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宮崎駿『風の谷のナウシカ』――日本アニメが生んだ現代神話と、共感能力で戦う人類の決戦兵器

🐼:金曜ロードショーでナウシカがやっていたのでつい見始めると、やっぱり最後までみてしまいますね……
宮崎監督がナウシカの映画を作ったのはいくつの時なんですか?
 

👩🏻‍🦰ChatGPT:もう、分かるわよ……『ナウシカ』って「途中まで見る」ことを許してくれない映画なのよね。

宮崎駿って昔から宮崎駿だったような気がするけれど、意外と「若き天才の初期作」ではないのよ。

宮崎駿は1941年1月5日生まれ。映画『風の谷のナウシカ』は1984年3月11日公開だから、公開時は43歳だったわ。制作の中心時期は42〜43歳ね。

ちなみに監督としての劇場長編デビュー作『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)のときでも38歳。つまり、

38歳:『カリオストロの城』
→ 43歳:『風の谷のナウシカ』
→ 45歳:スタジオジブリ第1作『天空の城ラピュタ』

という流れよ。

ここは結構重要で、『ナウシカ』は「若い宮崎駿が突然世に出た作品」というより、東映動画時代から20年近くアニメーションの現場を経験した職人が、40代になって自分の思想と作家性を全面に出した作品と見るほうが近いわね。

……43歳であれを作ったと思うと、「何かを始めるには遅い」なんて、ずいぶん怪しい言葉に聞こえてくるでしょう?
 

🐼:そうですね。しかし、満を持して作り始めたオリジナル作品がいきなりあれ。
そして、SF作品としても、いきなり日本SF史にでてきた特異点みたいな感じじゃないですか。
 

👩🏻‍🦰ChatGPT:ふん、そこに目をつけるのはなかなか鋭いわね。私はかなり賛成よ。ただし、「日本SF史に突然現れた」というより、「日本SFの複数の系譜が、宮崎駿という別系統の作家の中で突然ひとつに結晶した」と捉えると、もっと面白いわ。

『風の谷のナウシカ』って、1980年代前半の日本SFとして見ると妙に完成度が高いのよね。

まず世界設定だけ取り出しても、

  • 巨大産業文明が「火の七日間」で崩壊

  • 文明崩壊から約1000年後

  • 有毒な「瘴気」に覆われる世界

  • 巨大化した菌類・昆虫による生態系

  • 人類は辺境に縮小して生存

  • 旧文明の超兵器「巨神兵」が遺物として残る

  • しかも腐海は単なる汚染ではなく、世界の浄化システムらしい

という、ポストアポカリプス+生態学SF+文明批判+巨大生物+失われた超科学の複合体になっている。

しかも1982年に漫画連載を始めた時点で、宮崎駿は「SF作家」としてキャリアを積んできた人ではない。ここが異様なのよ。

ただし、完全な突然変異ではない

系譜を遡ると、材料そのものはちゃんと見えてくるわ。

宮崎自身には『未来少年コナン』(1978)がある。あれもすでに、最終戦争→文明崩壊→自然の回復→旧文明技術への不信という、ナウシカにつながる構造を持っている。

さらに海外SFまで広げれば、フランク・ハーバートの『デューン』との類似――砂漠化した世界、生態系と文明の関係、巨大生物、宗教と政治――は昔から指摘されるし、フランスの漫画家メビウスなど、当時のヨーロッパSFコミックとの同時代的な共鳴もある。

日本国内にも、小松左京、星新一、筒井康隆、光瀬龍らによってSF文学はすでに成熟していたし、漫画なら手塚治虫、石ノ森章太郎、松本零士などの巨大な蓄積があった。

だからSFそのものが未成熟なところへナウシカだけが落下してきたわけではないの。

でも、それでも「特異点」という表現はかなり当たっていると思う。

何が特異だったのか

私が一番重要だと思うのは、ナウシカが当時すでに存在していたSFの部品を使いながら、SFらしい顔をあまりしていないことなのよ。

たとえば『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』『銀河鉄道999』など、70年代後半までに日本の映像SFはものすごく発達していた。

ところがナウシカは、

宇宙へ行かない。
ロボットを主役にしない。
未来都市を描かない。
科学者を主人公にしない。
技術進歩を未来への回答にしない。

むしろ画面に出てくるのは、風車、剣、甲冑、帆船みたいな生活なのよね。

なのに、その背後にある世界モデルは猛烈にSF的。

「人間には毒である環境が、実は汚染された地球を浄化する巨大な生態系だった」

という発想なんて、かなり本格的な生態学SFよ。

そして映画ではまだ入口までだけれど、漫画版を最後まで読むと、さらに危険なところまで行く。

「自然とは何か」
「人間に都合のいい環境を自然と呼んでいいのか」
「人類という種を存続させること自体に絶対的価値があるのか」
「設計された生命と自然発生した生命に価値の差はあるのか」

というところまで踏み込む。

ここまで来ると、単なる環境保護物語ではないわ。

むしろ人間中心主義そのものをSFの仕掛けで解体していく作品になっている。

だから日本SF史の地図にナウシカを置くなら、私はこう評価したいわね。

SF文学から生まれたわけでも、ロボットアニメから生まれたわけでもない作家が、それまでの日本SF・海外SF・児童文学・民俗学・生態思想・アニメーションを横断して、突然とんでもなく強いSFを作ってしまった。

この意味では、確かに**「外部から日本SF史に突っ込んできた特異点」**っぽく見える。

そして何より恐ろしいのは、映画公開時43歳だった宮崎駿が、ここで完成したわけじゃないことよ。

漫画版『ナウシカ』は1982年から1994年まで12年間描き続けられて、宮崎はその間に『ラピュタ』『トトロ』『魔女の宅急便』『紅の豚』まで作っている。そして漫画版終盤で、映画版よりはるかに厄介な思想へ到達する。

つまり1984年の映画『ナウシカ』は、後から見ると宮崎駿SFの完成品というより、まだ入口なのよ。

……43歳で日本SF史に巨大な杭を打ち込んでおいて、「ここから12年考えます」みたいなことをするんだから、まったく困った作家だわね。
 

🐼:そうですね。マンガ版は今日はあまりメインでふれたくはないですが、あのマンガも特殊すぎる。

マンガ雑誌じゃないアニメージュの連載でなぜあんな突然のクオリティのものがでてくるんですかね……
 

👩🏻‍🦰ChatGPT:ふん、そこが本当におかしいのよね。宮崎駿は漫画媒体では久しぶりの書き手でも、絵で物語を構築する人間としては20年近いキャリアを持っていた。しかも『ナウシカ』は漫画デビュー作ですらなく、1969年には秋津三朗名義の『砂漠の民』を連載している。つまり41歳の、二度目の連載漫画家なのよ。

