宗教を卒業するということ ─ 文鮮明先生の真意
noteの自己紹介で、私は「卒業生」と書いている。
まず、この言葉の真意をきちんと言葉にして伝えたいと思う。
ここでは、文鮮明先生のみ言を手がかりに、「宗教を卒業する」とは何かを整理してみる。
それは、信仰を捨てることでも、神様を裏切ることでもなく、本来の信仰の目的に近づくプロセスなのだと、私は理解している。
第1章 文先生の衝撃的な言葉
1. 教会について(自叙伝より)
まず、文先生ご自身が「教会」「教団」について、自叙伝のなかでこう語っておられる。
> 「私は教会という言葉をさほど好みません」
> 「本来、教会という言葉で人と私を分ける理由は何もありません」
> 「私が願ったのは教派のない教会でした」
>
> 「真の宗教は、自分の教団を犠牲にしてでも国を救おうとし、国を犠牲にしてでも世界を救おうとするものです。
> いかなる場合であっても、教派が優先にはなり得ません」
このみ言から分かるのは、そもそも文先生ご自身が「教会」「教団」を最終目的としておられなかったということだ。
教会に通い始めた頃、先輩に「統一教会は、宗教のいらない世界をつくるための教会なんですよ」と言われたことを思い出す。神様がいて当たり前の世界になれば、宗教は必要なくなる──それを聞いてなるほどと思った。
教会や教団は大切な器だが、あくまで手段であって目的ではない。先生が願われたのは、「教派のない教会」、すなわち人と人を分け隔てるラベルを超えた世界なのだ。
2. 宗教の目的(『平和経』より)
『平和経』を40日精誠路程で訓読したとき、私は次のみ言に強い衝撃を受けた。文先生は、世界の平和大使や宗教指導者たちに、繰り返しこう語っておられた。
> 「宗教はゴール(目的)ではない。あくまでも本然の状態を回復するための通過点だ」
> 「心と体が闘っている状態を修復する修理工場が宗教で、宗教は必須課程だが、それ自体が目的ではない」
> 「修理工場で再生されて、模範生として卒業し、本然の人間として本来神様が与えたかった祝福を享受しながら天国生活をするのが目的」
宗教は「修理工場」であり、本然の状態を回復するための通過点なのだと。
目的は「修理工場の中で生き続けること」ではなく、「本然の人間」として天国的な生活を送ることにある。
「宗教から卒業する」という発想そのものが、当初から文先生のみ言の中に含まれていたのだと感じた。
3. 儀式の限界(『平和経』より)
同じく『平和経』には、宗教儀式の限界についても明確なみ言がある。
> 「宗教がつくった制限された教理と儀式の中に神様が入っていくことはできない」
> 「本然の神と人間の関係は、信仰儀式の手順が必要なく、実生活において真の愛の幸福に酔いながら、理想的家庭を中心として暮らすことのできる父母と子女の関係なんだ」
このみ言を真正面から受け止めるなら、形式にとどまり続けることは、本来の目的から外れてしまう危険もあると感じるようになった。そして神様は教会にではなく、むしろ私たちの家庭にいらっしゃる、そう思った。
第2章 「卒業」の3つの意味
では、「宗教を卒業する」とは具体的に何を意味するのか。
私なりに、次の3つに整理してみる。
意味①:宗教は「修理工場」
文先生は、宗教を「心と体が闘っている状態を修復する修理工場」と語られた。
心と体が闘っている状態を修復する場所が宗教なのだ
修理が終われば卒業していくのが本来の姿だ
ずっと修理工場に居続けるのは不自然だ
目的は、修理工場の中で生きることではなく、本然の人間として祝福を享受して生きること
私にとって「教団を卒業する」とは、「もう教会がいらない」という否定ではない。
> ある段階まで教会という修理工場にお世話になり、
> 学び、悔い改め、訓練され、
> そこで得たものを持って、現実社会と家庭という“本番”で生き始める──
そういう意味合いの「卒業」だと感じている。
