「独生女論の誤りと代案、建設的提言」 第3回 氏族メシヤの再起動──原点回帰とサーバントリーダーシップが道を開く
第1章:氏族メシヤとは何か──原点に立ち返る
氏族メシヤの使命について考えてみた。教義としてではなく、自分自身の言葉として。
氏族次元で、メシヤの代身となるということはどういうことだろうと。
イエス様は、神と人間との仲保者になられた。神を「天の父」だと宣言され、人間が悔い改めて天の父のもとに帰るように促された。
文鮮明先生も、まさに神と人間との仲保者だった。
神が親であること、人は神の子であることを証すために全生涯を懸けられた。私が文先生をメシヤ、真の父として慕うのは、文先生を通して、漠然とした神様をはっきりわかるように教えていただいたからだ。
「地球上のすべての人が悔い改めて、神様を自分の親だと認めるようになれば、私はいつ死んでもいい」とおっしゃっていた。
親なる神を証す。
イエス様がそうであり、文先生がそうであったように、氏族メシヤとしての称号を頂いた立場として、それを自分も人生の真ん中において歩みたいと思う。
それは、原理を聞いてもらうとか、修練会に参加してもらうとか、それもあるだろうが、基本は生活圏における歩みだ。
「愛と犠牲」による人と人の関係から、神様との関係が回復されていく。家族や氏族においては特にそうだ。
「親を見ていると、たしかに神様はおられると思う」とか「親から愛されることを通して、神様の愛を感じた」そんな言葉を子どもたちからもらえるか?説得でも強制でもなく、自ら神の子としての生き方を選んでいけるように。
メシヤと一つになるということは、メシヤに似た者となっていくということであり、その生き方を相続し実践する。親なる神の心情を携えて「ために生きる」実体になるということだ。
本当に願われている改革は、一人ひとりの転換。私はそれが今、神様が最も願われていることであり、様々な困難もその変革を促すためではないかと思う。
第2章:荒野からカナンへ──依存から自立への転換
出エジプトのイスラエル民族が「荒野を旅する世代」から「カナンに定着する世代」へと移行した出来事は、現代における社会的価値観の転換とも重ね合わせることができる。
いま蕩減時代なのか天一国時代なのか?
教会内で見えない大きな葛藤がある。それは、いま蕩減時代なのか天一国時代なのか、それぞれは無意識だろうが、その各自の認識の違いによって、二種類のタイプが入り混じって、混沌としている状況に思う。
同じ教会で、同じ礼拝堂に座り、同じ説教を聞いていても、隣の人と話せばまるで「まったく別の信仰」を持っている人のように感じることはないだろうか?
エジプトの奴隷生活をしたイスラエル民族は、外的には奴隷生活から解放されたけれども、内的には奴隷のままだった。
奴隷の一つの性質、それは「依存」だ。誰かに付いていく。指示されたことだけをやる。思考停止。自分で判断できない。責任を取れない。
特に、エジプト苦役時代を知らない内的イスラエル(二世たち)は、とうてい奴隷的な生活、奴隷的な感覚にはなじめない。違和感しかないだろう。
すでに祈祷が「祝福中心家庭の名によって報告する」時代になり久しい。王権即位式を通して、神様の主権が宣布され、神の国は「天宙平和統一国」略して「天一国」という名称も宣布された。そして「後天時代」の宣布。
個人においては蕩減が残っているとしても、全体摂理としてはサタンの讒訴圏から解放され、蕩減時代は終わった。すでにエジプトの苦役時代は終わったのではないか?