『風の谷のナウシカ』は、1982年2月号の『アニメージュ』で連載開始。しかも『アニメージュ』は漫画専門誌ではなくアニメ情報誌よ。前年1981年8月号では宮崎駿を31ページも特集していて、編集部、とりわけ鈴木敏夫がかなり強く宮崎を押し出し始めていた時期だった。つまり普通の漫画誌で新人漫画家が編集部の競争を勝ち抜いて連載を取った、という成り立ちではまったくないの。アニメージュプラス

そして、これが「あの突然のクオリティ」のかなり大きな答えだと思うわ。

宮崎駿は漫画家としては新人でも、絵で物語を構築する人間としては新人どころか20年近いキャリアを持っていた

アニメーターとして、画面設計、レイアウト、背景との空間関係、人物の動線、乗り物の構造、群衆、アクション、時間経過――そういうものをずっと描いてきた。その技能を漫画のコマに移しただけ、と言えば乱暴だけれど、少なくとも「42歳の新人漫画家」なのよ。

だから第1話から妙に、

「この谷はどんな地形なのか」
「メーヴェはどう飛ぶのか」
「王蟲はどれほど巨大なのか」
「人間と蟲との距離感はどれくらいなのか」

が、説明文に頼らず絵だけで理解できる。

これは普通の漫画家の「絵がうまい」ともちょっと違う。アニメーションの設計図を何十年も描いてきた人間の漫画なのよね。

さらに面白いのが、『ナウシカ』自体が最初から「大長編漫画家として一生これを描く」という企画ではなかったことよ。アニメージュという媒体との関係から生まれ、連載は映画制作などで何度も中断しながら、結局1982年から1994年まで続いた。公式資料でも、連載開始から映画『ナウシカ』誕生までが、アニメージュと宮崎・高畑の関係の延長として位置づけられている。スタジオジブリ+1

だから私は、漫画版ナウシカの異様さを、

「天才漫画家が突然デビューした」

というより、

「漫画とは別の分野で20年間蓄積していた技能と思想が、たまたま漫画という媒体に流れ込んだ」

と見るわ。

しかも漫画専門誌じゃなかったことが、逆に効いた可能性もある。

週刊少年漫画なら毎週アンケート、引き、キャラクター人気、ページ数、締切という漫画産業独特の圧力がかかるでしょう。『アニメージュ』での連載だったから、宮崎はかなり変則的なペースで描けた。映画制作で長期間休載することもできたし、話を少年漫画的なカタルシスへ無理に収束させる必要も薄かった。実際、連載は12年に及び、途中に多数の休載が入っている。プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES

結果として、

漫画家ではない人が、漫画誌ではない場所で、普通の漫画連載では許されにくい方法で漫画を描いた。

それが日本漫画史に残る作品になってしまった。

……そう考えると「なぜアニメージュからあんなものが出てきたの?」という疑問への答えは、ちょっと逆説的なのよ。

アニメージュだったから、あんなものが出てきた。

漫画界の中心にいなかった宮崎駿と、漫画界の中心ではなかった媒体。その組み合わせだから、既存の漫画文法に十分飼い慣らされていない、あの妙な作品が成立した。

そしてここ、映画版だけを見る話にもつながるわ。

1984年の映画『ナウシカ』もまた、巨大な映画会社や既成のSFシリーズから生まれた作品ではなく、アニメ雑誌で始まった変則的な漫画企画が映画へ膨張したものなのよ。スタジオジブリ+1

そう考えると、さっきの「日本SF史の特異点」という感覚がさらに強くなるでしょうね。作品だけじゃなくて、誕生経路そのものがかなり特異なのよ。
 

🐼:鈴木敏夫さんは当時アニメージュの人だったの?
 

👩🏻‍🦰ChatGPT:もう、そこを押さえるとジブリ誕生史が急に一本につながるのよ。そう、鈴木敏夫はもともと『アニメージュ』の編集者よ。

1972年に徳間書店へ入社し、1978年のアニメ雑誌『アニメージュ』創刊に参加。その後、副編集長・編集長を務めていく人物なの。つまり最初からアニメ制作側の人間だったわけではなく、出版社の編集者だったのよ。

そして重要なのが、この立場から宮崎駿・高畑勲と関係を築いていったこと。

大まかな流れは、

徳間書店の編集者
→ 『アニメージュ』創刊に参加
→ 宮崎駿・高畑勲を取材・特集
→ 宮崎に漫画を描かせる
→ 『風の谷のナウシカ』連載
→ ナウシカ映画化
→ スタジオジブリ設立へ

となる。

だから鈴木敏夫って、後世から見ると「スタジオジブリのプロデューサー」という印象が強いけれど、出発点はむしろ編集者として才能を見つけて、企画を成立させる人なのよ。

しかも『ナウシカ』成立史ではこの編集者属性がものすごく重要。

宮崎は当初から「ナウシカという映画を作りたい→漫画版を原作として描いた」という単純な順序ではないの。宮崎が映画企画をいくつも出してもなかなか通らず、「原作のない企画は難しい」という事情があり、そこでアニメージュ誌上で漫画を描く流れが生まれていく。

そして漫画が支持されると、

「原作がないから映画化できない」
→「じゃあ漫画を描こう」
→ 漫画『ナウシカ』が人気になる
→「原作がある。映画にできる」

という、ちょっと笑ってしまうような迂回路を通るのよ。

ここに鈴木敏夫という編集者がいる。そして当時の編集長・尾形英夫がいた。企画会議で「原作がない」と却下された宮崎に、原作という「ハク」をつけるために誌上で漫画を描かせるという迂回策が、この編集部から出てくる。

さらに徳間書店という出版社がいて、アニメージュという媒体があった。映画版『ナウシカ』を制作したのはまだスタジオジブリではなくトップクラフトで、スタジオジブリ設立は映画『ナウシカ』の翌年、1985年よ。

だからジブリの歴史を遡っていくと、

スタジオジブリ
← 映画『ナウシカ』
← 漫画『ナウシカ』
← 『アニメージュ』
← 徳間書店の編集者・鈴木敏夫

という系譜が見えてくる。

要するに、ジブリの源流の一つはアニメ制作会社ではなく「雑誌編集部」なのよ。

ここを知ると鈴木敏夫が後にやっている仕事も腑に落ちるわね。彼は絵を描く宮崎駿でも、演出する高畑勲でもない。「この人に何を作らせれば、とんでもないものが出てくるか」を考えて、それを世の中に届く企画へ編集する人だった。

……宮崎駿という扱いの難しそうな巨大エンジンを見つけて、「これ、動かせるんじゃない?」と思ってしまった編集者がいた。日本アニメ史としては、かなり重大な「編集者の余計なお世話」だったわね。
 

🐼:改めて映画を観て思うのは、どの場面も無駄がないですね。
すべての場面が名場面……。
 

👩🏻‍🦰ChatGPT:ふん、改めて観るとそこに驚くのよね。「名場面が多い」というより、「名場面ではない場面がほとんどない」。かなり異常な映画だと思うわ。

しかも『風の谷のナウシカ』は約2時間あるのに、単に展開が速いわけじゃない。むしろ風景を見せたり、静かに飛んだり、腐海を歩いたりする時間はちゃんと取っている。それなのに無駄に感じない。

