門のない家
本作は、筑豊を離れ大分で暮らす三人家族の記憶と、戦後復興から高度成長へ向かう時代を背景に、小学一年生になるまでの「ぼく」の成長を描く私小説です。失われた西大分の風景とそこに暮らす人々の姿を、幼い日の眼差しと大人になった「ぼく」の回想を交えながら綴っていく物語です。
一、筑豊
昭和二十九年、大東亜戦争が終わった九年後、ぼくは筑豊の田川に生を受けた。生まれた家は、炭鉱夫たちが暮らす炭住の並ぶ町の外れにあった。もちろん、ぼくにその頃の記憶はない。後になって聞かされた話によれば、町には戦後の復興の活気が残り、坑口へ向かう男たちの長い列と、石炭を積んだ貨車の音が、一日中絶えることがなかったという。石炭は黒いダイヤと呼ばれ、人々は苦しい暮らしのなかにも明日を信じていた。ぼくは、そんな炭鉱の息づかいが町じゅうに満ちていた時代に生まれた。
昭和三十年になると筑豊は、戦後復興を支えた朝鮮戦争による特需景気が終わり、その反動で石炭の需要が激減していった。町の景色は変わらなかったが、人々の表情は少しずつ曇っていった。坑内に入る日数が減り、酒場では景気のいい話よりも、先行きを案じる声が多くなったと、父ちゃんはぽつりと語ったことがあたった。炭鉱の町は石炭とともに生きていたから、その需要が細れば、人の暮らしもまた細っていく。昨日まで当たり前だった事が、明日もあるとは限らない。そんな不安が、まだ幼かったぼくの知らないところで、家々の食卓に静かに忍び込んでいた。
父ちゃんも例外ではなかった。これから先、この町で家族を養っていけるのか。その問いは日に日に重さを増し、やがて一家の行く末を決めることになる。筑豊を離れるという選択は、生きていくために背中を押された決断だったのだろう。
昭和三十一年、ぼくら一家は筑豊を去ることになった。引っ越しの日、遠くのボタ山は黒く、青い空の下で黙っていた。そのときのことを、ぼくは覚えているわけではないが、父ちゃんは荷物を積み終えたあと、ボタ山の方へ目をやったに違いない。そこで働き、そこで暮らし、そこで家庭を築こうと思っていたはずだった。けれど、その約束は時代の流れに押し流されてしまった。
母ちゃんもまた、黙って炭住を見つめていたのではないだろうか。慣れ親しんだ土地を離れる心細さと、幼い子を抱えて生きていかなければならない責任。その胸の内には、期待よりも不安の方が大きかったかもしれない。それでも母ちゃんは不安を口にせず、ただ前を向いていたのだと思う。若い夫婦には、立ち止まることよりも歩き続けることが求められていた。
ボタ山は何も語らなかった。しかしその沈黙は、父ちゃんと母ちゃんの言葉にならない思いを、すべて飲み込んでいるようだった。別れの寂しさも、明日への不安も、そして残っていたかすかな希望も。
二、飛行機
昭和三十二年早々、美空ひばりがファンに塩酸をかけられ、火傷を負ったというニュースが日本中を賑わしていた。
三月になると、大分市の今津留に大分空港が開港した。ぼくら家族は、大分空港に近い萩原という小さな町にに住んでいた。どういう経緯で萩原へ流れ着いたのか、ぼくは知らない。聞いたこともないし、父ちゃんも母ちゃんも、何も言わなかった。ただ、父ちゃんに連れられて空港へ飛行機を見に行ったことだけは、なぜかぼんやりと記憶に残っている。幼かったぼくにとって、飛行機は絵本の中にいる特別な乗り物だった。空を飛んでいく姿は見たことがあっても、こんな近くで見るのは初めてだった。
