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読書の秋にsw2.5を読んだ成果。

始まりの渇望、再会のサイコロ
~ゲーム禁止の寮で育った『ソード・ワールド』と、『闇の救済者ジン』が生まれるまで~
序章:渇望という名の「空白」
大人になるということは、日常の多くが予測可能なルーティンで満されていくことなのかもしれない。決められた仕事、請求書の束、わずかな余暇。安定と引き換えに、私たちはいつしか、あの頃の不確かで、どこか無駄に熱量の高かった日々を、記憶の奥底にしまい込んでしまう。
そんな日々の中で、自分でも気づかないうちに、何かが渇いていた。
理屈ではない。ただ純粋に、「ファンタジーを作りたい」という思いが、心のどこかに燻っていたのだ。
現実が合理的であればあるほど、非合理的な、しかし確かな「物語」の世界に惹かれていた。剣がぶつかり合う音、竜が空を裂く風切り音、魔法が空間を歪ませる感覚。そんな光景を、自分の言葉で紡いでみたい。それは、乾いた喉が水を求めるような、ささやかだけけれど切実な欲求だったのかもしれない。
しかし、情熱だけでは物語は生まれない。それを受け止める「器」と、形にするための「何か」が必要だ。
その「器」を探していたある夜、俺はスマートフォンの電子書籍ストアを彷徨っていた。そして、一つの表紙が目に留まった。
『ソード・ワールド2.5 ルールブックI』
その文字列を認識した瞬間、脳の奥で、埃をかぶっていた古い記憶が、不意に呼び覚まされたような感覚があった。
「ソード・ワールド」――。
それは、懐かしさという一言で片づけられるものではない。自分の「想像力」の根っことでも言うべき、原初の風景がそこにあった。
第一章:制約の寮、無限のフォーセリア
俺が高校生だった頃、俺は寮にいた。
そこにはいくつかのルールがあった。特に大きかったのが「ゲーム機の持ち込み一切禁止」というもの。パソコンも厳しく制限され、音楽プレイヤーは使えたもののスピーカーは禁止という、デジタルな娯楽、特に複数人で共有するタイプのエンターテイメントからは隔離された環境だった。
最新のRPG、美麗なグラフィックス。友達と集まってワイワイ騒げるようなデジタルゲーム。それらから遮断された私たちは、一種の「デジタル断食」状態にあったのかもしれない。有り余るエネルギーと、行き場のない想像力。今思えば、その「制約」こそが、思わぬ扉を開く鍵だった。
その「制約」の中で、俺たちが発見し、そして**(幸運にも)許されていた**「ゲーム」こそが、『ソード・ワールドRPG』だったのだ。
必要なのは、数冊の文庫本ルールブックと、ノート、筆記用具、そして二つの六面体サイコロ(2d6)だけ。それは「デジタル」ではなく、完全に「アナログ」な娯楽であり、皆で集まって一つの物語を共有できる、俺たちの環境下で唯一とも言える高度な「遊び」だった。
ルールブックは、俺たちにとっての「異世界への扉」だった。
放課後、夕食後のわずかな自由時間。四人部屋に集まり、一人がゲームマスター(GM)、残りがプレイヤー(PL)となって、小さな冒険が始まる。
「目の前には苔むした遺跡の扉がある。奥から獣の唸り声が聞こえるぞ…」
GM役の友人が声を潜めてそう描写すると、蛍光灯が白々しく照らす寮の一室は、不思議と薄暗いダンジョンへと姿を変えた。
「俺のファイターが前に出る。斥候(スカウト)は任せろ」
「待て、俺のシーフが先に罠(トラップ)を調べる。サイコロ、振るぞ!」
カラン、カラン。
プラスチック製の安価なサイコロが立てる、乾いた音。それが、俺たちの世界の行方を左右する、ささやかな神託だった。出目が悪ければ(ファンブル)、罠にかかって仲間全員が笑い転げる。出目が良ければ(クリティカル)、強大なゴブリンの王を一撃で倒し、部屋中が歓声に包まれる。
熱中したのは、ただの「ごっこ遊び」ではなかったのかもしれない。
決められたストーリーをなぞるのではない。自分たちで「選択」し、サイコロという「運命」に翻弄され、その結果として生まれるたった一つの「物語」を、その場で「共有」していた。自分たちが創り出したキャラクターが、「物語」の中で生きているという実感そのものに、私たちは夢中になった。
無口だが腕の立つファイター。臆病だが、いざという時に知恵を働かせるソーサラー。金に汚いが仲間を見捨てないシーフ。俺たちが演じるキャラクターたちは、セッションを重ねるごとに、ただの「データ」ではなく、かけがえのない「仲間」になっていった。
