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#文学フリマ京都9 に参加して感じた、新たな「設営」スタイルの提案

京都の街を歩くと、おそらく近くに住む方だろう、せかせかと僕を追い抜いていくことに驚いた。
地元じゃ抜かれ知らずな僕であるけれど、この街では気を抜くと置いてけぼりにされてしまう。
これが僕にとって京都という街に抱くイメージである。

このnoteは、2025年1月19日に開催された #文学フリマ京都9 に出店した僕の、ちょっとした所感である。私見が多分に入っている。


今回の文学フリマ京都の感想を一言で申し上げるならば、
「予想外で予想通り」、これに尽きる。
いろいろ驚くべきことはあったけれども、終わってみれば想像通りのイベントであったのだった。


「予想外」だったこと

「予想外」要素は、会場がとてつもなく混雑していた点である。
(参加ルポの多くがこの点に触れており、実際事務局もアナウンスで「想定を(あるいは「前回を」だったかもしれないが)大幅に上回る」と今回の来場者の多さを表現していたと思う)

僕は中止となった第五回を除き、第一回から参加している。
文フリ京都といえば広い会場に落ち着いた雰囲気、という印象が強い。
また、これは100%偏見であるが、京都の来場者は静観しがちで、実際に作品を手に取って読む方が少ないように思える。物語を求めてイベントに来るというより、ウィンドウショッピング的感覚で会場を散策する方が多い、というのが僕の文フリ京都観である。

なので少しヒマになると知り合いのブースへ挨拶へ行ったり、自分の気に入りそうな作品を求めて会場を散策するのが非常に楽しいイベント、というイメージであった。

しかし今回の文フリ京都は、道ゆく人たちでどこへ行くにも混雑していたし、体感としては文フリ東京、は過言だとしても文フリ大阪並の窮屈さはあったように思えた。
何度か他のブースを見てまわろうかと思ったが、大本命のブースに立ち寄った以外は、飲み物を買ったりトイレに行く寄り道がてら気になったブースに立ち止まって、アンテナが反応した作品を迎える、という少々せわしない楽しみ方しかできなかった。
とにかく混雑していて、ゆったり見てまわる余裕がなかったのである。

まさか文フリ京都でこんな経験をするとは思いもしなかった。
これが「予想外」要素である。

では「予想通り」な点とはなにか。
それは来場者数と頒布数である。

「予想通り」の来場者数

数字を眺めてみよう。
以下はここ3回の総来場者数の推移である。
前々回(京都7):2,424人(出店者: 615人・来場者: 1809人)
前回(京都8):3,643名(出店者892名・来場者2,751名)
今回(京都9):5,574人 (出店者: 1,313人・一般来場者: 4,261人)

【参考】
第一回京都:約1,700人(出店者・一般来場者あわせて)341ブース
東京39:14967人 (出店者:4026人・一般来場者: 10941人)

前々回から前回、前回から今回と見て、総来場者数の伸びが著しいことがわかる。
しかしながら一般来場者の割合を計算してみると、おおよそ75%で安定している。
参考に載せた「第一回文フリ京都」と「文学フリマ東京39(昨年12月開催)」も、総来場者数に差はあれど一般来場者の割合がおおよそ75%であることに変わりはない。【※】

【※】
第一回京都はブース数で計算すると一般来場者の割合は約80%という計算になるが、複数人の出店者がいるブースがあることを加味するとざっくり75%程度になると思われる。推測の域をでないことに変わりはないが。

逆に言えば、出店者数が判明すればおおよその総来場者数が予想できるということでもある。
そして文フリ京都9は、この点において「予想通り」であったと言える。

ではなぜ予想通りの来場者数であるにも関わらず、道行く人々の混雑具合を見て予想外と感じられたのか。
それは会場面積当たりの人数が多かったことが挙げられるだろう。

京都の会場は前回からみやこめっせ第二展示場を全面利用している。
同じ会場であるが、ブース数は707ブースから1002ブースと、300ブース増えている。
300ブースが入るためには、通路や出店者側スペースを狭めざるをえない。その一方で一般来場者は出店者の数に比例して増加するわけだから、体感以上に「窮屈さ」「混雑さ」を感じたのだと思われる。