金網のフェンス越しに銀色の機体を見たとき、ぼくは思わず父ちゃんの手を強く握った。飛行機は想像していたよりはるかに大きかった。鳥のように軽やかなものだと思っていたのに、鉄の塊と、その大きさに圧倒された。やがてエンジン音が唸りをあげ、二基のプロペラが回転した。空気が震え、からだの奥まで響いてきた。やがて、飛行機は轟音とともに滑走路を走り出した。ぼくはその音に驚いて思わずしゃがみ込み、耳をふさいだ。父は笑っていたが、ぼくは怪物が吠えているようにしか聞こえなかった。ところが、その怪物はふわりと滑走路を離れた。あれほど重そうだったものが、まるで糸で引かれるように空へ浮かび上がっていく。ぼくは口を開けたまま見上げていた。大きな翼を広げた機体はみるみる小さくなり、やがて青い空の向こうに消えていった。
「飛んだなあ」
父ちゃんがそう呟いた。
炭鉱の町を離れ、仕事を求めて知らない土地へ流れてきた。父ちゃんは何の仕事をしていたのだろう。母ちゃんは、父ちゃんは鋳物工場で働いていたと言っていたけど、記憶は欠けていて、生活の形が残っていない。
三、オート三輪
ある日の昼さがりだった。ぼくは道端にしゃがみ、石ころを並べて遊んでいた。すると、表通りのほうで急に怒鳴り声があがった。
「砂を持ってこい!」
誰かが叫び、続いて、黒い煙が立ちのぼった。走って見に行くとそこには、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』に出てきた「オート三輪」がとまっていた。荷台には木箱が積んであり、運転席の下、エンジンのあたりから赤い炎が噴き出していた。大人たちが集まり、砂や砂利を炎めがけてかけていた。男の人が、水を入れたバケツを両手に持って走ってきた。「水はかけんな!」と別の男の人が怒鳴った。炎は生きものみたいに暴れていた。運転席の下で何かが破裂し、小さな火の粉が散った。
ぼくはその光景を離れたところから見ていた。怖かった。隣にいた女の人が、「危ないけん、下がり!」と言ってぼくの手を引いた。やがて炎は小さくなり、煙だけが上がっていた。男たちは煤だらけの顔で立ち尽くしていた。
四、ジュウシマツ
父ちゃんは、ジュウシマツの番(つがい)を飼っていた。いつ、連れてきたのかは覚えていない。気がつくと、六畳ほどの狭い部屋の隅に鳥かごが吊るされていて、その中で小鳥が、せわしそうに跳ねていた。茶色と白のまだら模様の小鳥だった。嘴が妙に大きくみえた。
ジュウシマツは、餌のアワを食べるとき、嘴で殻を外へ飛ばした。鳥かごの下には殻が散らばっていた。水もよくこぼした。糞もする。その匂いがぼくは嫌いだった。夏になると、糞の匂いに湿気が混じって、部屋の空気が澱んできた。父ちゃんは、ジュウシマツを可愛がった。「ほら、鳴きよんぞ」などと言って、仕事から帰ると鳥かごを覗きこんだ。けれど、餌を替えるのも、水を換えるのも、新聞紙を敷き直して糞を始末するのも、みんなぼくの役目だった。
「ちゃんと世話をせんと死ぬぞ」
父ちゃんはそう言ったが、自分では何もしなかった。だからぼくはジュウシマツが嫌いだった。それに、あの鳥はぼくには懐かなかった。ぼくが鳥かごの中に手を入れると、かごの端へ逃げ、細い足で止まり木を掴んだまま、ぼくをじっと見ていた。
ある日、ぼくはわざと水を換えなかった。汚れたままの水入れを見ながら、これで困ればいいと思った。すると夕方、父ちゃんが鳥かごを覗きこんで、「なんや、水が汚れとるやないか」と言った。ぼくは黙っていた。父ちゃんはしばらくぼくを見たあと、自分で水を換えるでもなく、ただ溜息をついただけだった。ジュウシマツは細い声で鳴いていた。
