見出し画像

「現実」と「非現実」の間で~映画「太陽を盗んだ男」感想~

時に皆様は、ネタ映画かと思って観たら凄く深~~く身につまされる映画で、戸惑ったことはおありでしょうか?
若しくは、キャストのお貌を目当てという面食い心で着席したのに、途中からそれどころではなくなった、そんな体験はおありでしょうか?
私はあります。
しかも、なんと同じ作品で!!
何を隠そう私は面食いなんです。

そういう人間だから、「キャストのお貌目当て」で映画に行くこともあるんです。
でも、キャストのお貌目当ての映画が、同時に「正体不明のネタ映画かと思って」というにはなかなか珍しい体験なんじゃないかしら…。
しかも、映画館を出たとの1番の気持ちは、「はあ~~眼福…!」でもなく、「ワロタ」でもなく、「…人って、何だろう…美しいと思う気持ちって…(どんより)」…。

なかなかに奇妙だけれども、忘れがたい映画体験でしたので、ここで皆様にもその一端を話したい…!!
こんな奇想天外な映画もあるよって。
実は昨年の夏から、ずっとその気持ちでいたんです。

公開年…1979年
出演…沢田研二、菅原文太、池上季実子ほか

U-nextで配信してます ^^) 


1.ネタ映画かイケメン映画という究極の予想

「太陽を盗んだ男」は封切が1979年の邦画です。
平成9年生まれの私は、当然封切当時は生まれていませんが、昨年(2025年)、東京都新宿区の「早稲田松竹」というシアターで、こちらが上映される機会がありました。

これ、まず粗筋だけ聞くと、どういうジャンルの映画なのか皆目見当がつかないんですよね!!!

とある中学に勤務する、無気力気味の冴えない若手理科教師・城戸先生。
人から褒められもせず、さりとて特別貶されもせず、「平々凡々」「地味」を体現した生活を送っていた。
そんな生活は、ある日バスジャックに襲われたことで一変!
バスジャック犯から自身と生徒を助けてくれた警察官、山下警部と出会ってから、城戸先生の中で「何か」が変わり始める…そして取りつかれたように1人実験に没頭するようになった彼は、なんと!自宅のマンションで手作りしてしまう……「原爆」を!!!

「平々凡々とした無気力なモブ生を送っていた主人公」
あるよね、そういう導入。
「それが事件に巻き込まれる!」
はいはい。
「勇敢な人に助けられて人生が変わる」
あーそーゆーことね。完全に理解した。
「そして自宅で原爆を作ります」
おかしいだろ
 
まず、「自宅で」「原爆を作る」「サラリーマン」という時点で、「本来出会うことのない単語を、無理につなぎ合わせて文章にするゲームあるよね…?それっすか…?」
感が強いじゃないですか。
しかもその「つぎはぎ感満載の意味不明センテンス」が、予定調和的展開の末尾にぶち込まれるもんだから、よりぐちゃぐちゃ味が強い。

どんな話だよっていうか、そもそもどんなジャンルの映画だこれ。(困惑)

まず、ギャグ映画か、なんかシュールなB級映画かと思った。
けれども、それにしては「原爆」というのは穏やかじゃないし…。
以前母(昭和生まれ)から、「昔は結構荒唐無稽なオモシロ作品もあったのよ」と聞いたことがあったため、そういう、「勢い系ネタ映画」かな?とも思いましたが、
でも、それにしてはキャストがイケメンすぎるという問題があるんですよね。
だって、「主演 : 沢田研二」なのだから。

この文章を私は、同じくらいの世代の人とお喋りしているような感覚で書いている。
もしお暇なら、「勝手にしやがれ」という歌と、「TOKIO」という歌を検索してみてほしい。私もそんなに詳しいわけじゃないから、そのあたりしか知らないんだけれども…)
時に、「美人」と一口に評しても、色んな雰囲気の奇麗さがあるけれど、この方は「豪奢」とか、「ハツラツ」とか、「弾けるような」という言葉が似合う美人でした。
しかも、歌が上手い!

 私、意識して男女を選んでいるわけではないけれど、アイドルとかは何でか女子アイドルにハマることの方が圧倒的に多いんですが、「意識して男女を選んでいるのではない」わけですから、初めてお若い日の「TOKIO」だったか「勝手にしやがれ」だったかをYoutubeで観たときは、「うわ~~~~!」と思ったものです。
(ちなみに、平成生まれの私が沢田研二さんを知ったきっかけは、ずばり母と祖母です。)
 
まあ、説明という態をとった私の面食い談義が長々と挟まってしまいましたが、つまりそういう豪華で、明るい雰囲気の―音楽でいえばアップテンポの長調といった感じの―美人が、さっきの「最後どうした…?」という粗筋の、「ジャンルすら見通せない謎映画」の主演を張っているらしい。

うーんもうこれは闇鍋!

