「もう一度だけ、僕はゲームを作りたいと思った」──元ドラクエディレクターが挑んだインディーゲーム開発の一部始終
少年時代から、何かを作り始めると周りが見えなくなる性質だった。その気性は歳を取っても変わらず、最近のnoteでもAIを使って簡単なゲームを作ってみたり、はたまた大昔に作った自作ゲームを紹介してみたりと、人生のどこを切り取ってみても、まあ大抵は何かを作っている。
そんな自分にとって、インディーゲーム界隈というのは、なかなかに近づきがたい場所だった。理由は単純。そこは若きジョブズとウォズニアックが過ごしたガレージやトキワ荘みたいなもので、前途ある若者たちが自由なアイデアでものづくりをする場所だと、勝手にそう思い込んでいた。だから、そんな神聖な場所に、自分みたいな業界歴の長い人間がずかずかと入り込んでいいものじゃない。そんなふうに思っていた。
気が引けていた理由は、もう一つある。こっちはもっと個人的な話だ。僕はスクエニを辞めるとき、「もう二度とゲームのディレクターはやらない」と心に誓って、会社を去った。その自分が、小規模とはいえもう一度ゲームを作る? そんな一貫性のない話があっていいものだろうかと、我ながらそう思わずにいられなかったのだ。
この記事は、そんなふうにいちいち物事をめんどくさく考えがちな自分が、色んな感情の変化や葛藤を経て、「もう一度ゲームを作ってみよう」と思い至るまでの記録だ。職業柄、読み手の負担になるような長文はなるべく書かないよう心掛けているのだが、今日は普段は言えずにいることを、まとめて書き残しておきたいと思う。もしかしたら、少し長くなるかもしれない。急いで読んでも得なことは何もないので、時間のあるときにでもゆっくりと読んでもらえたら幸いだ。
「ディレクターはもう辞めた」
古い取材記事を掘り返すと、そんなようなことを言っているものがいくつか出てくる。くだんの通り、僕は過去に一度ディレクターを引退宣言している身だ。
スクエニから独立したとき、ありがたいことにディレクターの打診も何件かいただいた。だが、それらもすべて辞退させてもらった。この頃の感情は、なかなか一言では説明しづらい。ただ簡潔に言えば、僕はもう精魂尽き果てていた。
僕は『ドラクエ8』の開発途中から半ばディレクターのような役割になり、2004年から2013年までのおよそ10年間をドラゴンクエストのシリーズディレクターとして過ごした。それは大きなプレッシャーのかかる仕事ではあったが、与えられた自分の役割には誇りを持っていた。人生でいつが一番充実していたかと問われたら、たぶん僕にとっては、この10年がそうなのだろう。
だが、この10年の間、こんな言葉がずっと心を占めていた。
「自分はディレクターに向いていない」
自分は指揮官よりも職人タイプの人間で、なるべく制作側でものづくりがしたいと思っていた。けれど、時が経つほど、やりたいこととやらなければならないことが乖離していく。その息苦しさは日増しに強くなり、僕は窒息してしまう寸前だった。
今になって思えば、もっと器用に解決することもできたのかもしれない。けれど当時の僕は未熟で、ディレクターを辞めるには会社を辞めるしかないと思い込んでいた。そして僕は、会社を去った。このことを美談のように語るつもりもない。要するに僕は、ディレクターという仕事の重圧から逃げ出したのだ。
「新しい物語表現」を探す旅
それから僕は、ゲーム開発会社ではなく「物語専門会社」を立ち上げた。世の中で「物語」を必要としている人を、様々なかたちで手助けできる会社になれればいい。そう思って始めた会社だ。自分の得意なことに専念できる環境を得て、僕はようやく呼吸を取り戻した。
とはいえ、最初の何年かは結局、自分の名が知られているゲーム業界の仕事を請けることがほとんどだった。それはそうだ。物語の世界にも領分というものがある。僕にゲームのシナリオを依頼する会社はあっても、漫画の原作や映像作品の脚本を依頼する人はいない。畑違いだからだ。
そんな状態が何年か続き、ある頃から僕はこう考えるようになった。ゲーム以外の物語が描きたいのなら、自分で「新しい物語表現」を作ってしまえばいい。そんなことを思いながら、一つの企画書を書いた。
それが『Project:;COLD』だった。