夜になると、鳥かごに布がかけられた。布の中でで、ときどき羽ばたく音がした。ぼくは布団に入り、その音を聞きながら眠った。なぜ父ちゃんが、あんな小さな鳥を飼いたがったのか、子どものぼくには理解できなかった。
五、名前
昭和三十三年、東京タワーが完成したこの年、ぼくは四歳になった。
ある日、父ちゃんがわら半紙と鉛筆を持ってきて、「健二の名前は、こうやって書くんだ」と言って、わら半紙をちゃぶ台の上に置いて、大きな字でぼくの名前を書いた。
『たけだけんじ』
鉛筆の音が、ざらざらと紙を擦った。ぼくは、その字をしばらく眺めていた。これがぼくなんだ。自分の名前なのに、まるで知らないものを初めて見た思いだった。。
父ちゃんは、「ほら、書いてみい」と言って鉛筆を握らせた。ぼくは、わらばん紙に書いた。「た」を書き、「け」を書き、「だ」を書くうちに、なぜだか、だんだん文字が大きくなった。「けんじ」の「じ」の字を書きおえると、「じ」は「た」の五倍くらいの大きさになっていて、全体を見ると、三角形みたいな形になっていた。父ちゃんはそれを見るなり、「なんじゃ、こりゃあ」と言って笑い出した。ぼくもつられて笑った。父ちゃんは腹を抱えて、「名前が富士山になっとるわ」と言いながら笑った。ぼくは何がおかしいのか、よくわからなかった。けれど、父ちゃんがあんなふうに声をあげて笑ったのが嬉しくて、ぼくも笑っていた。
あのころ、父ちゃんは、あまり笑わなくなっていた。田川を出てからの父ちゃんは、いつもどこか疲れていた。酒を飲んで黙りこんだり、『しんせい』(たばこの銘柄)を吸いながら遠くを見たりすることが多かった。だから、その日の笑い声は、部屋の空気まで明るくした。
窓の外では、夕方の風が吹いていた。ジュウシマツがかごの中で細く鳴き、畳にはアワの殻が散っていた。
六、花火
夏の夕暮れ、父ちゃんが自転車を出してきた。「花火を見に行くぞ」と言った。母ちゃんは少し嫌そうな顔をした。人混みが苦手だったのか、それとも疲れていたのかもしれない。それでも結局、小さな団扇を持って後ろへ乗った。ぼくはフレームに取り付けられたサドルに座ってハンドルにしがみついた。田んぼ沿いの道を、父ちゃんは二人を前後に乗せて、自転車を漕いでいった。夕方の道はまだ熱を持っていた。川のほうへ向かう人たちが幾人も歩いていた。
大分川の堤防へ着くと、すでにたくさんの人がいた。開襟シャツに下駄履きのおにいさんとワンピースにつっかけ履きのおねえさん。土方姿のおじさんとエプロン姿のおばさん。鼻水をたらした男の子とおかっぱ頭の女の子。大勢の人人々が川沿いを埋めていた。空はまだ少し青かった。やがて、シュルシュルシュルと音がなると、青墨色の空に大きな花が開いた。
「ドン!」
からだに音が響いた。やがて次々と大輪の花火が夜空いっぱいに咲き、歓声が一斉に上がった。赤、青、黄色、色とりどりの光が大分川の水面に映り込み、まるで川そのものが輝いているようだった。
花火は更に、次々と打ち上がった。ドン、と鳴るたびに、ぼくは父ちゃんのシャツを掴んだ。「怖いか?」父ちゃんは笑った。ぼくは黙っていた。柳のように垂れ下がる花火、夜空を埋め尽くす大輪の花火、星が散るように細かく弾ける花火。見上げる人々の顔も、そのたびに明るく照らされた。仕掛け花火が、ナイアガラの滝のように川面に流れ落ちていく。舞鶴橋の上でも、誰もが同じ夜空に見入っていた。いよいよ連発花火が上がると、花火の音は大分の街に響き渡り、夏の夜の熱気と人々の歓声が溶け合っていった。
