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シェアハウス・ロック(or日録)2603初旬投稿分

米、イラン攻撃(0301)

 朝起きて階下に降り、CDの棚から選んだのは『マタイ受難曲』(カール・リヒター)だった。淹れたてのコーヒーを飲みながら、朝にしては陰鬱な序曲を聴く。カフェインのおかげで頭のピントがだんだん合ってくるので、新聞を取りに行き、戻った。
 目に飛び込んできたのは「米、イラン攻撃」の文字だった。遂にやったか。
 メンゲルベルクの『マタイ受難曲』は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に、アムステルダムの聴衆のすすり泣く声とともに録音されている。
『マタイ受難曲』の中心テーマは、「我が弱きを泣く」であり、泣いたのはペテロである。
 最後の晩餐の席で、イエスはペテロに「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と告げるが、ペテロは強く否定し、イエスへの忠誠を誓う。
 イエスが捕らえられ、弟子たちはばらばらに逃げるが、ペテロは遠くからイエスの後を追い、大祭司の家の中庭までついていく。ペテロを見た召使いの女が、「あなたもイエスと一緒だった」と言い、ペテロは「私は知らない」と答える。
 周囲の人が同じように問いただすが、ペテロは再び「そんな人は知らない」と否定する。
 別の人が聞くが、ペテロは「そんな人は知らない」と答える。そのとき、鶏が鳴いた。
 ペテロはイエスの予告を思い出し、外に出て激しく泣く。
 これが「ペテロ否認」である。
『マタイ受難曲』中、私が「この世のアリアのなかで、一番美しい」と感じる『憐れみたまえ、神よ』はこのときの歌であり、「我が弱き」を泣く歌である。
 第一次世界大戦の傷跡もまだ十分に癒されていない時期にヒトラーの台頭に直面し、再び起こるだろう戦争の予兆を感じたアムステルダム・コンセルトヘボウの聴衆は、「我が弱き」「我らの弱き」「人類の弱き」を泣いたのである。、
 イラン攻撃に、トランプの大義はない。イスラエルにもない。しかも、26日、イランとアメリカはジュネーブで3回目の協議を行ったばかりで、合意には至らないものの、交渉を継続することは一致していた。
 あらゆる戦争に大義などあるはずもないが、そのなかでも、他国の領土でなす戦闘にはまったく大義はない。これは考えるまでもなく、侵攻された側に正義がある。
 アメリカは、またしても「イスラム過激派」を育てる愚挙に出たと言わざるを得ない。
 イランは即日報復したという。
 早期終結への回路は、イランの報復が功を奏し、アメリカ軍人に犠牲が出て、国内世論を喚起し、トランプの愚挙を国内から撃つところにしかないと私は考える。この考えが愚劣であることは百も承知だが、愚挙には愚劣な対抗策しかないことも、残念ながら事実であると認めるしかないような気がする。

 春めくも目に「攻撃」の文字受難曲

【3月初旬の標題写真】

 写真中「シェアハウス・ロック」の「・」と「ロ」の間の上にある4弁の小さな花がミチタネツケグサだ。「ェ」に隠れている下に、やや大き目のものがある。アブラナ科の越年草で、ヨーロッパ原産の帰化植物。空き地や道端、田んぼのあぜ道などに自生するが、これは敷石の間を撮ったものである。

当選後も、ちゃんと仕事しろよな(0302)

 標題は、一昨日のお話のなかに出て来た文言である。リレー形式。なにを言ってるんだか。
 まずはFNNニュースから引用する。

 今回の特徴は、なんと言っても総勢66人も誕生した“高市チルドレン”と呼ばれる存在だ。まず、注意されたのは、『不用意な発言に気を付けること!』。特に、今回は、自民党が単独で3分の2(310議席)を超える316議席を獲得するという、歴史的圧勝(1つの政党が単独での3分の2超を獲得するのは戦後初)を果たしたこともあり、油断すると『奢っている』と厳しい批判を浴びかねないため、党として最初に(釘)を刺したのだ。

