『境界線上の視線』序章:覚醒のプレリュード 【第1話:最初の訪問者】
五月、風薫るとはこのことだろうか。
事務所の大きな窓を開け放つと、街路樹のケヤキが芽吹かせた若葉の匂いを乗せた、初夏の柔らかな風が流れ込んできた。
目に眩しいほどの鮮やかな緑が窓の外に広がり、穏やかな昼下がりの光が、磨き上げられたマホガニーのデスクを明るく照らしている。
午前中に担当した裁判は、後味の悪さだけを残して終わったけれど、この心地よい午後の空気は、ささくれ立った私の心を少しだけ凪がせてくれるようだった。
「先生、お疲れ様です。午後のご予定ですが、13時半から、足立斗真様のご予約が入っております」
内線電話からのカオリさん――鈴木香織事務員の、いつもながらに落ち着いた、しかしどこか陽だまりのような温かみを持つ声が、私の思考を現実へと引き戻した。
「ありがとう、カオリさん。時間通りね。準備はできているわ」
「足立様、お電話ではかなり緊張されているご様子でしたね。金銭トラブルとのことですが…」
「ええ、内容は連帯保証の問題のようね。初めての方だし、少し気弱そうな声の印象だったから、あまり萎縮させてしまわないように、丁寧に対応しましょう」
「はい、もちろんです。リラックスしてお話しいただけるように、お迎えしますね」
カオリさんの細やかな気配りは、時に私の鋭すぎる部分を補い、この事務所の生命線ともなっている。
彼女がいるからこそ、私は複雑な案件にも集中できる。
受話器を置き、私は背筋を伸ばし、軽く首を回した。
今日の装いは、クライアントに安心感と信頼感を与えることを第一に考えた、紺色のシンプルなノーカラージャケットと同素材の膝丈タイトスカート。
インナーには、顔写りの良い、光沢のある白のシルクブラウスを選んだ。
プロフェッショナルとしての私を構成する、いわば鎧であり、舞台衣装だ。
肩につく長さの艶やかな黒髪は、今日も寸分の乱れなく夜会巻き風にまとめ上げている。
鏡に映る自分の姿を確認する。
そこにいるのは、弁護士・林美琴。
かつて世界のランウェイを歩いた元国際モデルであった過去は、今はもう意識の奥底に封印しているつもりだ。
だが、長年培われた姿勢や所作、そして向けられる視線へのある種の「慣れ」は、良くも悪も私の身体に染み付いていた。
今日の依頼人は、私をどう見るだろうか?
単なる法律家としてか、それとも…。
いや、今は目の前の依頼人に集中しなければ。
脚には、肌の色を自然に見せる15デニールのベージュストッキング。
そして足元は、安定感と品格を両立させる5センチヒールのプレーンな黒パンプス。
これが、今の私のスタンダード。
13時半きっかりに、内線が鳴った。
「先生、足立様がお見えになりました」
「ありがとう。特別応接室へどうぞ」
私は立ち上がり、ジャケットのボタンを一つ留め、応接室へと向かった。
ドアを丁寧にノックし、「失礼します」と静かに声をかけ、中に足を踏み入れる。
そこには、ソファに浅く腰掛け、硬い表情でこちらを見上げる男性がいた。
足立斗真氏。
電話の声の印象を裏切らない、どこか頼りなげで、自信なさげな雰囲気を纏っている。
「はじめまして、弁護士の林美琴です。どうぞ、そのままおかけください」
私が微笑みかけると、彼はびくりとしたように立ち上がり、まるでゼンマイ仕掛けの人形のように、深々と頭を下げた。
その視線は床の一点に固定されている。
「あ、は、はじめまして! 足立斗真と申します! 本日は、その、お忙しいところ、貴重なお時間をいただき、本当にありがとうございます!」
やはり声は小さく、語尾が震えている。
歳の頃は三十代半ばだろうか、着ている濃紺のスーツは、おそらく彼にとっては一張羅なのだろう。
だが、サイズが微妙に合っておらず、肩のラインが落ちて見える。
磨かれてはいるものの、つま先に擦れた跡のある革靴。
全体的に、「きちんとしなければ」という彼の必死な努力と、それを裏切るかのような自信の欠如が、痛々しいほどに伝わってきた。
「林がお話を伺います。鈴木、同席をお願い」
「はい、先生。足立様、はじめまして、鈴木香織と申します。よろしくお願いいたします」
カオリさんが、柔らかな笑顔と共に丁寧に挨拶し、私の隣に腰を下ろした。
彼女は今日、淡いピンクベージュの七分袖ブラウスに、チャコールグレーのフレアスカートという装い。
肩までの柔らかなウェーブのかかった髪は、清楚なハーフアップにまとめられている。
足元は、透け感の少ない黒のストッキングに、安定感のある3センチヒールのラウンドトゥパンプス。
彼女の優しく、しかし芯の通った真面目さが、その装いからも感じ取れた。
「足立さん、本日は金銭トラブルのご相談とのことですが、まずはどうぞリラックスなさってください。お茶でもお持ちしますので、ゆっくりとお話しいただければと思います」
カオリさんの優しい声に、足立氏は少しだけ表情を和らげ、「あ…はい、すみません。ありがとうございます」と小さく呟いた。