ここまでわからないってことは、自分にマッチするしないにかかわらず、観れば何かがわかるってこと!
少なくとも奇麗なものを観れるわけですし、「この前こんな映画観たの~」ってネタにはなるでしょう!
そんなわけで2025年7月某日、仕事終わりの私は早稲田松竹に足を運んだのでした。




2. 城戸先生は「いつも」「そこら辺に」いる

①1970年代にもいた「現代の幼い若者」



んな訳で、「一体どんなもんじゃい」というテンションで見始めた今作ですが、どんどん真顔になっていく。
というのも、主人公の城戸先生が、遠い人に思えなくなっていったから。
 
まず、最初に散々こすった「自宅で原爆を作る」という行動があるじゃないですか。
あれで城戸先生が何をしたかっていうと、「自分は原爆を持っている」って警察に電話して、警察が慌てふためくのを観察することなんですね。
なんやねん…引き返せないことをしたのなら、もっと大きなことしなさいよ…と思わないのでもないのですが…。
 
ところで、凄くふわっとした理由でとんでもない犯罪行為・イタズラ・迷惑行為をする人、はたまた目立ちたがりなのか、変な炎上騒ぎを起こすような人…。
そういうのって何でか定期的に現れるでしょう?
しかも、分別のつかない幼児じゃないことの多さよ!
「年齢と行動が全く嚙み合わない人」が「定期的に」世を騒がせるということが、私は昔から不思議でしょうがなかった。
そんな大それたことをしながら、理由がこんなにもフワフワという状況が理解出来なかったし、そういった一連の状況に、「非現実的」なものを感じていた。

と、同時に、そういった人間の有様が、最近の社会やインターネットが生んだ害悪であるかのように語られるもの違和感がありました。
だってそんな語り口、急に勝手に湧き出した自然現象みたいで…そんなの人間じゃないみたい。
じゃあ、昔の人間はそんな御大層なものだったの?
それとも、人間が社会の在り方の違いやインターネットの有無で簡単に在り方が変わってしまう程度の脆弱な生き物だって言いたいの?
 
そんな中、フワフワの動機で社会を振り回しちゃうような人間―更に云うとそういうことをしちゃう「人間の欲求」を、昭和も昭和な1970年代に描いた人が居たというのが驚きでしたし、更に言うと嬉しかった!
恐らく今ほど、いい歳こいた大人の中にある幼稚さ・完全さへの眼差しが薄かった時代に、ねえ…。

城戸先生って、空っぽなんです。
原爆を作って警察に電話→無理難題な要求をして慌てふためく警察を面白がる、とかいう愚行をするにしても、その「無理難題な要求」の発想力すら浅い。
だって最初の要求が、自分の御贔屓の野球チームの試合を、フルで地上波放送させることなんですよ!
しかもやっていくうちに、「脅迫して他人を振り回したいけれども、脅迫に使うレベルの望みがなくなりました」ってなって、「自分は何で脅迫すればいいでしょうかね…」ってラジオDJに訊く始末。
 
何だか書いてて滑稽な気がしてきましたけど、私は一連の城戸先生の行動が、「作り物の中だからこその有り得ないこと」と思えなかった。
「ありそう」だとすら思った。
彼の、行動とビジョンのあまりの不整合に、昔から折に触れてニュースやワイドショー、SNSなんかで耳目に入ってきた…「なーんでこんな考えなしの権化みたいなことしてまで衆目を集めようとしたかね」っていう人達の姿を見た気がしました。

ずっと、何がしたいんだろう?と思っていた「現実離れした」人達その人たちの中には「何がしたい」「何になりたい」とかも特になく…ただただぼやっとした、日常の「私」と「ここ」への不満があること…。
そう、「ビジョンはないし具体的な目標/目的はないけど、不満だけはある」という矛盾への驚き!
でも思えば、少なからず人間はそんなもんかもしれない。
「生きてるだけで褒められたい」
そんなフレーズ、聞いたことあるはず。

サラリーマンしている今、仕事内に大満足!と言い切れるわけではないけれども、じゃあ明確にこうなりたい!と言えるものがあるの?と問われると、特にない…。
ゴールはない癖に大満足とは違う。
そのくせ、褒められたら嬉しいのよね!!!

別段仕事に何かを懸けてはいないけど、仕事の内容が良くて上司やお客様から褒められたら嬉しい…。仕事したくないって思いながら生きているのに、ふとした瞬間、気付いたら社内ニートになることを恐れている…。

でも,更に変な話なのですが、自分がした行為に対する返答として1番苦痛なのは、「褒められないこと = 怒られること」ではなくて、「無反応」なんですよね。
最悪怒られたり苦情を言われるのでも良いので、自分が作ったもの・提供したサービスが相手にとって「どう」だったかが気になる時がある。
 
そこで思ったのですが、真の意味で「褒められもせず貶されもせず」に耐えられる人間って、実は殆どいないんじゃないでしょうか。
これは私の偏見ですが、「褒められもせず貶されもせず」って、褒められたいに重点が置かれて論じられがちな印象を抱きますが、「貶されもせず」までセットで語らないと、本当のところは片手落ちなのでは…?