意味②:組織への依存からの卒業
二つ目は、組織への依存から卒業するという意味だ。
「組織の指示待ち」ではなく、自分で考え、自分で判断する
「言われたから従う」のではなく、良心とみ言に照らして決断する
「天一国主人」とは、主体的に生きる人間のことだと理解している
組織に縛られなくても、神様と良心に忠実なら、信仰は成り立つのだ
私にとっての「卒業」とは、教団への盲目的な従属から離れ、一人の人間として神様の前に責任を負って生きる段階に入ることだと思う。
意味③:形式から実体へ
三つ目は、形式から実体への転換だ。
儀式や形式そのものが目的ではない
日々の暮らしそのものが信仰の場であるべきだ
家庭は、小さな天国の土台であり、愛と責任を実践する教会であり訓練場なのだ
語るだけでなく、実体で証していくことが求められている
礼拝や行事、儀式は大切だが、それらはすべて、
> 家庭と社会において愛を実践し、
> 人を生かし、関係を修復し、赦し合い、
> 共に幸せをつくっていくための準備
であるはずだ。
「宗教を卒業する」とは、形式中心から実体中心へ重心を移していくプロセスなのだと、今は理解している。
第3章 信仰と宗教(団体)は別
2022年9月、私はブログでこう書いた。
> 「信仰と宗教(団体)は別」
これは単なる私見ではなく、これまで見てきた文先生のみ言に根ざした言葉だ。
信仰とは何か
【信仰】
神様との、どこまでも個人的な関係
良心に従って生きること
み言を実践すること
家庭を基盤として愛を育てていくこと
信仰の核心は、「どの組織に所属しているか」ではない。
神様と自分の心がどうつながっているかであり、一言で言えば「信仰は生き方」なのだ。
宗教(団体)とは何か
【宗教(団体)】
組織としての教会・教団
制度、儀式、規則
階層構造、役職、ライン
献金システムや各種の運営体制
こうしたものは一定の必要性を持つ機能だが、それ自体が信仰そのものではない。
> 「組織への忠誠」と「神への信仰」はイコールではない。
> 「教団の指示」と「良心の声」はイコールではない。
この二つを混同すると、人は「良心」より「組織の都合」を優先してしまう。
その結果、多くの人が傷つき、家族が分裂し、若者が信仰から離れていったのではないだろうか。
私自身、この二つをはっきり区別できたとき、心がふっと軽くなったと感じた。
じつは、「私は、信仰と宗教は違うと思うよ」と初めて聞いたのは、娘の口からだった。ハッとさせられた。二世に教えられる・・・(汗)
教団と距離を置いても、神様との関係は続くし、組織から自由になることと信仰を捨てることは違うのだ。
「教団を卒業する」ことと「信仰を手放す」ことは同じではない。むしろ、より主体的で本質的な信仰を生き始める段階なのだ。
おわりに ─ 「卒業」のその先へ
「宗教を卒業する」という言葉には、裏切りの響きを感じる人もいれば、解放や不安を感じる人もいると思う。
しかし、文先生のみ言に照らしてみると、宗教はもともと「卒業」を前提とした修理工場であり、教団は目的ではなく手段であり、ゴールは本然の人間として家庭と社会で生きることなのだと分かってくる。
私が「卒業生」と名乗っているのは、そのゴールに少しでも近づきたいと願う、一人の不完全な人間としての、ささやかな決意表明なのだ。
これからも、組織に依存するのではなく、神様と良心の前に誠実でありたいと思う。
そして宗教の枠を越え、互いに尊重する。
正月には家族で初詣に行くし、一族でお世話になっているお寺のお坊さんとも親しくする。
家庭と日々の生活の中で、小さくても本物の愛を育てていく「天一国主人」として生きていく──そのような人生を目指していきたいと思う。
(追記)
こう考えると、旧統一教会への解散命令請求も、「宗教の枠にいつまでもとどまるな!早く次のステップへ行け」という、神様の厳しくも深い愛ではないかと思ってしまう。そんなことを考えるのは、私だけだろうか?