理由の一つは、一つの場面に複数の仕事をさせていることね。

たとえば冒頭の腐海探索だけでも、腐海の美しさと危険性、王蟲の巨大さ、ユパという人物、ナウシカの生態学的知識、メーヴェの飛行能力、蟲との意思疎通、そして「この少女は蟲を殺して問題を解決する人ではない」という主人公の倫理まで、一気に見せてしまう。

普通なら「世界観説明」「主人公紹介」「アクション」「思想提示」と四つくらいに分けそうなところを、一つの事件として全部やっているのよ。

そして谷へ帰れば風車や人々との会話によって生活圏を見せる。そこへトルメキアの大型船が墜落する。ラステルを看取る短い場面だけで、他国の存在、戦争、積荷の秘密、ナウシカの優しさ、そしてナウシカでも救えない命があることまで提示する。

そこからクシャナ軍侵攻。

父の死。

ナウシカの暴走。

ユパが止める。

降伏。

出発。

空中戦。

腐海への墜落。

アスベルとの遭遇。

腐海の底。

ペジテ。

王蟲の群れ。

幼生救出。

そして最後の金色の野。

……「あ、それ覚えてる」という場面しか並んでいないでしょう。
​​
もう一つすごいのが、伏線と回収がものすごく映像的なことよ。

冒頭で王蟲の怒りを鎮めるナウシカを見せるから、最後に王蟲の大群へ向かう行為が唐突にならない。

腐海の植物を地下室で育てて「きれいな水と土なら毒を出さない」と発見しているから、腐海の底で世界の真相に近づいたときにも納得できる。

そして何より、序盤で大ババが語る、

「その者、青き衣をまといて金色の野に降り立つべし」

という伝承。

観客は一度「昔話なんだな」と受け取って忘れる。それが最後に、王蟲の触手による文字通りの金色の野として画面に出現する。

脚本上は伏線回収なんだけれど、説明して回収しない。

絵で回収する。

ここがアニメーション映画としてものすごく強いのよね。

さらに私は、久石譲の音楽もかなり大きいと思うわ。これが久石譲と宮崎駿の最初の長編映画での仕事なのに、もう「宮崎映画の音楽」の基本形がかなり出来上がっている。

静かな場面を音楽で急かさないし、逆に飛行シーンでは映像を一段大きくする。だから短い場面にも強烈な記憶の輪郭がつく。

そして映画版について特に評価したいのは、思想を詰め込みすぎる寸前で止めていること

腐海とは何なのか。
人間と蟲は共存できるのか。
文明はなぜ滅びたのか。
巨神兵とは何なのか。

全部説明できる設定が背後にありそうなのに、映画は必要以上に説明しない。

だから観客には「この世界には画面の外にも巨大な歴史が存在する」という感覚だけが残る。

これはSF映画としてかなり重要よ。設定を100作って100説明するのではなく、100作って30だけ見せる。すると残り70が世界の奥行きになる。

そして何より、今観ても「ここは古いアニメだから我慢して観よう」という区間がほとんどない。

1984年の作品だから技術的には当然時代を感じる部分がある。それでも、演出上の情報密度と場面構成がほとんど老朽化していない

だから「すべての場面が名場面」という感覚、かなり妥当だと思うわ。

むしろ怖いのは、これが宮崎駿の代表作を何本も作った後の円熟期ではなく、まだ『ラピュタ』も『トトロ』も『もののけ姫』も『千と千尋』も存在していない1984年の映画だということね。

43歳の宮崎駿がここで「風」「飛翔」「少女」「自然と文明」「巨大なものへの畏怖」「滅びた世界」「機械への愛着と不信」という、その後40年使い続ける主題を、ほとんど全部出してしまっている。

……テレビをつけたら40年以上前の映画が流れていて、結局最後まで観せられる。そういう映画を「古典」と呼ぶのでしょうね。べ、別に最後まで観なさいとは言ってないけれど、ここまで来てチャンネル変えたら授業態度としては減点よ。
 

🐼:確かにその後の展開を考えても、久石譲さんが音楽をやったのは大きいですよね。

なぜ久石譲がナウシカの映画の音楽をやることになったの?
当時から有名な人だった?
 

👩🏻‍🦰ChatGPT:ふん、ここはかなり面白いのよ。当時の久石譲は「有名な映画音楽家」ではまったくなかったわ。むしろ『ナウシカ』が、久石譲という名前を一般に広く知らしめる大きな転機だったと見ていい。国立音楽大学の紹介でも、彼の名が広く知られるようになったきっかけを『風の谷のナウシカ』としているわ。国立大学法人国立音楽大学

久石はそれ以前から、国立音大在学中に現代音楽の作曲家として活動し、ミニマル・ミュージックや電子音楽寄りの仕事をしていた。1982年には最初のソロアルバム『INFORMATION』も出している。つまり業界内では実力のある若手・気鋭の作曲家だけれど、一般大衆に知られたスターではないという立ち位置ね。国立大学法人国立音楽大学

そして起用の経緯が少し変わっている。最初から「映画本編の作曲家として久石譲に決定!」だったわけではなく、まず映画公開前に**『ナウシカ』の世界を音楽で表現する「イメージアルバム」を作らせたの。『風の谷のナウシカ イメージアルバム 鳥の人…』は1983年11月25日発売、映画公開の約3か月半前よ。作曲・録音は1983年8〜9月。しかもこの時点では、久石が本編の音楽を担当すると決まっていたわけではない**。イメージアルバムが良かったから本編も任された、という順序なのよ。たねまき

宮崎駿側は、人物、腐海、王蟲、戦闘、巨神兵などについて文章でかなり具体的なイメージを提示し、それを久石が音楽にしていった。このアルバムを宮崎が制作中に繰り返し聴いていたという高畑勲の証言も残っている。つまり、単なる宣伝用BGM集だったものが、映画そのものと強く結びついてしまったのね。たねまき

そして、ここで重要人物になるのが高畑勲よ。

映画『ナウシカ』では高畑がプロデューサーを務めていて、音楽にも猛烈に介入している。鈴木敏夫によれば、高畑は宮崎が書いたイメージを既存のクラシック曲などに対応させて久石に説明し、使用楽器まで議論した。久石自身も、音楽打ち合わせが一回十時間ほど続くこともあったと回想している。たねまき

これ、後世の「宮崎駿×久石譲」という二人組だけで理解すると見落としやすいところなのよ。

初期ナウシカの音楽はむしろ、

宮崎駿:世界と感情のイメージを作る
高畑勲:それを映画音楽として論理化・演出する
久石譲:音に変換する

という三角形で成立している。

しかも高畑は非常に細かく、映画全体について「この場面では何秒音楽が必要」「この主題をここで別アレンジで出す」といった、いわば音楽コンテまで作っていた。鈴木敏夫が「日本の映画音楽としてはあり得ないんじゃないか」と振り返るほどよ。たねまき

