ドラゴンボールとM-1は同じ武器を使っている
M-1は、お笑い賞レースの中でも圧倒的な人気がある。
もちろん、歴史や知名度、年末の風物詩として定着していることなど、理由はいくつもある。
それでも私は、漫才という形式そのものが持つ強さも大きいと思っている。そのことを考えていて、思い出した作品がある。
『ドラゴンボール』だ。
鳥山明先生は、新しいキャラクターを登場させるとき、一人ではなく二人以上をセットで登場させることが非常に多い。
ヤムチャとプーアル。
天津飯とチャオズ。
ベジータとナッパ。
ザーボンとドドリア。
ドクター・ゲロと19号。
17号と18号。
ダーブラとバビディ。
もちろん例外はある。
それでも、このパターンが何度も繰り返されるのは偶然ではないと思う。
なぜなら、人物は一人では描きにくいからだ。
例えばベジータという人物は、ナッパがいるからこそ見えてくる。
ナッパへの命令。
ナッパへの苛立ち。
そして、勝利のためなら仲間さえ切り捨てる判断。
これらは「ベジータは冷酷です」と説明されるよりも、ナッパとの関係を見る方がはるかによく伝わる。
ダーブラも、バビディに従う姿を見るだけで、肩書きだけでは分からない立場や性格が見えてくる。
鳥山先生が描いているのは、キャラクターではない。
キャラクター同士の関係性なのだ。
そして、その関係性が人物像を浮かび上がらせている。
これは漫画だけの話ではない。
漫才も同じ構造をしている。
ボケとツッコミが話し始めるだけで、
「天然なんだな」
「理屈っぽい人なんだな」
「押しが強い人なんだな」
という人物像が伝わる。
しかし、本当に面白いのはそこではない。
観客が見ているのは、「面白い人」ではなく、面白い関係性である。
振り回す人。
振り回される人。
暴走する人。
止める人。
遠慮なくツッコめる距離感。
絶妙な信頼関係。
漫才が描いているのは、二人の人間関係そのものだ。
だから観客は、「この人が好き」だけではなく、
「この二人が好き」
になる。
キングオブコントは役を演じる芸であり、R-1は一人で世界を作る芸である。
どちらにも、それぞれにしかない魅力がある。
一方で、漫才は最初から「関係性」を見せられる。
だから短時間でも人物像が伝わりやすい。
そして、その関係性ごと好きになってもらえる。
ドラゴンボールがキャラクターを魅力的に見せるために使った武器。
M-1が芸人を魅力的に見せるために使っている武器。
どちらも同じである。
人(キャラクター)を描くのではない。
人と人との関係(キャラクター同士の関係性)を描くのである。