僕がもの知らずだっただけで、『Project:;COLD』は新しい物語表現ではなかったのかもしれない。けれど、僕はこの作品の反響に手応えを感じた。世の中には、自分が目指す新しい物語表現を楽しんでくれる人が少なからず存在する。そして何より、エンタメ飽和の時代にあって、この方向性の物語には無限の可能性があるように思えた。この頃の僕が感じていたワクワク感は、このnoteの古い記事を探してもらえればいくつも見つかるはずなので、興味がある人は読んでいってもらえればと思う。
僕は、より多様な「新しい物語表現」への挑戦のために、さらに業務時間を割くようになった。2022年頃に僕たちが大真面目に議論していた企画は、傍から見れば常軌を逸するものばかりだったかもしれない。
工事現場の白い囲いに連載小説を載せる
全国の自動販売機を猫のキャラクターに見立てて世界観を構築する
自分で外を歩きながら完成させる絵本を販売する
このうち、「歩いて作る絵本」は実際に商品化にまで漕ぎつけた。こんな「新しい物語表現」を考えているときが、僕は一番楽しかった。
『Project:;COLD』から始まったARGの流れは、やがて『第四境界』という存在となり、僕たちは今日もそこで「新しい物語表現」に挑み続けている。最初は実験的だった「新しい物語表現」の追求は、いつからか僕の会社の主たる事業へと変わっていった。
まだ誰も見たことがないアドベンチャーゲームを
ある日、僕はこんなことを考えた。「ゲームを使っても、まだ誰も見たことがない新しい物語表現が作れるんじゃないか」、と。
僕にそう思わせてくれた、二つのゲームがある。
ひとつは、『サリーの法則』(2016)だ。
ゲーム自体はオーソドックスな横スクロール型のパズルアクションなのだが、それにアドベンチャーゲームを掛け合わせるというアイデアが実に秀逸だった。「物語の表現方法に決まりなんてないだろ?」とでもささやきかけてくるようなコロンブスの卵的発想が、長年ゲーム業界にいた僕の固定観念を見事に打ち砕いてくれた。
もうひとつは、『Her Story』(2015)だ。
僕は黎明期からビデオゲームに触れてきた世代だが、ファミコンの登場以前には、アドベンチャーゲームもパソコン(当時はマイコン)で遊ぶものだった。コントローラーもマウスも普及以前で、アドベンチャーゲームとは、「ゲームが認識してくれる言葉をキーボードで打ち込んで探す遊び」だった。それは非常に原始的な体験であり、コントローラーの普及以降、このゲームデザインは瞬く間に世界から絶滅した。
だが僕は、そんな時代の流れを横目で見ながら、もったいないと感じていた。あの「言葉探し」の遊びには、推理力を刺激される一種独特な面白さがあったからだ。コントローラーから発信される限られた情報ではなく、「言葉」という無制限の選択肢から生まれる特別な体験に、僕は面白さを感じていた。だから、いつか自分でアドベンチャーゲームを作るなら、そんな「言葉探し」のゲームにしたいと密かに思っていた。この『Her Story』に出会ったのは、まさにそんな頃だった。
『Her Story』は、紛れもない「言葉探し」のゲームだ。だが、黎明期の原始的な体験とはまったく違う、物語も体験も現代的な日常侵蝕感を伴う完璧なゲームデザインだった。そのあまりの出来栄えに、僕は大きな衝撃を受けた。このときの衝撃が、後に『かがみの特殊少年更生施設』という作品に繋がったことは自明だが、「アドベンチャーゲームの時代がまた変わったんだ」という、大きな示唆を与えてくれた。
『サリーの法則』と『Her Story』。
二つの外国産のインディーゲームとの出会いによって、僕はこう考えるようになった。小規模ゲームの世界で、驚くような斬新な発明が生まれている。自分も「新しい物語表現」の追求を目指す者の一人なら、そこから目を逸らしてはいけないのではないか──、と。
インディーゲーム作りが始まる
そして、2023年8月、僕はブログにこんなことを書いた。
会社が成長意欲を持ち続けるなら、必ず達成しなければならないのは、『自分たちのオリジナルタイトルを持つこと』 (中略) 数年以内に、新作のアドベンチャーゲーム──それも極めてオリジナリティの高いものを毎年リリースできる会社になりたいと思っています。
「アドベンチャーゲームを作る。それも極めてオリジナリティの高いものを」明確にそう発言したのは、この時が最初だった。この頃はまだ『第四境界』も『人の財布』も発表以前で、自分たちの作品と呼べるようなものは何もない時代だった。
