書籍紹介 小塩篤史『やさしい知性』
著者の小塩篤史さんは、麗澤大学 EdTech研究センター長ですが、これまで一貫して「研究と事業の往復運動」を続けてきた方です。AI スタートアップを幾度か立ち上げ、医療や 教育の領域で社会実装を進める実践家でもあるという経歴は、本書「やさしい知性」ゴマブックス(2023)が対象とする──テクノロジーと人間性の融合──を裏打ちする背景となっています。
1.「やさしさ」をアルゴリズムに載せる
冒頭、著者はこう言います。
研究者としてAIの開発に携わり、 起業家として事業作りに携わってきた人間として、ギシギシと音を立てている世界に 「やさしさ」というエッセンスを加えることが、 「小さな変化が時間を経て大きな変化になる」 バタフライエフェクトのようなものを起こしてくれるのではないかという小さな希望を抱いている。
ここでいう「やさしさ」は単なる情緒ではありません。本書では簡潔に定義しています。
私の考えるやさしい知性とは、『人と自分を継続的に幸せにすることを考える知性』のことである。
2.知の相対性理論──絶対的正しさを降りる勇気
第2章では、やさしい知性の理論的支柱として「知の相対性理論」を紹介しています。
相対主義のひとつの欠点は、相対性を重視しつつも、正しさを基盤にしている点である。 すべては相対的であるが、 個々人にとっての正しさが存在するのであれば、個人にとっては正解と不正解が発生する。 よって、全員が自分の主張こそ正しいとする状況ができてしまい、万人によるマウントの取り合いになってしまうことが考えられる。しかし相対主義の本質は、すべての価値観の平等であり、一方的な正しい知識の押しつけで他者の思考的自由を奪うことを避けることにある。
知の相対性理論において不変なのは、個々の人間の存在は「一個の人間として同じである」という存在の絶対的平等性だ。
すべての知識は時間・空間・立場に依存するという前提を据え、「相対主義の欠点は、正しさを基盤にしながら平等を唱える矛盾にある」と指摘します。その矛盾を乗り越える鍵が「共有知」です。
共有知の存在が合意できていれば、そこは対話の糸口となる。 対決的な構図ではなく、共に考える構図をそこから作ることができる。 これは抽象化ともいえる。 よく思考法の本で、抽象的思考力の重要性が語られるが、抽象的思考は両者の共通部分を探索するのに有益である。 個々の存在をより全体的に、立体的に見ること、そして、立体をさまざまな視点から眺めること。 この過程を通して、われわれは共有知を発見する。
相対性の問題は、全体での位置づけを行なう相対化とは異なる。 相対化は、 数字を扱う世界でも存在し、 データにも相対指標と呼ばれるものがある。 偏差値などが代表的である。 絶対値ではなく、平均点やバラつきなどを踏まえた相対値で見ることで、 自分が集団のなかでどの程度の位置にいるかを理解することができる。
相対的な立場のまま、双方が合意できる抽象的共通部分を探り出す作業──この対話的プロセス——こそ、やさしい知性の実践です。相手の立場を尊重し、対等に向き合うという対話の基本姿勢を、著者はそのままAI やデジタル技術の設計指針へ落とし込んでいますが、この具体性に本書のユニークさが見られます。
3 バックキャストとトライアングル思考──未来編集の技法
著者は、未来を「予測」するフォーキャストを紹介しつつも、理想の未来から現在を逆算するバックキャストも紹介し、推奨しています。また、議論を均衡の取れた三点運動に置く「トライアングル思考」を組み合わせています。
そこで、やさしい知性のための思考法として、「トライアングル思考」という方法を提案したい。 物事をとらえるときに必ず3つの軸を設定し、その3つを行き来することで、考えを深止めていく思考法だ。 話し合いをする際に、 二人で議論するのではなく、第三者も交えて話し合うイメージに近いかもしれない。3つの要素を作ることで、 2つでは取りこぼされてしまった考え方が生まれてくるのが利点だ。
二項対立が生む袋小路から抜け出し、あえて結論を急がずに螺旋的深化を続ける仕掛けがあります。経済性・公共性・文化性といった複数価値の同時最適を図らねばならない今日の政策・ビジネス領域において、この思考技法は実践的です。
4 遊びと余白
第3章で語られる「余白」は、計画的に確保すべき非効率領域として描かれています。著者からは、「遊びは、合理性に縛られないので、結果として人に余白を作る。」(P80)として紹介されています。
本書で紹介する「余白」とは、結論を急がず「不確実な宙吊り状態」を受け容れ続ける態度といえます。AI が一瞬で「正しい答え」を提示する時代だからこそ、答えの出ない状況を楽しみながら思考を深める余白が革新の基盤になっていきます。変化を楽しみ、領域を越境し、自律的に学ぶ―—本書が提案する一連の態度は、すべてこの余白を前提に組み立てられているのでしょう。
5 やさしい AI 三原則 当事者の主観を最優先とするデザイン
終盤では、アシモフのロボット三原則を意識した「やさしい AI 三原則」が提示されています。
ロボット三原則はもともとSF小説のなかで出てきた原則だが、実際にロボット工学にも影響を与えている。
当然、 AIの開発においてもこのロボット三原則は遵守すべきだろう。そのうえで、やさしい知性につながる 「やさしいAI」のための原則として、3つの原則を提示する。
やさしいAI三原則
第一条 AIは当事者の願望をベースにした未来最適なアドバイスを行なうこと (AIの一人称的未来志向)。
第二条 AIは個別性に配慮した二人称的コミュニケーションを取ること (AIの二人称的現在性)。
第三条 AIは人間の多様性と可能性の拡張に貢献し、 異なる選択肢を提供し続けること (AI の三人称的拡張性)。
ただし、 上記の原則を保ちつつ、 AIは 「あそび」 を持つ必要がある
従来の安全・効率一辺倒の設計論に比べると、当事者の主観や願望をデータの最上位に据えている点が特徴ですが、あわせて、AIは「未来編集の伴走者」と位置づけている発想にも特徴あります。
6 最後に 正しさの自動化と、やさしさの再分配
AI が「三人称過去」を超人的速度で処理する現代において、「正しさ」は加速度的に自動化されつつあります。残された空白──主観、未来、多様性──こそが人間の人間たる領域でもあり、本書はそこに「やさしさ」という概念を与えました。
AIの根源を考えれば、かつて大きな研究機関はアメリカの国防省であり、戦争のためのAIがいくつも開発されてきた。 ロシアとウクライナの戦争でも、AIは当然たくさん使われている。
だからこそ、われわれはやさしい AIをあえて目指していかなければいけないと思う。 過去も現在も、 人間の社会は、争いや不安に溢れている。 メディアやSNSが発達したことで、そうした争いや不安を目にすることがますます増加している。そんななか、かつてない水準でAIの技術的進化が進んでいる。断言はできないが、このAIの使い方を誤ると、歴史の分水嶺にお間違った方向に進む可能性がある。
より明るく、 幸せで愛のある未来を作るために、やさしい知性を育むこと。 そして、 やさしいAIを社会に広げること。 この非常にシンプルな願いを誰もが目指すゴールとし、また、自分自身も、諦めずにそれを目指し続けていきたい。
AI と共生しながら未来を編集するには、「やさしい知性」を一人ひとりが見直し、システムの設計思想へと昇華させる必要があります。テクノロジーが日常に深く溶け込む中でこそ備えておきたい考え方です。

