大気中の酸素を使ってエネルギーを作っている。仕組みをざっくり言うと、食べ物から電子を引き抜いて、それをリレーのようにタンパク質間で次々と受け渡し、最後に酸素に「捨てる」ことでエネルギーを得ている。酸素はいわば工場の生産ラインの末端に置かれたゴミ箱のような存在で、これがないとライン全体が詰まって止まってしまう。だから私たちは酸素がなければ生きられない。

ところが窒素化合物を燃料とする代謝では、この「ゴミ箱」の役割を酸素以外の物質が担える。ロッキーの故郷の大気に酸素が乏しくても、生命として成立しうるのはそのためだ。宇宙生物学が「ハビタブルゾーン(生命居住可能域)」を論じるとき、かつては液体の水と酸素大気の存在が前提とされていたが、ロッキーはその前提が地球的偏見に過ぎなかったことを体現しているのである。

ここでグレースの博士論文が学界で受け入れられなかったという設定に、現実の科学的文脈を重ねておきたい。「生命に水は本当に必要なのか」という問いに、現在の科学はまだ明確に答えられていない。NASAが宇宙探索の方針として「水を追え」というスローガンを掲げてきたのは事実だ。火星に液体の水の痕跡を探し、木星の衛星エウロパの地下海に注目するのも、この方針に基づいている。だが「水があれば生命がいる」という発想自体、科学者の間では本気で疑問視されつつある。

なぜか。水は確かに優秀な溶媒だが、「良すぎる」という問題がある。溶媒とは化学反応が起きる「舞台」のことで、水はあらゆるものを溶かす万能の舞台だ。だがその万能さゆえに、生命の誕生に必要な複雑な有機分子の結合まで切ってしまうことがある。料理に例えるなら、包丁が鋭すぎて食材を切りすぎてしまうようなものだ。生命が誕生するには分子が安定してつながり合える環境が必要なのに、そのための水が肝心の分子を分解してしまう。これを「水パラドックス」と呼ぶ。この矛盾から、「生命の起源はむしろ水のない環境だったのではないか」「別の溶媒が生命誕生の揺りかごだったのではないか」という研究が今も続いており、2024年にMITの研究チームが発表した論文も、こうした代替溶媒の可能性を真剣に検討したものだ。

グレースの博士論文、「生命に必要なのは水ではなく、触媒反応の連鎖だ」という主張は、荒唐無稽なトンデモ論ではなく、現実の宇宙生物学の最前線で議論されている考え方と地続きだ。それが当時の学界で受け入れられなかったのは、「水パラダイム」という長年の常識の壁があったからだろう。ウィアーはそこにもリアリティを込めている。


言葉が通じない地球外生命体と、どうやって話すか?

ロッキーとの邂逅は、この映画が単なる宇宙サバイバルものではなく、「コミュニケーション論」の映画でもあることを示している。

ここで思い出すのは、ドゥニ・ヴィルヌーヴの『メッセージ』(2016年)だろう。あの映画もまた、人類と言語的基盤を共有しない異星人との接触を描いた作品で、言語学者エイミー・アダムスがヘプタポッドと対話を試みる過程を丁寧に描いた作品である。言語を学ぶことで時間の認識が変わるという命題を中心に据え、「言語が思考の枠組みを決める」というサピア=ウォーフ仮説の極北として機能していたと言えよう。

『メッセージ』もまた最高のファーストコンタクトSFである。ぜひ映画と原作小説『あなたの人生の物語』を薦めたい

だが『プロジェクト・ヘイル・メアリー』が採用した接触の論理は、『メッセージ』と根本的に異なるものだ。

『メッセージ』が「言語を共有することで初めて理解が生まれる」という命題を掘り下げたのに対し、こちらは「言語以前に、科学が普遍的な記述体系として存在する」という命題を土台にしている。グレースとロッキーが最初に共有するのは言葉ではなく、「数」であり「原子番号」であり「化学結合の構造」である。

