積読は、旅のチケットだった
積読、積ん読(つんどく)は、入手した書籍を読むことなく自宅で積んだままにしている状態を意味する言葉である。
今年から手帳のフリーページに月ごとに読んだ本のタイトルと、作者名をメモするようにしている。
初読みか、再読かを添えて、グリーンの本のマークのスタンプも押す。
いまのところ大体、月に五冊~六冊のペースで読んでいて、その間にも一冊、二冊と追加される本。そう、積読本である。
まだ読み途中の本、読んでいない本があるのに、仕事終わりなどついふらりと私の足は本屋へと向かってしまう。
そこにはあの手この手で誘惑してくる本達で溢れていて、「いや、うちにまだ待っている本があるので・・・」といったんは断りつつ、たいがい持ち帰ってしまう。
そうしてもう並べるスペースがない本棚に無理やり横置きしたりする。自分が読みたい本がそこにある。
そのことに嬉しさを感じながら、ある時「さあ、読もう」とカフェオレを用意して腰を落ち着けてページを開く瞬間がとても好きだ。
だが実は積読に罪悪感や焦りを抱いていた時期があった。
まだ読んでいない本あるのに、また買ってしまった…。こんなに溜めて‥。早くちゃんと読まないと…。
けどある日、積読に対しての考えが変わるきっかけとなる本に出会う。こちら↓

この本の中で、こんな文章を発見。
積読タワーを見るたびに、こんなにも読めてない本があると落ち込んでしまう人は多いと思います。
(中略)
でも、私はこう思うのです。積み上がるほど本があるということは、そんなにも本が好きなんだな。知りたいことへの興味がとても高いんだな。情報のアンテナが立てられていて、すごいな。「積読=ネガティブ」ではなく、「積読=宝の山」なのです。
宝の山というワードが私の中に勢いよく飛び込んできた。
その言葉が、私の積読に対しての罪悪感を薄めてくれたのだ。
そしていま、ふっと積読とはある種の「冷凍保存」のようなものかもしれないと考えた。
そこに閉じ込められた言葉、綴られた文章は色あせることなく、開いた瞬間にありありとよみがえる‥。
触れた瞬間に。
最近思い出した司書さんの言葉がある。
私は以前、小学校で図書室のボランティアスタッフをしていたことがある。
飾りつけや読み聞かせ会のお手伝いなどが主な活動で、そのなかのひとつにお話会のイベントがあった。
もちろん強制ではない。だけどその時間はけっこう楽しく、都合が合えば参加するようにしていた。
ある時、絵本の読み聞かせをテーマにした回があった。
読み聞かせまでなかなかできないというお母さんの話に対して司書さんはこう言ったのだ。
本がすぐそこにある環境。
読みたいと思ったときに手に取れる場所にある。
本に触れられること。それが大事だと。
積読というと、「すぐに読まなくちゃ。全部読まなくちゃ」と焦ってしまう。(読書好きな方あるあると思う)
だけど、もっと自分のタイミングで考えていいのかも。
積読に対してそんなに落ち込む必要はないのでは‥と最近改めて感じた。
私は読書の楽しさの要素のひとつに「没入感」とよく言っている。
その本の世界に潜ること。いわば本は旅のチケットでもある。
積読はその、旅のチケットを手元に置いたようなものなのではないか?(しかも無期限)
そう考えると罪にも感じていた積読というものがちょっとキラキラしてみえる。
だから、もしいま「買ったのに読めてない」「また本を溜めてしまった」「早く読まなくちゃ」と思っていたら。
それはたまたま読むタイミングじゃないだけかもしれない。熟成の時かもしれない。
そして何度でも本は開いていい。
その時、慌てて全部読もうとしなくてもいい。
ちょっとした時間に覗いてみるだけでも
それはすべて「読書」の時間。
そう、そのチケットは何回でも使えるのだ。
あなたのそばに置いている限り。
だからそのチケットを手に、自分のタイミングで旅にでよう。
積読は様々な世界へのチケット、招待状。