(釘)としたのは、原文では脱落していると思われたので、補ったものだ。
 FNNニュースが報じたのは、自民党の新人議員研修の様子である。新人研修は昔は派閥がやったと思ったが、いちおう派閥はなくなったことになっているので、党がやったということなのだろう。
 でも、効き目があるのかなあ。
 というのは、『週刊文春』(3.5)巻頭記事が「高市爆弾チルドレンを名指しする(66人を徹底調査)」というもので、それを読むと、どうもやらかしそうな人たちのオンパレードみたいなのである。《高市人気だけを頼りに当選したチルドレンたちが永田町を彷徨い始めている》。なんだか、ゾンビかキョンシーみたいだね。気持ち悪いね。
《選挙期間中、一度もマイクを握ることなく当選後、メディアに「どうしよう」と本音を漏らした比例東海ブロック選出の党三重県連職員・世古万美子(51)》とか、《同ブロック選出の長田紘一郎(26)はテレビの取材を断り、通話するフリの”エア電話”をしながら立ち去る姿が報じられた》という。
 だいじょうぶか? 年収4000万円分の仕事ができるのか? 
 ここまで《》内は完全引用。
 比例で自民党に入れた人、ちょっとは反省したほうがいい。よく、税金泥棒という言い方があるが、国会議員は額が一桁二桁違うので、そんな可愛いものではない。税金強奪犯に近い。泥棒は、もうちょっと慎み深いはず。
 次からは《》で引用すると長くなるので、私がまとめた。『週刊文春』の記事になかった文言は使っていない。
 北海道一区の加藤貴弘(43)は、ススキノのキャバクラ王と言われる人の実弟で、北海道議時代から実兄の企業グループが公職選挙法すれすれの応援をしていたという。
 北海道十一区の中川紘一(35)は中川一郎の孫で、父親は中川昭一。中川昭一は、ほら、イタリアのG7で「酩酊会見」をやって大臣を辞職した人だよ。陣営内は、息子・紘一の飲酒癖をも心配しているという。
 最年少で話題になった村木汀(26)は自民党ギャルで、大学時代自民党北海道連青年局学生部長を務めたという。母親の訪問介護の仕事を継ぐべく実家に戻ったところ、自民党の吉田正人道連会長代行から「比例で名前を貸してくれないか」と言われ、貸したら、受かってしまった。選挙運動もやってなかったみたいだ。
 新人議員のなかで、ちょっと変わり種は、東海ブロックの比例で当選した斉藤里恵(42)。名前に聞き覚えがあると思う。”筆談ホステス”である。自著『筆談ホステス』(光文社、2009年)が20万部を超えるベストセラーになり、一躍有名になった人だ。
 ネタ元の『週刊文春』によると、彼女が勤務していた「クラブМ」の元支配人は、「本に出て来るお客様との筆談による感動的なやりとりは、創作に思えます。ジェスチャーでコミュニケートするほうが多く、筆談は補助的な役割でした。本ではナンバーワンホステスという設定でしたが、彼女の売上は月、二、三十万程度。一人前と言えるレベルですらなかった」と手厳しい。
 まあ、『週刊文春』『週刊新潮』は、「なんか、意地悪やなあ」の媒体だからね。
 長々と、斉藤里恵さんのことを書き写しているのは、「なるほど。こういう人が、こういう経緯で国会議員になるのか」と、なんとなく納得したからである。
 斉藤里恵さんは15年、北区区議選に「日本を元気にする会」の公認候補として立候補し、トップ当選。19年、立憲民主党から参院選に挑み、落選。21年に都議選に出馬し、当選。
 昨年の参院選では、突如として立憲を抜け、自民の公認候補として出馬するも落選。野田聖子の引き抜きだったという。
 そして、今回に至る。
 まあね、こういう人が、こういうふうにして国会議員になるんだねえ。なにも言えんわ。
 当該の『週刊文春』(3.5)の同記事の最後2つのパラグラフで、本日は締めくくる。

 高市事務所に質問したが、期限までに回答はなかった。
 千紫万紅、咲き乱れるチルドレンの今後こそ、高市政権の行く末を占う試金石に他ならない。

 なんか、意地悪やなあ。

本日はのん気な話(0303)

「文楽横浜公演『絵本太功記』(0227)」には書かなかったのだが、その日上演された浄瑠璃の文言のなかに、「用意」「厳重」という単語が出て来た。
 それよりひと月ほど前に「素浄瑠璃の会」で聞いた『摂州合邦辻』(合邦住家の段)には、「未来」という単語が出て来た。
 これらは私には近代日本語だと感じられるので、「おやっ」と思ったわけである。弥勒菩薩はブッダ入滅後56億7千万年後にこの世界に現われると言われ、未来仏と呼ばれるが、この「未来仏」を、私は近代仏教学が用意した単語だと思っていたのである。
 たぶん、「未来」は近代語ではなく、伝統語であり、仏典のどこかにあるのだろう。説明もなく、近代語/伝統語などと言っているが、まず「近代日本語に着目した理由0406(24)」に書いた近代語の説明を引く。

 私が日本語が素晴らしいと思うのは、近代日本語、特に幕末から明治にかけて、その時代人の努力によって語彙を増やし、かなりややこしいことまで日本語で言えるようになったという点である。これに応えた一般日本人も偉い。