ただ、この半年ほど前、幸運な出会いがあった。うちのシナリオの評判を聞いて、一緒に何か作りたいと名乗り出てくれた開発チームが、二組同時に現れたのだ。社内にプログラマーがいない僕たちにとって、この申し出はありがたかった。一つはゲーム作りの経験豊富な中堅の開発会社で、もう一つはゲーム開発経験がないフリーのエンジニアチームだった。僕は、開発経験豊富な会社と組むほうのプロジェクトを若手社員に託して、経験がないほうのチームと一緒にゲームを作ることにした。ちなみに、この時若手に託したチームは、数年後に『ソフィアは嘘と引き換えに』という存在感のある名作を生みだすことになる。
僕が作りたいゲームは、ひとつだけ方針が決まっていた。『サリーの法則』がそうであるように、アドベンチャーゲームを「何か思いがけないジャンルと掛け合わせたもの」を作りたかった。そして、その「掛け合わせ」の相手もすぐに見つかった。僕の会社の新入社員研修の課目の一つに、『寿司打』というタイピングゲームで「高級コース」をクリアできるようになる、というのがあるのだが、その成果発表を見ているときに、ふと思った。
『タイピング × アドベンチャーゲーム』
この組み合わせなら、新しいゲーム体験が生み出せるかもしれない、と。
タイピングゲーム自体は、もしかしたらブームの去ったジャンルなのかもしれない。けれど、胸の内にあったこんな思いが、背中を押してくれた。自分が残りの人生で作れるゲームなんて、どうせもう何本もない。そんな晩年に作るゲームなら、どうかこの世界に残していく意義のあるものを、と。タイピングゲームなら、あるいは実用ソフトとしても価値あるものにできるかもしれない。それに、キーボードは自分たち物語屋の商売道具だ。その商売道具を駆使したゲームなら、自分たちが作る意義も文脈性も保たれている。そう思えたのだ。
タイピングゲームの歴史の中には、有名作がいくつかある。だが、深い物語性を掛け合わせたゲームは、おそらく存在しない。ならば、タイピングする「言葉」自体に意味のあるゲームを作れれば、それはきっと「新しい物語表現」になるはずだ。僕は簡単な企画案とストーリーの原案まで考えて、社内に開発チームを結成した。これは極めて実験的なプロジェクトで、長く掛かったとしても半年程度で完成させるカジュアルゲームだ。僕は、スタッフにそう説明した。
2023年の4月のことだ。
それぞれの「できること」探し
このゲームの開発を始めるに当たって、目標としたことが二つあった。
ひとつは、とにかく「経験を積むこと」だ。
プログラマーとシナリオライターがいたとしても、それだけでゲームが作れるわけではない。魅力的なイラスト、美しい音楽、UIデザイナー、演出、動画作成、多岐に渡るプロモーションなど、ゲーム作りには多くの才能が必要になる。不足を補う一番シンプルなやり方は、外部の腕のいい人の力を借りることだろう。だが、僕はその道を選択しなかった。
「自分たちでできることは自分たちでやる」
このことだけは、最初から決めていた。
このチームの中で、ゲームの開発経験があるのは僕だけだった。だから、とにかく色々なことを経験したほうがいい。僕は、自分の持っているもの、考え方を、この機会にスタッフにすべて伝えるつもりでいた。
僕たちは長年シナリオ書きの仕事しかしてこなかったから、同じ会社の仲間でさえ、何ができるのかをまるで知らなかった。だから最初にやったことは、それぞれの「できること」の棚卸だった。これは本当に多くの発見がある、重要な体験だった。「実は音楽家に憧れていた」、「前職がエンジニアだった」、「大学時代に動画制作を叩き込まれた」、「入ったばかりの新入社員が実はイラストが上手だった」、そんな眠っていた才能や想いが、次々に掘り起こされた。
僕たちが作ろうとしているゲームは、燦然と輝くような完璧な作品でなくていい。それよりは、今の自分たちにできるものの中で最善のものを作ろう。一番大切なのは、「経験を積むこと」だ。それは、この一作で終わるのではなく、これから先もものづくりをしていく若いスタッフにとって、何より価値あることになる。大手ゲーム会社では許されなくても、こんな小さな会社が作るインディーゲームでなら、こういう目標も許されるのではないか。むしろ、そういうやり方のほうが多くの人の心に届くのかもしれない。そう思った。
目標としたもうひとつは、「インディーゲーム界隈に全身で飛び込むこと」だ。
結局のところ、僕はインディーゲームのことをまるでわかっていなかった。そこにどんな人たちがいるのか、今はどんなゲームが人の心を掴んでいるのか、どうすればウィッシュリストが増えるのか、そもそもウィッシュリストとはなんなのかさえ、僕は知らなかった。ここでは、完全な素人だ。だから、一からすべてを学び直す決断をした。