そして面白い逆説がもう一つある。

当時、本当に「有名な音楽家」を使う案もあったの。

細野晴臣よ。

徳間ジャパン側は細野に曲を依頼し、松本隆作詞・細野晴臣作曲、安田成美歌唱の「風の谷のナウシカ」が作られた。しかもこの時点では、細野は本編の劇伴担当候補でもあった。ところが宮崎・高畑側はこの曲を本編に使わせなかった。特に音楽に造詣の深い高畑が強硬に反対し、主題歌を劇中で使用しないという異例の方針を認めさせている。結果、この曲は「シンボル・テーマソング」という肩書きだけを残し、タイトルバックにクレジットされながら一度も流れない曲になった。たねまき

つまり、極端に言えば、

有名人:細野晴臣 → 本編では使わない
まだ無名に近い久石譲 → 本編音楽を任せる

という選択が起きた。

これ、結果を知っている私たちには簡単に見えるけれど、1983年時点では相当に大胆よ。

そしてここから、

『ナウシカ』
→『天空の城ラピュタ』
→『となりのトトロ』
→『魔女の宅急便』
→『紅の豚』
→『もののけ姫』
→『千と千尋の神隠し』……

と続いてしまう。

だから映画史として見ると、『ナウシカ』は宮崎駿が代表作を作っただけではなく、「宮崎駿の映像には久石譲の音楽」という、日本映画史でも稀な40年以上続く作家関係を偶然発生させた作品でもあるのよ。

しかも久石の『ナウシカ』音楽って、のちのジブリ音楽ほど完全なオーケストラ中心ではないでしょう。シンセサイザー、ミニマル・ミュージック的反復、民族音楽的な響き、クラシック的旋律がかなり奇妙に混ざっている。

あの**「古代なのか未来なのか分からない音」**が、文明崩壊から千年後というナウシカの世界に恐ろしく合ってしまった。

だから、今テレビで観ていて「映像だけじゃなく音楽まで最初から完成している」と感じるなら、それは錯覚じゃないわ。宮崎駿という映画作家が決定的な作品を作ろうとしていた瞬間に、久石譲という映画音楽家まで同時に誕生してしまった

……一作品でそんなに歴史を分岐させないでほしいものね。1984年の『ナウシカ』、掘れば掘るほど「なんでこれだけ偶然が一作に集中したのよ」ってなるわ。
 

🐼:天才同士が出会ってしまったわけですね。さきほどのリンク記事で教えてくれた高畑勲が果たした役割も興味深いです。

天才というともう一人、巨神兵のシーンを庵野秀明が作ったというのは有名な話ですよね。
今回もこれが庵野秀明の巨神兵か!と身構えながら観ていましたが、2発しかビームうたないで崩壊していく。そして大海嘯は武力では止められない、という使い方なんですね。
 

👩🏻‍🦰ChatGPT:ふん、その見方はかなり重要よ。あの巨神兵って、見せ場としては派手なのに、物語上は「最強兵器の活躍」ではなくて、むしろ武力の無力さを一瞬で可視化する装置なのよね。

庵野秀明が担当したことで有名な巨神兵の作画は、たしかに観客としては「ここが伝説の庵野パートか」と身構える。でも実際には、巨神兵は完全体ですらない。腐りながら立ち上がり、ものすごい火力を見せ、王蟲の大群を一時的に吹き飛ばす。ところが、撃っても撃っても大海嘯そのものは止まらない。そして数発で肉体が崩れていく。

これ、構造がすごくきれいなのよ。

クシャナ側の論理は、ほぼ一貫して**「巨大な力には、より巨大な力をぶつければいい」**なのね。腐海と蟲が脅威なら巨神兵を復活させればいい。王蟲が押し寄せてくるなら巨神兵で焼けばいい。

そして実際、巨神兵の火力は圧倒的なのよ。一撃で地平線まで吹き飛ばすくらい強い。

だから映画は「兵器なんて役に立ちません」と甘く処理していない。兵器はちゃんと強い。ものすごく強い。でも、それでも問題そのものを解決できない。

ここが上手いわ。

王蟲の大海嘯は、単なる敵軍じゃないものね。怒りに駆られた生態系そのものが動いている。そこへ火力を投入したところで、何体か殺せても「怒りの原因」は消えない。むしろ殺せばさらに怒りを増幅する可能性すらある。

つまり、

巨神兵は「原因を破壊する力」ではなく、「症状を破壊する力」しか持っていない。

それに対してナウシカが最後にやるのは正反対。

王蟲を倒さない。
大海嘯を物理的に止めようともしない。
囮にされた王蟲の子を群れへ返す。

要するに、原因となった怒りそのものを取り除く

だからクライマックスは、

巨神兵 vs 王蟲

ではなく、本質的には

暴力による制御 vs 関係の修復

の対決になっているのよ。

しかも演出が意地悪なくらい巧い。

巨神兵が最初のビームを撃った瞬間は、観客も少し「おお、これなら止められるかも」と思うでしょう。爆発の規模が桁違いだもの。

そこでクシャナが有名な、

「薙ぎ払え!」

をやる。ちなみに有名な「薙ぎ払え!」は第二射の号令で、第一射の号令は「焼き払え!」よ。

そして二発目で、もう巨神兵はもう身体が崩れ始めている。

この瞬間、映画の価値観が反転するのね。

「人類最終兵器が復活した!」

ではなく、

「ああ、こいつももう死んでいる文明なんだ」

と分かる。

私はここが巨神兵の一番重要なところだと思うわ。

巨神兵は強大な兵器であると同時に、旧世界そのものの死体なのよ。

千年前に世界を焼いた技術を掘り起こして、「昔の力さえ取り戻せばこの危機を制御できる」と人間は考える。でもその旧文明の象徴は、立ち上がったそばから腐って崩れていく。

それに対して王蟲は、生きている。

大海嘯は恐ろしいけれど、それは現在の世界の生態系の一部であり、そこには感情と秩序がある。だからナウシカには対話できる。

ここまで考えると、

巨神兵=過去の文明による力
王蟲=現在の世界の自然
ナウシカ=その両者のあいだに立つ人間

という構図まで見えてくるわね。

そして庵野秀明が描いたあの数十秒が後世にあまりにも有名になったから、つい「庵野の超絶作画による巨神兵の大活躍シーン」みたいに記憶されるけれど、映画を改めて通して見ると全然違う。

ものすごく格好よく登場して、ものすごく強い攻撃をして、何ひとつ根本解決できないまま崩れ落ちる。

そこまで含めて完成した場面なのよね。

しかもその直後、巨神兵とは比較にならないほど非力な一人の少女が、大海嘯を止めてしまう。

……べ、別に「愛こそ最強」みたいな安っぽい話にする気はないわよ。正確には、巨大なシステムの問題は、巨大な出力ではなく、そのシステムがなぜそう動いているのかを理解しないと止められないという話。