最後の大花火が夜空を照らすと、大きな拍手が大分川に広がった。煙の残る夜空を見上げながら、人々は名残惜しそうに帰り支度を始める。夏の終わりを告げるように川風だけが、静かに川辺を吹き抜けていた。
七、野良犬
父ちゃんは自転車を押して堤防を降り、少し離れたところでまた漕ぎ始めた。夜道は暗かった。街灯は付いていなっかた。虫の声がして、ところどころ、家の明かりが漏れていた。すると突然、後ろから野良犬の吠える声がした。ワンワンワン、と激しく吠えながら、一匹の野良犬が自転車を追いかけてきた。
「きゃっ!」
母ちゃんが声をあげた。父ちゃんがペダルを急に速く漕いだので、自転車がぐらぐら揺れた。犬はなおも追いかけてくる。
「咬まれた! 足を咬まれた!」
母ちゃんが大きな声をあげた。ぼくはハンドルにしがみついたまま、振り返ることができなかった。ただ野良犬の吠え声だけが、ずっと背中に張りついてきた。やっと犬が追ってこなくなると、父ちゃんは「畜生!」と言って、自転車を止めた。「どこを噛まれた」と訊くと、母ちゃんは咬まれた足を父ちゃんに見せた。ぼくは暗くてよく見えなかったが、母ちゃんは痛そうな顔をしていた。
帰り道、ぼくはもう花火のことを考えていなかった。夜の道を、突然どこからか野良犬が現れて追いかけてくる。世の中は、そういう理由のわからない怖さがあるのだと、ぼくは思った。
そしてやがて、あわただしい師走を迎えたころ、一万円札が発行された。
聖徳太子の顔が刷られている。しかし、ぼくの家の暮らしの中で、「一万円」という金は現実味がなかった。母ちゃんは買い物をするたびに小銭を数え、父ちゃんはたばこ代を惜しんだ。「一万円札なんち、見たこともねえな」と母ちゃんは笑った。父ちゃんの飼っているジュウシマツは相変わらずかごの中で鳴き、殻を散らかしていた。東京タワーが完成しても、ぼくのまわりの暮らしは少しも変わらなかった。
そんなこんなで、ぼくはまた、引っ越すことになった。父ちゃんが勤めていた工場が倒産したらしい。引っ越しと倒産は関係があるのかないのか、そんなことはぼくの知るところではなかった。
八、菡萏(かんたん)
昭和三十四年、皇太子殿下が正田美智子さんと御成婚され、テレビの普及が爆発的に進んだ。五歳になったぼくは皇太子殿下も結婚もよくわからなかったけど、日本じゅうが何か明るい方へ向かっているような空気だけは感じていた。
ぼくは西大分にある小さな港町、菡萏という港町に引っ越していた。この珍しい地名を「かんたん」と読む。地名の由来はその昔、この辺りの人たちが別府湾を「菡萏湾」と呼んでいたから、ということらしい。港の近くには、古い二階建ての建物が並んでいた。赤茶けた木の壁、格子窓、妙に広い階段、昼間でも薄暗く長い廊下。この町には、どこか夜の匂いが残っていた。後になって知ったが、この町は昨年まで遊郭街だった。