 私は近代語、近代日本語などと呼ぶが、一般的には「翻訳語」と呼ぶようだ。ただ、翻訳語というと、翻訳そのものとまぎらわしいので、私は近代語と呼んでいるわけである。幕末、明治に発明された単語ということだ。
 ちなみに、上記「近代日本語に着目した理由0406(24)」から20回を超えるくらい近代日本語周辺のお話をしている。
 私は、35歳くらいから、近代日本語をつくった人たちはどういう人たちなんだろうとずっと考えてきて、それにしてはいい参考書を発見できず、よって、近代日本語/伝統語のセンサーがずっと働いているという状態なのである。
 そのおかげか、なんとなく、近代語、近代日本語の成立過程は「こういう感じ」かなという「感じ」はだいぶわかってきたような気がする。
 毎日新聞の書評(2.28)で、『江戸から見直す民主主義』(田中優子、関良基、橋本慎吾、現代書館)がとりあげられ、書評をした橋爪大三郎は次のように言う。

(幕末から明治にかけては)歴史の分岐点の連続である。幕府の側に、合議に基づき平和的に日本近代をスタートさせようという幅広い動きがあった。攘夷派はテロでこの動きを抑え込んだ。五箇条の御誓文は「大政奉還建白書」より大幅に後退した内容になっている。自由民権運動におされて帝国憲法を定めたものの、教育勅語も定めて、国民は天皇に従い奉仕する存在だとした。薩長の強権政治以外になかったことにされた。

 德川慶喜も、藩をもとにした合州制を提案し、自らは議長席に座ることを構想していたようである。それを薩長土肥は手のひら返しで、慶喜を朝敵にしたのである。そこから考えると、明治維新はクーデターであり、目指したのは王政復古である。
 こういったことが同書評のメインなのだろうが、私の目は、どうしても近代日本語/伝統語関係の話が出て来ると、そこで止まってしまう。
 書評中、「幕府の蕃書和解御用は蕃書の翻訳を続け、青地林宗はリパブリックを共和国と訳し、アメリカ合衆国の政体を説明した」とあった。「近代日本語に着目した理由0406(24)」のシリーズでは、「共和」を福沢諭吉の造語としたと思ったが、訂正を迫られたようだ。
 文楽を観に行き、浄瑠璃を聴いていても、前述のように近代日本語/伝統語が気になってしまい、浄瑠璃そのものを味わうことがだいぶそがれているような気がして仕方がない。

統一教会解散か(高裁は地裁を支持するか)(0304)

 本日、東京高裁が東京地裁の判断(=統一教会解散)を「是」とするかどうかがわかる。
 まず、流れを整理しておく。
 2025年3月、東京地裁は統一教会に対し、解散命令を出した。これは、当該教団の活動を「法令違反」かつ「公共の福祉を著しく害した」とし、宗教法人法81条に基づく文科省の解散請求を妥当とした結果であった。ちなみに、これは、民法上の不法行為を根拠とした初のケースである。
 教団側はこれを不服として即時抗告したが、2026年3月4日に東京高裁がそれへの可否の判断を出す。本日である。
 高裁判断が「可」(つまり、地裁判断を支持する)だった場合、もちろん当該教団が異議を唱え、最高裁に持ち込む可能性もある。
 さて、私は、理念としては、裁くべきは民法上の不法行為であって、「宗教法人法81条に基づく解散命令」は「下策」だと思っている。これは「民法上の不法行為」に対する一種の予備拘束に近いもので、宗教に対する行政の干渉であると思う。もちろん、統一教会がいい宗教である、立派な宗教であるとは言っていないし、思ってもいない。私は教義の片りんや活動の一部分を知っているに過ぎないけれども、それだけでもむしろ唾棄すべき宗教だとすら思っている。
 それでも、である。
 私がこんなことを考え始めたのは、オウム真理教からだ。ある時期、脱会した人たちが突然被害者に転じたのを見て驚愕したのである。たしかに被害者と言えば被害者ではある。だが、この人たちにこういう言い方をするのは本当に酷だとは思うけれども、この人たちのお布施の一部は確実にサリンに変わっているのである。
 つまり、一面ではあるけれども、この人たちは加害者の側面も持つ。決心ひとつで完全に被害者になれる、あるいは、被害者の立場に立てるというのは、どこか違うような気がするし、それを一点の曇りもなく受容、歓迎する社会はどこか病んでいるような気がする。これにしても、受容、歓迎しなければならないことは理解している。
 つまり、加害者から一転して被害者になった人たちは、心のどこかで忸怩たるものを感じているはずだ。その忸怩を誰も問題にしていない。
 この「のっぺらぼうさ」を、私は恐ろしいものだと感じるのである。
 ちょっと大げさな言い方をする。戦争中、「進め一億火の玉だ」と言っていた人たちが、敗戦後、すぐに民主主義万歳になる。このいかがわしさと同質のものを感じてしまう。お断りしておくと、加害者転じて被害者の方に対してではなく、社会に対してだ。つまり、市民社会ファシズム(そんなのあるかどうかは知らないが)の萌芽のようなものを感じてしまう。
 とは言うものの、私は、一般信者とあの教団の幹部連中とを一緒くたに論じるつもりはない。でも、一緒くたに論じる粗雑、乱暴さに通底するような雑な感じと、一面では加害者が突然被害者になってしまう雑な感じが、同根のような気がしてしかたがない。
 でも、この問題の解決の糸口が、私には見えない。まったく見えない。
 たとえば、「民法上の不法行為」に対しては、集団訴訟という手がある。だが、これはものすごく手間もかかるし、実効性も疑わしい。それでも、これは、「上策」とは言わないまでも、「中策」くらいにはなるだろうと思う。もちろん私には「上策」を考え出す能力などはない。
 宗教を法律、あるいは市民感情という俎板の上で扱うのは本当にむずかしい。邪教だ、蒙昧だ、迷信だなどと切って捨てるのはたやすい。でも、それをやると、人類4000年くらいの大きななにかを失う気もする。私は祈る神を持たないが、神に祈らないまでも、祈るという行為の崇高さ、あるいは神を持たねばならないという精神の奥行き、あるいは薄暗がり。そういうものは理解したいと思っている。 
 でも、こんなことを言いながらも、高裁が解散命令を支持し、教団が最高裁に持ち込まなければ(もちろん持ち込むだろうが)、おそらく私はとりあえず「ホッ」とはすると思う。こういうところも含めて、本当にこの問題はむずかしい。
 本日のお話は、とてもわかりにくいと思う。書いている私がそう言うのだから、お読みになってくださった方には、さらにわかりにくいだろう。だが、言っていることはおわかりいただけなくとも、言いたいことだけでも感じとっていただけたら幸いである。