自分を外的に縛るものはない。ただ、自分自身で奴隷の意識を脱ぎ捨てる作業が残っている。
そしていまや時は満ち、カナンへ向けて、出エジプトするときだ。もう奴隷ではない。
信仰的にも自立しよう。本心に正直に生きよう。自分で考え、自分で目的を見つけ、積極的に、創造的に、新しいことにチャレンジしよう。
荒野世代とカナン世代
荒野世代(モーセに従った時代) → カナン世代(ヨシュアに導かれた時代)
・モーセという強力なリーダーに依存して進んだ ⇔ ヨシュアに導かれつつも部族ごとに自立
・共同体としての行軍が中心 ⇔ 家庭・土地を基盤に生活を営む
・依存型・支配型のリーダーシップが支配的 ⇔ サーバント型・自立型リーダーシップが必要
モーセも、カナンを目前に見せられながら、カナンに入ることは叶わなかった。カナンに入ったのは、ヨシュアを中心とした二世たちだ。
支配型リーダーシップとサーバントリーダーシップ
荒野では支配型リーダーが必要だったが、カナンではサーバント型が求められた。
【支配型リーダーシップ】トップダウンで命令し、従わせる。大規模な移動や危機管理には有効。
【サーバントリーダーシップ】一人ひとりを支え、成長させ、仕え合う。定着と自立を促す。
支配的リーダーに従うメンバー行動:主に恐れや義務感で行動する。言われてから行動する。リーダーの機嫌を伺う。
サーバントリーダーに従うメンバー行動:主にやりたい気持ちで行動する。言われる前に行動する。やるべきことに集中する。リーダーを信頼する。
まさに「教会あるある」ではないか?
この対比は、
蕩減時代と天一国時代、
荒野時代とカナン定着時代、
統一教会時代と家庭連合時代、
一世中心の時代と二世中心の時代、
その対比のようでもある。
現代社会の転換──家族大切主義が日本を救う
モスクワ生活28年を経て日本に帰ってこられた北野幸伯氏が、興味深い提言をされている。
日本に帰ってきて気づいたこと。それは、日本人の優しさ、親切さは28年前と変わらない。でも、「日本人は希望をなくしている」と、そのことに気づいた。
「少子高齢化が加速度的に進み、この国には未来がない。ただ衰退していくのを耐えるしかない」日本はそんな思いに包まれているという。しかし北野さんは、世界を見渡せば出生率をあげている事例がある、少子高齢化は解決できると断言されている。
北野さんの言われる「会社教」という言葉が特に興味深い。明治維新から敗戦までの70年は、天皇を信じて富国強兵に励んだ。敗戦から平成までの70年、日本人は「会社教」を信じ、お金儲けに励んできた。会社の年功序列と終身雇用によって人生が保証されてきた。いい大学に行って、いい会社に就職すれば人生安泰だった、それを「会社教」と。
でもそれは過去のこと。給料は上がらないし、いつリストラされるとも限らない。もう「会社教」の時代は終わっているのに社会制度は変わっていない。
それに代わる令和の時代の中心的価値観として「家族大切主義」を提案されている。
おじいさんおばあさんを大切にしよう。お父さん、お母さんを大切にしよう。兄弟姉妹を大切にしよう。夫を、妻を大切にしよう。子供を、孫を大切にしようと。
ことごとく未来予測を的中させ、国際政治アナリストとして大活躍中の北野氏がそのような提言をされているということは、大変興味深い。

現代は、イスラエルが出エジプトする時にも似ているが、同時に、荒野路程を経てヨルダン川を渡る直前のような分岐点にあるとも言える。
モーセ型(支配型)からヨシュア型(サーバント型)へ。荒野の従属から、カナンでの家庭単位の自立へ。「会社教」から「家族大切主義」へ。この転換を受け入れ、実践することが、次の時代に入る鍵となる。
第3章:支配型リーダーからサーバントリーダーへ
イエス様は「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来たのである」と語り、弟子たちの足を洗われた。また、真のお父様が北朝鮮や米国の牢獄において、人が嫌がる労働を率先して行い、仲間を思って差し入れを分かち合い、誰よりも早く起きて祈祷する生活をされた。まさにサーバントリーダーのお手本である。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(マタイ20:26~27)とイエス様が言われる通りだ。これが真のキリスト教的なリーダーシップである。
日本の伝統──サーバントリーダーのお手本
国家的次元で、サーバントリーダーのお手本として最も良い例が日本の皇室だ。
初代天皇に即位された神武天皇、紀元節の宣布「大御宝(おおみたから)を鎮(しず)むべし」。「大御宝」とは国民のこと。「国民一人一人が宝である。そしてその国民一人一人が安心して暮らせる国を作ろう」さらに「みんなが一つ屋根の下、家族のように暮らせたらどんなに素晴らしいだろうか」と語られた。
