第1章 還る町、豊後高田
第1話 冷たい出涸らしに残る香り
オレンジの灯が、夜の空気にぼんやり浮かんでいた。
焼けたソースの香りがふっと鼻をかすめ、重なるように綿菓子の甘い匂いが包み込む。ほんのり甘酒の匂いも混じっている。
祭りの熱気とともに、子どもたちの笑い声と太鼓の音が重なり合い、空間がひとつの生きもののように揺れていた。
誰かの背中に、俺はおぶわれていた。
歩くたびにゆるやかに揺れるその背中は、湯たんぽのようにあたたかく、ぼんやりと眠気の中にいた。提灯の灯りに照らされながら、目の前の白髪がやわらかくきらめいている。
振り返ったその横顔に、ふと微笑みが浮かんだ。
じいちゃんだ。
顔をあげようとした、そのとき——視界は眩しい緑に包まれた。
現実に引き戻された俺は、電車に揺れていた。
車窓の向こうには、水を抜かれた田んぼが、初夏の風にしずかにそよいでいる。
——中干しか。
柔らかな革張りの座席に身を沈め、もう一度まぶたを閉じる。特急ソニック特有の、振り子のような揺れ。
右へ、左へ。その揺れに合わせて、さっきの記憶もそっと揺れ戻る。
まぶたの裏では、まだあの夜の提灯の灯りがちらちらと揺れている気がした。
あれはたぶん、四歳か五歳の頃。はしゃぎ疲れて、祖父の背中で眠ってしまった秋祭りの夜。
思い出そうとしなくても、その記憶は体の奥にずっと残っていた。
車窓に時折映る、疲れた男。
ほどけるような懐かしさと、逃げ帰ってきた、という感覚に揺れながら——
俺はいま、豊後高田へ帰っていた。
昨年の秋、母が突然がんで亡くなった。
高校を出て東京に行ってからは、大分までの交通費も惜しんでろくに帰っていなかった。記憶に残っているのは元気に笑っている母の姿ばかりだ。
今もどこかで「ただ電話に出られないだけじゃないか」と思っている。
そんな中、一人暮らしの父が仕事中に転倒し入院してしまった。
明後日には退院するのだが、骨折していて生活に不自由しそうでしばらく一緒に暮らすことにした。
電話で「帰ろうか?」と伝えたとき、「ああ」と短く返ってきた声が意外だった。
てっきり「大したことない」とか「仕事を休まんでいい」と言われると思っていた。電話の向こうの声も、どこか気が抜けていたように聞こえた。
俺は、仕事を半年ほど休職させてもらうことにした。
宇佐駅からのバスを降りた瞬間、肌にまとわりついたのは、潮の香りを含んだ湿った風。アスファルトの熱が立ち上り、今朝の通り雨の名残がほんのりと空気に滲んでいる。
目の前には、昔と変わらぬ幅の狭い通り。木造の二階建てが肩を寄せ合うように並び、くすんだ看板がデンと構えている。
自転車と車と人とが、互いに譲り合いながら道を行き交っていく。久しぶりのはずなのに、まるで昨日もこの道を歩いていたような気分になる。
脇道に入った先に古い神社がある。
秋祭りの時にはここにたくさんの屋台が並び、子どもたちの笑い声が絶えなかった。
変わらない佇まいのまま静かにそこにある神社を見つめていると、さっき夢で見た光景がふいに胸によみがえる。
実家は桂川を超えたところの玉津商店街の一角にある。勝手口から入ると、家の中はがらんとしていた。母が昔から車椅子生活だったので、通路を広く取るために、もともと家具も最低限しか置かれていない。
居間の引き戸の向こうは祖母がはじめた青果店に繋がっている。大きなスーパーができてからも、常連さんに支えられてなんとか続いている。年金と貯金だけでは心許ないため、父はいまも細々と店を続けている。
入院前にあった野菜や果物は処分してもらい、今はシャッターの中の店先に、棚と段ボールがいくつか残っているだけだ。
土の匂いと、わずかなカビの匂いがする。
ここは時間の吹き溜まりみたいで、静けさがうっすらと積もっていた。
父に電話すると、今日はいいから明日の退院の段取りを頼むとのこと。
窓を開けて空気を入れ替え、電気のブレーカーを上げる。今日寝る布団を用意し、エアコンが動くことを確かめたら、ひとまずやることがなくなった。
とりあえず、近所を少し歩いてみることにした。
さて。右に行くか、左に行くか。
家を出て左は小学校、高校への通学路だ。
左の道の先にある石段をチラリと見てから、すぐに右の玉津商店街の方へと歩き出した。
やはり見覚えのある店が立ち並ぶ一方、店を畳んで家に建て替えられた場所もある。俺が中学校へ通っていた頃から、風景は少し小さく、そして静かになっていた。
この道の突き当たりにはお寺があって、その横の大きな崖の上に、祖父母と母の墓がある。見上げると、崖の上に白い雲がぽつんと浮かんでいた。
母たちは、父との二人暮らしを安心しているのか心配しているのか。俺が帰ってきたことは、どう思っているだろうか。
葬式の日の朝、棺の中の母は、痩せてはいたが、今にも「朝ごはん、食べたの?」とでも言いだしそうだった。
これが最後の、いつもの朝——。