昨日のお話を思考実験してみる(0305)
 
 昨日のお話がわかりにくかったので、本日はその解説のつもりである。
 まずその前に、昨日のお話の裁判所関連の続き。
 結論は、高裁が地裁決定を支持し、高裁が即時抗告を棄却したところでとりあえず終結した(3月4日)。このままだと、統一教会に対する解散手続が開始される。だが教団は最高裁に不服を申し立てることはでき、最高裁が判断を覆せば解散に向けた手続きは停止される。さてどうなるか。
 次は、わかりにくかった昨日のお話の解説である。
 実際の宗教教団を例に使うといろいろと差しさわりがあるだろうから、とりあえず架空のというか、即席の宗教団体をつくった。そういった思考実験である。
 まず、私が教祖になる。「世界は賭博である。絶対神である神聖シャコウ神は賭博を好む。生物の進化も含め、森羅万象の移り行きは一天地六であり、神聖シャコウ神が『賭具』を用いて決定する」という中心教義を得たからである。我がシェアハウスのおばさんが、「真のお母さま」になる。おじさんは「真のお父さま」兼事務局長。私は「ひとり神」であり、神聖シャコウ神の声を唯一聞ける存在だ。
 アインシュタインは、「神はサイコロ遊びを好まない」と言ったが、あれは邪教である。他宗排撃も、新興宗教の特徴であり、アインシュタイン排撃で体裁はさらに整う。ホンマかいな。
 この宗教を神聖奉教と名付ける。経典は神聖奉経である。ネーミングにあたって華聖奉教、華聖奉経というセットも考えたのだが、神聖のほうが深刻なのでそっちにした。
 いかにもいかがわしい宗教だが、なるべくいかがわしくつくっているので当たり前である。
「真のお母さま」は、神聖奉経を基にした詔(みことのり。お言葉)を次々に発する。詔とは言っても、ほとんどは競馬の出目である。それを「真のお父さま」が理論的に補強する。
 ところが、そんな私らの教団が一定程度の支持を得て、しかも一定程度の信者を集めたのだから笑っちゃう。関東圏の支部も、下総中山、府中、大井にできた。
「真のお母さま」の詔を信じて信者は生活実践をした(つまり馬券を買った)。多額にお布施をした(馬券を買った)者が宗教的階梯を上がっていけるという教義だから、経済的困難、家庭崩壊を招く人たちが続出する。これが社会問題化する。相当な邪教だしね。
 さて、ここからが本番。
 このいかがわしいにもほどがある教団に対して、文科省は宗教法人法81条に基づく解散請求を出すのだろうか。出すはずがない。私らの教団(笑)に対して、バックにJRAがいるのではないか、さらにそのバックに農林水産省がいるのではないかと、まず官僚は考えるのだ。縦割り行政の弊害である。それで右往左往する。官僚はここまで病んでいるのである。
 これを簡単に証明する。
 安倍晋三が銃撃され、死亡したのは2022年7月8日。東京地裁が統一教会に対し解散命令を出したのは、2025年3月。このディレイはなんなのか。マスコミの反統一教会キャンペーンの高まりで右往左往した文科省の木っ端役人が、小田原評定してたからに決まっている。
 それから、マスコミ! こらッ、マスコミ。
 統一教会の反社会的活動は、私ですら1970年あたりには知っていた。彼らの教義が、およそ宗教の態をなしておらず、宗教の範疇にはとても収まりそうにないことも、私ですらわかっていた。
 何べんか、週刊誌等々で同教団の霊感商法、また勧誘活動が家庭崩壊を招いていることも報じられた。それらをほとんどスルーして、山上徹也が安倍晋三を銃撃したことでやっと重い腰をあげる。そしておおごとになり、文科省もやっと重い腰をあげた。いったいどういうことなんだ。
 統一教会のバックには自民党、さらにそのバックにはCIAがいることに忖度した以外に考えられない。
「試されている。あらゆる人が試され、社会そのものが試されている」。この数日間、このフレーズが私の頭のなかを駆け巡っている。それだけ社会が煮詰まってきているということだと思う。