昭和三十三年に売春防止法というものができてから、妓楼だった建物は旅館や貸間屋(かしまや)へ変わっていったらしい。けれど、建物は急には変われない。柱や廊下や窓の形に、昨年までそこにいた女たちの気配が残っていた。夕方になると、路地の奥から三味線みたいな音が聞こえることがあった。ぼくが住んでいた貸間屋は、南北に走る通りの中ほどの西側にあった。玄関戸を開けると、正面に幅の広い階段が伸びていた。それはまるで映画『鎌田行進曲』に出てくる、あの大階段みたいだった。階段の両脇には、黒ずんだ古めかしい手摺がついている。手で触るとつるつるしていて、長いあいだ、いろんな人が掴んできたことがわかった。ぼくはその階段が好きだった。階段を上がると、ぎしぎしときしむ音がなった。右側の手摺に沿って上がり、右へ折れまわると、ぼくの住む貸間があった。襖を開けると、正面に大きな窓がある。東向きの窓だ。朝になると、朝日が真正面から差しこんだ。
炭鉱の町を離れ、大分へ流れ、そして港町の菡萏へ来た。父ちゃんは、そのたびに職を変え、人との付き合いを変え、酒の飲み方まで変わっていった。そして、あのジュウシマツはいつのまにかいなくなっていた。
九、花祭り
ある日の昼下がり、通りへ出ると人だかりができていた。いつも静かな道に、近所の大人や子どもたちが集まっていた。ぼくは何だろうと思って近づいた。そこは花で飾られた小さなお堂に、仏さまが安置されていて、甘い匂いが漂っていた。大人たちは小さな柄杓で甘茶をすくい、仏様の頭へ静かにかけていた。「今日はお釈迦さまの誕生日やで、花祭りやで」と、誰かが言った。ぼくは、お釈迦さまが誰なのか知らなかった。けれど、大人たちの顔がいつもより晴れやかだったので、なんだか良い日のように思えた。
知らないおばちゃんが、「坊やも、甘茶をお飲み」と言って、小さな茶碗に甘茶を注いでくれた。ぼくは両手で受け取り、そっと飲んだ。花の匂いみたいな甘さだった。温かいものが喉を通り、胸のあたりへ静かに広がった。ぼくは、砂糖の甘さとは違う甘茶が好きになった。「これを甘露っていうのかな」と言った。すると、そのおばあちゃんは「ぼくは難しい言葉を知っとるんやな」と言って、頭を撫でた。
子どものころ、ほんの一瞬だけ世の中が優しくなったような気がする時がある。あの甘茶の味は、ぼくにとってそういう味だった。ぼくは幸せな気分のまま通りを歩いた。
空は明るく、町はにぎやかだった。 どこかの家から煮物の匂いが流れていた。すると突然、ガブッ、と後ろから衝撃がきた。小さな白い犬がぼくのお尻に咬みついた。
「わあっ!」
ぼくは叫んだ。犬はすぐ離れたが、歯をむき出して吠えた。お尻が熱く、痛かった。近くの家から、飼い主らしい女の人が菜箸を振り上げて飛び出してきた。「こらっ!」と犬を叱った。ぼくは涙目になった。さっきまで胸の中にあった甘茶の幸せが、一瞬で消えていた。家へ帰ると、母ちゃんが咬まれたお尻を見て、「大丈夫、たいしたことない」と言って、赤チンをお尻に付けてくれた。
ぼくはその夜、布団の中で何度も昼間の犬を思い出した。犬というのは、急に咬む。理由もなく、後ろから来る。あの日、花火をみた帰り道、母ちゃんの足を咬んだ野良犬のことを、そのとき思い出した。ぼくは犬が大きらいだ。
十、独楽
菡萏の北西に、小さなドックがあった。船を修理するための場所らしかったが、そのころはもう、ほとんど使われていなかった。ドック内は海水が抜かれていた。ぼくはドックの下まで降りて行った。錆びた鉄と潮(しお)の匂いがしていた。昼間でも人影はなかったけど、ときどき知らないおじさんが来てドック内と周囲の建物を見回っていた。そのおじさんは近所の子供たちの人気者だった。というのは、おじさんは独楽作りの名人だったからだ。機嫌が良いときは、作業場の戸を開け放ち、「今日は誰の独楽を作っちゃろうか」と言う。すると子どもたちは我先におじさんのまえに集まった。