その視線が、一瞬だけカオリさんの顔を捉え、そしてすぐにまた床へと落ちた。
カオリさんがお茶の準備のために一旦席を立つ。
重厚なマホガニーのテーブルを挟んで、私と足立氏、二人きりの空間になる。
部屋には、壁にかけられた現代アートの静かな存在感と、窓から差し込む午後の光、そして、彼の緊張が生み出す重たい沈黙だけがあった。
私は無理に話しかけず、彼が自ら口を開くのを待った。
彼は視線を膝の上の鞄に落とし、指先でその表面を神経質そうに撫で続けている。
「あの…先生は、その…テレビとか、雑誌とかにも、出られてるような…有名な先生、なんですよね…?」
沈黙を破ったのは、彼の意外な言葉だった。
「いいえ?」私は少し驚いて聞き返した。
「テレビや雑誌にですか? 残念ながら、私はそのようなメディアに出るような活動はしておりませんが…」
「あ、そ、そうなんですか!? すみません、勘違いで…! なんだか、すごく…こう、オーラがあるというか、普通の人とは違う感じがしたので…」
彼は慌てて言葉を取り繕う。
その純粋な(?)驚きと、どこか人を観察するような口ぶりに、私は内心で小さく眉をひそめた。
(オーラ…? 私が、普通と違う…?)
「恐縮です。ですが、私は普通の弁護士ですよ」私は軽く微笑んで受け流した。
すると、隣で聞いていたカオリさんが、少し悪戯っぽく、しかし誇らしげに口を挟んだ。
「足立さん、驚かれるのも無理ないですよ。実は、うちの先生、弁護士になる前は、世界で活躍されていた、すごいモデルさんだったんですよ!」
「えっ!? モ、モデル…!? あの、ファッションモデルの…!?」
足立氏は、文字通り目を丸くして私を見た。
その瞳には、驚愕と、信じられないという色、そして…ほんの一瞬、何か別の、強い光が宿ったように見えた。
「カ、カオリさん! 余計なことを…」
私は思わずカオリさんを軽く睨んだ。昔の話を、特に初対面の依頼人の前でする必要はない。
あ、すみません、先生! つい…でも、本当のことですし!」
カオリさんは、ぺろりと舌を出して謝る。悪気がないのは分かっているのだが…。
私は咳払いをして、話題を元に戻した。
「昔の話ですよ、足立さん。今は、ただの弁護士です。それより、あなたご自身のことをお聞かせいただけますか? まずは、どのような経緯で連帯保証人になられたのか、覚えている範囲で結構ですので」
「あ、は、はい…! そうですよね、すみません…!」
彼は慌てて姿勢を正した。
だが、その視線は、先ほどまでとは明らかに質が変わっていた。
依然として緊張はしているものの、そこには明確な**「興味」と、そして、私の「元モデル」という属性に対する、ある種の「特別な意識」**が加わったように感じられた。
彼の視線が、私の顔だけでなく、全身のシルエット、そして…特に、テーブルの下の脚元へと、以前よりも頻繁に、そして長く注がれるようになった気がする。
…まずいわね。カオリさんの余計な一言で、彼の中で何かが変わってしまったかもしれない…)
一抹の不安を覚えつつ、私は彼の話に耳を傾けた。
彼が語り始めたのは、学生時代からの友人だという人物に、「事業を始めるための融資で、どうしても保証人が必要だ」と泣きつかれた経緯だった。
「絶対に迷惑はかけないから」「すぐに事業が軌道に乗るから」…そんな甘い言葉を信じ、断り切れずに判を押してしまったのだという。
友人の事業内容はおろか、借入先の金融機関の名前すら、彼は正確には覚えていなかった。
あまりにも典型的で、そして救いのない話だった。
「契約書は…これ一枚しか手元になくて…」
彼がおずおずと差し出した書類のコピーは、皺が寄り、少し黄ばんでいた。
私はそれを受け取り、丁寧に目を通す。
「ふむ…契約内容自体は定型的なものですね。連帯保証人である足立さんは、主債務者と同等の返済義務を負う、と明確に記載されています。…保証人になる際、ご自身の収入状況などは、ご友人に正確に伝えられましたか?」
「いえ…それが、あまり詳しくは…聞かれもしませんでしたし、私も、その時はまさかこんなことになるとは思わなくて…大丈夫だろうと…」
「そうですか…」
私は小さく息をついた。
彼の脇の甘さ、人の良さが裏目に出てしまった典型的なケースだ。
質疑応答を重ねる中で、私は彼の視線の変化を、より注意深く観察していた。
彼は、私の目を見て話そうとはするものの、その視線は明らかに私の脚元へと頻繁に落ちる。
そして、それはもう「どこを見ていいか分からない」という類の動きではない。
明確な**「対象」を捉えようとする、集中した視線だ。
特に、私が足を組み替えたり、スカートの裾がわずかに揺れたりすると、彼の喉がごくりと鳴り、瞳の奥にあの湿った熱**が宿るのが分かった。
(…間違いない。彼は、私の過去を知った上で、私の脚を…『元モデルの脚』として、特別な目で意識している…!)