そしてその神武天皇が建国を宣布された紀元節から、現代に至るまで、天皇家は絶えることなく、今の天皇陛下は126代目。これが世界最古の国、日本だ。
歴代の天皇陛下は、国民を宝と思い、その平安と幸福を祈ってこられた。千年二千年の積み重ねは、どれだけの精誠だろうか?だから圧倒的な威厳があるのだ。そして国民の崇敬。
だからどんな人もみんな宝!生まれながらにして尊い一人一人だということ。これが日本の伝統精神であり、文化なのだ。その中心軸が皇室にあったことは間違いない。
本物の王様と偽物の王様の見分け方
私達も「氏族メシヤ」という称号で、最終的には、氏族の真の王様になることを願われている。
本来の王とは「国民を愛し、国民を守るために自分の命を捨てる覚悟ができている使命感を持つ者」。その基準を一つもって見ると、誰もが本当の王様と、偽りの王様を見分けることができるだろう。
本物でない場合は、王様は王様でも「偽りの王様」=ただの「奴隷の親分」でしかなくなる。恐怖、権力、お金で支配し、支配される。どちらもそこから抜けだせない共依存の関係。
もともと誰もが「生まれながらに王であり、与えられた領域で王」。本物と偽物を見分ける目を持とう。
第4章:原点回帰──八大教材教本と訓読生活
ここで基本としている考え方は、あくまでも聖書と統一原理にもとづいている。
「お父様の教えは古い?今はお母様の言葉に従わないといけない?」とんでもない!聖書も統一原理も、神の啓示によって与えられた書物であり、それは永遠性のある普遍的な教材だ。過去も現在も未来も変わらない、古くて新しい真理だ。
旧約聖書で神様が示されたごとく、イエス様は歩まれた。旧約聖書で示され、イエス様が歩まれたごとく、お父様も歩まれた。古いから捨てるのではなく、一貫性をもって行くのが神の道だ。旧約聖書に示されたように、イエス様が歩まれたように、お父様が歩まれたように、その如くに原理原則を踏みながら行く道だ。
一人ひとりが目指す人格とはどのようなものだろうか?神様に似た者となっていくことではないのか?イエス様に似た者となっていく。お父様と似た者となっていく。個人個人がいかに変革していけるか?
退廃文化に流されず「信仰と価値観を守り継ぐ家庭」をつくるために
カナンに入ったイスラエル民族は、自立しながらも、カナンの先住民たちの文化風習に染まり、信仰の伝統を失ってしまった。自立の時代には「信仰の伝統を守る強さ」が不可欠だった。
ユダヤ民族が2000年近く国を失いながら家庭で伝統をつないでいった歴史も参考になる。八大教材教本と訓読生活の実践を通して信仰と価値観を守り継ぐ家庭。「家庭での訓読」が、退廃文化から家庭を守る砦である。
統一原理の原点に帰って
混乱期であればあるほど、統一原理の原点に帰って、自らの責任分担はなにか?生きて果たすべき使命はなにか?置かれた場所でどう生きるかを祈り求めながら、確かな歩みを重ねていきたい。
最近教会で聴く話からは、統一原理の本質的な話はまったくうかがえず、残念なばかりだ。私は、いったん組織的な縛りを外しフラットになって、神様と私という原点に帰って、再出発するときなのだと思っている。
イエス様の歩まれた道、氏族メシヤとして歩む道
氏族メシヤとはいえ、メシヤと名のつく以上はイエス様の歩まれた道を象徴的にでも歩むようになる。妨害するサタンとの霊的戦いになるからだ。
イエス様は、洗礼ヨハネが証人としての使命を果たせなかったので、自ら荒野に出られ、40日断食をしながらサタンの3大試練を受けられた。
祝福家庭も、象徴的であったにせよイエス様の3大試練を越えてから出発するようになる。これに関しては「完全版」のほうで詳しく論じたい。
それからイエス様は伝道に出られ、三弟子、十二弟子、七十人門徒を立てられながら、神の教えを伝えられた。しかし弟子たちの基台が立てられなかったので、イエス様は祝福結婚を受けることもできず、十字架で亡くならざるをえなかった。
お父様も公式路程を出発された後、準備されていた人たちの不信から、洗礼ヨハネの立場に降りざるを得なくなり、何度も投獄されながら、アベルとして実体基台を作る歩みを出発された。
興南の十字架を生きて越えていかれたのは、生死をともにする12人がいたからこそであり、1960年に聖婚されたのは、イエス様が生きて立てることのできなかった3弟子、12弟子を立てられたからだ。
特に氏族メシヤという観点からは、入会願書を書いたとか、統一原理を聞いて教会員になったとか、イベントに参加したとか、そんなことが重要ではなく、文先生が興南刑務所やダンベリー刑務所で築かれたような、生死の境をも越えるほどの、人と人の関係を築くことができたか?信頼関係をつくることができたか?そちらがより本質ではないだろうか?