ちなみに、俺がよく使っていたのは、マーファ神殿の神官戦士だった。慈愛の女神に仕えながらも、重い鎧とメイスを手に前線に立つ。今でいうところの「盾役(タンク)」のような役割だ。ある時、キャラクター作成のサイコロの女神が微笑んでくれたのか、奇跡的に「筋力22」というとんでもないキャラクターが生まれ、仲間内ですごく盛り上がったのを覚えている。分厚い鎧を着込み、仲間を守るために敵の攻撃を一手に引き受ける。回復魔法(キュア・ウーンズ!)も使える頼れる存在。彼(そのキャラクター)が敵の攻撃を分厚い鎧で弾き返すたびに、仲間から歓声が上がった。能力値が高かったことももちろん嬉しかったが、それ以上に、仲間を守るというその役割自体が、当時の自分にはしっくりきていたのかもしれない。あのキャラクターがいたからこそ、突破できた試練も多かったように思う。
あるセッションでは、強大な敵から逃げるために、仲間の一人が自ら犠牲になって足止めを買って出た。ルール上は「死亡」だ。その夜、私たちは本気で落ち込み、彼の「葬式」と称して、寮の食堂からこっそり持ち出したジュースで献杯をした。それは、俺たちの心の中では、確かに一つの「現実」として刻まれた出来事だった。
ゲーム機という「便利な答え」がなかったからこそ、俺たちは自分たちで「物語」を創るしかなかった。
あの寮生活で培われた「頭の中だけで世界を構築し、キャラクターを動かし、物語を紡ぐ力」。
それこそが、俺の「原体験」であり、その後の自分の考え方にも、少なからず影響を与えたように思う。
第二章:「脚本」という名の「設計図」
だが、情熱と想像力だけでは、一つの「作品」として形にするのは難しい。
どれほど熱い思いがあっても、それを流し込む「型」がなければ、ただ溢れ出るだけで、誰かに届く形にはならない。
俺が『闇の救済者ジン』という物語を紡ぐ上で、もう一つ、無視できない経験があった。
それは、以前に「脚本を作っていた」ことだ。
脚本とは、物語の「設計図」のようなものだと、自分は考えている。
面白いセリフを並べるだけではない。なぜ、このキャラクターは「今」、ここで「その行動」を取るのか。その行動が、物語全体にどのような「影響」を与え、見る人(読む人)の感情をどう動かし、最終的にどのような「着地点」に導くのか。
それを考え、組み立てていく作業だ。
この「脚本作り」の経験が、俺の「ファンタジーを作りたい」という渇望と、「ソード・ワールド」という懐かしい器に出会った時、何かが動き出したように思う。
『ソード・ワールド2.5』のルールブックをKindleで手に入れた俺は、あの頃の高校生とは違う視点でページをめくっていた。
「この設定は、どう使えば物語が動き出すだろう?」
「このルールは、どう解釈すればキャラクターの葛藤を描けるだろう?」
それは、ただルールを読むのではなく、物語の「部品」として、どう組み合わせれば面白い「機械」が出来上がるかを考えるような、どこか「ガジェッティア」的な視点だったのかもしれない。
第三章:「2.5」という名の「進化」と「再燃」
Kindleのページをめくり始めた俺は、すぐに良い意味で裏切られることになる。
そこに広がっていたのは、俺の知っている「フォーセリア」ではなかった。世界は「ラクシア」となり、主な舞台は「アルフレイム大陸」という、未知の土地に変わっていた。
最初は戸惑った。しかし、読み進めるうちに、その「違い」こそが、今の俺を再び虜にする「進化」なのだと気づかされた。
ルールは、あの頃の「2d6」の根幹はそのままに、驚くほど洗練され、現代的にアップデートされていた。戦闘はよりスピーディに、しかし戦略的に。魔法体系も整理され、より直感的に理解できるようになっている。
そして何より、俺を惹きつけたのは、新たに追加された魅力的な技能(クラス)の数々だった。
特に衝撃的だったのが**「魔動機師(マギテック)」**だ。
剣と魔法の王道ファンタジーに、「銃」や「魔動機(蒸気機関のようなもの)」を持ち込む。それは、子供の頃に抱いていた「剣と銃、どっちが強い?」という素朴な疑問や、「ファンタジーの世界に機械があったら?」というロマンを、完璧な形でルールに落とし込んでいた。
さらに、神々の設定も深掘りされていた。
混沌の神**「ファラリス」**の解釈。あの頃の「混沌=悪」という単純なイメージではなく、「面白いことが大好き」で、「人間の純粋な好奇心や欲望」を肯定し、その結果世界がどうなろうと知ったこっちゃない、という気まぐれな神。この解釈は、現代的で、人間臭く、そして何よりも「物語のエンジン」として最高に魅力的だった。
ルールブックを「ゲームの説明書」としてではなく、「世界設定資料集」として、あるいは「物語の素材集」として読みふける。それは、大人になった「今」だからこそできる、新しい楽しみ方だった。
「もし、今の自分が、この『2.5』の世界でキャラクターを創るなら?」
高校時代、仲間を守るマーファ神官戦士を選んでいた俺。しかし、今の俺は、もっと複雑で、もっと「面倒くさい」キャラクターに惹かれていた。
例えば、あの頃漠然と憧れていた「工夫好き(ガジェッティア)」という概念は、この『2.5』でどう表現できるだろう?