つまり、「さして褒められない」だけなら耐えられる、又はなんとも思わなくても、世の中から「非難すらされない」―早い話、何の話題にも上らない存在になることには耐えられないっていうことがあるんじゃないでしょうか?
そう、だからある意味で、「貶されたい」という欲求があったとしたら、それは「褒められたい」とある種同根の感情だったりなんてこともあるのかしら。
真の意味での透明人間…匿名のモブになるのに耐えられないという、感情の表れという意味では…。
 
そういったことに思いを馳せて驚いたのは、「透明人間になりたくないという気持ちは、分かりにくく・さりげない形で・至るところに潜んでいるということなんです。
「承認欲求!」というと、凄く大袈裟で迷惑な行為を伴う感情みたいに扱われる時があるけれど、もっと地味で・曖昧で・透明な形で現れたりもするんじゃないかしら…。
 
こうしてみると、ずっと遠くにある謎めいた人達・謎めいた現象に、初めて「地続きの実在性」を感じた気がしました。(自分との共通点を感じるくらいに)
そしてそういったものが、1970年代に克明に描かれたということが、何か「現代の病理」という小さな箱に収まらない…もっと大きなもの―時代を超越した、人間が人間である限り根絶できないものの話になるのではないかという気持ちにも。
 もし城戸先生が何らかの「こうなりたい」という明確な目標があって、原爆で警察を脅すにしても、かなり壮大で社会的な目的があったら、―「しょうもなさ」がなかったら、逆にそれは「非現実的」な冒険物語になっていた気がします。
 
(※少し脱線しますが、「褒められたい」というも、高評価を得たいとか反応が欲しいetc、そういう「活発な欲望」として論じられることが多い気がしますが、私としては、SNSで書き込むことやこうして文章を衆目に晒すことも、それに少しだけ似てる気がします。(勿論、それに当てはまらない切実な状況の方もいるのは承知の上です。)
だって、究極は思ったことを自分の胸の内で嚙み締めるのでも充分な筈なのに、こうして衆目に晒してる。
これは―上記の流れからこう言うのは、疑われても仕様がないのですが―評価が欲しいとかではなく、ただただ自分の中だけでぐるぐる揺蕩う感動やら衝撃が勿体ないから、1人でも良い、自分以外の人様にも聞いて頂きたい、そんな気持ちの表れのつもりですが、「人を気にせず自分1人で完結させることに我慢できない」という点では、同一とはいかないまでも、完全に無関係の感情とは思えません。
そういうアプローチからも、城戸先生は他人事ではありませんでした。)



②モブキャラ / 冴えない設定キャラの「特徴のなさ」をどう描くか


この手の人間の欲求に普遍性を感じてぎくりとした、とお話ししましたが、城戸先生の「原爆を作る前」の描写もそれに拍車をかけているんだと思っています。
冒頭に言いましたけれども、城戸先生は「冴えない」「どこにでもいる」「モブ」というコンセプトのキャラクターでした。

ところで、冴えない設定キャラ」「地味キャラの描写って、なんか定型化されていないか?という気が時折しているんです。
例えば、友達が少ない / コミュニケーションが上手く取れない、又はコミュニケーションに苦手意識がある / 周りからハブられてる / 身なりがちょっとイマイチ / 外見にコンプがある、若しくは外見を揶揄られる描写…etc。
そういう方が非現実的だと思っているわけではなく、ただ、これが「モブ的キャラ」「(自認若しくは他認の)うだつの上がらないキャラ」の定型セットみたいになると、それは「フィクションの中にありがちなそういうキャラ」みたいな記号になっていって、実際の人間の在り方と違ってくるのではないか…?という。
勿論、狙ってそう描いているケースもあると思います。
城戸先生はそうじゃない。
 
確かに友達がいる描写はないんだけれども、前述のバスジャック事件に遭うまでは、昼休みや遠足で生徒と遊ぶ描写もあるし、生徒からも一定の親しみを持たれていると推察できるコミュニケーションがあるんですよね。
加えて言うと、職場で滅茶苦茶褒められる描写もない代わりに、殊更避けられる描写もない。(私が忘れてたらすみません)
また、服装も滅茶苦茶ビシッとしているわけではなく、ちょっと着崩してルーズ気味だけれども、公共の場で忌避されるレベルに浮いてしまう感じではない。
ルックスがどうのみたいな評価も特段作中でされないし、本人もそこに言及しない。(演者の方が美青年だった話は冒頭にしましたが、たまに超美形が演じているのに、地味キャラ設定だから外見も地味設定みたいなキャラ描写あるじゃないですか。それも(記憶にある限り)ない。)
 
良い方向に飛びぬけていない代わりに、おっと…という方向に飛びぬけていない、一定の水準は満たしているからこそ、1番語られない存在。
本当の意味で「目立たない群衆」の範囲に収まる存在。