元素の宇宙的普遍性

なぜ原子番号が「宇宙共通の言語」になるのか。

宇宙に存在する元素──水素、炭素、酸素、鉄などの原子──は、すべてビッグバン直後の元素合成と、その後の恒星内核融合によって生成された。水素はビッグバン直後から存在し、より重い元素は恒星の内部での核融合や超新星爆発で作られ、宇宙空間に撒き散らされてきた。私たちの体を構成する炭素や酸素は、遠い昔に死んだ星の残骸だ。

そして宇宙のどこでも、原子番号8の元素は酸素であり、原子番号6の元素は炭素であり、原子番号1の元素は水素だ。これは宇宙の物理定数と量子力学の法則が均一であるかぎり変わらない。銀河の反対側の文明でも、原子核の陽子数が8であれば必ず酸素の化学的性質を持つ、これが元素の宇宙的普遍性だ。

だからグレースがロッキーの提示した立体模型を見て「陽子が8個、酸素だ」と気づく瞬間は、SFの設定上の便宜ではなく、宇宙物理学的な必然として成立している。言葉は通じなくても、原子番号は通じるというわけだ。

ゴールデンレコードとSETI──人類はずっとこれを考えてきた

実はこの「科学を共通言語にして宇宙人と話す」というアイデアは、何もフィクションの専売特許ではない。

1977年、NASAは太陽系外に向けて2機の探査機「ボイジャー1号・2号」を打ち上げた。万が一宇宙人がこれらを発見した場合に備えて、船体には金色のレコード盤が取り付けられた。「ゴールデンレコード」と呼ばれるこの円盤には、地球の音楽、55言語の挨拶、自然の音、そして地球の位置を示す情報が収録されている。選定委員会を率いたのはカール・セーガンだ。このレコードには、言語が通じない相手に「ここに生命がいます」と伝えるための、様々な工夫が施されている。レコードの再生方法は図で示され、「水素原子のスピン遷移周波数」を時間と距離の単位として使った。宇宙のどこでも水素は水素であり、その周波数は測定可能だからだ。

NASAのゴールデンレコード

同じ思想が「SETI(地球外知的生命探査)」の通信設計にも貫かれている。1974年にアレシボ天文台から送信された「アレシボ・メッセージ」は、素数を組み合わせたバイナリコードで二次元の絵を伝えようとした設計だ。素数は宇宙のどこでも素数であり、数学は「言語の外側にある普遍的構造」として機能する。SETIの研究者たちが長年議論してきた問い──「異星人に何を最初に送るべきか」──への答えは、ほぼ一貫して「数学と物理定数」だったのである。

グレースとロッキーが原子番号から対話を始めたことは、半世紀にわたるSETI研究者の直感が正しかったことを示す、美しいSF的回答だと言えるだろう。

音で見るということ

さて、ロッキーの知覚についても話しておく必要がある。彼は視覚器官を持たず、音波によって周囲を把握する生物だ。

音で世界を見るとはどういうことか、想像してみてほしい。コウモリはよく知られた例で、超音波を発して反射した音で周囲の形状を把握する「反響定位」を使う。暗闇でも昆虫を捕まえられるほど精密だが、この能力は基本的に障害物の位置と距離の把握が中心だ。一方、クジラは低周波の音を使って数百キロメートル先の仲間と会話し、海底の地形を把握する。

ロッキーの場合、これを極限まで発達させた「音の視覚」だと考えてほしい。音波の周波数、位相、反射パターンを立体的に処理することで、光の代わりに音の「像」を結ぶ──ロッキーが経験する世界は、光ではなく音によって彩られている。色ではなく音の質感で物体を識別し、光の変化ではなく音の変化で時間の流れを感じる。

一方グレースは視覚中心の動物で、音で世界を立体的に把握する感覚様式を持っていない。この根本的な知覚様式の非対称性が、両者の最初のコミュニケーションを非常に特殊なものにしている。

宇宙線や相対性理論を知らない高度文明

そして、最も哲学的に面白い非対称性がある。ロッキーが「宇宙線」という概念を知らない、という場面が原作に存在する。

宇宙線(コズミックレイ)とは、宇宙空間を飛び交う高エネルギーの粒子線のことだ。主に超新星爆発などで加速された陽子や原子核が、光速に近い速度で宇宙を飛来する。地球は磁場と大気によってある程度は遮蔽されているが、宇宙飛行士が長期ミッションにおいて被曝リスクを持つのはこの宇宙線が原因だ。