【追記】
 本日の朝刊に、「清算手続き開始」とあり、「教団側は特別抗告へ」とあった。

統一教会問題は社会の問題なのか1(0306)

 昨日誕生した神聖奉教(笑)の問題にしても、統一教会問題にしても、それは社会の問題なのだろうか。
 違うと思う。社会の問題である部分もないことはないが、それでも社会の問題であると片付けてしまうと、多くの積み残し部分が出る。
 だから、昨日はこの問題でマスコミに毒づいたけれども、マスコミの立場としては宗教に踏み込みにくいことを、割り引いて考えてあげる必要はある。
 前に一回お話ししたことだが、無教会主義のキリスト者である内村鑑三に、友人が「お宅の女中さんは、キツネを拝んでますぜ」と告げ口というか揶揄したところ、内村は「そうだ。だから彼女は善良なのだ」と答えたといういい話がある。どこで読んだか忘れてしまったし、本当のことかどうかもわからないが、内村鑑三だったらそう言うだろうなと思わせる話である。内村鑑三には、宗教は個的なものであることがわかっていたのだろう。それで無教会主義だ。
 私の友人で橘一善という男がいた。友人といっても、私より20歳近く上の人である。この人は、戦後比較的すぐに東京大学に入り、駒場寮に住んだ。その駒場寮に少し遅れて入って来たのが山本義隆さんである。全国全共闘の議長だった人だ。
 当時、新入生は必ずと言っていいくらい、どこやらの部に入るという風潮があった。義隆さんは、数ある部のなかから「じゃあ、オレは山が好きだから山岳部に入ろう」と思い入部したのだが、そこで牢名主然としていたのが橘一善だった。義隆さんの入学は1960年。安保闘争の年である。牢名主・橘から命じられ、義隆さんは、国会周辺を毎日歩かされた。「これは山岳部の訓練なのだろうか。山にはいつ行くんだろう」と思いながら、毎日、国会周辺を歩いたという。この話は、義隆さん、橘一善双方から聞いている。つまり、裏がとれている。これもいい話ではある。
 橘は卒業にあたり、就職課に行って相談したところ、まったく相手にされなかったという。それはそうだよなあ、新卒ったって30歳後半だもんなあ。
 それで、山谷に行き、肉体労働者になった。入学前は炭鉱で石炭を掘ったりしていたから、肉体労働は苦にならない。
 山谷に住み、肉体労働に従事しながら、そこでギリシャ語の勉強会などをやり、過ごしていた。聖書をギリシャ語で読むためである。
 長い前置きだったが、この橘一善の言葉に「人は愛に定められている」というものがある。これは、キリスト教の本質を表しているとまでは言えないものの、かなりそれに近い言葉だと思う。『ヨハネによる福音書』を一行で言えと言われたら、たぶん橘の言うようになる。
 統一教会は「アダム国」「エヴァ国」などと言うので、キリスト教系の宗教と思われていたところがあった。私も統一教会の存在を知り、しばらくはそう思っていたが、知れば知るほど「そうではない」と確信するに至った。
 韓国人の心情的なものを解読するキーワードに「恨」なるものがある。これは、現在では多義に解釈されているらしいし、「恨」という字面通りに解釈しては間違いだとも言われているようだ。日本で同様のキーワードにあたるものは「もののあはれ」だろうか。
「エヴァ国」(日本)は、「アダム国」(韓国)に大きな負債があるのだから、「エヴァ国」は「アダム国」にその負債を返せねばならないというのが「教義」(!)のひとつらしい。「恨」に訴えるものがあったのだろうか。
 私は、『モルモン経』も読んでいる。だが、統一教会の「教義書」をそれなりに探す努力をしたものの、いまだに入手もできず、よって、読めていない。「秘儀」なのかね。だから、前のパラグラフも、伝聞であり、ニュアンスは違っているかもしれない。
 唐突だが、本日は、宗教はとりあえず「個」の問題であると仮に結論したところで終わる。