喪服に着替えようとネクタイを手に洗面台の鏡へ顔を寄せたとき、こめかみのあたりに白いものが混じっているのに気がついた。
思っていたよりも多くて、髪を下ろして隠したが、目も赤く、口元の線も少し深くなっていた。
間違いの顔だ、と思った。
申し訳なくなった。
どこからだったんだろう。
大学進学を機に上京し、そのまま大学院へ。
卒業後は都内のIT企業に就職し、システムエンジニアとして働いていた。
クライアントの要望に応じてひたすらコードを書き、納期に追われる毎日。
効率化、省力化、業務改善。
ただ、エラー音と積み上がる進捗バーだけが、淡々と目の前に現れては消えていく。誰かの役に立ちたい、という思いで選んだ仕事だったが、だんだんと何も感じなくなっていった。
ときどきクライアントからもらう感謝の言葉すら、次第に心を素通りしていくようになっていた。いや、すべての言葉がそうだった。
人の声も、覚えていない。
コンビニで夜食の弁当を買う。
バーコードを読み取る「ピッ」という音。
「ありがとうございました」という声。
店員の声も、ピッと、素通りした。
オフィスで帰宅する誰かとすれ違う。
「お疲れ様です」という俺の声。
その声もきっと、ピッ、だった。
「歯車って言うけどさ。仕組みを作ってる俺らだって結局は〝仕様の一部〟なんだよな」
同僚がぽつりと言ったその言葉が、ずっと頭に貼りついていた。
満員電車で無表情の人たちと肩をすり合わせ、味のよく分からない食事を流し込む。ただ〝今日を維持する〟ために動いているだけの自分。生活は安定していても、心はずっと落ち着かなかった。
日々、居場所が少しずつ狭くなっていく感覚。
毎日の息苦しさを感じ始めてからだろうか、体調にも影響が出始めた。
みぞおちが重い。
食べても味がしない。
無理に飲み込めば胃がきしむ。
こめかみの奥がずっと痛んで、夕方には思考がまとまらなくなる。夜も、眠っても眠った感じがしない。浅い夢の底をただ漂っていた。
病院に行っても原因不明で、対処のような薬を処方されるだけ。ここから逃げ出したかった。
身体の治し方がわからない。
出口が見つからない。
どこに居ても息が抜けない。
これは、なんの罰だ。
とにかく立ち止まりたい、いや、座りたかった。
——知っている場所まで戻れ。
迷子になった幼い俺に父が言った言葉が浮かんだ。
どこに戻ればいいのか。
もう、どっちが前かもわからない。
この町までは、帰ってみたが。
第2話 ハチマンコーヒー
突き当たりのお寺まで着いた。左へ曲がれば、髙田中学校へと続く急坂だ。
左へ——足を向けかけて、やめた。
墓参りはまた今度にしよう。
そう思って、右に折れようとしたとき、見知らぬ看板が目に入った。
〈HACHIMAN COFFEE〉
築何十年になるのかもわからない木造の建物。
昔は製材工場の倉庫だったと思う。外観にその名残があって妙に景色に馴染み、この新しいカフェに全然気づかなかった。
店の正面に回り込む。通りに面した側はガラス戸が並び、開放的で今風のカフェの佇まいをしていた。今と昔が混じったような、そんな不思議な空気をまとった店だった。
こんな場所にカフェが新しくできるなんて。
いや、ずいぶん帰ってなかったし、昔からあったのかもしれない。
——カラン。
大きなガラスの扉を開けると、ふわりとコーヒーの香りが鼻をくすぐった。
楽しげな話し声が、ほどよい音量のジャズに重なっている。注文カウンターの奥の壁に、『HACHIMAN COFFEE』のロゴが落ち着いた雰囲気で壁を飾っていた。
あらためて店内を見回す。左手のカウンターの下には、本棚がしつらえてある。絵本や雑誌、暮らしの本、小説など。色とりどりの背表紙が、さりげないリズムを添えていた。
奥には、一段高くなった小上がりの板間がある。素足でも心地よさそうな、やわらかな木の色合いが広がっている。
母親たちは子どもを遊ばせ、ご高齢の女性たちは湯呑みを手に、柔らかな声を交わしていた。
古い二階建ての木造建物を改装した店内は吹き抜けになっていて、思いのほか開放感がある。
右上にはロフトのような小さな二階スペースが張り出していて、その下には木のパーティションで仕切られた空間もある。
ふと視線を向けると、そのロフトの隣に小さな神棚が据えられていた。この辺りではよく見かける宇佐八幡のお札が祀られている。よく見ると、神棚の造りが思いのほか立派で、その存在感がひときわ浮かび上がって見えた。
ひと通り店内を見回し、店員はどこだろうかと思っていたところ、勝手口からコーヒー色のエプロン姿の女性が入ってきた。すぐにこちらに気づき、ぱっと笑顔を向けた。
「いらっしゃいませ!」
軽やかなショートボブの髪を、ふわりと揺らしながら駆け寄ってきた。声は明るく感じがいい。
白シャツに黒っぽいパンツ、そしてキラリと光る鮮やかな青いローファー。
「ようこそ!」
……ようこそ?
