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病気と仕事は、なぜ両立が難しいのか


「普通に働ける身体」という見えない前提

朝、駅へ向かう人たちの流れを見ていると、最近よく考えます。

社会は、「今日も同じように動ける身体」を、かなり自然な前提として作られているのかもしれません。

病気と仕事の両立。
治療と仕事の両立。
がんと仕事。
介護と仕事。

そういう言葉は、制度や支援の文脈では少しずつ語られるようになってきました。実際に厚生労働省も、治療と仕事の両立支援について、事業者、労働者、医療機関、支援機関の連携が重要だと整理しています。

ただ、制度の言葉だけでは、まだ拾いきれないものがある気がしています。それは、病気になった人が毎朝感じる、もっと小さな違和感です。

今日、働けるだろうか。
来週の予定を約束していいのだろうか。
休むと言ったら、どこまで説明すればいいのだろうか。
迷惑をかけていると思われないだろうか。

病気と仕事が両立しにくいのは、仕事量だけの問題ではないのかもしれません。
働くという行為そのものが、かなり健康な身体を前提にしている。

最近は、そんなことを考えています。


“普通に働く”には、かなり多くの前提がある

「普通に出勤する」。
言葉にすると、それだけです。
けれど実際には、その中にかなり多くの条件が含まれていた気がしています。

朝起きられること。
電車に乗れること。
一日分の集中力が残っていること。
午後まで身体が持つこと。
突然悪化しないこと。
来週も同じように動ける“見込み”があること。

健康だった頃、それらは空気のようでした。
意識しなくても、身体が勝手に未来を引き受けてくれていた。
だから仕事は、「来週までに」「来月までに」「次回の会議までに」という未来前提で組み立てられていきます。

でも病気になると、その未来の解像度が急に落ちます。

来週の体調が分からない。
三日後の自分が読めない。
朝起きた時点で、その日が成立するかどうかが決まる。

そうなると、“予定を約束する”こと自体が、少し怖くなっていきます。


「来週までに」が急に重くなる

仕事をしていると、「来週までにお願いします」は、ごく普通の言葉です。
以前は、自分も何気なく使っていたと思います。
でも病気になると、この言葉の重さが変わります。
「来週、自分は働けているだろうか」
という不安が、その言葉の後ろに貼り付くからです。

これは、周囲が厳しいからとは限りません。

むしろ周囲は、かなり配慮している。
「無理しないでください」と言ってくれる。
「体調優先で」とも言ってくれる。
それでも、“約束できない側”には独特の緊張が残ります。
仕事というものが、本来かなり「継続性」に依存しているからなのかもしれません。

同じ時間に来る。
同じように返事をする。
同じ精度で動く。
同じくらいの未来を引き受ける。

社会は、その反復の上に成り立っている。
だから病気は、身体だけではなく、「継続性」そのものを揺らしてしまう。

最近は、そんな気がしています。


休むことには、説明責任が発生する

病気になると、「休む」という行為にも少し独特な疲労が生まれます。
休むこと自体よりも、その説明の方に。
「今日は休みます」
その一文を書くまでに、かなり時間がかかる日があります。

どこまで説明するべきなのか。
どこまでなら“正当な休み”として受け取られるのか。
曖昧だと無責任に見えるだろうか。
詳しく書きすぎると、相手に負荷をかけるだろうか。

そうやって文章を消して、書き直して、また消す。

本当は身体を休めるべき時間に、“休むための調整”をしている。

これは少し不思議なことだと思います。

厚生労働省の資料でも、治療と仕事の両立には、勤務先への病状説明に悩む場面があることが示されています。制度としての支援は存在していても、実際の現場では「何を、どこまで、誰に話すか」という問題が残り続けるのだと思います。

そして多分、周囲も困っている。

どこまで聞いていいのか分からない。
どこまで踏み込むべきなのか分からない。
「無理しないでください」以外の言葉が見つからない。

だから会話は、少しずつ形式的になっていく。

それは冷たさではなく、むしろ互いの戸惑いに近いのかもしれません。


「体調管理」が能力として扱われていく

最近よく考えるのですが、現代の労働社会は、「健康」をかなり個人能力として扱っている気がします。
体調管理。
自己管理。
コンディション維持。
もちろん、それ自体は大事なことです。
でも病気になると、「管理できないもの」があることを思い知らされます。