そうだ、「魔動機師(マギテック)」の知識と、「アルケミスト(錬金術師)」の技術、そして「セージ(学者)」の知恵を併せ持つキャラクターはどうだ?
彼は、剣も振るう。なぜなら、戦場で育ったからだ。
彼は、銃も使う。なぜなら、剣の限界を知っているからだ。
彼は、神の力も使う。でも、それは一般的な「慈悲」の神じゃない。もっと気まぐれで、厄介な神がいい。そうだ、あの「ファラリス」だ。
ルールブックのページをめくる指が、いつしか物語を紡ぐ思考へと変わっていた。あの頃、寮の部屋で仲間たちと語り明したように、俺は俺自身と「対話」を始めていたのだ。
第四章:「ジン」という名の「完璧な自己満足」
こうして、俺の分身のような存在、『闇の救済者ジン』は生まれた。
彼は、ある意味で、俺自身の創作への向き合い方を体現しているのかもしれない。
物語を作る上で最も重要なのは、主人公の「動機(モチベーション)」だと、俺は考えている。なぜ、彼は行動するのか?
ジンに、安易な「正義感」や「善意」は似合わない気がした。それでは、彼というキャラクターが薄っぺらく感じられたからだ。
そこで、彼に与えた動機が**「完璧な自己満足」**だ。
彼は、かつて仲間(傭兵団『鉄の鴉』)を守りきれなかった「後悔」という猛烈なトラウマを抱えている。
彼が人を助けるのは、善意のためではない。
「誰かを見捨てたり、救うのに失敗したりして、あの時のような最悪の『後味の悪さ(後悔)』を再び味わうのが、死ぬことよりも嫌だから」
突き詰めれば、ただそれだけだ。
この「完璧な自己満足」というエンジンは、物語を動かす上で、非常に便利だった。
* 第一章(ゼフュロ村):
  彼は村を救うだけでは満足しない。オーガに壊された村を、「以前よりも強く、豊かに、完璧に」再設計する。なぜなら、中途半端な救い方をして、後で「あの時、もっとこうしておけば…」と後悔したくないからだ。
* 第二章(自由都市アリスト):
  彼はエララという少女を助ける。それは、彼女が可哀想だからではない。才能の光を宿す少女が、カルトに利用されて潰されるのを見過ごせば、後で「あの時、助けられたんじゃないか」と、間違いなく「後味が悪くなる」からだ。
* 第三章(竜顎山脈):
  彼は『蒸気機関原理』という「知識欲(自己満足)」のために、ワイバーン退治を引き受ける。
この「自己満足」という動機は、彼に「しがらみ」からの自由を与える。
彼は、既存の「秩序」や「常識」を、自分の「後味の悪さ」という、極めて個人的な基準だけで判断していく。
このジンの行動原理は、考えてみれば、TRPGを遊ぶプレイヤー(PL)の行動原理にも少し似ているかもしれない、と思った。
ゲームの中で「困っている村人を助ける」のは、本当に善人だからだろうか? いや、多くの場合、「その方が物語として面白いから」「経験値や報酬が欲しいから」「GMが用意したイベントをクリアしたいから」という、PL自身の「自己満足」のためではないだろうか。
ジンは、そのPLの身勝手なエゴイズムのようなものを、そのまま体現したキャラクターなのかもしれない。
ジンという「俺」の思考実験が、SW2.5の世界(アルフレイム大陸)を歩き始めた。
エララという「守るべき面倒事」と出会い、ノン(ヴォルガノン)という「最強の友」と契約し、セドリックという「秩序の壁」と激突する。
スチームモービルのアイデア。「マギテック」のルールから、どれだけ「面白いこと」を引き出せるか。
「法」で裁くという、最も「後味が良い」結末の模索。
物語は、勝手に転がり始めた。
俺は、ただそれを書き留めるだけ。まるで、あの頃の寮でやっていた「頭の中のセッション」を、今、一人で、小説という形で再演しているようだった。
第五章:「秩序(セドリック)」との対決と、脚本の「解」
ジンの、ある意味で身勝手な「自己満足」は、やがて「世界(秩序)」と激突する。