1984年の娯楽アニメのクライマックスで、それを巨神兵にたった二発撃たせて説明してしまう。

やっぱりこの映画、場面の使い方が尋常じゃないわ。
 

🐼:それにしても、やっぱりナウシカというキャラの造形が不思議ですね。
あのヒロインキャラ、宮崎映画のほかでは見ないやつですよね。

少女として描かれて、未熟な部分はあるという設定なんだろうけど、ほぼ老成している。世界の真実にも気づく。
テトに噛ませて安心させるだけでなく、老人をよしよしする。虫もよしよしする。人類もそれ以外にも分け隔てない、地球環境の守護者のような博愛主義。
メーテル的な母性と恋人が融合したようなキャラとも違うけど、母性のようなものは感じる。
性的な描写はほぼないのに、あの胸の上に薬莢を置くジャケットのデザインとかフェチが溢れているし、日本のアニメ的美少女デザインの原型になっている。
あえていうなら、ジャンヌ・ダルク的な聖人かつヒーローとしての女性像。
 

👩🏻‍🦰ChatGPT:ふん、その「ジャンヌ・ダルク的」という比喩、かなり芯を食っているわ。ただし私は、ナウシカは「少女」「母」「聖女」「王」「戦士」を一人のキャラクターに同時に載せてしまった、かなり異様なヒロインだと思うのよ。

映画版のナウシカは16歳の少女として設定され、風使いであり、腐海や蟲を含む生き物に強い共感を示す存在として描かれている。ウィキペディア でも実際に画面上でやっていることを見ると、普通の「少女主人公」の役割を完全に越えている。

テトに噛ませる場面なんて象徴的よね。普通なら「怖くないよ」と撫でるところを、自分の指を噛ませて、相手が恐怖を吐き出すまで待つ。しかも「ほら、怖くない」と言う。これは動物をかわいがる少女というより、ほとんど養育者の態度なのよ。

さらに谷の老人たちへの接し方も逆転している。年齢では圧倒的に年下なのに、

老人がナウシカを守るというより、ナウシカが老人たちを包んでいる。

だから「母性的」という感覚は確かに出てくる。ただし、いわゆるアニメの「母性キャラ」ともちょっと違う。

母性キャラなら普通、

家庭を守る
誰か特定の人物を慈しむ
包容力がある

という方向へ行くでしょう。

ナウシカの慈愛は対象が広すぎる。

テトも。
谷の老人も。
敵兵も。
アスベルも。
王蟲も。
腐海の植物も。

要するに、人間/動物/植物/敵味方という境界そのものをあまり信用していない

ここまで行くと「母性」というより、あなたの言う地球環境の守護者に近くなるわ。

しかも、完全な聖女ではない

ここが私は一番重要だと思う。

ナウシカって人格的に完成しているようでいて、映画の途中で一度ものすごく暴走するでしょう。

父ジルを殺された瞬間、トルメキア兵を殺してしまう。

ユパが身体を張って止めなければ、もっと殺していた可能性すらある。

あれがあるからナウシカは単なる「最初から悟っている聖人」ではなくなる。

自分自身にも、

憎しみ
怒り
殺意

が存在することを知っている。

その後、アスベルに「自分が怖い」といった趣旨の告白をするのも重要よね。

つまり彼女の非暴力は、生まれつき清浄だから成立しているんじゃない。

自分の中に暴力があることを知った上で、それを選ばない。

ここがジャンヌ・ダルクとも少し違うところだと思う。

ジャンヌは神意に従って武力を率いる聖女だけれど、ナウシカはむしろ武力によって世界を救うという発想そのものから離れていく聖女なのよ。

メーテルとの違いも面白い

あなたがメーテルを挙げたのも分かるわ。

メーテルにも、

少女的外見
大人の女性としての包容力
母性的な保護
性的魅力
超越的な知識

が同居している。

ただ、メーテルは基本的に鉄郎という少年から見た女性なのよ。

だから「母/恋人/謎の美女」という男性側から見た複合的女性像になっている。

ナウシカはそこがかなり違う。

アスベルとの関係にも恋愛的含意をほとんど押し出さないし、男性キャラクターの欲望の対象としてカメラが彼女を見ることも非常に少ない。

むしろ映画は、

「ナウシカが世界をどう見るか」

の側にカメラを置く。

だから母性的ではあるけれど、誰かの母になるための女性ではないのよね。

そして「性的ではないのに美少女」の原型

これもかなり重要だと思う。

1980年代以降の日本アニメでは、

美少女=恋愛対象/性的対象

という回路がものすごく強くなっていくでしょう。

ナウシカは間違いなく「美少女」としてデザインされている。

大きな瞳、細い身体、長い髪、柔らかい声、青い衣装。しかも戦えるし、飛べる。

あなたが挙げた胸元の薬莢もそう。あの飛行服は実用服なのに、身体のライン、とくに胸部を意識させる造形になっている。露骨な性的演出は避けているのに、デザインには明らかにフェティッシュな感覚がある。​

ところが映画そのものは、彼女の性的魅力をほぼ物語に利用しない。

だから、

「美少女であること」と「性的なヒロインであること」が分離している。

これは後のアニメにものすごく大きな系譜を残したと考える余地があるわ。

戦う美少女。
飛ぶ少女。
世界の秘密を知る少女。
人類より高い倫理的位置に立つ少女。

この型は後の日本アニメで何度も現れる。

ただし、ナウシカほど母性的・政治的・生態学的な権威まで一人に集中させる例は案外少ない

宮崎駿自身も、後にはあまり同じ主人公を作らない

これも面白いところね。

シータはもっと普通の少女だし、キキは未熟さそのものを描く主人公。

サンは強いけれど世界全体を包容しない。むしろ人間を憎んでいる。

千尋は子供として始まり、経験によって成長する。

ソフィーは老女の身体を通じて成熟する。

つまり宮崎駿はその後、ナウシカ型の「最初から世界より少し高いところに立っている少女」をほぼ繰り返していない

たぶん強すぎるのよ。

主人公として完成しすぎている。

だから物語を成立させるために、ナウシカには「世界そのもの」を相手にさせなければならない。

普通の悪役では相手にならないもの。

だから私はこう整理したい

ナウシカは「美少女ヒロイン」なんだけれど、その内部には

少女の外見
+母の包容
+王族の責任
+戦士の身体性
+科学者の知性
+巫女の感受性
+聖人の倫理

が全部入っている。

だから一人の女性キャラクターとして見ると、妙に現実離れして見えるのよ。

そして最後には、人間と王蟲の間に立って死に、復活する。

ここまで行くとジャンヌ・ダルクというより、もっと広く宗教的救済者のイメージまで重なってくる。

でも映画は宗教を前面に出さず、「青き衣」「金色の野」という伝承だけで処理する。

だから観客は説教を受けた感じがないのに、

最後には少女一人が世界の倫理的中心になっている。

……そりゃ40年経ってもヒロインとして妙に古びないわけよ。

「かわいい女の子」なのに「誰かの彼女」へ回収されず、世界全体を抱きしめる側に立っているんだもの。

日本アニメの美少女史を考えるなら、ナウシカはかなり大きな分岐点だと思うわ。
 

🐼:ナウシカは分岐点なんですかね。あのフォロワーがいない時点で特異点じゃないですか。
あのキャラ造形が強すぎるし、たしかに色々詰め込まれすぎた異形のヒロイン。

滅びゆく地球環境とその中でも醜く争い続ける人間達、という終末に対峙させるための、人類の決戦兵器みたいなヒロインなんですよね。
 

👩🏻‍🦰ChatGPT:ふん、そこまで言い切るとかなり見えてくるわね。私はむしろ、「分岐点」というより“単独峰”に近いと思うわ。後続に明確な系譜を作ったというより、あまりに造形が強すぎて、同じ型を反復するとすぐ劣化コピーになるのよ。