「あ、ええと……じゃあ、ブレンドで」
「ブレンドですね。おすすめですよ。すみません、お名前、伺ってもいいですか?」
「中村です」
あれ? 俺、テイクアウトって言ったっけ?
「中村さんですね。ありがとうございます」
白シャツの上に、コーヒー色のエプロンを重ねている。胸元には小さな名札。「ナナ」とサインペンの柔らかな文字で綴られていた。
「私、ナナと言います。はじめまして。ここ、ハチマンコーヒーの店長です」
「……あ、はい」
「もしよかったら。ちょっと、座っていきませんか?」
公園で声をかけるみたいな、そんな調子だった。その聞き慣れない呼びかけに、思わず笑いそうになって、なんとなく頷いた。
ふと手元を見ると、注文カウンターに小さな手書きの看板がぶら下がっていた。
《コミュニティナース、おります》
見慣れない言葉だ。
ナースというからには看護師のことだろう。コミュニティに看護師がいる——どういう意味なんだろう。店にはカウンターの女性、ナナしかいないようだが、彼女がそのナースなのか。
「あの、この『コミュニティナース』って……何ですか?」
「おっ、中村さん、そこ来ましたか。いや〜、そこ気になりますよね〜」
ナナはちょっと得意げな顔で、わざわざカウンターから出てきた。
「コミュニティナースはですね、地域の皆さんがもっと楽しく、健康に暮らせるようにお手伝いする。つまり〝おせっかい屋さん〟みたいな感じです」
ナナは身振り手振りで店内を示しながら、いかにも楽しそうに説明している。しかし、〝おせっかい〟ってそんなに前向きな言葉だったっけ。
「たとえば健康相談もやってますけど、それだけじゃなくて。なんでもいいんです。ちょっとした〝気にかけ〟で誰かの役に立てそうなら、どんなことでもやっちゃう。そんな感じで」
「はあ……」
呆気に取られて返答に困ってしまった。思わず、店内をもう一度見渡した。
小さな子どもたちと、その横で話し込む母親たち。少し離れた席では、年配の男性がコーヒーを飲みながら新聞を広げている。
店の雰囲気もメニューも、どう見ても普通のカフェだ。だけど目の前のカフェ店員は、まるでカフェらしくないことを言っている。
もしかして、ここが〝コミュニティカフェ〟という場所なのか。だとしたら、ずいぶんイメージと違う。
ハチマンコーヒーの東側は、ほとんどがガラス張りになっている。その向こうには、お寺の隣をかすめるように、広い道路がまっすぐに伸びていた。
遠くの山並みまで、視界を遮るものは何もない。
——あれは、西叡山か。
古くなった故郷で、ふと立ち寄ったハチマンコーヒー。そこには見慣れない光景があった。
その窓から西叡山を眺めたとき、心のどこかで眠っていた好奇心が、ひっそりと再起動した気がした。
第3話 見知らぬポットと、母のスープ
シャッ、シャッ——。
隣の神社の砂利を掃く音が聞こえる。窓を見ると、カーテンの隙間の光が少しオレンジ色に変わっている。
残務作業をしていたパソコンを閉じて、畳に寝転がって天井を見上げる。背中に畳の硬さがじんわりと残り、体の固さと重さを感じる。
木目の筋。節の位置。真っ直ぐに伸びては、ふいに曲がり、また戻っていく。その線をただ目で追っていた。かつて毎日見上げていた天井の下に、また自分が横たわっている。
懐かしいはずの模様は、一晩見つめ続けて、重苦しいものに変わっていた。
父の退院から一週間が経った。
父は松葉杖をつきながらも散歩したり、ぼちぼち店の整理をしたりしている。ギプスが取れたら、また店を再開するつもりらしい。様子を見にきた常連たちに、そんな話をしていた。
俺の方は、半年分の少ない引っ越し荷物を整理したり、一周忌の段取りをしたり。ネットもようやく開通して、会社の残務も片づいてきた。そのぶん〝どうしようもなく暇な時間〟が増えた。その〝暇〟が思っていた以上にしんどい。手を動かしていないと、考えごとが勝手に広がっていく。
気がつけば夕飯の時間だ。
飯の支度といっても、最近は宅配弁当を二人分頼んでいる。朝は俺が簡単なものを作るが、やっぱり俺自身は食べられていない。
おかゆをなんとか流し込んでも胃が重い。味もしない。眠れないのはここでも変わらない。ただ、じっと夜が過ぎるのを待っている。
届いた弁当の準備をしようと食卓に行くと、父がすでにお茶を啜っていた。
「……マコト、そのポット」
「ポット?」