統一教会問題は社会の問題なのか2(0307)

 私の長女、長男は、邪教・神聖奉教(前回参照)(笑)や統一教会に入信するには適齢期を過ぎているので、もうあり得ないことだが、彼らが適齢期にそういったところに入りたいと言い出したら、私は、徹底的に彼らと話し合っただろうと思う。そして、全身全霊をかけて思いとどまらせようとしただろうと思う。全知全能をかけて、「信仰」をくつがえさせようとしたはずだ。
 全知全能とは言っても、いずれたいしたものではないんで、彼らの説得に至れないことも考えられる。彼らに論破される場合だってあるだろう。
 あるいは、議論が膠着し、そこから先に進まなくなることも考えられる。こういう場合は、将棋や囲碁でいう「千日手」は先に仕掛けたほうが負けという論理(将棋囲碁の場合はルール)を彼らに納得させられればそこは突破できるが、納得させられない場合だってある。
 いずれにしても、どうしても説得不能だったら、「じゃあ、オレを殺してから行け」と言って、最後の抵抗をするだろうと思う。
 ここで、統一教会問題は、個の問題から家族の問題に拡大したことになる。まだ、社会の問題ではない。
 この家族の問題を最もフレームアップした書籍に、『われら父親は闘う 娘・景子を誘いこんだ統一協会の正体』(飯干晃一、ネスコ、1993)がある。
 まず、飯干晃一は作家であり、映画『仁義なき戦い』シリーズの原作者である。
 飯干の娘・景子は、タレントであり、彼女を担当したスタイリストの女性の影響で統一教会に近づいた。
 1992年3月4日、統一教会の関連団体「アジア平和婦人連合」(世界平和女性連合の前身)は全日空ホテルで総会を開催。教団は飯星を広告塔とすべく、スタイリストを介して、飯星に司会を依頼した。仕事を終えたその日の夜、飯星は父親の飯干晃一に会いに行き「一流企業の社長夫人や有名な方がたくさん来ていた。名誉なことだ」と高揚した表情で語った(Wikipedia)という。
 スタイリストを信頼していた飯星はこれをきっかけとして統一教会の勉強会や講習会に通い始めた。さらに合同結婚式への参加を希望し、6月7日に教団の「祝福講義」を受講した。同年8月25日にソウルで合同結婚式が開かれたが、この年に入信したばかりだったため参加は見送られた(Wikipedia)。
 同年9月19日、大阪空港を発ちロサンゼルスへ向かう。以後、行方不明の状態が続く。9月25日、「今、ニューヨークに着いたところです」とのファックスが父の飯干晃一のもとへ届いた。10月1日、『週刊文春』同月8日号が発売され、「娘 飯星景子を奪われた飯干晃一が統一教会に宣戦布告」と題した記事が掲載された。飯干晃一はまたこの日の午後記者会見を開き、娘を取り戻すと宣言するとともに「あの集団は許せない。景子が戻ってきても戦いは続ける」と述べた(Wikipedia)。
 上のふたつのパラグラフの「スタイリスト」には、実名が入っていたので改変した。一般信者を責めることになるかもしれないことを、危惧したからである。
 飯干晃一・景子父子のことを調べる過程で、「飯干晃一は世論に訴え」という記述を目にした。この記述からは、飯干晃一は言論活動しかしなかったようにとられるおそれがある。飯干晃一は、洗脳を解除するための専門家同席のもと、娘景子と10日に及ぶ議論をしたのである。私は、そう記憶している。
 また、『週刊文春』の記事をきっかけに、教団側は、おそらく懐柔策であろうが、いったん飯干景子を父親の元に戻したのだから、「世論に訴え」る作戦は成功したと思える。
 前回は「宗教はとりあえず『個』の問題であると仮に結論したところで終わ」ったが、今回は、さらに家族の問題でもあるというところで終わる。

統一教会問題は社会の問題なのか3(0308)

