1年あまりまえのおなじ時季の記事を目にして、そのときの自分と対話してみた
はじめに
古いみずからの記事をながめた。「古い」と言っても1年ほどまえのもの。たまたま数日まえに下書きした原稿とおなじようなテーマで記していると気づいた。おそらく今週中に掲載する予定なので、お読みの方々は、お気づきになれると思う。おなじ季節になると似た考えにたどりつくのかも。
もしかして年がら年中、そんなふうに堂々めぐりするのかもしれない。そんなわけで1年まえの自分と対話をこころみた。
きょうはそんな話。
2024.7.8の記事から
囲みがその日の記事。➡️以下がいまの自分の思ったこと。表題は「梅雨明けを前にしてさきほどふと思い出したこの時季ならではの風景」。
はじめに
なにかをやっているときにまったく無関係(かと思う)なことがあたまによぎることがある。それまで浮かばなかった過去のある一瞬が浮かんでくる。さきほど食器を洗っているとそんなことが。ずいぶんむかしのかれこれ半世紀前の頃のこと。そのときの音も耳にのこる。
きょうはそんな話。
➡️最初に回想から入っている。なかなかややこしいつくりの文章。「こと」のつかいすぎ。しばらく意識して減らしていたのに…。詩のようでもある。SNSやブログなどで身バレしないようにぼかす表現をつねに意識しながら書いたなと思う。
梅雨時に
いつもちょうどこの時季には青空が恋しくなる。ことしはなおさらそう。例年以上に雨つづき。そのぶんいろいろと夏が来たらこうしようとかあれこれ考える。
とはいえそれは雨の降ることを想定していない。晴れて自由に活動できる前提で想定するのでひとたび天候がくずれるとそれらの計画はだいなしになりかねない。
たいていそんなもので計画どおりにいくことのほうがもしかしたらめずらしいかもしれない。意外と予想外のことが起こるほうがかえっておもしろいし、何でもすんなり予定どおりにすすむと味気ないのかもしれない。
➡️なるほど、去年は梅雨の後半がわりとしっかり雨降りだったんだ。夏を待ちわびる、その一方でことしも避難に備える時期かと相変わらず。すでに6年つづけてホテル避難。雨で計画どおりいかないことを気持ちの上ではいなせている。ことしの自分よりすこし余裕があるような気が。この部分と類似の意味合いのことを「きょうの下書き原稿」で記していた。読点がほしい。
七夕だけでなく
たしか小学校に入ってまだそれほど経っていないころ。クラスの前のろうかにまだ小柄なわたしたちには見あげるほどの笹の枝が据えつけられた。
そこには色とりどりの色紙をさまざまな細工をほどこした七夕のかざりつけ。
まだ夏とは名ばかりで梅雨空のつづくなか、ろうかや教室のまどは全開。当時の教室にはクーラーなどなかった。風のふきぬける教室で、ろうかにならぶ笹の葉がいっせいにさらさらこすれあう。
休み時間にろうかを通ると各教室のまえには色とりどりの七夕かざりを施した笹がずらりとならび壮観だった。さらさらひびくかすかな音とともにふとあたまに浮かんできた。
➡️七夕って、新暦では梅雨の真っ最中だよ。旧暦ならば8月の盆よりまえ(あとの地域もあるようだが)の催しでしっかり梅雨は明け、晴れる機会が多くて風情を感じやすいのに。梅雨のさなかの七夕は、織姫と彦星の年1度の出会いをよりハラハラさせるものにした感がある。
ほかにも
当時のわたしの家ではこうした「かざりもの」は七夕かざりだけでなくクリスマスツリー、それにつづいて正月かざりをかざっていた。
こうした行事はいずれもこどもにはなぜかたのしいもの。どれも興味ぶかくていろいろ空想した。クリスマスツリーにとりつける細工物の品々の中身が毎年のように気になり、開けて中身をたしかめてみたかった。
➡️いつも正月かざり(餅花などと呼ばれる小正月のかざりもの)の木の枝についた紅白の丸いものって何だろうと思っていた。しらべると豊作や繁栄を願うらしい。しめ縄は玄関先に、鏡餅は玄関に、そしてこの餅花は居間の欄干のところに飾っていたのを思い出す。
しっかり正月から小正月にかけて年中行事をやっていたんだと思う。母やおとうとといっしょに正月を迎えるわくわくしたきもちでつくった。上の七夕についても七夕飾りが浮かんでくる。
音やかおりも
さて、最初に浮かんだ七夕かざり。小学校の低学年のあいだはいつもこうしてろうかにならび家にもかざっていたと思う。図工の時間にこうしたかざりの品々をつくり枝先にむすびつけた。そのときつかったチューブいりの「のり」の香り。どういうわけかこれをかぐときもちが落ち着いた。このにおいから好きな図画工作を連想できるからか。
かおりだけでない。さきほど記したようにさらさらと葉の擦れ合うようす、涼やかな風、それらがむすびついてここちよい季節の思い出につながる。
➡️ふたたび七夕について。今度は五感に関して。香りと思い出って音楽もそうだけれど、さまざま想起される。匂いや香りにともなうとわりと鮮やかによみがえってくる気が。音もたしかにそう。
夕立の降りはじめの雨にたたきつけられて湧き上がる土のにおいとか、車軸を流すような雨の屋根にあたる音とか。おとうととふたりっきりで留守番の多かった当時のわたしのきもちにそのままつながる。
おわりに
どうして梅雨時に儚い晴れを期待する行事をやるのだろうと七夕が近づくといつも思っていた。今になってよくよく考えると旧暦の七夕ならば気候はちがうだろうし納得できる。織姫と彦星はおちついた気候のなか天の川を渡れる。かえって悲恋の状況設定としてめったにない「梅雨の晴れ間」のほうがよりそれを物語るのかもしれない。
➡️下まで読まずに記してしまった。おなじことを「下書き」に触れた。旧暦はまさに季節感そのままかも。旧暦でもところどころ気候変動でぴったりでないところも見受けられる。もはやぐだぐだかも。
こうしてふりかえると、農業をやっていたころは24節気とか48節気とかの存在は実体験から感心の連続だった。種まきや定植などの適期をおのずと知るてがかりになると改めて納得。長年の経験で連綿と受け継がれてきた知恵。それすらくつがえすほどの気候変動。
伝えていきたい気持ちをこめ、学習サポートの小学生たちといっしょに七夕飾りををつくったのが思い起こされる。