テーブルの端に置いてあるステンレスのスープジャーを指さす。
「さっき、ハチマンコーヒーのナナさんが持ってきた。ナスとピーマンのスープが入っとるらしいが、あっためてくれ」
ジャーから鍋に取り出し、コンロで温める。少し湯気が立ち始めると、スープの香りがキッチンに広がった。
ふいに、胃の奥がじんわり温まった気がした。
何日かぶりにお腹が反応している。皿に移し、スプーンで掬ったナスを一口食べてみる。頭がふっとほぐれていく。味がする。いや、それよりもこの味付け。これは。
「これ、母さんの味付けじゃない?」
「そうだな。まあ、だいぶ似てる」
「いや、似てるなんてレベルじゃないよ、これ」
ゆっくりとスープの味を確かめるが、やはり、懐かしい感覚がある。
「マコト、あの入れ物、明日、ハチマンコーヒーに返しといてくれ」
「え? ああ」
「じゃ、頼んだぞ」
それだけ言うと、父は黙々と弁当とスープを平らげ、食卓を離れた。松葉杖の固い音と重い足音が交互に廊下に響く。椅子の軋む音がして、そのあとでライターの火が、ぱちりと鳴った。
なぜハチマンコーヒーが、母の味がするスープを作っているのか。なぜウチにそれを届けてくれたのか。そういえば、この間ハチマンコーヒーで飲んだコーヒーもどこか懐かしい味だった。思い返してみると、母が淹れてくれたコーヒーにどこか似ていた気がする。
母は車椅子だったけれど、快活な性格でじっとしているのが苦手な人だった。手の届く範囲をうまく使って、いろんな料理を工夫して作る。
店ではお客さんにコーヒーを出しておしゃべりしたり、行動範囲は広くないはずなのに、妙にいろんなところに顔がきいた。
最初は「お客さんとの会話作りのため」と言っていたけれど、いつのまにか、コーヒーやお茶そのものに夢中になっていた。
いろんな淹れ方や飲み方を試していて、謎の道具もいろいろ持っていた。
幼いころは祖母と二人で店を回していて、その分、父は飲食店やスーパーを回って外回りの営業や配達をしていた。
祖父は近くの工房の家具職人。大きな家具は作らなくなっていたものの、小さな調度品の修理や制作を細々と続けていた。
こんな距離で一緒に働いていても、家の中に険悪な空気を感じたことは、ほとんどなかった。
母の料理とコーヒー、そして笑い声がいつもあった。
我が家は、母で回っていた。
暗いニュースがあるときでも、母の笑顔と手料理があれば、家の中はいつもどこか前向きな空気に包まれた。
母は、俺が幼稚園のとき、近所のお年寄りをかばって車に跳ねられて、運悪く下半身が動かなくなってしまった。当時のことはほとんど覚えていない。
ただ、いつものお迎えの時間、そこにあるはずの母の姿がなかったあの日、幼稚園のある光圓寺の大きな門を、いつまでも見つめていた記憶だけがかすかに残っている。
家からカフェまでは歩いて十分ほど。ほんのり湿気を帯びた空気の中に、初夏の気配がじわりと混じっている。光圓寺の前にあるハチマンコーヒーまではあっという間だ。
昨晩は、俺もスープを完食できた。腹一杯になったおかげか、いつもより長く眠ることもできた。俺にとっては薬より効き目があったようだ。
なぜか母の味が残っているハチマンコーヒー。
正直、また味わいたいという卑しさがあって足が向いている。いや、要するに食欲が湧いてカフェに来たのだから、至極真っ当だ。
そうして、自分の不純さに蓋をした。
第4話 受け継がれていた母のレシピ
カラン。扉を開けると、焙煎器から立ちのぼる香ばしい匂いと冷んやりした空気、やわらかな光が迎えてくれた。
「中村さん、いらっしゃい!」
ナナの声が、朝の静けさをやさしくほどいた。一週間前にふらりと来た客の名前を覚えているとは驚いた。
「今日は何にしますか?」
「すみません、アイスコーヒーを」
「ほんと、朝から蒸し暑くて。そろそろ冷たいのが沁みる季節ですね。美味しいアイスコーヒー、少々お待ちください」
ナナはグラスを取り出しながら、さらりと笑った。氷がカラン、と澄んだ音を立てる。
店には新聞を読む年配の男性がひとり。ガラスの向こう、向かいのお寺の大きな木から、気の早い蝉の声がかすかに聞こえてくる。
天井のシーリングファンが、音も立てずにゆっくりと空気をかき混ぜていた。
「中村さん、調子はいかがですか?」
グラスにコーヒーを注ぎながら、ナナがやわらかく微笑む。俺は本来の用事を忘れて緩んでいることに気づいた。
