【第3話 自閉症の子と歩んだ29年】 診断の日──そして、小さな希望が芽生えるまで
1歳6ヶ月から3歳まで──「様子を見ましょう」の日々
1歳6ヶ月健診で言われた言葉。
「様子を見ましょう」
心配が解決したわけではありませんでした。不安は残りました。でも私たち夫婦は、「男の子は成長が遅い」「個人差もある」という周囲の言葉に、納得しようとしていました。
ショーは相変わらず、トミカの車を並べ続けていました。
1歳頃から始まったその遊び方は、3歳になっても変わりませんでした。20台ほどの車を、いつも同じ位置に、横付けで並べる。毎日、毎日、繰り返していました。
「なぜ車を走らせるマネをしないのだろう」
私や妻が車を走らせてみても、ショーはこちらを見ず、また車を並べ続けるだけでした。並べ方を変えても、動かしても、無反応。そしてまた、黙々と並べ直していました。
言葉も出ませんでした。「パパ」「ママ」「アンパンマン」──この3つ以外、ほとんど何も。
妻は漠然とした不安を抱えていました。私は「個人差かな」と思いながらも、ショーをよく抱き上げ、話しかけ、私なりに精いっぱいの愛情を注いでいました。
3歳児健診──運命の日

3歳児健診は、町役場の保健センターの1室で行われました。
検診には夫婦で行きました。
個室での検診でした。個室を出ると、他の検診を受ける母子が多くいたのを覚えています。
私たちは、そこで、児童相談所の相談員から告げられました。
「自閉症の可能性が高いです」
言葉が出ていないこと。トミカの車を毎日同じ向きに並べて遊ぶという反復行動──これらから、そう判断されたのです。
妻は自閉症の説明を受けましたが、最初はよく分からなかったようです。発達が定型発達でないこと、脳機能に起因すると言われていること──そう説明されただけでは、理解が追いつきませんでした。でも発達が遅れていることに診断名が付いたことには、大きなショックだったようです。
妻はただ、早く家に帰りたい、そして大学病院に早く行って、早く治療したいと思ったそうです。
帰宅した妻と、私たちは話しました。
「できるだけ早く大学病院に行って、早く治療してもらおう」
そう決めました。
大学病院小児精神科へ

検診から2ヶ月ほど経った頃、私たちは大学病院の小児精神科を訪れました。車で30分の距離でした。
精神科には行ったことがありませんでした。恐る恐る、足を踏み入れました。
「いろんな診療科があるんだな」
そう思いながら、小児神経科の前に立ちました。精神科だという意識があったからでしょうか、建物が古く、暗い感じがしました。
でも、看護師さんが子供が喜びそうな明るい感じのエプロンをしていて、明るく話しかけてくれました。その瞬間、私の気持ちも少しだけ明るい方向に傾きました。
診察室には、夫婦二人で入りました。ショーも一緒です。
医師は30歳くらいの男性でした。若い助手の方で、話し方はボソボソとした感じでした。後に知ることになりますが、この方はいま、教授をされています。
医師は聞きました。出産時の様子、成長の記録、いつ歩き出したか、発語の様子──。
私たちは答えました。
出産時には異常がなかったこと。ハイハイ歩き、つかまり立ち、一人歩きの時期が遅れたこと。言葉が「パパ・ママ・アンパンマン」以外はほとんど出ないこと。トミカの車を横に並べることを繰り返し、車で遊ぶマネをしないこと。名前を呼んでも振り向かないこと。
医師の話し方は、事務的に聞こえました。おそらく、私たちが不安を抱えていたから、そう聞こえたのでしょう。
そして、医師は言いました。
「自閉症の可能性が高い。そう考えても良いでしょう」
初診で、その言葉を聞きました。
MRI検査──1時間の沈黙

「MRI検査をしましょう。たまたま空きがあるので、今日できます」
医師はそう言いました。
私は心の中で思いました。
「自分の子供に、脳の異常があるわけがない」
そう信じようとしていました。
ショーは薬を飲んで、眠らされました。
毎日多動で、1日も目が離せない。そして入眠困難なショー。そのショーが、スーッと眠っていく姿を見て、私は多動との対比を感じながら、なぜか穏やかな気持ちで見守っていました。
でも同時に、どこかで祈っていました。
──自閉症という診断名が出ませんように。
検査室の窓越しから、MRI装置の中に入っていくショーを見ていました。
「MRIの中で動いたら危ないよ。今はゆっくり寝ててね。いつも動き回っているから」
心の中で、そう語りかけていました。
検査中の1時間以上、妻と二人で廊下の椅子に座っていました。
ただただ不安で、何も話すことができませんでした。時間だけが過ぎていきました。
自閉症という診断名を受け入れる前の、何も考えることができない心の期間──そんな時間でした。
検査後、ショーはぼんやりしていました。薬が体内から完全に消失せず、残っていたのでしょう。
診断を受けた日