 前回を書くためにネットを狩猟していたところ、飯干景子の次のようなコメントを発見した。
「そこで出会った人たちは、共感し褒めるのがとても上手かったですね」「その人たちといると、安心感があった」
 これは、この間お話している邪教・神聖奉教(笑)や、統一教会のような宗教に人々がなぜはまるかを考える際に、とても重要なポイントであると思う。
 この飯干景子の発言は、私にはネットワークビジネスの現場を思い起こさせる。
 告白すると、私は10年ほどネットワークビジネスに関係したことがある。とは言っても、会員になったわけではない。広報というか、広報の下働きをしたのである。ネットワークビジネスに関しては稿を改めるが(そんなに簡単には書けないので)、その過程で知ったネットワークビジネスの現場が、私の目からみたら、上記飯干景子のコメントに酷似しているのである。
 つまり、「現場」は「相互承認」の坩堝であり、お互いにお互いを支え合う雰囲気に満ちている。
 とは言っても、あるときには「上位者」が「下位者」を激しく叱責する。これも形は変えてはいるものの、「相互承認」の一種である。人間関係が希薄になった現代では、これもまた関係なのだ。もっとも、「下位者」にも、この「濃密さ」を嫌い、脱落する人はいる。だが、そういう人でも、人間関係の蜘蛛の糸にがんじがらめになっているので、なかなか脱会はむずかしい。
 彼らの用語に、「プラス」「マイナス」がある。ようするに「ポジティブ」「ネガティブ」である。かなりの頻出用語であると言っていい。これは、外部からの(私は外部と言えば外部だから)意地の悪い視線で言えば、「このネットワークビジネスを肯定するか」「疑義を持つか」という単純なことである。
 この「プラス」「ポジティブ」「肯定」は、ネットワークビジネスが前に進む原動力になる。ある種、自己啓発セミナーの雰囲気に近い(行ったことはないけど、想像はつく)。
 この「現場」で醸し出される(疑似)人間関係から、「現場」を抜け出しにくい雰囲気が醸成される。
 1970年ごろ、週刊誌の記事で、統一教会は、地方から出てきた学生で、都市にひとりポツンと住み、他に行くところがなく、学校と下宿を往復している者を狙うというのを読んだ記憶がある。同記事には、「夏休みが終わると、彼らはいったん故郷に帰り、人心地を取り戻し、また、二学期になるとそろそろ友だちができるので、夏休みまでが勝負」という記述もあった。ここで、「勝負」は、もちろん邪教・神聖奉教(笑)や統一教会の立場に立っての勝負である。そういう人たちを、その「現在」を濃密な人間関係の蜘蛛の糸でからめとるということなのだろう。
 ここまで来ると、統一教会問題は、「やや」社会の問題になる。とは言っても、そういう社会(人間関係が希薄な社会)になってしまったということだけで、社会が、上記のような境遇の学生に対応できなくなっていたということだし(逆に言えば、「この」学生のほうも社会に対応できていない)、そういう学生を輩出するような社会構造になってきたということに過ぎない。社会の側には、それほどの瑕疵があるとも思われない。
 社会にはそれほどの瑕疵はないけれども、それを回収したひとつが統一教会だった。

統一教会問題は社会の問題なのか4(0309)

 昨日は、統一教会問題は、「やや」社会の問題であるとした。だがこの社会には国家は含まれず、民間社会(笑)のことである。2回前では、統一教会問題は家族の問題で(も)あると申しあげた。戦前だったら、この「家族」にうるさ型の伯父さん、伯母さん等々も含まれる。それは必ずしもいいことではないが(私はむしろ悪いことと断言するが)、こと統一教会問題的問題には有効に働いたはずである。ちなみに、このうるさ型の伯父さん、伯母さんは、民間社会(笑)と家族の中間領域にいる。昔の言葉でいえば、「世間さま」(の家族に一番近いほう)である。
 私の考える統一教会問題的問題解決の最善策は、市民が教団を包囲するというイメージだ。だが、これはなかなかかなわないだろう。そもそも、音頭取りが出てきにくい構造になっている。宗教被害者は、そもそも孤立しているように見える。
 弁護士がその役割を担っているように見える場面はある。だが、その芽が、市民が教団を包囲するという動きにつながることは、私の見るところなかった。まったくなかった。
 で、こういう社会になってしまっているいま、頼りになるのは、民間社会(笑)の最高峰にいるはずのマスコミである。
 ところが、そのマスコミもあてにならない。70年代、80年代、90年代あたりでは、それなりに霊感商法などがクローズアップされ、それなりの告発をしていたと思うのだが、第二次安倍政権以降は、あまりそういう記事がなかったような気がする。もちろん、統計をとったわけではない。どなたか、デジタル版を購入していて、お時間のある方がやってくださらないだろうか。
 これからお話しすることは、noteにある人が書いてらしたことである。お名前を出すかどうか、また、その方がお書きになったとおり、つまり正確に引用するかどうかで相当に悩んだ。だが、その方と論戦するつもりもないし、どうも、最初に結論ありきという論法だから議論にもならないだろうと思い、あえて、その記事をポイントできないような書き方にする。
 その方は、「安倍晋三を殺したのは、朝日、毎日、共同、東京などいわゆるオールドメディア、その中でも左翼メディアだ」とし、それらのメディアは「山上徹也の反統一教会の感情をクローズアップし」、それが「統一教会にとっては、濡れ衣、とばっちりという形で」、「世間に対し目眩しに使われた」と主張している。
 こういう論調は、それなりの規模で発生していると思われる。
 でも、この論調は、時間軸を考えただけでもおかしいことは自明である。
 私も同様に、山上徹也銃撃事件でマスコミ、警察、司法を批判しているが、それは、「検察、裁判所、さらに弁護団までも加わり、『ああいったこと』にしておきたいとでもいった『大きな意志』を感じてしまう」(「山上徹也判決における疑問点、問題点1(0131)」)といったことであり、従来のマスコミはそれを追認してるように見えるところである。
 逆に、マスコミが十全に機能し、統一教会と政権の癒着が明かされ、それに対して民間社会(笑)がそれなりの動きをすれば、あの事件は起こらなかったのではないかとすら、私は思う。
 山上徹也は、確かに安倍晋三に銃を向け、銃弾を発射したが、彼が本当に撃ちたかったものは、マスコミ、社会が十全に機能しないことへの絶望だったのではないか。
 そう思う。