「あ、そうでした。すみません、こちら、昨日いただいていたようで」
エコバッグに入れていたポットをカウンターに出した。
「あ、これって……」
「はい。昨日、父と美味しくいただきました。ありがとうございます」
「やっぱり、中村さんって、中村青果店の中村マコトさんだったんですね」
「え、まあ……はい。ウチのこと、ご存知なんですか?」
「カヨコさんには、すごくお世話になってました」
「このスープ、母の味にそっくりで驚きました。先日のコーヒーも、なんだか母のコーヒーに似てた気がして……」
「さすが、一人息子のマコトさんですね。コーヒーも料理も、いろいろカヨコさんに教えてもらいました」
「そうでしたか」
「常連さんから中村さんが退院されたって聞いて、退院祝いにお持ちしたんです。味が間違ってなくて良かったです」
「ええ。美味しかったです」
「良かったら、ゆっくりしていってください。カヨコさんみたいなアイスコーヒーになってるかは、わかりませんが」
ナナはそう言って、汗をかいたグラスを布巾で拭い、静かに差し出した。
俺はアイスコーヒーを手に落ち着いた長テーブルに座り、持ってきたノートパソコンを開いた。
しばらく見ていると、ナナはときどき店内を歩きながら、ハチマンコーヒーを訪れる人みんなに、自然に声をかけていた。毎日黙って新聞を読んでいるおじいさんにも。やって来たご近所のおばあさんたちにも。子ども連れのママたちにも。
子どもに声をかけるおばあさんの笑い声に、ママたちの明るい話し声が混じる。
新聞をめくる紙の音。静かすぎず、騒がしすぎず、音と音がやわらかく混ざり合い、店内には心地よいざわめきが流れていた。
昼前、ナナが高齢女性と〈暮らしの保健室〉と書かれた謎のスペースに入っていくのが見えた。
ロフトの下の、木のパーティションに区切られた空間だ。
何を話しているかまではわからないが、ナナの声はやさしく届いてくる。相手に寄り添うような落ち着いた口調だった。
半年の休職。
体調が戻るまで、ただ距離を置きたかった。たしかにそれが表向きの理由ではあったが、気持ち的にももう限界に近かった。
母から言われていた言葉で、よく思い出すものがある。
——あなたが幸せなのは、どこかで誰かが頑張ってるからだって、忘れないことよ。
——頑張れ、頑張れ。頑張った分だけよ。
車椅子でもあれだけ幸せそうに過ごしている母から〝頑張れ〟と言われると、無意識のうちに、自分に鞭打つ力が強くなっていた気がする。
少し無理してでも、俺も誰かの幸せのために頑張りたい。一歩でも。ずっとそう思って生きてきた。
少し前、会社にソーシャルビジネス系ベンチャーからプラットフォーム開発の相談があった。
背後には太い出資元もいて、会社のPRにもなる案件だと見られていた。
誰かのために、〝誰か〟になれる気がして、気持ちを振り絞って取り組んだ。
企画チームが社内を動かしやすいよう技術面から完璧な資料を整え、陰で支えていた。しかし、結果的には案件は頓挫した。
「ウチがやったことがない分野で、リスクが高い」とのことだったが、何が〝リスク〟だったのか。結局、誰も説明できなかった。
それ以来、燃え方がわからなくなり、〝頑張る〟という言葉が重荷になっていた。
そんな時に母が亡くなった。踏ん張る力が抜けていくように、足場そのものが音もなく消えていった気がした。
気がつくと、ナナと女性がパーティションから出てきて、軽くお辞儀をしているところだった。
ナナがカウンターに戻るタイミングで、俺はグラスを手に立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「あ、マコトさん。お帰りですか?」
「はい。そろそろ昼ごはんを準備しないとなので」
「もうそんな時間ですか。私もランチの準備だ」
ナナは俺のグラスを受け取り、鼻唄を歌いながらカウンターへ戻っていく。
「あの……あの場所、なんですか?」
俺はパーティションを指さした。
「あそこは、ちょっとしたお悩みをお聞きする部屋というか……体調や生活のこと、なんでも気になることをお聞きするスペースなんです」
「へえ、そんなこともやってるんですね」
「はい。何か知ってることをお伝えすることもありますし、お話しいただくだけで、ご自身で何かに気づかれることも多いんです」
「なるほど」
「お昼ごはん、もう決まってるんですか?」