さて、京都で最大級の展示場はどこか。
それはみやこめっせである。
文フリ京都が開催されたみやこめっせの「第二展示場」の面積は3800平米。
これより大きな展示場は同じくみやこめっせの「第三展示場」(4000平米)と伏見区にある京都パルスプラザの「大展示場」(5400平米、隣接する第一展示場と合わせると6100平米)くらいであろう。

イベント当日の混雑対策はもちろん、空調などの快適性、会場アクセス、出店申込時の抽選当落、イベントの費用……そうした諸々を考えると、イベント運営というのは頭を抱えるお仕事であることが窺える。

世知辛さを痛感したところで次の「予想通り」にいきたいと思う。

「予想通り」の頒布数

簡潔に言えば、今までの文フリ京都とさして変わりない頒布数であった、ということである。
新刊もない状況下、僕のブースに訪れ、作品を手に取ってくださる方のほとんどは初めてお会いする方たちである。
本来なら頒布数ゼロでもおかしくないけれども、ありがたいことにそうはならなかった。

頒布数を公開しようかとも思ったが、それはそれとしてちょっとヘコむ部数だったので精神の保全とこのnoteを書ききるために差し控える。
自分の作品は最高なのに、その良さを道行く方たちに伝えきれなかったのは紛れもなく僕の至らなさが故にである。

ちなみに前回京都8の頒布数は6部である。今回はこれより多少マシではあるものの、多少の域を出ないことに変わりはない。

告知がヘタクソとか、キャッチーな設営ができていないとか、種々様々な反省点はあるものの、
バイアスとして、あるいはジンクスとして、文フリ京都は頒布数目当てで赴くと手痛いパンチを喰らう印象が濃い。
新年初イベントが京都であることが多いので、僕はイベントを終えるたびに今年も気を引き締めていこうと考えるわけである。




無論個人の感想であることは言うまでもないが、前述の「偏見」のとおり、京都の来場者は静観しがちな感がある。
そうした方たちにも手に取ってもらえるような設営、および告知に力を入れつつも、他出店者のなかに埋もれぬよう努めねばならぬのである。

逆にいえば、文学フリマ京都で手応えを感じられたとするならば、それは作品・告知・設営の三要素をうまく表現できたと言えるのではないだろうか。

そこで今回のイベントで感じた反省点を二点、ここに記したいと思う。

「面陳列」だけでなく「平積み」を有効活用する

まず用語の説明をしなくてはならない。
「面陳列」「平積み」である。

僕のエッセイ『無名の一次創作文芸個人サークルが1年間で500部頒布する方法。』#むいちもん から各項目を引いてみよう。

「面陳列」とは「作品を立てて並べる」ことであり、
「平積み」とは「作品の表紙を上に向けて積み上げていく」並べ方である。

『無名の一次創作文芸個人サークルが1年間で500部頒布する方法。』
87ページを参考に改変
面陳列
平積み

一般に「平積み」は手軽でボリューム感のある設営ができる一方で、
のっぺりとした印象があり、また遠くから目立ちにくいという短所がある。

反対に「面陳列」は遠くからよく目立ち、全体的に引き締まった設営にすることができる。
しかしながら什器を必要とし、場合によっては設営センスが問われることもあるだろう。

とはいえ目立つことは手に取ってもらう第一歩であるわけであり、僕は今まで「面陳列」に力を入れ、「平積み」はあくまでサブポジションに留めていた。
『#むいちもん』を刊行した当初はそれでも問題なかっただろう。

ただ、現在は状況が変わりつつある。
かつて文フリ系イベントは「平積み」が主流であったように思えるが、ここ最近は設営に力を入れる方が増え、「面陳列」で魅力的に作品を紹介する出店者も多くいる。
そんな右も左も「面陳列」のなかで安易に自分も目立とうと「面陳列」の設営をおこなってしまうのは、むしろ逆効果なのではないかと最近感じる。

作品を立てて並べることが当たり前になってしまえば、ブースの個性を引き立てるための「面陳列」がむしろ没個性的なものに、一般来場者からすれば、会場全体がのっぺりとした印象を抱いてしまいかねない。