宇宙線の存在は1912年に、オーストリアの物理学者ヴィクトール・ヘスが気球による高高度観測で発見した。高度が上がるほど電離放射線の量が増えることに気づき、これが宇宙から降り注ぐ放射線によるものだと突き止めた(後にノーベル賞を受賞した発見だ)。つまり宇宙線を発見するには「上空に測定器を持ち上げる」という経験が必要だった。

ヴィクトール・ヘスの気球による宇宙線の発見

だがロッキーはこれを知らない。それどころか、相対性理論についての知識も地球人と比べて著しく乏しい。宇宙旅行ができるほどの技術を持つ文明が、なぜだろうか?

ここにエリディアンの知覚様式が深く関わっている。ロッキーたちは光ではなく音波で世界を「見る」。これは単なる感覚の違いではなく、どんな科学的問いを立てるかを根本から規定する。

特殊相対性理論がどのように生まれたか、少し寄り道して説明しよう。19世紀末、物理学者たちは光の性質を記述するマクスウェルの電磁気学という理論を持っていた。この理論は非常に精密だったが、一つ奇妙な点があった。光の速度が「誰から見ても同じ」になってしまうのだ。ボールを投げた人が走りながら投げれば、ボールは速くなる。しかし光は違う。どんな速度で動いている人が測っても、光の速さは変わらない。このおかしさに正面から向き合い、「ならば時間と空間の方が伸び縮みするのだ」という革命的な結論に辿り着いたのが、若きアインシュタインだった。特殊相対性理論とは突き詰めれば、光という電磁波の性質を徹底的に問い詰めた先に現れた理論なのだ。

相対性理論を構築したアインシュタイン。

ところがロッキーたちは、そもそも光で世界を把握しない。音波を使って周囲を認識する彼らにとって、「光の速度が誰から見ても同じ」という奇妙さは日常の中に現れない。問いが生まれない場所では、答えも生まれない。電磁波の概念への到達が遅れ、その延長線上にある相対性理論もまた未発達のまま、エリディアンは別の道筋で宇宙旅行技術を開発したのだろう。音響学や流体力学においては地球人の遥か先を行っているわけであるから。

考えてみると、科学の発展は「何に困ったか」「どんな環境にいたか」によって大きく左右される。もしロッキーの故郷の惑星が非常に強い磁場を持ち、宇宙線を完全に遮蔽していたなら、エリディアンは宇宙線の存在を経験せずに文明を発展させてきた可能性がある。あるいは母星の近くを飛び交う宇宙線の量がそもそも低い宇宙環境にいたなら、同じことが起きる。

人間だって、重力が地球の100倍の惑星に住んでいたら「物は落ちる」という現象に気づくのに苦労しなかったかもしれない。いや、逆に重力が当たり前すぎて概念として取り出すのに時間がかかったかもしれない。科学とは「問題として認識できたものを解く」行為だ。光で世界を見ない文明は光の問いを立てず、宇宙線を経験しない文明は宇宙線という問題を認識するに至らないのだろう。

さらに言えば、ロッキーが「数学の基底」として六進法を使う事実も同じことを示している。人間が十進法を使うのは、指が10本あるからだとされている(厳密には諸説あるが)。コンピュータが二進法を使うのは、電気の「オン/オフ」という2値が基本単位だからだ。ロッキーが六進法を使うということは、身体のどこかに「6」を自然に生み出す構造がある。たとえば肢が6本あるとか、重要な感覚器官が6つあるとか。身体の形が、数学の土台を作る。

地球人とは異なる身体を持ち、異なる環境に育ち、異なる「困り方」をしてきたロッキーの文明は、地球の科学とは異なる部分を先に解決し、別の部分を知らないままでいる。それでも元素の周期表は共通だ。12光年離れた場所で、まったく別々に進化した二つの知性が、独立に同じ表を作り上げていた。科学とは発明ではなく発見なのだ、ということを、この事実ほど雄弁に語るものはないだろう。