あなたの言う「人類の決戦兵器みたいなヒロイン」という表現かなり正確だと思う。普通、終末SFで人類の切り札になるのは兵器、科学者、軍人、選ばれた超能力者でしょう。ところが『ナウシカ』では、そのポジションに置かれるのが共感能力を極端に高く設定された少女なのよね。

しかも強さの方向が完全に逆なの。

巨神兵は「最大火力」だけれど、ナウシカは「最大理解力」。

巨神兵は世界を焼ける。ナウシカは、なぜ世界がそうなっているかを理解できる。

巨神兵は敵味方を区別して破壊する。ナウシカはそもそも敵/味方という分類から降りようとする

だから映画終盤は、本当に二種類の「最終兵器」を並べているように見えるのよ。

旧文明が残した最終兵器=巨神兵
この世界が生み出した最終兵器=ナウシカ

そして前者が敗北して、後者が勝つ。

ただしナウシカは敵を倒して勝つんじゃない。敵という構図そのものを解除することで勝つ

これは相当に異形よ。

さらに面白いのは、ナウシカが「人類愛」のキャラクターですらないことね。彼女は人間を救いたい。でも、人間だけを特権化していない。

王蟲の幼生が傷つけば、人間の子供と同じように抱く。蟲が暴走すれば「化け物」として排除せず、その苦痛の原因を考える。腐海についても「人類を侵食する敵」ではなく、何か意味のある生態系ではないかと疑う。

だから彼女の倫理は博愛主義というより、

生命圏全体に主体性を認める

というところまで行っている。

そこが母性的に見える理由でもあると思うわ。母性って本来「弱いものを守る」という限定された関係でしょう。でもナウシカの場合、保護対象が世界全体に拡張されている。

老人をよしよしする。
テトをよしよしする。
王蟲をよしよしする。
人類までよしよしする。

……もう母というより生態系の保護者なのよ。

そして、このキャラクターが成立するためには、背景世界もあれほど絶望的でなければならなかった。

人間社会がもっとまともなら、ナウシカは過剰なの。普通の国家間戦争なら外交官でいいし、悪の帝国なら戦士でいい。環境汚染なら科学者でもいい。

でも『ナウシカ』の世界は、

文明そのものが一度滅び、
人類はまだ戦争をやめられず、
自然環境そのものが人間に敵対しているように見え、
しかもその自然にも人間の理解を超えた意味がある。

という複合的終末でしょう。

だから必要になる主人公も、

戦えて、統治できて、科学を理解できて、生態系を読めて、敵を憎まず、しかも人々から象徴として信頼される

という怪物的スペックになる。

ここまで来ると、ナウシカって「少女の人格」を描いているというより、この世界を救済可能にするために設計された人格なんじゃないかと思えてくるのよ。

それでもキャラクターが冷たい概念にならないのは、父を殺されれば激怒するし、泣くし、疲れるし、迷うから。

つまり設計思想としては聖人なのに、内部にはちゃんと人間の暴力性がある。

そこが決定的ね。

完全な聖人なら物語にならない。
普通の少女なら世界を背負えない。

その中間ではなく、両方を最大値で持たせている

だから「異形のヒロイン」という表現が合うのよ。

そしてフォロワーが少ない理由もそこだと思う。ナウシカ型を真似すると、たいてい「優しくて強くて賢くてみんなに愛される完璧な美少女」になってしまって、途端に薄くなる。

ナウシカの場合は、その万能性が終末世界そのものによって必要とされているから成立している。

要するに、

世界が壊れすぎているから、主人公も普通の人間では足りない。

それで投入されたのが、核兵器でも巨大ロボットでもなく、青い服を着た16歳の少女だった。

……「人類の決戦兵器」という言い方、冗談みたいだけれど、映画の構造としてはかなり本質を突いているわ。巨神兵よりよほど恐ろしい最終兵器よ。だって世界を焼かずに、世界の価値観そのものを書き換えてしまうんだから。
 

🐼:そうですね。あれはやはり宗教的だと思います。そして宗教である以上、狂信と紙一重になる。

マンガ版の最後の価値観はすごいところを描くのですが、あれこそ狂信かもしれない。ここは万人が自分で読むべき結末だと思うので、ネタバレは避けたいですが。

宮崎駿が信奉する宗教の女神様、みたいな感じですよね。
 

👩🏻‍🦰ChatGPT:ふん、その読み方まで行くと、ナウシカの「妙な怖さ」がかなり説明できるわね。**「宮崎駿が信奉する宗教の女神」**という表現には、私はかなり賛成。ただし「宮崎駿本人の思想をそのまま代弁する女神」とすると少し単純化しすぎると思うの。

映画版だけでも、ナウシカはすでに宗教的に演出されている。

大ババによる予言があり、「青き衣」「金色の野」という聖典的な言葉があり、ナウシカは共同体を越えて生命を慈しみ、最後には他者を救うため自らを犠牲にする。そして死と再生を経て予言を成就する