あとそもそも論なんですけど、城戸先生ってちゃんと学校の先生なんですよね。
皆様も学生をやったことがあるわけですからわかると思いますけど、学校の先生って、一般サラリーマンより格段に休みとかの融通利かないじゃないですか。(一般サラリーマンやるようになって、改めて先生たちの体力に驚いてます…。)
多少出勤がギリギリにはなりつつも、サラリーマンライフ、しかもその中でも特にハードワークな仕事を毎日こなせるくらいのバイタリティーはあるんですよね。
 
それに話は前後しますけど、件のバスジャックに遭った時も、とっさに生徒を守ろうと動くくらいには職業倫理もあるわけです。
城戸先生の自認は兎も角、客観的に羅列すると、社会人・生活者として一定の水準は満たせているわけです。
でも、「本人の中では」満たされないものがある。
だから「特徴のない生活」から乖離したものに走っていく
 
城戸先生がカリカチュアライズされた「ぱっとしない若者」描写だったら、私は城戸先生を「そこらへんにいる人間」といいうより、記号みたいなモノというか、非現実的な存在に思ったかもしれない。
けどこの、「目立たない人性」を、良い方向にも悪い方向にも極端すぎない存在として描いたからこそ、城戸先生の中にあるものが、1つの時代に限定されないように、「一定のカテゴリーの人」にも限定されないもの…他人から見たその人がどうとか関係なく万人に備わっているものふとした弾みで、誰でも支配されうるものと受取るが出来たのだと思います。
(変な話ですけど、私は途中から、映画館の隣の席に座っているのが城戸先生かもしれない…映画館から家に帰るまでに城戸先生にすれ違うんじゃないか?なんでありもしない考えが浮かびました。)
 
あとそう。
よく、とんでもないことをしでかしてしまった人の近隣住民や職場の方が、インタビューとかで、「至って普通の人でした…」みたいな趣旨のことを仰るのあるじゃないですか。
あれって、よく知らないからそう言っていたのかな?と思っていたんですけど、この映画を観てからは、あれって本音だったのかもしれないな…と思ってまたゾッとしました。


③「主演 : 沢田研二」の妙味


こまで「城戸先生」のキャラクター像が有する生々しすぎるリアリティについて語ってきましたけれども、そうすると冒頭で私を悩ませた、「主演:沢田研二」も、単なる「奇麗どころのキャスティング」では済まないのではないかという気がしてきます。
むしろ、こういう奇麗な人―その中でも、陽の雰囲気を持った方―が演じることで、「城戸先生」というキャラクターの普遍性に文句をつける最後の隙を封じているのではないかという。
 
ここまで丹念に、「どうしてしまったの」という行動をとってしまう人の感情の温度だったり、そういう衝動を抱く人の時代的 / 社会的普遍性を描いてもなお、つくかもしれないクソリプがあると思うのです。
それは、「どうせそんなしょうもないことをする / 自認うだつの上がらない人間は、不細工か十人並みなんでしょ」というクソリプ。
私がうがちすぎなのかもしれませんが、世の中でちょいちょい見たことがありまして…「いや、ここにきて外見の美醜の話に帰結しようとするんだ」というのを。
(冒頭で自分は面食いだと書きましたけれども、人間性や好き嫌いみたいなものを、それで結論付けようとするのはちょっと違うなと思っています。)
 
城戸先生が社会人・生活人として、特筆に値するほど生活が破綻していなかった…むしろ、特筆すべきところがないくらいには恙なく生活ができていたのに、本人的には「今ここ」に満たされていなかったように、奇麗な容姿を備えていても、結局満たされているかといわれるともうそこは本人の心持ち次第であるということ。
「どうせ奇麗じゃない人のひがみでしょう」という、こういう問題へのクソリプを封じる最後の1手として、「主演:沢田研二」は、「よく考えられたなあ…」と唸るものがあります。
(鬼ほどどうでもいいのですが、普遍的で誰にでもあるものに説得力を持たせるために、「奇麗」という稀なものを備えた方をキャスティングするっていうのは、何だか話していてみょうちきりんな感じがして可笑しいですね。)
 
余談ですが、城戸先生を演じてる時の沢田研二さんの表情と、役を離れて歌ってらっしゃる時とで全然ハツラツさ加減が別人レベルに違ってびっくりしましたね。
何というか、こういう「奇麗」というもは、物理的な造作だけでなく、本人の心持も大きいのではないかという発見があると同時に、以前某イケメン俳優さんが(本当にどなただったか忘れました)、「自分は学生時代陰の者でモテなかった」という主旨のお話をされていて、その時は「うそだ~」と思ったものですが、今作を観た後だと、客観的にどうだったかはともかく、ご本人は噓偽りなくそう思ってらっしゃるというのは、あり得ることなんだな…と納得できました。