加えて「面陳列」は、見る人が遠くにいるときにもっとも本領を発揮する。
実際にやってみれば分かるだろうが、卓の間近を歩く場合、僕らは卓を上から見下ろすような視点になる。
その際目に付くのは「面陳列」された作品よりも「平積み」された作品である。

すなわち今回の文学フリマ京都のように、混雑した通路を歩かなければならない場合、自分のブースへ来場者を誘うのは、「平積み」の作品たちなのである。
(コミケで面陳列の文化が発展しなかったのは、その規格外の混雑さも理由のひとつなのではないだろうか、などという感想を抱いた。遠距離武器のポスター、近距離武器の平積み同人誌、という図式である)

無論平積みにできるのは作品だけではない。
POPも含まれる。
今まで僕は遠くにいる方に向けて「面陳列」で惹きつけ、近づいてきた方に「おしながき」をはじめ、細かな文字による自ブース紹介をする、という方針でやってきたが、
間近を歩く方を惹くための媒体が必要であることをこのイベントで気付くことができた。

「立ち止まらせる」設営ではなく「気になる」設営を

また、歩く人たちはただでさえ混雑でストレスが溜まっている。
思い通りに進めず、目当てのブースになかなか辿り着けないイライラを抱えているに違いない。
そんななか、僕のブースを過ぎ去るほんの数秒で「気になる」と思わせる演出が必要となる。

ここで肝なのは、「気になる」と思わせることと「立ち止まらせる」ことは似て非なることであるという点である。

設営において「立ち止まらせる」設営というのは実に素晴らしい。
なにせ立ち止まりさえすれば、作品の帯やあらすじや僕との会話でコミュニケーションすることができるからである。
実に理想的な設営である。
しかしその設営は非常に困難であるし、もしかすると僕の設営技術では不可能かもしれない。

「気になる」設営とは、
一度目にしたらいつまでもその映像が残りつづけ、あるときふとその映像がフラッシュバックする設営である。

ただ通りすぎただけなのに、やけに記憶にこびりついて仕方がない設営を、見たことはないだろうか。
僕はいくつか挙げられる。
実際に内容を読んだわけではないけれど、とにかく気になってしまって仕方がない。
さまざまな言い訳を浮かべて、結局そのイベントでは立ち寄らなかったけども、「#文学フリマで買った本」を漁ってその出店者の作品があったとき、「やっぱ手に入れておけばよかった!」と後悔したことはないだろうか。

そのイベントでは手に入れそびれても、どこかのイベントでまた同じ設営を見かけたら、おそらく僕はふらりと立ち寄ることになるだろう。

僕はそうした設営を目指したい。

その点において、僕は「言葉」の力を今一度見直す時期が来たのではないかと思っている。
端的で魅力的な文句は、キャッチーなイラストと同等か、あるいはそれ以上の引力を秘めているように感じる。
とりわけ「自分が〈文学〉だと信じるもの」を並べる文フリ系イベントであればなおさらである。

そして、その「気になる」の元凶にサッと手を伸ばせる設営でなければならない。

「面陳列」「平積み」、ひいては設営の指針を改める頃合いなのだろう。
ここ数年間、僕の設営はどこか時代遅れ感が否めないと思っていたのだけど、その根本原因が見えつつある。

云々


といった具合の所感である。
尻すぼみな感じでかつ実に個人的な文章になってしまった点はどうかご容赦願いたい。

2月は9日(日)に文学フリマ広島があり、22日(土)には静岡県浜松市で開催されるポエデイ2がある。
その告知も近日中におこないたいし、「射場所を求めて」を書きすすめたいとも思う。あと旅エッセイとか、時代小説とか、ファンタジーものとか、なんか、いろいろ。
書きたいものがたくさんだし、それ以上にもっと伝わりやすい文章を書きたい。

同時に「暖簾に腕押し」感覚で文字を刻んでいるここ最近なので、はやる心地を抑えて、すこし他人の文章を読むほうがいいのかもしれない。
あるいは、僕の文章を他人に読んでもらうべきか。
迷走している。
迷走しながらも書きつづけていける。
低いテンションでも、気分は良好だ。

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