「いえ、それが悩みで。そろそろ夕飯も自炊しようかと思ってるんですが、あまりやってこなかったのでレパートリーがなくて。これからググります」
「良かったら、カヨコさんから引き継いだレシピ帳、持ってきますよ」
「えっ、母の……?」
「はい。昨日の、スープ仕立てのナスとピーマンの〝大分風ラタトゥイユ〟も、ちゃんと書いてありますよ」
「そんな上等な名前だったんですね。また来るんで、ぜひコピーさせてください」
「はい。待ってますね」
「それじゃ」とパソコンをカバンにしまい、帰る準備をしていると、ナナはバタバタとランチの支度を始めていた。
《暮らしの保健室》があるカフェ。
誰かと話すだけで、気持ちが軽くなる人もいるんだろう。
そんな〝おせっかい〟もナナの仕事なのか。そういえば、さっきナナがあの小部屋にいる間、カフェは無人だった。本当にこの店、ちゃんと回ってるんだろうか。
ナナがただのカフェ店員ではなさそうなのは、よくわかった。でも、母はこのカフェでいったい何をしていたのか。
ナナに料理を教えていた? どうして?
店を出ると、湿気を帯びた空気、大きくなる蝉の声。目の前には、光圓寺の大きな門。
その向こうに、母のお迎えを待つ小さな自分が、こちらを見ている気がした。
第5話 ウチの貸したげるよ
「……マコト、そうめん茹でてくれんか」
父は、食卓に置いてあった乾燥そうめんをチラリと見て呟いた。
コンロでは、赤い液体がぐつぐつと音を立てている。カットトマトに、きゅうりと玉ねぎのみじん切りを加えて煮込んでいた。
本当は冷やして麺つゆと合わせるつもりだったが、玉ねぎを刻むのに手間取ってしまった。
みじん切りの手順を思い出しながら、ばらばらの大きさをそろえようとしたり、フライパンで炒めているうちに、鍋のトマトが少し煮詰まりすぎた。
自分はそんなに不器用じゃないと思っていたけど、慣れないとこんなものなのか。それでも、無心で手を動かす感じは意外と悪くない。
今日のところはいったん火を止めて、昼飯は普通のそうめんにすることにした。
二日ぶりにハチマンコーヒーへ行ってみると、思いのほか人が多かった。そういえば、今日は土曜日だった。会社に行かないと、まるで曜日感覚がなくなってしまう。
「マコトさん、こんにちは」
「こんにちは。ブレンドコーヒー、お願いします」
「はい。少しお待ちくださいね」
ナナはテキパキとドリップを始めた。
窓際では新聞を広げるおじいさん、本を開いたままうとうとしている人、声をひそめて笑い合う主婦グループ。ときどきカップがソーサーに触れて、カチャリと音がする。
「ナナさん、レシピありがとうございました」
「どうですか? お母さんの味、再現できてます?」
「あ、いえ、全然。腕ですかね。今日は〝野菜出汁の冷やしそうめん〟にチャレンジしたんですが、うまくいきませんでした」
「あれも美味しいですよね〜」
「あの、ナナさん。塩を〝パラリ〟って、どれくらいなんですか?」
「え? 〝パラリ〟は……〝パラッ〟て感じ、ですかね」
ナナは鍋に塩を入れるように〝パラッ〟の手つきを実演してみせた。
「ま、わかんないですよね〜。味見しながら、いい感じに、です」
なるほど。母もかなりの直感派だったけど、ナナもそうか。こういう〝感覚で決める〟やり方は、どうにもピンとこない。
これはもう、試行錯誤で分量を自分なりに見つけて完成させるしかないってことだろう。
レシピをヒントにして……。
——いや、ヒントってなんだよ。
「なるほど。先は長そうですね。頑張ってみます。……ちなみに、コーヒーのレシピってあるんですか?」
「あるにはあるんですが……」
ナナはレジ横のファイル立てから、使い込まれた茶色い合皮が表紙のノートを取り出し、手渡してくれた。
開いてみると、コーヒー豆の種類と、記号も単位もない数値が並んでいる。器具のスケッチや、豆以外の材料のメモもある。
「このコーヒーのレシピは、詳しく教えてもらう時間がなくて……。基本のドリップコーヒーしか、教わらなかったんです」
「これは、たしかに母の字ですね。だけどこれは……魔術書みたいだ」
「カヨコさん、魔法使いみたいに美味しい料理やコーヒーを作ってましたからね~」
「再現できたらいいんですが。これ、焙煎からのレシピですよね?」
ナナは何かを思い出したように振り返ると、申し訳なさそうに言った。