結局は自認の問題なんですよね。
だからこそ、いかんともしがたく偏在している「人間の宿痾」といえるし、簡単な処方箋なんて存在しないんじゃないでしょうか。



3.山下警部とその中の人~美しさ(非普遍性)へのときめきという宿痾~

 さっきまで散々城戸先生というキャラクターの「現実性」を確たるものにするために、「非現実的」になる要素をいかに丁寧に潰していたかという話をしました。
ところがこの話、「非現実」の要素を描くのも卓越しているのです。
そして困ったことに、人間どうも、「非現実」に惹かれるのも止められないみたい…
そんなこの物語の「非現実性」を詰め込んだキャラクターが、城戸先生を助けたお巡りさん、「山下警部」なのです。


①「今ここ」を愛おしむ「ヒーロー」


城戸先生が良くも悪くも「マジにリアルにありそう」な生活の中にいるわけですが、山下警部がマジでリアルにいたら「映画じゃないんだから」って言っちゃいます。
 
まず、登場が「非現実」なんですよね。
だって(冒頭に話した通りですけど)バスジャック犯に襲われて絶体絶命のところを颯爽と助けてくれる、そんな出会い、そこら中にあります??
しかも、城戸先生と生徒たちを助けるだけでなくて、(確か)バスジャック犯も死なせないように体を張る…傷だらけになりながらも当事者全員を生還させる、そんなまるで「物語のヒーローみたい」な形で出てくるわけです。

しかも、そのあと表彰されても誇ったり自慢するでも、美辞麗句を語る訳ではない
山下警部にとっては本当の意味で、普通に生活して、仕事でなすべきことをしているだけなんですよね。あっさりしている。その「あっさり」に、格好つけた感じもない。
その全てが、城戸先生に備わっている「あるある」を見させられると色んな意味で効いてくるんです。
 
「今ここ」ではないナニカを欲する心からすると、「今ここ」の平凡さと対照的なものが実在した!という歓喜に近い気持ちがあります。
 
恐らくですが、城戸先生は漠然とした「今ここ」以外へのモノに対する欲求はありつつ、「今ここ」ではないモノへの具体的なイメージがなかったから、バスジャックに遭うまでは、「今ここ」に留まっていたのではないでしょうか。
それが、「今ここ」ではないモノ―「非現実」の具体的なイメージが目の前に現れたからこそ、何か「今ここ」ではないモノにアクセスできる!という妙な行動力が沸いたのだと解釈しています。
(とはいえ、行動力だけが沸き上がって本人は空っぽという状態のなので、前述のとおり、本当にしようもない出力になるのですが…。)
 
ところで余談ですが、凡人の発想であれば、「うだつの上がらない主人公」が「素敵なヒーロー」に助けられたら、そこから改心して明るい方向に進みそうですが、ある人にとっては当たり前のこととしてした善行が、それまで取り立てておかしくはない人を異常な方向に追いやるきっかけになる、というのは、何だか昨今のストーカーとかの話を観ていると、「非現実的」な話には思えませんでした
(冒頭の粗筋紹介では端折りましたが、城戸先生は警察を脅迫する際、山下警部を電話口に呼ぶように指名します…)

他方、明確になりたいビジョンがないくせに「今ここ」のモブライフにいい歳こいて満足できない、という面で行けば、こんな新聞やらニュースで表彰されるようなことをしておいて、本当にさらっとしているというのが眩しすぎる。
山下警部の1人称視点での進行というのが本作は比較的少ないため、推察of the 推察になりますが、山下警部の自認は「どこにでもいるサラリーマン」なんだと考えています。
多くの人が「どこにでもいる働いている人」として生きるのに、一定数、何とな~くそれに満足できずにふらふらしちゃう人がいる一方で、それに満足している人の安定感たるや…何が違うんだ…
と頭を抱えたくなります。
(まあ、それは前述の「心持ち」に帰結していくんだろうなと思ってはいますが…。)
 
しかし、なんていう皮肉でしょう。
褒められもせず、貶されもせずという淡々とした生活の中にあり、その「今ここ」にぼんやりと不満を抱きながら生きている人間がいる一方で、世の中から賞賛されるようなヒーローになれる人がいる…それだけでも切ないのに、そうしたキラキラした人の方が、平凡で穏やかな「今ここ」を慈しんでいる!
いたたまれない…。何もかも噛み合わなさすぎる!!!
 
そういうわけで、山下警部というのは、「他人を助けるヒーロー」という非現実的な即面でにおいても、「1生活人」という万人に備わっている側面においても、「かくありたい要素」を詰め込んだところがあります。
そういう「輝かしい要素」をいくつも体現したキャラクターって「非現実的」かもしれませんけど、笑えないのは誰しも「非現実に惹かれる」気持ちは皆無ではないんじゃないかというところ。

だって、映画を観る / 漫画を読むって行為そのものが、大なり小なり目の前の「今ここ」以外のモノに興味があるからするんじゃないでしょうか。
それに、輝かしいヒーロー/ヒロインの(時に人間くささも含めた)素晴らしさがメインにある物語っていうもの、結構ゴロゴロあるでしょう?
(私はそういう話も大好きです)
それっていうのは、そういう、現実にはいないわけではないけれども、誰しもが体現できるわけではない人間の輝き…稀なもの、雑な言い方をすると「非現実的」に近い人間の様相に惹かれてしまう気持ちというのが、割とありふれた感情としてあるからじゃないかしら…。
 