統一教会問題は社会の問題なのか5(0310)

 日本国憲法第20条(信教の自由)の第一項は、

 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
 いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

となっており、極左、左翼、リベラル(←「愛国者」の方々の罵倒語)の私は、もちろんこの条項を重く受け止めている。
 だから、統一教会が「国から特権を受け、又は政治上の権力を行使し」ていないかどうかを、まずきちんと検証する必要があると私は考えており、このことに関しては、今に至っても、解明のためのメスの、第一刀すら入っていないと私は感じる。
 統一教会がなんらかの特権を享受しているような印象が、私にはある。少なくとも、私は、それを感じる。もちろん明らかな証拠などはない。ただ印象だけである。
 だが、この印象は、統一教会としては、払拭する必要があるのではあるまいか。つまり、統一教会は、それを払拭する努力を一かけらも見せてこなかったし、マスコミもこれを追求することはあまりなかった。
 マスコミにおける、「なるべく触らないですまそう感」は、オウム真理教のマスコミでの大騒ぎと比べてみれば一目瞭然であると思う。地下鉄サリン事件が起こった1995年(平成7年)3月20日あたりをピークとして、テレビはオウム真理教に乗っ取られたと言って過言でない状態になっていた。まあ、オウム真理教は、消費に適したコンテンツではあったけれども。
 翻って、統一教会問題に関して、この百分の一でもマスコミは騒いだことがあったか。否である。山上徹也がああいう問題を起こしても、オウム真理教で騒いだことの、百分の一も、マスコミは騒がなかった。
 山上徹也の公判では、警察、検察、裁判所は、私の目から見ると、なるべく統一教会に触らないように、触らないようにして、事態を推移させたとしか見えないし、マスコミもそれに追従したとしか見えない。
 一方、文科省の統一教会への解散命令は地裁に支持され、高裁は地裁を支持した。そして、現在は解散手続きに入っているようである。これも、あまりいじって魑魅魍魎が出て来る前に、さっさと手じまいをしたいといった印象をぬぐえないし、どこやら(あからさまに言えば、政権周辺)の意思を感じることである。
 だから、とりあえず、統一教会の社会における問題は、自民党政権に連なるエスタブリッシュメント社会の問題であり、一般社会の問題ではない。
 あえて一般社会の問題を言えば、つつけばもしかしたら魑魅魍魎が出て来そうなこの問題を、容認はしないまでも、看過し、あまり触らないようにしてきたところにある。A級戦犯は、もちろんマスコミだ。
 根拠はなにもないが、霊感商法を扱ったマスコミには、絶対なんらかの圧力があったはずである。それを明らかにするのが、第一歩だ。それも今のところはまったく出て来ない。
 こういった大きな問題に比べれば、文科省が発し、地裁が承認し、高裁が後押しをした解散命令など、ほとんどなんの意味はない。つまり、「臭い物に蓋をする」をさっさとやったという以上の意味はないと感じてしまう。
 だが、「愛国者」の皆さんは、昨日紹介したように、これは宗教弾圧であり、「左翼のオールドメディア」が仕掛けた結果だとおっしゃる。
 私も、これは宗教弾圧であるとは思う。だが、私がそう思う根拠は、「愛国者」の方々とは180度違うと思っている。
 これについては明日。

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