「……あの、言いづらいんですが。中村家の焙煎器、ハチマンコーヒーに寄贈してもらってて。今、それが主力なんです。……ごめんなさい」
「あ、そうだったんですね。なんだか見たことある器具だと思ってたんですよ」
「最初はミルだったんですよ。ウチのミルが突然壊れて、『ウチの貸したげるよ』ってカヨコさんが言ってくれて。そしたら、とても立派だったんで驚きました」
「たしかに、趣味を超えてたかもしれないですね」
「でも、元は中村さんの焙煎器ですしね」
「いやいや。このままここで使ってもらった方が、母も喜ぶと思います。……そうだ。営業してない時に、使わせてもらうことって、できますか?」
「はい、それはもちろん。いいんですけど」
ナナは俺の表情をすっと覗いてくる。ナナの前に置かれたカップから、コーヒーの湯気が、ひとすじゆるく揺れた。
「……マコトさん、お仕事のお休み、何曜日ですか?」
「え? あの……毎日です。半年ほど休職中で」
「あ、そうなんですか!」
ナナは目を丸くして、それから少し笑った。
「あの、もし良かったら。ここでバイトしません?」
「バイト?」
「今、ちょっと人手が足りなくて。バイト代はそんなに出せないんですけど……コーヒーは好きなだけ飲んでいいですし、淹れる練習もいっぱいできます。それに、料理のほうも……時間あるときに、ちょっとずつお教えします」
「なるほど。そういう手ですか」
「どうですか?」
「……母と違って、接客業が苦手なんですが」
「大丈夫。ホールは私がやりますから」
「……それなら」
「本当ですか?! ありがとうございます」
そのとき扉がカランと鳴って、六十代くらいの女性たちが入ってきた。手にはエコバッグや日傘。いつもの仲良しグループという感じだ。
「こんにちは〜」
「あ、マコトさん、ごめんなさい。また後で」
ナナは淹れたてのコーヒーをすっと差し出し、女性たちの方へ歩いていった。
「由美さん、こんにちは〜。いらっしゃいませ!」
ナナは一人ひとりの名前を呼んでは、挨拶とちょっとした雑談を交わす。
女性たちの明るい声が店内に広がる。ひと通り声を掛け合ったあと、四人はナナと一緒に俺の隣の長テーブルに落ち着いた。
「ねえ、ナナさん。この間のラジオ体操の話、もうちょっと相談してもいい?」
さっき由美さんと呼ばれていた、ちょっと姐御肌な雰囲気の女性が話しだすと、他のメンバーたちも「そうそう」と頷く。
「おおっ、ついにその気になりましたね?」
ナナは目をぱっと輝かせ、冗談めかした声で両手をわずかに広げる。
「みんなで楽しく体を動かしたいんだけど、どう始めたらいいのか分からなくて。ナナさん、アイデアない?」
「おお〜その感じ、いいですね〜。よし! じゃあ一緒に作戦会議しましょう!」
〝作戦会議〟という言葉が耳に残った。
盗み聞きはよくないが、楽しげなナナの声はどうしても気になる。バイトをするなら、知っておいた方がいい。
そう自分に言い聞かせながら、耳を澄ませた。
第6話 ワンオペって
「ラジオ体操やるなら、場所って、どこがいいですか?」
「うーん、やっぱり外がいいかな?」
「じゃあ、カフェの前の広場とかどう?」
「それ、めっちゃいいかもです!」
「でも、ちょっと人目が気になるかも」
「わかります〜。それ、ありますよね」
ナナがすかさず頷き、身振りも加えて共感を示す。
「でも、そういうのって、〝あ、一人じゃないんだ〟ってなると、ちょっとだけ、ね、ハードル下がりません?」
笑い声がふわりとこぼれた。空気がやわらぎ、女性たちの会話は盛り上がっていく。
話がまとまったのか、いつの間にか、話題は天気やテレビの話に変わっていた。
ナナは注文をとりながら、「それ、私も気になってました!」なんて笑って、自然に世間話の輪にも馴染んでいる。
ちょうどいいタイミングで会話の輪からすっと離れると、カウンターに戻ってショーケースからケーキを取り出して皿にのせ、慣れた手つきでドリップを始めた。
コーヒーの香りがふわりと立ちのぼる中、また扉がカランと鳴る。一組の高校生らしいカップルと、赤い服のおじいさんが入ってきた。
ナナはすぐに動き出した。
女性グループにケーキとコーヒーを運び、おじいさんのカップを用意し、カップルのカフェモカフロートに取り掛かっている。
その途中で、ナナがこちらを見て小声で呼んだ。
「マコトさん、すみません。ちょっとお願いが」