それにしても、私は「美しいもの」「輝かしいもの」「高貴なもの」に惹かれる気持ちというのは、もっとポップで明るくて健康的なものだと思ってきました。
別の文章で触れたい映画ではありますが、心に深く刻まれた映画の1つに、「KING OF PRISM」という作品があります。
前段でも触れた様に、私は女性ですが、今まで何故か女性アイドルや女優さんに惹かれる傾向にありました。
別段そこには性的指向とか男女対立とか、そういう何らかの理由は全くなく、唯々何となく、女性アイドルに「かわいーーー!」とときめいてきました。中学時代に衝撃を受けた、神セブン期のAKBと少女時代に始まり、そこからTWICE、MAMAMOO、LE SSERAFIM等々…。

その一方で世の中には、外見的な美しさ・人が動くことで発される魅力、そういった「生きた人間が放つ煌めき」に惹かれることについて、全てを「リアコ」とか「性欲」に由来すると断じてくる層が定数いるんですが、十数年に渡ってそれらに「違うよ!!!!!!!」「別々の感情を一緒くたにしないで!!」と憤慨してきた私にとって、「KING OF PRISM」は救いであり共感の塊でした。
そこでは、そういったものに惹かれる気持ちを、もっとポップで・明るくて・反射的で、健康的なものとして描いてくれた。
そう、ポップで反射的。軽やかな賞賛。満開の桜や美術品を観たときのそれに近い。(それはそれで、相手は生身の人間なのに良いのかという議論はあると思いますが、一旦さておき)
桜だったり月を見て、うっとりこそすれ恋はしないでしょ?
それでいて、桜や月を見る時と違って、なんだか自分も頑張るぞ!と思えるような前向きな明るさ。

人間の持つ広い意味での「美しさ」に惹かれるって、そういうことだと思っていたけれど、そんな強い力だからこそ、おかしなスイッチを押すこともあるんじゃないか、そんな思索が「太陽を盗んだ男」にはあって、それに妙に納得する自分もいる。
というのも、アイドルも芸術もそうですけど、美しさを押出してくるところに抗いたい気持ちもあるんです。(いづれも問題も孕んでいることは知っているので。)
実際幾度か抗おうとした…なのに、「美しいな」「素敵だな」と反射的に思う気持ちに抗えないというところに、この本能の持つ気味の悪さも感じているんです。

私にとって「太陽を盗んだ男」は、人間の持つ輝きに魅せられるということが、他愛もなくて悪いものじゃないと、肯定「だけ」されるものではない―これも人間の中にある、断ちがたい「宿痾」という見方もできるんじゃないか、という気付きを与えてくれた作品でした。
 
(※誤解を招くと心外ですので断っておきますが、「KING OF PRISM」で描かれたものが片手落ちってわけじゃないですからね!!あれはあれで救いですし、人が発する煌めきを巡る様々な側面を辿る上での、紛れもない1つの真実だと思っています。)


②山下警部の中の人問題


先ほど城戸先生の「普遍性」を描く上で、「奇麗」という普遍ならざる生来の要素を帯びた方がキャスティングされたことが、物語に深みを与えているんじゃないかとお話ししましたが、「キャスティングがキャラクターに深みを与える」という意味では、山下警部もそうなんじゃないかなと思っています。
 
山下警部を演じたのは菅原文太さんという役者さん。
さて、私は自分が生まれる前の邦画というのを、余り観てきませんでした。だから、この映画を観る前に触れたことがある氏の出演作品は、「千と千尋の神隠し」だけでした。
よって、私は人生の大多数、この俳優さんには「釜爺の人」という印象しかありませんでした。

まああと、過去に大俳優として名を成した方なのだということくらい。
それ以外の知識があるとすれば、「インテリ俳優」の走りの様な方で、今より大学進学率がずっと低かった時代に、有名難関大を出られた知識人でもいらしたようだ、ということくらい。(「釜爺の人」程度の知識で早大卒を何故知っていると問われると、氏の訃報に際しての新聞で見たからです。)
 
それが今作で初めて、氏が動いて喋っているところを見たのです。
びっくりしましたとも!!!!
キリっとした、とか、端正とか、そういう言葉を体現した様な奇麗な方だったのですから!
特に鼻梁がスッと通ってらして、目や頬のところのシャープなラインといい…「彫刻みたい」という形容は、この時のためにあったのかというくらい。…彫刻じゃないから動くし喋るし、表情が変わるのだけれども。