眠れない日。
突然落ちる体力。
理由の分からない不調。
朝の時点では読めない身体。

そういうものが存在しています。

けれど社会側は、ある程度「安定して動ける身体」を基準に設計されている。

すると、“動けない日”は、どこかで「管理不足」に見えてしまうことがある。

実際、仕事論の中では「体調管理も仕事のうち」という語りは広く見られます。そうした考え方は、健康な時には納得しやすいものです。ただ、病気を抱えた瞬間、その言葉は少し違う重さを持ち始めます。
なぜなら、病気を抱えている人ほど、実際にはものすごく身体を管理しようとしているからです。

食事。
睡眠。
薬。
温度。
疲労。
移動。
予定。

多分、人一倍考えている。
それでも崩れる時は崩れる。
身体は、努力だけでは制御できない。
でも社会は、時々それを忘れてしまう。


“働ける身体”は、条件だったのかもしれない

以前は、「働けること」は自分の能力だと思っていました。
努力して、体調を整えて、時間を守っているから働けているのだと。
でも最近は、それだけではなかった気がしています。

偶然、今日も身体が動いている。
偶然、大きく崩れていない。
偶然、未来の予定を引き受けられている。

そういう不安定な条件の上に、「普通」が乗っていたのかもしれません。
そして多分、そのことは、健康な時には見えにくい。
社会全体が、“働ける身体”を透明化しているからです。

でも病気になると、その透明だった条件が急に輪郭を持ち始める。
「普通に働く」ということが、どれだけ多くの前提に支えられていたのかが見えてくる。

この感覚は、まだうまく整理できていません。

ただ、働けなくなる恐怖だけではなく、“働けていたことの偶然性”に気づいてしまう感覚がある気がしています。


制度はある。それでも、生活の感覚は残る

治療と仕事の両立については、支援制度や相談窓口もあります。

がん診療連携拠点病院、がん相談支援センター、産業保健総合支援センター、傷病手当金、高額療養費制度など、使える制度や機関は整理されています。
だから、制度を知らなくていいという話ではありません。
むしろ、知っておいた方がいいと思います。

ただ、制度があることと、その人が明日の職場で「休みます」と言えることの間には、まだ距離があります。

制度は、生活の骨組みを支えるものです。
でも、生活の中には、骨組みだけでは支えきれない時間があります。

メールを書く前の沈黙。
上司に伝える前のためらい。
同僚の忙しそうな背中。
「大丈夫です」と言ってしまった後の疲れ。

病気と仕事の両立が難しいのは、制度が足りないからだけではないのだと思います。

人が働く場所には、言葉にしづらい空気がある。
そしてその空気は、病気になった時に、急に重さを持ち始める。


それでも、人は“普通”に戻ろうとしてしまう

それでも多くの人は、また働こうとします。
以前と同じように。
以前と同じ速度で。
以前と同じ立場で。
多分、「お金のため」だけではないのだと思います。

働くことには、自分が社会とつながっている感覚がある。
予定がある。
役割がある。
明日が続いていく感じがある。

だから人は、“普通”に戻ろうとしてしまう。
でも、その「普通」が、どんな身体を前提に設計されていたのか。
病気になると、その問いが静かに残ります。

そして最近は、病気と労働の問題というより、
“社会は、どんな身体を「普通」と呼んできたのだろう”
ということを、考える時間が増えました。

まだ答えは出ていません。

ただ、駅へ向かう朝の流れを見ながら、あの静かな速度に合わせ続けることが、実はかなり繊細なことだったのかもしれない、と感じています。


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この連載は、マガジン「深夜の待合室」にまとめています。
病気、介護、仕事、家族、社会のあいだで、まだ言葉になっていない感覚を少しずつ考えています。


最後に

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