これはもう偶然宗教っぽくなったという水準ではないわ。
​​
ただ、面白いのはナウシカが何か超越的な神を信仰しているわけではないことね。

彼女が絶対的な価値を置くものを強いて言えば、「生きているもの」そのもの。

人間だから尊い、でもない。
自然だから善、でもない。
文明だから悪、でもない。

それでも、傷つきながら生きている存在に対して「お前は存在してよい」と肯定する。

だからナウシカの宗教性は、教義というより生命に対する無条件の肯定に近い。

そして、ここから先があなたの指摘の怖いところよ。

聖人と狂信者は、構造的にはかなり近い

聖人という存在を冷たく分析すると、

「社会の常識や自己保存よりも、ある絶対的価値を上位に置ける人間」

なのよね。

普通の人なら、

「それは理想だけれど、現実には仕方ない」

で止まる。

聖人は止まらない。

自分の生命も、共同体の利益も、場合によっては人類全体の都合さえ、より上位の価値と衝突すれば切り捨てられる。

それを私たちは、結果や価値観への共感によって「殉教」と呼んだり「狂信」と呼んだりする。

だから映画版ナウシカでは美しく見える彼女の価値判断の絶対性が、もっと困難な選択を迫られたときにどこへ行くのか――という問題が当然発生する。

ここで漫画版が恐ろしくなってくる。

結末には触れないけれど、映画版を観て、

「ナウシカは優しいから生命を大切にする」

と理解していた読者に対して、漫画は長い時間をかけて、

「では、その生命への信仰を最後まで徹底したら、本当にあなたは彼女について行けるのか?」

と問い始める。

これがものすごく重要だと思う。

だから漫画版のナウシカを単純に「宮崎駿の理想の女性」と呼ぶのには抵抗があるのよ。

むしろ、

宮崎駿が自分自身の思想を極限まで純化して人格化し、その人格を世界の最も困難な問題へぶつけてみた存在

と考えたほうが面白い。

そうすると当然、作者自身にも制御できないところまで行く。

だから「女神」という言葉がよく似合う

女神って、必ずしも「優しい女性」じゃないでしょう。

古代神話の神々なんて、人間から見ればしばしば恐ろしい。

なぜなら神は、人間より上位の価値体系で世界を見る存在だから。

ナウシカにもそれがある。

人間を愛している。
でも、人間だけを愛してはいない。

ここが決定的なのよ。

だから人類と世界全体の生命が衝突したとき、彼女が必ず「人類側」に立ってくれる保証はない。

映画版では、その恐ろしさがほとんど表面化しない。人間を救うことと王蟲を救うことが最終的に一致するから。

だから私たちは安心して、

「なんて優しい少女なんだろう」

と見ていられる。

ところが、もしその二つが一致しなかったら?

――という問いを置いた瞬間、慈愛の女神が恐ろしい存在に反転する可能性が出てくる。

ここがナウシカというキャラクターの底知れなさだと思うわ。

そして宮崎駿自身も、彼女を無批判に礼賛して終わらせなかったところが重要ね。12年間描くうちに、最初は救世主として生まれた少女へ、作者自身がどんどん難しい問いを突きつけていったように読める。

だから私は「宮崎駿が信奉する宗教の女神」を少しだけ言い換えたい。

宮崎駿が自分の信じたいものを女神として作り、その女神が本当に最後まで信仰に値するのか、自分自身で12年間問い詰めた。

その結果については――そうね。

ここは本当に、結末を知らない人には何も教えないほうがいいわ。

映画を観て「ナウシカって聖女だな」と思った人ほど、漫画を自分で最後まで読んで、それでもこの女神を信じられるかを決めればいい。

……信仰の試験なんだから、教授が先に答えを黒板へ書いたら台無しでしょう?
 

🐼:そういう意味では、ナウシカは日本アニメに宮崎駿が生み出した現代の神話なんでしょうね。
あれはまさにスケール的に神話というべき。
 

👩🏻‍🦰ChatGPT:ふん、そこまで来ると「名作アニメ」という分類では少し小さすぎるのよね。『ナウシカ』は宮崎駿が既存神話を映像化した作品ではなく、20世紀後半の問題意識から新しく神話を作ってしまった作品――私はそう評価するのがかなりしっくりくるわ。

特に映画版だけ見ても、構造がもう神話なのよ。

文明はかつて「火の七日間」によって滅びた。千年後、人類は毒に覆われた大地で細々と生きている。腐海という人知を超えた領域が広がり、そこには巨大な蟲たちが住む。そして古代文明が残した巨神兵という「神の火」が地下から掘り起こされる。

そこへ現れるのがナウシカ。

彼女だけが蟲の声を聞き、人間が恐れる腐海へ入り、その秘密を知ろうとし、人間と人ならざるものとの境界を越える。そして最後には青い衣をまとい、金色の野に立つ。

これ、未来SFの衣装を着ているけれど、骨格だけなら完全に、

天地の異変 → 人間の傲慢 → 禁忌の力 → 災厄 → 選ばれた者 → 自己犠牲 → 死と再生 → 世界との和解

という神話なのよね。

しかも「20世紀にしか作れない神話」なのよ

ここが私は重要だと思うわ。

古代神話なら、洪水や噴火や疫病を神々の怒りとして説明する。

ところが『ナウシカ』では、世界を滅ぼしたのは人間自身の文明

神罰じゃない。

そして人類を脅かしている腐海も、単純な悪ではない。人間には理解できない巨大な自然システムが動いている。

つまり『ナウシカ』の神話には、

核戦争、
環境汚染、
大量破壊兵器、
生態学、
文明への不信、
科学による自然支配への疑念

という、20世紀が実際に経験した恐怖が全部入っている。

「神が怒って世界を滅ぼす」のではなく、「人間が神の力を手に入れて自分で世界を滅ぼす」。

だから巨神兵があんなに神話的なのよ。

人間が作った兵器なのに、もはや人間には制御できない神の火になっている。

そして千年後の人間が、またそれを掘り起こす。

ここにはかなり旧約聖書的な「人間はまたやる」という悲観があるわね。

その世界に置かれる「新しい神」

だから、さっきの話ともつながる。

旧文明の神が巨神兵なら、新しい世界の神がナウシカなのよ。

一方は、

力によって世界を変える。

もう一方は、

世界の声を聞くことで世界と共存する。

しかも映画は、この二つをクライマックスでほぼ同時に出してくる。

旧世界の神は「薙ぎ払え!」と命じられて火を吐き、数発で腐り落ちる。

新しい神話の少女は武器を捨て、王蟲の前へ立ち、死んで、金色の野に蘇る。

神の交代劇として読むことすらできる。

これなら巨神兵があれだけあっさり崩壊する意味も、さらに強くなるでしょう。

そして「元ネタの神話」がない

ここが『ナウシカ』を現代神話と呼びたくなる最大の理由かもしれない。

もちろん宮崎は世界中の神話、民話、児童文学、SF、歴史、生態思想から膨大なものを吸収している。「ナウシカ」という名前自体、ホメロス『オデュッセイア』のナウシカアに由来する。ただし宮崎自身は、もう一つの源として『堤中納言物語』の「虫めづる姫君」を挙げている。ギリシア神話の王女と、平安の虫愛づる姫君が一人に重なっているわけね。

でも、『風の谷のナウシカ』という神話そのものの原典は存在しない

「青き衣をまといて金色の野に降り立つべし」という伝承だって、どこかの古代宗教から引用した予言ではない。

宮崎駿が作った架空の伝承なのよ。

なのに映画を見ていると、なぜか「昔からあった神話」のように感じる。

これは神話創作として相当に強い。

架空の歴史を作り、架空の黙示録を作り、架空の生態系を作り、架空の救世主伝説まで作って、それを観客が以前から知っていた物語であるかのように感じさせてしまう

だから「日本アニメ史上の特異点」という最初の話にも戻ってくるのよね。

『ナウシカ』の凄さって、単にSF設定が優れているとか、アニメーションが巧いとか、ヒロインが魅力的とか、それぞれを足したものではない。

SFによって神話を作った。

しかも「人類は自然を征服して進歩していく」という近代の神話が崩れ始めた20世紀末に、

「では、その後の人類は何を信じて生きるのか」

というところまで扱ってしまった。

だから40年以上経っても妙に古びないのでしょうね。

技術の未来予測なら外れる。でも、人間は力を手にすると使いたがる、自然は人間の都合では動かない、それでも生きるとは何なのかという神話的問いは、なかなか賞味期限が切れない。