毎回男女関係なく、奇麗なアイドル/役者さん/モデルさんの美しさに感嘆するたび、ほんのちょびっとだけ!
「彫刻でも絵でもお人形でもない」ということが、神秘的であると同時に、「非現実的」で「恐ろしい」気分になるのですが、この時もそうでした。いや、ここ数年でもトップ3に入る強さでそう思った。
だってそれが、大スター俳優なだけでなく、難関大卒のインテリだなんて!!!!
そんな「設定モリモリ」なことってあります???
こんな「ベタ」なキラキラ要素を「幾つも」詰め込んだ方が実在するなんて…映画じゃあるまいし…いやいや、今目の前に現実として広がっているじゃない、という頭の悪い問答が、数日に渡って繰り広げられました。


実際にいた方を捕まえてこんなこと云うはダメかもしれませんが、何だか「非現実的」でした。変な話、ここまで書いてきた中で1番確固たる現実なのに、最も創作めいていました。 (念の為申し添えますが、氏の何かを疑っている訳じゃないですからね!)
しかしこの、「こんな煌びやかな人間が実在するだなんてなあ……」というのは、城戸先生(と我々視聴者)にとっての山下警部に似ていませんか?
そもそも「①」でいっぱい書き連ねた様に、「山下警部」という人そのものが素敵で眩しい人なんです。加えて、それに命を吹き込む役者さんがこんな「物語チック」な方なんですから、城戸先生がまたおかしなことをして山下警部が出てくると、嬉しくなるんです。
 
自分が城戸先生になったみたいで、
さらに言うと何だかストーカーの目線を体験しているみたいで、
嬉しさを覚えるたび怖かった!!!

 
そう思うと、この方が山下警部を演じてらっしゃるというのは、「その時代の大俳優で年齢が役にマッチしたから」を超えた恐ろしい意図をがあったりして…等とつらつら考えました。
この映画をどんな人に勧めたい?と問われると、ここまでこんなに長々と喋れるくらいには多様な語り口の作品なので困り果てるところではありますが、3次元の芸能人の奇麗さにときめいた経験のある方・面食い若しくはミーハーの自認のある方にはお勧めしたいところです。
 
(※またまた鬼余談ですが、さっき「彫刻みたいな美人だけど、彫刻じゃないから動くんだよ…ひええ…」という主旨のことを口走ったじゃないですか。
読み直して気づいたのですが、どうも私の中では、「人の手で作った彫刻が綺麗なこと」の方が、天然自然の産物である人間の貌が美しいよりも有り得ることのように思っているみたいですね。
今まで特に深く考えたことも意識したこともありませんでしたが、自覚しちゃうと「変なの」って感じですね。)



4. 「役者さん」を介する創作物についての一考察~彼らの存在が加える味~


実のところ、今作に出会うまでの私は、「役者さん」を介する創作物―ドラマ/映画/アニメ/声優さんがつくタイプのゲーム―と、「役者さん」を介さない創作物―漫画/小説/声優さんがつかないタイプのゲーム―に、「役者さんの有無」による大きな違いがあると考えたことはありませんでした。
媒体の違いは私の心持を変えるものではなく、全てのフォーマットに等しく「創作物」として接していたし、いづれのフォーマットにも、イチオシの作品があります。
フォーマットの違いによって好きの度合いが変わるなんてことはなかった。(それ自体は今もそうです。)
 
役者さんの有無が創作物に味をもたらすと気づいたのは、丁度似たような時期に、大好きな漫画のアニメと実写ドラマを含作品観たときでした。
いづれも、とっても丁寧で細やかで、映像にしてくれてありがとーーーーーーー!!!と声を大にして叫びたいような卓抜した映像化だったのですが、キャラクターの台詞の速さ・声の深み・台詞と台詞の間に存在する空白・温度感…そういった、上手く説明できないのですが、自分が温めてきたそのキャラクターの息の仕方と、役者さんが色付けしたそれらが微かに異なったのです。

それらは不快ではありませんでした。
むしろ、ああ、このキャラクターと物語に、こういう見方ができるのか、ここの吹き出しと吹き出しの間には、こんな空間が広がっていたのねという発見に満ちていた。
その時、私は役者さんを介する形の創作物に、「役者さんの解釈」というエッセンスが入り込むことの面白味を知りました。
その段階では、役者さんというのを、キャラクターと私の感情の間に立つアドバイザー的なとらえ方をしていました。(そういう側面について今もあると思っています。)
 
それが少し変化したのは、これも昨年頭、「ブラック・レイン」という映画を観たときでした。
この作品については別の機会に詳しく掘り下げたいと思いますが、そこに「サトウ」というキャラクターが出てくるんです。
(役名は「佐藤」なのですが、私的にはどうも「サトウ」という表記の方が、何でかしっくり来ます。)
あんまし喋らないキャラクターで、物語もサトウ目線で進行はしないし、何なら全2時間の過半数も出てこないキャラなんですが、何気ない表情、目線、ふとしたさりげない仕草がいやに目を惹くんです。
元の台本の台詞がどうなっていたかは知る由もありませんが、台本におけるサトウのパートと映画に大差がないのなら、空白の多い台本を、役者さんがその感性と、感性を伴った身体を以て埋めていったのでしょう。
それは生身の人間にしかできないこと。
それと、もし他の方がサトウを演じられたら、それは違うサトウになっていたということ。
そう思うと、「生身の人間」を介することでしかできない表現があるというのが、特別なことの様な気がしてきました。