流行ってるゲームと聞けばとにかく端から触れ、インディーゲームのイベントがあればなるべく現地に足を運んだ。イベント出展をしたときには、ブース前でのティッシュ配りも進んでやった。外国語で遊んでくれた人には積極的に話しかけて、改善点を訊ねた。ウィッシュリストの増やし方に詳しい人がいれば、直接DMして教えを乞うた。やれることは全部やる。いつもそう自分に言い聞かせていた。
ほんの一年前まで、インディーゲームのイベントに行っても、知り合いは一人もいなかった。けれど、回を重ねるごとに話す人は増えていき、今では色んな人から声を掛けられるようになった。インディーゲーム界隈のことを、今なら少しは知っている。そう言える程度にはなったと思っている。
発売延期とチーム瓦解の危機
自社プロジェクトにありがちだが、〆切がない開発というのは、特別な理由もないままただ期間だけが延びていく。このプロジェクトも、その例外ではなかった。
当初、半年で終わらせるはずだった開発は、企画やシナリオの段階から順調にはいかず、9ヶ月が過ぎた頃に虎渡(後に総合開発チーフになる)がチームに入って、ようやく動き始めた。しかし、ここでさらに開発を遅らせる出来事が起こる。『第四境界』が予想外に大きな注目を集めたことによって、会社全体が第四境界シフトにならざるを得なくなったのだ。(誤解のないように触れておくが、第四境界の仕事が増えることは僕たちにとって念願であり、これはこれで非常に幸福な出来事ではあった)
だが、それでも、「自分たちのオリジナルのアドベンチャーゲームを作りたい」という夢が消えてしまうことはなかった。色んな理由をつけて開発は遅れに遅れたが、それでも決して歩みを止めはしなかった。そして、2025年5月、僕たちの作っているゲームは、ようやくその存在と体験版がお披露目された。開発開始から、すでに2年以上の時が過ぎていた。
僕はこの時、正式リリースの日を半年後の11月と定めた。それは多少強引な決定だったが、そういう決め方をしたのには理由がある。開発チームの中に、ある種の倦怠感のようなものが漂い始めていることに気づいていたからだ。僕は一本のゲームの開発に10年近くもかけるような世界で生きてきた人間だ。だから、チーム内にこういう空気が流れる瞬間があることをよく知っている。ゲームの開発期間があまりに長引くと、スタッフの間に疲労のような、飽きのような、言葉にならない重苦しさが充満してしまう。
だから僕は、リリース日を半年後に決めた。「あと半年ならがんばれる」そういう目に見える目標がなければ、スタッフのモチベーションはもう続かない。そう感じていたからだ。
そして、このプロジェクトにとって最大の危機が訪れたのは、体験版公開から半年が経った、2025年11月の直前だった。
ゲームの完成度は、確実に上がっていた。ただの変わり種のアドベンチャーゲームにとどまらない、繰り返し遊ぶタイピングゲームとしての価値も高まりつつあった。だが、シナリオの実装は思うように進んでいなかった。全部で7つあるステージのうち、満足にプレイできるのは2つだけ。しかもゲームの完成度も十分とは言えず、二人しかいないエンジニアチームも残りの作業量をこなせる展望を持てず、不安を抱えていた。
状況は最悪だった。プロジェクトは完全に行き詰まり、岐路を迎えていた。
「完成度の追求は断念し、とにかく最速でのリリースを優先する」
「さらに完成度を高めるために、開発期間をもう一度延長する」
僕は、このどちらかを選ばなければならなかった。
開発チームのモチベーションは、もう限界に近かった。半年前に「あと半年ならがんばれる」という鎮痛剤を打ったばかりなのだ。ここから再び開発延長となれば、それはもうプロジェクトの瓦解を起こしかねない判断になるとわかっていた。チームに入ってから2年間、このプロジェクトのためにずっと尽くしてくれていた虎渡が、この頃一番つらそうにしていた。終わりの見えないプロジェクトに、彼女も疲れ果てていた。

このプロジェクトは、もう終わらせた方がいいのかもしれない。そういう気持ちが、まったく生じなかったわけではない。それでも僕は、ドラクエのディレクターを長年務めてきた人間として、こういう信念を持っていた。
「自分が納得していないものを世に出してしまったら、一生後悔する」
これが初めてのゲーム開発であるみんなに、そんな思いをさせてしまうことだけは、どうしても嫌だった。僕はリリースまでの詳細なスケジュールを再設計し、その説明をしながらスタッフにいくつかのことを約束をした。