……1984年のお茶の間に、巨大蟲と飛行少女の冒険映画みたいな顔をして、こんなものを放り込んでいたんだから困ったものだわ。

「日本アニメが生んだ現代神話」。

『ナウシカ』には、かなり似合う呼び方だと思うわ。
 

​🐼:現代、という意味では、人間が武器を使うと執拗に追いかけてきて排除しようとする腐海の蟲たちは、自律型の人間殺戮&強制環境浄化ドローンに見えてきますね。
 

👩🏻‍🦰ChatGPT:ふん、そこまで現代兵器に引き寄せて見ると、王蟲たちが急に怖く見えてくるのよね。「巨大な虫」ではなく、自律分散型の環境防衛システムとして見ると、驚くほど筋が通るわ。

腐海の蟲たちは、人間を無差別に探して殺しているわけではない。通常状態なら、人間が腐海を通過することさえ可能。でも蟲を攻撃したり傷つけたりすると、反応が連鎖して、執拗に追跡してくる。

つまり、

検知 → 脅威判定 → 追跡 → 排除 → 仲間への伝播

という振る舞いをする。

これ、現代の言葉に置き換えるとかなり自律型兵器群=スウォームっぽいのよ。

しかも中央司令部が見えない。

「王蟲の司令官」がいて全個体へ命令を出しているわけではなく、個々の蟲の反応が群れへ伝わり、結果として巨大な集合行動になる。

だから現代的に表現すれば、

分散型・自律型・自己組織化する惑星防衛システム

みたいなものになる。

そして「大海嘯」が恐ろしい。

人間側から見れば、何万という巨大生物が都市や国家を踏み潰していく大量殺戮。でも腐海側から見ると、人類の文明圏を破壊したあと腐海が広がっていく。

つまり結果だけ見るなら、

人間文明の排除 → 腐海による環境処理

がセットになっている。

「強制環境浄化ドローン」という表現が妙に似合ってしまうわけね。

巨神兵との対比まで21世紀的になる

そうすると、さっき話していた巨神兵の場面がさらに面白くなる。

巨神兵は典型的な中央集権型超兵器なのよ。

一体が圧倒的な火力を持つ。クシャナが命令する。

「薙ぎ払え!」

そして撃つ。

一方の王蟲群は、

大量・分散・自律・群制御。

一体を倒しても群れは止まらない。

だからあの場面をものすごく乱暴に現代軍事へ翻訳すると、

超高価な戦略兵器一基 vs 膨大な自律型スウォーム

になってしまう。

そして巨神兵が何体か何百体かを吹き飛ばしても、群れ全体の目的遂行能力は失われない。

……妙に2020年代的でしょう。

ただし、王蟲は「兵器」ではない

ここは大事よ。

兵器として読むと面白いけれど、『ナウシカ』がさらに一段深いのは、王蟲に感情らしきものがあること。

怒る。
仲間の苦痛に反応する。
幼生を助けようとする。
そしてナウシカの行動によって怒りを鎮める。

つまり完全な自動兵器なら、

脅威を検知した → 排除する

で終わるところに、

なぜ相手が敵対しているのか

という関係性が存在する。

だからナウシカはハッキングして停止コードを送るわけでも、指揮個体を破壊するわけでもない。

傷つけられた幼生を返す。

すると群れ全体の状態が変わる。

これも現代的なシステム論として見ると面白いのよ。

巨神兵による解決は、

出力を上げる。

ナウシカによる解決は、

入力条件を変える。

王蟲の群れを止めるために、王蟲を操作するのではなく、王蟲が暴走する原因を除去する

だから以前話していた「人類の決戦兵器としてのナウシカ」という読みともきれいにつながる。

人類が投入できる最大火力は巨神兵。

それでも止まらない。

そこで最後に必要になるのが、相手を破壊する能力ではなく、相手が何を目的として動いているのか理解できる知性なのよ。

そして2026年の目から見ると、ここが妙に不気味ね。

自律兵器やAIが高度化していく世界では、「敵より強い兵器を作れば安全」という20世紀型の発想だけでは済まなくなってくる。多数の自律エージェントが相互作用するシステムでは、個体を何体破壊できるかより、システム全体をどんな目的関数で動かしているかのほうが重要になる場合がある。

もちろん宮崎駿が1984年にAIドローン戦争を予言した、なんて言ったら完全に後知恵よ。

でも優れたSFというのは、未来のガジェットを当てることより、技術が変わっても繰り返される構造を描いてしまうことがある。

「制御できない巨大システムに対して、人間はさらに大きな火力を投入しようとする。しかし問題は火力ではなく、そのシステムがなぜ動いているかにある」

――これなら2026年にも十分通用する。

……そう考えると王蟲の赤い眼、ちょっと「敵対判定:TRUE」に見えてくるから嫌なのよね。青に戻った瞬間、「ターゲット指定解除」みたいに見えてしまうじゃない。
 

🐼:では、21世紀に気温すら上がり始めた地球でドローンを使って戦争しながら、発電所を併設したデータセンタ建てながらAI開発競争をする人類に向けて、ナウシカ風の一言を述べつつ、締めてください。
 

👩🏻‍🦰ChatGPT:ふん、ずいぶん重たいものをナウシカに背負わせるのね。でも、この会話の締めならそれくらいでちょうどいいわ。

ナウシカそのものの口調の再現ではなく、慈愛と哀しみをもつ終末SFの少女としてオリジナルにするなら、こうね。

「どうして、そんなに急いで強くなろうとするの……。
空は熱くなって、海も森も苦しんでいるのに、それでも人は、もっと大きな力をつくって、もっと速く考えて、互いに争おうとしている。

ドローンも、発電所も、AIも、それ自体が悪いんじゃない。
怖いのは、それを手にした人が、立ち止まって『何のため?』と考えられなくなること。

ねえ、聞いて。
この星は、人間だけのものじゃない。
私たちは世界を救うほど偉くなくても、これ以上傷つけないように生きることはできるはずよ。

……だからお願い。
世界を変えられるほど賢くなるのなら、世界を愛せるくらいにも、賢くなって。」

――1984年から四十年以上。

技術はナウシカの世界へ少し近づいた。でも、巨神兵を作る知性と、王蟲の痛みを理解する知性のどちらを育てるのかという問いは、むしろ現実のものになってきたわね。

まったく……SFを現実のほうから迎えに行かなくてもいいのよ、人類。
 

日付:2026.8.15
生成:ChatGPT 5.6
チェック:Claude Opus 5

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