「治ったら行こうね」が少し苦しくなる日
人は、思っている以上に、「来年」が来る前提で生きているのかもしれません。
来月の予定を入れる。
半年後の仕事の話をする。
「また今度」と言う。
誰かと、少し先の約束をする。
健康なときには、そのことをあまり意識しません。
むしろ、意識しないまま未来を使えていることが、日常なのだと思います。
でも病気になると、ときどき、その前提が少し揺れることがあります。
未来が消えるわけではありません。
ただ、「来年」という言葉の重さが、少し変わってしまう。
最近、その感覚について考えています。
前回の記事では、
「知性だけでは、人は支えられない」
ということについて書きました。
社会の仕組みや制度について考えることは、今でも大切だと思っています。
ただ、その一方で、病気や介護の前では、正しい説明だけでは届かない時間がある気がしています。
病気になると、人は身体だけではなく、時間の感じ方まで変わってしまうことがある。
今回は、そのことを少しだけ考えてみたいと思います。
人生は、「未来がある前提」でできている
普段、私たちはかなり自然に未来を使っています。
来週の予定。
来月の支払い。
来年の仕事。
数年後の働き方。
家族の予定。
旅行。
引っ越し。
老後。
仕事の場面でも、
「来期」
「中長期」
「次のプロジェクト」
という言葉を、ごく普通に使っています。
それらは全部、未来が来ることを前提にしています。
もちろん、頭では分かっています。
人はいつ病気になるか分からない。
事故に遭うかもしれない。
家族の状況が変わるかもしれない。
人生の前提は、ある日突然変わることがある。
でも、普段はそこまで深く考えません。
考えないまま、「来年」を使って生きている。
それは、悪いことではないと思います。
むしろ、人が日常を続けていくためには、未来をいちいち疑いすぎないことも必要なのかもしれません。
ただ、病気になると、その当たり前の使い方が少し変わります。
「来年どうするか」という話が、ただの予定ではなくなる。
そこに、自分の身体や治療や検査結果が、静かに入り込んでくる。
その変化は、大きな音を立てるわけではありません。
でも、生活の中にずっと残ります。
病気になると、時間の単位が変わる
病気になると、時間の単位が変わることがあります。
「来年」ではなく、
「次の検査」
「次の診察」
「次の結果」
「次の治療」
そういう単位で、予定を見るようになる。
以前なら自然に入れられた数ヶ月先の予定が、少しだけ遠く感じる。
誰かに誘われたとき、すぐに返事ができないことがある。
「その頃、自分はどうなっているだろう」
そんな問いが、ほんの一瞬だけ挟まる。
これは、絶望とは少し違う気がしています。
未来がなくなった、ということでもない。
ただ、未来との距離感が変わる。
以前は手帳に書けば済んでいた予定が、身体の状態や治療の予定と相談しなければならなくなる。
病気は、身体だけではなく、時間の輪郭にも触れてくる。
そんな感じがしています。
「治ったら」という未来
「治ったら行こうね」
この言葉は、優しい言葉でもあります。
けれど、病気の前では、少しだけ違って聞こえることがあります。
未来が、条件付きになる。
「治ったら」
「落ち着いたら」
「検査が終わったら」
「体調が戻ったら」
そういう言葉の先に、予定が置かれる。
それは、もちろん自然なことです。
けれど、そのたびに、未来が少しだけ遠くに置かれるような感覚があります。
今まで何気なく使っていた未来に、小さな留保がつく。
来月。
半年後。
来年。
そのひとつひとつに、確認作業が入る。
まだ、うまく整理できません。
ただ、病気は、身体より先に、「来年」の形を変えてしまうことがある。
最近は、そんなことを感じています。
周囲は、未来を前提に進み続けている
一方で、社会の時間は止まりません。
会社では来期の話が進んでいく。
友人は数ヶ月後の予定を立てている。
街には新しい店ができる。
季節は変わる。
ニュースは流れる。
それ自体は、当たり前のことです。
世界は、自分の病気に合わせて止まってくれるわけではありません。
ただ、ときどき、その流れの速度だけが少し違って見える瞬間があります。
病気を抱えている人の時間と、社会の時間。
そのズレは、意外と静かに人を疲れさせるのかもしれません。
とくに仕事では、そのズレが見えやすくなります。
会社は未来を前提に動いています。
計画を立て、役割を決め、次の成果を求める。
でも、自分は「次の検査結果」を基準に予定を考えている。
同じカレンダーを見ているはずなのに、見えている時間が少し違う。
その感覚は、外からは分かりづらい気がしています。
だから、つい「大丈夫です」と言ってしまう。
本当に大丈夫なのか、自分でもまだ分からないまま。
周囲の時間を止めないために、そう言ってしまうことがある。
最近、その言葉について考えることが増えました。
「大丈夫です」は、誰のための言葉なのか
病気や介護の場面で出てくる「大丈夫です」という言葉は、少し複雑です。
本当に大丈夫なこともあります。
言葉にするほどではない小さな不調のこともあります。
心配をかけたくないだけのこともあります。
でも、それだけではない気がしています。
「大丈夫です」は、自分の状態を説明する言葉であると同時に、場の空気を守る言葉でもあるのかもしれません。
相手を困らせないために。
会話を重くしすぎないために。
仕事を止めないために。
家族を不安にさせないために。
人は、自分の不安より先に、周囲の時間を整えようとしてしまうことがあります。
それは優しさでもあり、疲れでもある。
このあたりは、簡単には整理できません。
ただ、病気になると、自分の身体を抱えながら、同時に周囲の空気も抱える場面が増える。
それは、外から見るよりもずっと重いことなのかもしれません。
未来を失ったわけではない
ただ、この話を単純な悲劇として書きたいわけではありません。
病気になったからといって、未来がなくなるわけではない。
治療を続けながら働く人もいます。
新しい予定を立てる人もいる。
誰かと約束する日もある。
笑う日もある。
むしろ、未来というものを、以前より丁寧に扱うようになる人もいる気がしています。
だから、
「未来が壊れる」
という言葉だけでは、少し強すぎるのかもしれません。
壊れるというより、未来との付き合い方が変わる。
何気なく使っていた未来を、少しずつ手で確かめるようになる。
それに近い感覚なのかもしれません。
病気は、人の人生観を急に変えるというより、もっと手前にある時間感覚を変えてしまうことがある。
そのことについて、最近よく考えています。
それでも、人は予定を立て続ける
それでも人は、予定を立てます。
来週の約束をする。
来月の予定を入れる。
誰かに会う日を決める。
「また今度」と言う。
その行為は、思っていた以上に、人間らしいことなのかもしれません。
未来を完全に信じ切っているからではなく。
不安が消えたからでもなく。
状況がすべて整ったからでもなく。
それでも、予定を立てる。
人は、「未来を信じている」から予定を立てるのではなく、予定を立て続けることで未来を保っているのかもしれません。
まだ言葉になっていませんが、最近はそんな気がしています。
病気になると、「今」が重くなります。
でも、人はその重さの中でも、ときどき未来を見ようとする。
そのことを、簡単に美しい話にはしたくありません。
でも、見落としたくもないと思っています。
次回は、
「“大丈夫です”と言ってしまう社会」
について考えてみたいと思います。
病気や介護の場面で、人はなぜ本音を隠してしまうのか。
そこには、個人の性格だけではなく、仕事、家族、空気、迷惑をかけたくないという感覚が、複雑に絡んでいる気がしています。
まだ簡単には整理できません。
ただ、そこにもきっと、私たちが見落としてきたものがあるのだと思います。。
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最後に
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