【短編小説】10日6:13pm@白い神様
その写真を見つけたのは、まったくの偶然だった。
会社の倉庫で店頭POPの整理をしていると、雑誌やパンフレットの蟻塚が崩れきた。床に散らばった雑誌の中に、古い社内報があった。表紙には虹が写っていた。夜の、虹の写真だ。
その写真は、どこか南の島の、夜のビーチを写したものだった。
暗い砂浜にはヤシの木が並び、夜空には星がぱらぱらと散らばっている。星の下には、虹がゆるやかなカーブを描いている。
赤、黄色、青。
夜空にかかる虹は鮮やかで、はっきりくっきり見えた。
ふしぎな景色だった。夜の虹なんて見たことがなかったので、最初は作り物の写真かと思った。写真の粒子は粗いけれど美しい。夢の中の景色みたいに。
写真から風が流れてくる。ヤシの葉がゆれるパリパリという音が聞こえる。花のような甘い香りまで感じてしまう。
単なる美しい写真じゃない。そこに切り取られていたのは、魔法の瞬間だった。見たことのない景色なのに、なんだか懐かしかった。
写真の隅には〈Kauai〉と表記があった。カウアイ島の夜のビーチには虹が出ていて、僕はここにいる。虎ノ門のオフィスビルの、埃っぽくて薄暗い倉庫で、古い請求書に囲まれて。
決断する前に答えは出ていた。その場で人事部に連絡すると、同期の長谷川美奈さんが電話を取った。「営業の斎藤です」と名乗ってから、「退職届って、会社指定のフォーマットがあるの?」と尋ねた。
沈黙を挟んで長谷川さんが答えた。「教えない」
そして電話は切れた。
型通りの引き止めや交渉の後、円満にスケジュールが決まった。有給休暇を消化して、5月末日付で退職。
理由は適当にでっち上げた。語学を生かした仕事をしたい。とかなんとか。僕の専攻は言語学だったし、TOEICのスコアは900点代ということを考慮すれば、家電メーカーで営業をやっていることの方が不自然だ。僕の経歴を知っている人は、すんなり納得してくれた。
親しい同僚が開いてくれた送別会で今後の予定を聞かれて、とりあえずハワイに旅行に行くと言うと、みんなうらやましがった。
実際は、今後の展望なんて何もなかった。でも会社を辞めたからといって人生が終わるわけでもない。というよりはむしろ始まりだった。レールから外れるのではなくて、自分のレールに戻るだけだ。
店を出て桜田通りに入ると、琴平タワーの前の立派な鳥居に出くわした。鳥居の上には、いつも通り35階建ての高層ビルがそびえている。このシュールな光景も見納めだ。
縁日なのだろうか、奥の神社はにぎやかだった。屋台がたくさん並んでいて、焦げたソースの匂いが漂ってくる。長谷川さんが神社について解説してくれた。
「この神社って、江戸時代からある縁結びスポットなんだよ。うちの部のよっちゃんは、良縁祈願セットでお参りしたすぐ後に、結婚が決まったんだって」
長谷川さんの解説は続いた。
「毎月10日には、金運を司る白い蛇の神様も来るんだよ。お守りを買うと白蛇様を首に巻かせてもらえるんだって。経理の田中くんは、白蛇様のパワーで万馬券を当てたんだよ」
そこまで解説すると、長谷川さんは突然話題を変えた。
「ハワイで何するの?」
なんだか突っかかるような聞き方だった。あまり機嫌が良さそうではない。少し考えて、僕は正直に答えた。
「虹を見るんだ」
これは失敗だった。カッコつけているみたいでカッコ悪い。僕はすぐに付け加えた。「お土産買ってくるよ。何がいい?」
長谷川さんは僕を見ていた。というより僕をにらんでいた。さらに機嫌が悪くなったのは明らかだった。フォローしようと思ったところで、長谷川さんが叫んだ。
「虹!」
そしてそのまま、長谷川さんは地下鉄に向かう階段を駆け下りて行った。
世界に名高いワイキキビーチには、東京並みの高層ビルが並んでいた。虎ノ門と負けないくらいシュールだった。この旅行を後悔しかけた。でもカウアイ島の空港で、ヒヨコ連れのニワトリが出迎えてくれて、一気に持ち直した。
ひとりで3週間のキャンプ。テントも寝袋も、最後に使ったのがいつだか思い出せないくらい久しぶりだ。ハワイという未知の場所で最初に知ったのは、東京とは天気の変わる向きが違うということだった。風は北東から南西に向かって流れる。
虹を見るのは簡単だった。雨が降っている時に、太陽の反対側を見ればいい。そこには必ず虹がある。雨は実に多い。虹はあっという間に日常になった。
アニニ、アナホラ、ルーシー・ライト。どこのキャンプ場も良かった。最後は島の西端を選んだ。
アクセスは最悪で、小型のフォードフォーカスは何度もぬかるみにはまり込んだ。すれ違うトラックの地元民たちは"Almost there."と励ましてくれた。"Everyone’s saying the same thing."と答えると、みんな笑った。
見渡す限りどこまでも続く砂浜に、人影はなかった。風と波の音しか聞こえない。世界の外れを眺めていると、ふいに長谷川さんを思い出した。
長谷川さんが怒るのも無理はない。親しい同僚に、突然「辞める」と言われたら、僕だって傷ついただろう。でも思いついたのは突然だったんだ。それくらいは言い訳したい。
そこで気がついた。会社を辞めたということは、長谷川さんに会えなくなるということだ。長谷川さんに会うには、しかるべき手順を踏まなければならない。つまり、会う約束をしなければならない。
誘ったら、会ってくれるのだろうか? お土産を買ってくると約束したから、連絡する口実にはなる。でも、最後に話した時は、かなり機嫌が悪そうだった。あれが最後の会話になるのは嫌だった。
いや違うな。僕は単に長谷川さんに会いたいだけだった。
できることなら、あれを始まりにしたかった。
そんなことを考えているうちに、日が沈んだ。太陽が水平線に吸い込まれると、背後から月がのぼり始めた。満月だった。
満月が昇るのと同時に、雨が降り出した。反射的に月の反対側を見ると、海の上に虹が現れた。夜の、虹だ。普通の虹よりも少し白っぽいアーチが、夜空にくっきりと輝いていた。
キーホルダー、マグネット、ヘアクリップ、エコバッグ。空港の売店には、虹をモチーフにした小物がたくさんあった。回転式のカードスタンドには、ハワイのポストカードが並んでいた。
虹の写真のカードを買って「10日6:13 pm@白い神様」と書いた。
これを翻訳すると「来月10日の定時過ぎに琴平タワーのところの神社で待ってます。PS. 約束通り虹を送ります」という意味になる。
長谷川さんは解読できるだろうか? できなかったら、それまでの縁ということだろう。とはいえ、解読できないとは、思っていなかったけれど。
長谷川さんの住所なんて知らなかったので、会社の人事部宛てにした。長谷川さんには気の毒だけど、この手紙が引き起こすことを想像すると、ちょっと愉快だ。
長谷川さんは僕の下の名前を憶えているだろうか? と思いながら、T・Sと署名した。