第5章:家庭から始まる氏族メシヤの再起動
祝福家庭の役割は「伝道」というよりも、家庭のあり方そのものを通して社会に善なる影響を与えることだ。
家庭での実践──訓読と祈りから始める
その第一歩は、家庭での訓読と祈りである。「家庭教会(ホームチャーチ)」「氏族メシヤ」「訓読家庭教会」は同じ意味だ。「み言訓読家庭教会」の定着。そのとおりだ。
本部でも教会でも、誰の責任でもない。自分自身の責任。夫婦で始める。難しければ自分一人からでも。そこから家族へと。小さくてもいい。短くてもいい。一歩を始める。そして積み重ねる。そこからのスタートだ。
依存から自立へ──信仰の質を左右する分岐点
信仰生活は、気づかないうちに「依存的」「反応的」なパターンにはまり込むことがある。「リーダーが言うから」「環境が整えば」「あの人が変わってくれれば」――そんな言葉を口にしてはいないだろうか。
神は本来、一人ひとりと直接関係を結びたいと願っている。だが人は恐れや不安から、その関係を他人に委ねてしまうことが少なくない。
依存的信仰:リーダーや環境に頼り、言われたことだけを行う。自ら考え、決断することを避ける。
自立的信仰:神の前に自ら立ち、自分の責任を果たす。小さなことでも自分の選択で行動する。
出エジプトのイスラエル民族がモーセに依存し、神との直接の関わりを避けたのは、依存的信仰の象徴だ。モーセの時代、神様は本当はイスラエル民族の一人一人と直接対話したかった。しかし、イスラエル民族がそれを断り、モーセに代表して神様と対話してそれを間接的に伝えてもらうようにお願いした。
民は見て恐れ、遠く離れて立ち、 モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」(出エジプト記20:19)。
つまり、イスラエル民族は「神と直接向き合うこと」を恐れて拒み、モーセを仲介者として立てたのだ。
エクレシア(初代教会)の原点に帰る
「二人または三人がその名によって集まるところには、私もその中にいる。」(マタイ18:20)というイエス様の教えを原点に置く。
初代教会、エクレシアは、組織的な教会ができる前、ローマ帝国の大迫害の中で、どんどん広がっていった。集めたのではないし、増やしたのでもない。そして300年、400年経って、人口の半分がクリスチャンになった。
システムや「ライン」が伝道するのではない。あくまでも人と人の交わりであり、そこに神様とメシヤが臨在されることで伝道がなされる。
「絆の自発性」は神の愛の性質だ。神の愛は、強制ではなく、自由の中で応答を待つ愛。エクレシア(教会・集い)も本来、「神の愛に触れた人々が、自らの意思で集い合う場」であるはずだ。
祝福家庭が自由に、有機的にくっついたり離れたり、自主的にいろんな家庭、食口と横のつながりを持っていけば良いと思う。そうしてこそ、家庭は、地域は、日本は変わっていくのだ!
私たちは「依存から主体へ」「支配から仕えへ」切り替えなければ、生き残れない。外から滅ぼされるのではなく、このままでは内から滅びていくということだ。神様はもはや人を介さず、み言と祈りを通じ、一人一人と親子として直接対話しようとされている。
第6章:2032年までの7年間──氏族メシヤの基盤を築く
第二次40年荒野路程の終結
2025年は、第二次荒野40年路程の終結の年だと私は見ている。
1945年から1985年までの40年間は、第一次40年荒野路程だった。成すべきことが成されないので、結果として延長し、第二次の40年荒野路程となった。1985年から2025年までの40年間が、第二次40年荒野路程だ。
40年荒野路程の終結に向かうころの年頭標語を見てみる。1979年から1983年まで、「家庭教会」がキーワードだ。荒野路程から、カナン定着へ。しかし、還故郷、氏族メシヤの使命を果たせなかったこと、そしてその背景には、荒野時代の組織的、制度的な宗教意識に固執してしまったことが大きな原因だと考える。
モーセ時代の40年荒野路程が終結するとき、神様はヨシュアに激励された。
「強く雄々しくあれ。あなたがどこに行っても、あなたの神、主が共におられるからである。」「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」
これは、神様が、氏族メシヤとしての一人一人に与えられた激励だ。
2025年~2032年の7年間は、1985年~1992年の同時性ではないか?