医師はMRI画像を読んで、その日のうちに結果を伝えてくれました。
「脳に異常は見つかりませんでした。MRIで異常が出る自閉症は、稀にしかないんですよね」
そして、続けました。
「今までの成長過程が遅れていること、言葉がないこと、こだわりがあること──今までのお話を聞いて、総合的に考えると、自閉症と考えて間違いありません。今後も継続して様子を見させてください」
医学的な治療法はない。
そう告げられました。
私は、大学病院の医師に診断されたなら、治療してほしいと思っていました。でも、治療方針も示されず、薬も処方されず、ただ「今後の様子を見る」とだけ言われました。
心の中で、立ち上がることができませんでした。頭が真っ白になっていました。
妻は黙って医師の言葉を聞いていました。妻も、心が真っ白になっていたのかもしれません。
後で、妻は私に問いかけました。
「あなた、自閉症ってどういうこと。治療法はないの?」
私は心の中で叫んでいました。
「先生、何とか治療をしてください」
でも、ただ診断名を受け身的に聞いているだけでした。
この時は、診断名を受け入れることはできていません。大学で診断されたということで、数日後にやっと診断を受け入れ始めることができました。
1日中、病院での検査と診断でした。私たちはすぐに帰宅しました。
帰りの車の中では、何も話しませんでした。
妻は、ショーの顔をずっと見ていました。
帰宅後──変わらない日常

帰宅は夕方でした。
帰宅してからは、いつもの生活が始まりました。夕食を家族で食べ、お風呂に入り、明日に向けての生活がまた始まりました。
ショーは普段通りでした。
診断されたことを理解していないし、自閉症の意味も分かりません。トミカの車を並べて、1時間床をゴロゴロし続けて、疲れて眠りました。
夫婦で話しました。
「言葉が出るのも歩き出すのも遅かったし、もっと早く気が付くべきだったね」
「周りは男の子は成長が遅いというから、その言葉に納得していたね」
診断を受けても、何かが変わるわけではありません。
私と息子は、翌日から日常生活に戻りました。私は仕事に、息子は保育園にいつものように行きました。妻は仕事を休みました。しばらくして、仕事を辞めて専業主婦になることを決めます。
私も、この日を境に、仕事中でも、1日中息子のことが頭から離れなくなりました。
公園で、声を出して泣いた

診断から数日経った、ある日のことです。
一人で公園にいました。
脳機能の異常?
一生治らない?
なんで自分の息子が自閉症にならないといけないんだ──
そう思うと、涙が止まりませんでした。
声を出して、泣きました。
ようやく診断名を受け入れ始めようとしていた自分が、そこにいたのでしょう。
専門書を読み漁った日々

診断後すぐ、私は専門書を読み漁りました。
日本の自閉症専門家の本、タイトルや本の帯に自閉症と書いてある本、ネット検索したもの、図書館にある本──手に入る本は全て読みました。海外の本は、英訳されたものを読みました。
印象に残っているのは、自閉症当事者、テンプル・グランディンとドナ・ウィリアムズの本です。
テンプル・グランディンは、自分の興味を活かして、しっかり世の中で活躍していました。大学教授になっていました。
当時は、いまもかもしれませんが、「こだわり」と言われていましたが、自分の興味を強みに変えて生きる道もあるのだと、痛感しました。
「こだわり」は診断する側の言葉であって、自閉症当事者には「興味があること」であって、誰にも迷惑はかけない。気にしなくてよい──そう思いました。
他の専門書は、主に自閉症の原因と特徴、そして療育法を解説していました。やはり脳の気質異常(前頭葉の異常が見られる)からくる、治療法のない一生治らない障がいであることが、一様に解説してありました。
本を読んで、ようやく治らない障がいだと受け入れて納得しました。
納得したのは、診断から1ヶ月後くらいでしょうか。
日本は先進国だから自閉症は障がいとなるのであって、インドや少数民族などは、障がいと捉えないのではないかとも考えました。
でも今では、自閉症は障がいだとは思っていません。発達や興味には個人差があります。日本の社会では、少し個性が目立つ普通の人間だと思っています。
自閉症協会との出会い
納得していく過程で、自閉症協会に入会しました。
協会員のお子さんたちは、私の息子よりももっと重度の障がいを持っていました。
それでも、社会に自閉症を認知してもらおうと日々努力されている姿を見て、またこの方々と話すことによって、私の気持ちも非常に前向きになっていきました。
私は後に、この自閉症協会の支援を受けて、「高機能自閉症の会(オーティーの会)」を立ち上げ、高機能自閉症者の受け皿を作ることになります。
療育センター──親子の居場所
診断後、保健師さんから紹介を受け、診断書を持ってすぐに療育センターに入所しました。
ここが、親子の最初の心の居場所となりました。
職員の方は、私たちの全てを受け入れてくれました。困った時にはアドバイスをくれたり、相談にもいつまでも真剣に乗ってくれました。
大学病院には2年ほど通院しました。成長度合いの確認をされるくらいで、特に投薬も必要なく、会社を休んで通院することができなくなり、5歳くらいで通院を止めることにしました。
でも、療育センターは違いました。
ここには、同じように悩む親たちがいました。受け入れてくれる職員がいました。そして、ショーが安心して過ごせる場所がありました。
小さな希望が芽生えるまで
診断を受けた日、頭が真っ白になりました。
公園で声を出して泣きました。
でも、本を読みました。人と出会いました。そして、少しずつ前を向き始めました。
この子を育てていくしかない。
そう思いました。
治療法はない。でも、療育はある。支援はある。同じ道を歩む仲間がいる。
診断から1ヶ月──私は、ようやく「自閉症の父親」になることを受け入れ始めていました。
第4話へ続く
(第4話では、保育園での混乱について綴ります)

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