確信に近い思いが、私の中で形になっていく。
そして、それは強い警戒心へと変わった。
「それで、足立さん、現在のご収入についてですが…」
私は話題を変え、彼の経済状況について尋ねた。
「あ、はい…」
彼は一瞬言葉に詰まり、恥ずかしそうに俯いた。
「今は…その…駅前の居酒屋で、アルバイトをしていまして…。主に、深夜のシフトなんですけど…それで、手取りだと、月十五万、あれば良い方で…」
彼の言葉から、彼の困窮した状況と、社会的な立場の不安定さが伝わってくる。
それが、彼の歪んだ執着とどう結びついているのか…?
私は、債務整理の基本的な流れについて説明を始めた。
自己破産、任意整理、個人再生…。
それぞれのメリット・デメリット。
彼の視線は、説明を聞きながらも、やはり私の脚元へと繰り返し注がれている。
まるで、その光景を目に焼き付けようとするかのように。
(…この執着は、単なる憧れだけではない。もっと根深い、劣等感や、あるいは支配欲のようなものが絡んでいるのかもしれない…)
彼の心理を探ろうと、私は意識的に、足を組み替える動作を少しだけ大きくしてみた。
ストッキング越しの肌が滑らかに動き、パンプスのヒールが床を軽く打つ。
その瞬間、彼の呼吸が明らかに浅くなり、視線が私の足首に突き刺さるように固定された。
(…反応したわね…)
私は内心で呟き、すぐに足を元の位置に戻した。
これ以上、彼を刺激するのは危険だ。
結局、その日の面談では、具体的な方針決定には至らなかった。
まずは足立氏に、自身の収支や財産の状況を正確に把握してもらい、関連書類を全て集めてもらうこと。
そして、それらを基に、次回の面談で最適な解決策を一緒に検討していく、ということで話がまとまった。
「ありがとうございました、先生! あの…先生のようなすごい方に相談できて…本当に、光栄です…!」
面談が終わり、ソファから立ち上がりながら、足立氏は感極まったような表情で言った。
その「すごい方」という言葉に、彼の私に対する歪んだ認識が透けて見えた。
「そうですか、それは良かったです」
私はビジネスライクな笑顔で返した。
「大変だと思いますが、一人で抱え込まず、いつでもご相談ください。一緒に乗り越えましょう」
「はい…! よろしくお願いします!」
彼は、来た時よりもさらに深く頭を下げ、名残惜しそうにしながら応接室を出ていった。
その際、最後にドアが閉まる直前、彼の視線が、もう一度だけ、私の足元に向けられたような気がしたが、それはもう、確証のない感覚でしかなかった。
カオリさんが彼を玄関まで見送り、一人になった応接室。
窓の外は、いつの間にか西日が差し込み、部屋に長い影を落としていた。
私は、深く、重い溜息をついた。妙に疲労感が漂う。
「先生、お疲れ様でした」
戻ってきたカオリさんが、お茶を淹れ直しながら言った。
「足立さん、なんだか先生のことをすごく尊敬しているみたいでしたね…モデルだったって聞いて、びっくりされてましたけど」
「…ええ、そうみたいね」
私は曖昧に頷いた。
「でも、カオリさん、彼には少し注意が必要かもしれないわ」
「え? 注意、ですか?」
「ええ。彼の視線…少し気にならなかった?」
「視線、ですか…? そう言われれば、少し落ち着きがない感じはしましたけど…緊張されてるのかな、と…」
やはり、カオリさんは核心には気づいていない。
いや、気づかない方が、彼女にとっては良いのかもしれない。
「…そうね、そうかもしれないわ。考えすぎね」
私は努めて明るく言った。
「さ、私たちも少し休憩しましょうか」
だが、私の心の中には、もはや無視できない疑念の種が、しっかりと根を下ろしていた。
足立斗真、彼の抱える問題は、金銭トラブルだけではない。
そして、彼の私への関心は、単なる依頼人のそれではない。
次回の面談。
その時、私は、彼の心の闇の、さらに深い部分を覗き込むことになるのかもしれない。
そして、それは、私にとっても、カオリさんにとっても、危険な領域への第一歩となる予感がしていた。
(第1話 了)
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