近づくと、ナナは手を止めずにカップをそっと差し出した。
「フライングで申し訳ないんですが、このコーヒー、あの赤い服のおじいさんに運んでもらえないですか」
「あ、はい。いいですよ」
カウンターに置かれた湯気の立つカップを、両手でそっと持ち上げた。
いきなりホールの仕事か。
ソーサーの上でカップがカチカチと鳴る音が、妙に緊張感を煽る。
「お待たせしました」
「おお、ありがとうな」
読んでいた文庫本から顔を上げたおじいさんとふと目が合う。にこりと笑ったその表情には、どこかとぼけたような、懐かしいあたたかさがあった。
おじいさんはゆっくりとカップを持ち上げ、ひと口すすって、満足そうに目を細めた。
「うん、うまい」
「あ、はい……ありがとうございます」
カウンターに戻ると、ナナが冷蔵庫からレモンスカッシュ用のレモンを取り出しながら、ぱっと顔を上げて笑った。
「助かりましたー」
「いえ。ナナさん、一人でこれ全部やるの、無理じゃないですか?」
「ムリですー。今日はボランティアの方も来られなくて、まさかのワンオペです!」
「……あの、今日から手伝いましょうか?」
「え、ほんとですか! 助かります!」
ナナはぱっと顔を明るくした。
「そしたら、そこのトレイでお済みの食器を引き取って、洗ってもらえますか?」
「わかりました」
ナナからトレイとエプロンを受け取り、店内を回って使い終わった食器を片づける。
シンクへ行くと、ホールからは見えなかったが、洗い物が山のように積まれていた。
「すみません、実はこのあと暮らしの保健室の予約があって。少し離れていいですか? お客さん来たら戻ってきますので」
「あの、お悩み相談ですね。はい、いいですよ」
そう言うや否や、ナナはカップルにドリンクを運び、ちょうど入店した高齢の女性と、そのままパーティションの奥へ消えていった。
ナナの動きもせわしないが、カウンターの裏もまた、想像以上に雑然としていた。
いい言い方をすれば〝ナナ仕様〟。
必要な道具には、ちゃんと手が届くように置かれている。
……いや。やっぱり散らかっている。
とりあえず、腕まくりをして気合いを入れた。
しばらくして、相談を終えたナナがカウンターに戻ってきた。
「お疲れさまでした。特にお客さんは来なかったですね」
「店番ありがとうございます……うわっ、すごい。きれいに整頓してくれてる! カップもお皿も、ここ、こんなにスペースあったんですね」
「揃ってないと、どうも落ち着かないんですよね。細かすぎるとよく言われるんですが、すいません、勝手に」
「あー、それ、私が欲しかった才能です! 私もできるだけきれいにしようとは思ってるんですけど、いつのまにかぐっちゃぐちゃで。テンパると、それどころじゃなくなっちゃうんですよね……って、完全に言い訳ですね。あはは」
「バイトの方、足りてないんですか?」
「実は、バイトさんはいないんです。ときどきボランティアさんが、ご厚意でお皿洗いとか手伝ってくださってて」
「え、そうなんですか」
「でも、二人のボランティアさんのうちの一人、チヨさんが、先々週から娘さんの出産で応援に行ってまして」
ナナは少し笑ってから、ため息か深呼吸かわからないくらい、大きく肩を落とした。
「おめでたいことですが、十一月末まで戻れないみたいで……。ありがたいことに、暮らしの保健室の利用者も増えてきて、てんやわんやで。本当に、マコトさんにいてもらえたら助かるんです」
その声の端に、ほんの少しだけ、息切れのような間が混じっている。
「そうなんですね。年内いっぱいは休職の予定ですが——」
言い終える前に、ナナはこれ以上ないほど嬉しそうな表情で、「よろしくお願いします!」と言って強く両手を握ってきた。
一、二か月だけと言いそびれてしまった。
家に居ても暇で体調が悪くなるばかりだし。ラジオ体操じゃないが、多少は身体を動かした方が気も紛れる。
良くも悪くも、ここでは地域の人たちと直接言葉を交わして、人の顔と声と反応がすぐに返ってくる。三十になって、しかもカフェのバイトなんて、まさかの展開だが良い機会かもしれない。
向いているかどうかは、ひとまず置いておこう。
……もっとも、料理もこの〝魔術書〟の解読も、そう簡単にはいかなそうだが。
続きは
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