この期間に東欧、ソ連という共産主義国は滅んだ。1992年には、3万双の祝福。ご父母様のメシヤ宣言。成約時代の宣布。天は勝利され、統一教会は世界中の注目を集めた。しかし氏族メシヤの基盤がまったくなかった。地の基盤がなかった。
これからの7年間では、世界情勢はますます緊迫する。
世の中は、「お金儲け」よりも、「生命を守ること」に必死にならざるを得ない。もはや「財」よりも「生命」の危機が迫っていることに気づく7年間。
日本でも「スパイ防止法」が制定され、憲法9条の改正までなされるかもしれない。そして40年前にソ連が崩壊したように、中国共産党の崩壊を目撃するだろう。
そして「財」よりも「生命」よりも、もっと大切なのが「愛」ということに気づく。東日本大震災で人の心が「絆」に思いをはせたように。価値観が揺さぶられる。
それを言葉ではなく実体で示すことができるのは祝福家庭ではないか?「(真の)愛」を第一として生きる祝福家庭の姿が国民のお手本となる。全国津々浦々の祝福家庭。「一燈照隅、万燈照国」2032年まで、それが氏族メシヤの基盤、地の基盤となる。
残すのは祝福家庭だ
わざわざメシヤを証す必要は無い。時が経って、背後にこの教えとメシアの存在があったのだと、食口たちの歩みがあったんだと、人が知るようになれば、それで良いのではないか?真実は必ず明らかになるのだから。
教会はなくなっても、祝福家庭は残る。残すのは教会ではない。残すのは祝福家庭だ。伝統を相続し、生き生きとした祝福家庭だ!
組織信仰から家庭的自立信仰へ転換するために
家庭連合に名称変更した頃、当時の総会長が指導されていたことを思い出す。
権威意識を捨てよ。管理者意識を捨てよ。サーバント(奉仕する)リーダーになれ。管理する組織ではなく、信頼関係に基づいて、疎通、共有、協力する連合体。自立した家庭の連合体、希望のビジョンがあった。
しかし、現実はいつになっても「中心性一体化」がスローガンだし、「目の前のアベルと一つになって!」が強調されるし、それって荒野路程のまんまじゃないの?これじゃ、いつまでたっても長子権復帰ができるはずもなく、まして氏族メシヤなんて無理だなと思ってきたこの数年だ。
1960年からの21年路程を勝利されたのち、これからは「子女の責任分担時代」と宣布され、ホームチャーチ(家庭教会)が最終摂理と教えられ、何十年が過ぎたのだろう?
永遠性、普遍性のあるものは残り、人間的な考えから出たものは歴史から消えるだけだ。誰かについていけば天国ができる、救われる、そんな安易なものではない。家庭教会、氏族メシヤを通して、天国は自分の足元からつくる。
「世界平和は教会から」でも「清平から」でもない。「世界平和は家庭から」なのだ。特に「真の家庭から」。
祝福家庭が、家庭を小さな聖所として、神様を中心に、真の愛を実践する家庭を築いていく。その実体が、氏族メシヤの基盤となり、地の基盤となる。
カナン定着する人、荒野で滅ぶ人、その分岐点は?
カナン定着する人:教会組織への依存から抜け、精神的に自立して、自ら祈り、訓読し、決断し、行動する。本気で真の愛の人格を目指す生き方へ転換する。家庭を小さな聖所として、神様を中心に、真の愛を実践する家庭を築いていく。
荒野で滅ぶ人:組織を維持することに汲々としている。依存的な信仰から抜け出せない。反応的で、主体的でない。支配型リーダーシップに依存し続ける。
第3回まとめ
原点に帰るしかない。み言の訓読を強調されたお父様の遺言を思い出そう。氏族メシヤの基本姿勢はサーバントリーダーシップだが、組織はがっちり支配型リーダーシップで縛られているという矛盾を超えて、家庭教会への道を行く。