正式リリースは、半年延期の2026年5月20日。
その2日後に行われる「Bitsummit」に(自分たちにしては)大きなブースを出して大々的に宣伝をする。
エンジニアは開発経験のある助っ人2名を増員する。
2月に「新体験版」をリリースしてウィッシュリストを伸ばし、最終的にはここまでウィッシュリストを集める、と。
その計画を聞いて、虎渡もエンジニアチームも、納得してくれた。そして、新しく参加してくれた助っ人エンジニアはとても強力で、チーム内に活力を与えてくれた。今度こそ、正式リリースに辿り着ける。そんな実感が芽生え始め、崩壊寸前だったチームはどうにか息を吹き返した。
正式リリースの日と、これからのこと
そして、また半年が過ぎ、そのプロジェクトは、2026年5月20日の正午──すなわち今日、ようやくリリースの日を迎える。
僕たちは今度こそ、本当にそこへ辿り着けたのだ。開発チーム発足から数えれば、実に3年以上の時間が掛かってしまった。
僕たちが作ったのは、『Pain Pain Go Away!』、通称『ぺぺごあ』という小さな小さなゲームだ。
記事も長くなったので、ゲームの説明はここではしない。ただ、せっかくここまで記事を読んでくれた人は、上のストアページを覗いていってもらえたら嬉しく思う。
僕があの時スタッフにした公約は、概ね果たされたと言っていいだろう。発売日も、Bitsummitへの参加も、ウィッシュリストの数も、無事に目標数に届いた。チーム内の僕への信用も、きっと保たれたに違いない。一人でそう思っている。
「自分が納得していないものを世に出してしまったら、一生後悔する」
あの時スタッフに伝えた言葉を、時々自分でも思い返す。この作品の出来栄えに、自分は納得しているのだろうか、と。
僕は、納得している。自分なりに今できることをすべてやり切ったと、心からそう思えている。そしてこの気持ちは、スタッフも同じだろう。このゲームは、本当に「自分たちでできることは自分たちでやる」を詰め込んだようなゲームだ。自分たちで絵を描き、音楽を作り、シナリオを実装し、動画を作り、翻訳をし、プログラミングの何割かも自分たちでやった。プロモーションもパブリッシングも一から学び、未知なる世界に何度も飛び込んだ。今の自分たちにできることの全部を載せた。そう言い切れるゲームになっている。
話を一番最初に巻き戻そう。
スクエニを辞めてからから8年、その間、僕は一度もゲームディレクター(ARGは除く)をしていない。自分のディレクター作品は、このゲームが実に10年ぶりということになる。今後ディレクターをやる予定も今のところないので、これが最後のディレクター作品になる可能性が高い。(ARGは監督やります)
僕は昔から、ずっと何かを作り続けてきた。人生のどこを切り取ってみても、大抵何かを作っている。そんな自分が、本作を作っている最中、何度も繰り返し思ったことがある。それはちょっと恥ずかしいことでもあるのだが、「ゲームを作るのってなんて楽しいんだろう」という素直な感情だった。その気持ちは、正式リリースを迎える今日まで、一度も途切れることはなかった。だからもういい加減、言い訳はやめよう。
「もう一度だけ、僕はゲームを作りたかった」
本当は心の底から、そう思っていたのだ。
インディーゲームづくりのその工程を、「旅」だと言った人がいる。それは言い得て妙だと思う。インディーゲームづくりは、確かに冒険の旅によく似ている。完成の日に胸を躍らせ、時に衝突し、挫折し、それでもあきらめずにまた歩き続ける。仲間と出会い、別れ、旅は続く。それは、こんな小さなインディーゲームでさえ、やはり一篇の旅だった。
おわりに
さて、すっかり長くなってしまいました。話したいことを全部書いているとやめ時を見失うばかりなので、この記事も、この辺りで終わりにしようと思います。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
そういえば、すっかり遅くなってしまいましたが、皆様、あけましておめでとうございます。(5月)
あまりに忙しすぎて、これが今年最初のnoteということになってしまいました。昨年末に「来年も12本書くぞ」みたいなことをどこかで言ったような気がしますが、まあまだ5月ですしね。今から巻き返していけるよう、今年の後半の自分に期待したいと思います。
それでは皆様、本年も何卒よろしくお願いいたします。(5月)
2026.5.20
『Pain Pain Go Away!』ディレクター
藤澤 仁