この美しいSFへの愛について

ここまで読んできた方に、最後に一つ言っておきたいことがある。

改めて考えてみると、アンディ・ウィアーの作品には悪役が登場しない。

普通のSFなら、このスケールの危機には陰謀があり、利益のために真実を隠す官僚がいて、主人公の邪魔をする権力者がいる。あるいは宇宙人が敵として登場する。だがウィアーはそういう物語を書かない。『火星の人』でも、マーク・ワトニーが火星に一人残された時、地球では誰も彼を見捨てようとしなかった。NASAも中国も、できる限りのことをした。本作でも同じだ。ストラットは独裁的で容赦がないが、それは人類を救うためだ。各国の政府は既得権益のために争うが、最終的には協力する。そして宇宙人ロッキーは敵ではない。同じ問題に直面した隣人として現れる。宇宙での孤立という極限状況を描きながら、ウィアーが描き続けるのは人間の善意と、科学的方法論への信頼だ。

グレースが宇宙船で目覚めてから問題を解決していく過程を振り返ってみてほしい。彼は超人でも天才でもない。ただ手元にあるものを使い、観察し、仮説を立て、実験し、間違えたら修正する。振り子で重力を測る。ガンマ線をアストロファージに当てて「まったく理屈に合わない」と言いながらも記録する。体温が96.415度という奇妙な値の理由を、素粒子物理学まで遡って解明する。この「問題解決の快楽」こそが、ウィアーの小説をこれほど多くの人が愛する理由だ。科学とは世界への誠実な問いかけであり、分からないことに正面から向き合い続ける行為だ。その営みに宿る純粋な喜びをウィアーは愚直に肯定し続ける作家である。

そしてここで、冒頭の問いに戻ろう。グレースは記憶を失っても、科学的思考だけは手放さなかった。自分の名前も、誰かを愛した記憶も消えた状態で、それでも振り子を振り、仮説を立て、実験した。個人の記憶とは「私」という存在の輪郭だが、科学はその輪郭を必要としない。科学とは知識の総体である前に、問いを立てる姿勢であり、それは記憶を失っても、言葉が通じなくても、失われない。ウィアーはこの映画を通じて、科学というものの本質について、これ以上ないほど静かで力強い賛歌を書いたのだと思う。

そしてロッキーとの友情が成立する瞬間がある。言語もなく、生物学的基盤も異なり、触れることすらできない相手との間に、確かな信頼と愛着が生まれる。宇宙には脅威ではなく友人がいるかもしれない。ウィアーはこの命題を、SETI研究者が夢想してきたどの宇宙人像よりも具体的に、かつ感情的に説得力のある形で書いた。フェルミのパラドックスへの一つの回答として、「知的生命体は出会ったら敵対するのではなく協力する」という楽観的な可能性を、真剣な科学的考証に乗せて提示したのだ。

この物語が映画化されることを、私は本当に嬉しく思っている。

2026年の今、この映画が公開されることには、単なる娯楽作品の公開を超えた意味があると感じている。国家間の対立が深まり、科学への信頼が揺らぎ、隣人を疑うことが合理的だと思われるような時代に、この映画はスクリーンの上でまったく逆のことを主張する。人類は協力できる。科学は美しい。言葉も通じない、触れることすらできない相手とでも、信頼は生まれる。そういうことを、説教としてではなく、息もつかせぬ物語の必然として見せてくれる。フィクションにしかできないことが、確かにある。

映画館を出た後、夜空を見上げてみてほしい。あの無数の星のどこかに、ロッキーのような隣人がいるかもしれない。異なる身体を持ち、異なる言語を持ち、異なる宇宙の見え方をしていながら、それでも同じ好奇心を持って夜空を眺めている誰かが。まだ出会えていないだけで、宇宙は思ったより孤独な場所ではないかもしれない。



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Joshua Connolly 物理学者が映画について本気で考える、ちょっと変わった記事を書いています。「面白かった」と思っていただけたら、それだけで十分ですが、チップをいただけたらコーヒー片手にもう1本書きます。

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