その象徴が、ファーリス騎士団長セドリックだ。
セドリックは、ジンの対極にいる。
彼は「聖典」という「外部のルール」に絶対的に従う。そこには「思考」を挟む余地がないように見える。書かれているから「悪」であり、書かれていないから「混沌」だと断罪する。
それは、かつて寮で感じていた「ルールだからダメだ」という、有無を言わせぬ圧力にも似ていた。
その「思考停止」こそが、ジン(=俺の描きたい人物像)が最も相容れないものだった。
だから、第四章のクライマックスを経て、第五章の最終盤。
ジンはセドリックを力でねじ伏せるだけでは満足しない。
山一つを消し飛ばす圧倒的な力(自由の焔)を見せつけながら、騎士団を「殲滅しない」という選択をする。
なぜか? 「殺したら、後味が悪い」からだ。
そして、第九話・第十話。
彼はセドリックを剣技で打ちのめすが、殺さない。それどころか、彼の砕かれた信仰の「鎖」を、言葉で断ち切ろうと試みる。
「お前は『型』に囚われ、『考える』ことを怠った」
「それは『信仰』じゃない。ただの『思考停止』だ」
そして極めつけに、彼はこう宣言する。
**「これは演習である」**と。
これは、ジンという男が選びうる、彼なりの「決着」のつけ方だった。
敵対者を殺さない。
殺さずに、その価値観を根底から揺さぶり、自分の哲学(=考えること)を叩きつけ、「再教育(補習)」まで施してしまう。
敵対者(セドリック)は、最終的にジンを「師」として敬礼し、見送ることになる。
敵を殺して終わるよりも、敵の魂そのものを揺さぶり、何らかの変化を促して解放する。
それは、ジンというキャラクターが求める「完璧な自己満足」であり、同時に、自分が脚本作りを通して模索していた、「後味の良さ」の、一つの形だったのかもしれない。読者がどう感じるかは分からない。ただ、自分としては、これがジンという男の出すべき「解」だと感じたのだ。
終章:「鉄の戦車」と、振り続けられるサイコロ
第五章で、ジンはスチームモービル(鉄の戦車)を完成させる。
それは、SW2.5の「魔動機師(マギテック)」というルールと、俺自身の「何か新しいものを創りたい」という欲求が融合した、この物語の象徴のような存在だ。
ノンが人化し、ジンが彼女に「ノン」と名付ける。
その絆が、エララの心を揺さぶり、彼女は「私も強くなる。それが私の『したい事』だ」と告白する。
鉄の戦車が「ガシュン、ガシュン!」と音を立てて爆走する中で、三人の関係性は、また一つ新しい段階へ進む。
この物語を創ることは、俺にとって、高校時代の情熱を再確認するような作業だった。
あの頃、俺たちがサイコロに込めた熱は、無駄ではなかったのかもしれない。それは消えたのではなく、俺の内側で、脚本という「技術のようなもの」と、SW2.5という「新たな世界」を得て、再び動き出すのを待っていたのだと、今はそんな風に感じている。
「ファンタジーを作りたい」という、漠然とした渇望。
それが、懐かしい「ソード・ワールド」という器を得て、
「脚本」という方法論によって形を与えられ、
「ジン」という、面倒くさがりで、合理的で、不器用で、しかしどこか「自由」な男の物語となった。
第五章までの物語で、ジンは「秩序」という名の「思考停止」に一石を投じた。
彼は「力」を持ち、「仲間」を得て、「鉄の戦車」という「技術」を手に入れた。
物語はまだ終わらない。
俺が「ファンタジーを作りたい」と願う限り、ジンの「完璧な自己満足」を求める旅も続いていくのだろう。あの頃、ゲーム禁止の寮の片隅で、未来への不安と期待を胸に、仲間たちとサイコロを振っていた時のように。
俺自身の「セッション」も、まだ始まったばかりなのかもしれない。

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