勘違いしないでほしいのは、「生身の人間」の有無で、作品に甲乙つくわけではないということ。
ただ、生身の人間がいなければ出来ない表現っていうのは確実に存在するのだな…それが、小説や漫画等の媒体と、映像作品という媒体の違いの1つなんじゃないかな…という気付きが生まれたのです。
 
その一方で、「生身の人間」が介することで生まれてしまう「軋轢」みたいなものもこれまで目にしてきました。
端的に言うと、「イメージと違う」ってやつ。
それは、原作があるものの映像化に限定されません。
このキャラクター、○○さんだとどうしても優雅なものを感じちゃう。もっとワイルドな雰囲気の方でも良かったんじゃない?などなどなど。
役を離れた役者さんは、それぞれ1個の人間で、それぞれの来歴がある。それを、我々も御本人達が開示された範囲内において知る。
沢田研二さんは朗らかな明るいお歌の似合う歌手さんで、菅原文太さんは芸能の道に入る前は早大生だった…etc。

「演者の情報」を、「キャラクター」からどこまで切り離せるのか、というのは、結構深遠で難しい議題だと思っています。
「イメージと違う」問題とは少し違う角度からの話になりますが、昨年、「太陽を盗んだ男」と出会う前に「ウィキッド ふたりの魔女」という映画にも出会っていました。
これについても、思い出すと色々語りたくなるくらい素敵な作品で、異性愛者同士の同性間、それもそれぞれ気になる異性がいる女の子同士の友情―完全に「友情」以外の解釈の余地がない「友情」―にも、こんなに密室的で、世界中にあなたと私以外の介入が考えられない様な友情が存在するっていることが、とっても切なくって、健気で、愛くるしかった。
その愛おしさ、無垢さ、危うさ、狂おしい気持ち…まだ大人じゃない2人だから放つことが出来る熱というのでしょうか。
そういったものに胸を焼かれながらも、
「アリアナは芸歴長いとはいえ、こんなことも出来るだ、凄いなあ…『Popular』の歌い方、めっっちゃ可愛かった~!」
「シンシアの歌のパワー、感情より先に涙が出る…すご…これがミュージカル女優か…」
と、キャラクターを通さない演者さん本人も同時に観ていたんです。
帰りの電車で、この「同時視聴副音声」みたいな状態に気付いた時、「役者さんを介する創作物」と向き合う時、私の意識はどこまでが物語とキャラクターに向き合い、どこまでが物語やキャラクター以外に向かっているのだろうか?「純粋に」物語やキャラクターに集中するって何だろう?と思案しました。


「役者さんを介する創作物」というのは、その作品の完成度や視聴者の没入度に関係なく、もしかしたら何か、物語やキャラクター以外の+αの情報や眼差しを誘導しうることもあるんじゃないかしら?(それは、いいとか悪いとかではなく)
でも、そう言う可能性があるとしても、グリンダじゃない人がグリンダに息を吹き込み、エルファバじゃない人がエルファバの歌を響かせる以上―役者さんの技量と表現・解釈が挟まることで生まれる感動も得難いものである以上、その可能性を根絶することはできないのでは?
問題提起とかじゃないんです。
ふとよく考えてみると、演劇って、創作物って、当たり前の構造に不思議に満ちてないかな?ってこと。
 
そんなことをつらつら思っていたところに、「太陽を盗んだ男」です。
奇麗なキラキラしたイケメンが、敢えて良くも悪くも「特徴」のない市民・具体性も目標もない癖に不満だけはある大人を演じたこと、奇麗なスター俳優(しかもインテリ!)という「要素多すぎ」な方が、作中の「憧れの素敵な大人」の象徴の様なキャラクターを演じたこと。
 
そっか!
創作物に「役者さん」という人生/情報が入り込むってことでイメージ論争が起きうること。
「役者さん」という存在が加わることで、創作物以外への眼差しが生まれ得ること。
それなら、それすらもストーリーやキャラクターに組み込んでしまうって手があるのか!
考えてもみなかった…。
 
まったく、これだから創作物を観読みするのはやめらんない!!!!!!
ここまで「人様に読ませる気があるのかこいつ」というレベルの量を独善的に書き連ねてまいりましたが。(普段人様と語り合う機会が少ない作品なので、飢えてて……。)
社会と人間の在り方に思いを馳せるもよし。
美人にときめくもよし。
創作物のフォーマットやら演劇が持つたくらみについて考えるもよし。
きっと私が気づかなかった点に思案を巡らせる方もいらっしゃると思います。(それはそれで伺いたい!)
1粒で様々な楽しみ方を提供してくれる有難い作品だと思っています。

ここまで長々とお付き合いいただき、本当に有難うございました。
またどこかで。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集