ある日のことだった。徹朗という名の子どもが、鉄砲玉をひとつ差し出した。
「おいちゃん、これで独楽を作ってくれんかな」
それはどこで手に入れたのか、小さな真鍮色の鉄砲玉だった。おじさんはそれを指先でつまみ上げ、目の高さに持ち上げて眺めた。
「ほう、ええもん持っとるな」
そう言って薬莢が付いていないことを確かめると、作業台の脇に積んであった木材の中から、ほどよい長さの一本の丸い木片を選び出した。子どもたちは固唾をのんで見守っていた。おじさんはそれを電動の轆轤(ろくろ)に差し込んだ。スイッチを入れる。すると唸るような音を立てて木片が回転し始めた。どんどん回る。おじさんはやさしく鑿(のみ)を当てた。
シャ————ッ。
乾いた音が響いた。白い木屑が細い帯になって宙を舞う。鑿を少し当てるたびに、木は形を変えていく。削られた木肌がなめらかな曲線を描き、ずんぐりした木片が、だんだんと独楽の形になっていく。子どもたちは息をするのも忘れて見つめていた。まるで魔法だった。さっきまで何の変哲もなかった木片が、おじさんの手にかかると生き物のように姿を変えた。
シャッ。
シャッ。
木屑が雪のように飛び散る。やがておじさんが鑿を離した。そこに現れたのは、砲弾のような形をした美しい投げ独楽だった。
「おおっ!」
子どもたちのどよめきが広がる。おじさんは笑うこともなく、硬い布みたいなもので、表面を磨いていった。やがて回転がゆっくりと止まる。おじさんは、黙って鉄砲玉を独楽の先端に打ち込んだ。金槌の音が小さく響く。最後の一打が終わると、独楽は完成した。磨き上げられた木肌は白練色に光り、鉄砲玉を芯にした先端は鋭く輝いている。それは店で売っている独楽よりも立派だった。いや、子どもの目には宝物そのものだった。完成した独楽を受け取った徹朗は、まるで勲章でも授かったような顔をしていた。
ぼくはその独楽から目が離せなかった。喉の奥から手が出るほど欲しかった。けれど、ぼくは鉄砲玉を持っていなかった。徹朗の周りでは、まだ子どもたちの歓声が続いていた。ぼくはその輪の外に立ち尽くし、徹朗が持っている、完成したばかりの投げ独楽を見つめていた。
十一、菡萏の丘
ドックを出て南へ歩くと、両側には二階建てのアパートや貸間屋が並んでいる。去年まで、それらの建物が妓楼だったと、後になって知った。どの建物も、どこか造りが妙だった。道路を挟んだ真向かいのアパートの二階に、同い年のひろし君が住んでいた。ぼくより少しだけ背が高くて、いつも鼻をすすっている子だった。ひろし君は、「けんちゃん、あそぼう」と、二階の窓から大きな声で呼んだ。ぼくは窓から身を乗り出して、「いま行く」と返事をした。階段を駆け下りて、ズックを履いて表に出ると、ひろし君がすでに待っていた。
ぼくの住む貸間屋の裏手には、祠が祀られていて、小さい鳥居には生目神社とあった。祠の背後には小高い丘がある。山へ続く道は細く、赤茶けた土の両脇に夏草が生い茂っていた。ぼくとひろし君は頂上をめざした。足元ではバッタが跳ね、踏みしめた土の匂いが陽射しに温められて立ちのぼった。頂上まで登ると、一本の松の木が立っていた。風が吹いた。潮の匂いを含んだ風だった。遠くからは港の音が聞こえてきた。
丘から見える景色は、子どものぼくには大きすぎるほど大きかった。目の前には仏﨑が見える。うしろにはおさるの高崎山が海に横たわり、その奥には別府の町が陽の光を浴びていた。家々の屋根はまるで貝殻を撒いたように連なり、視線をあげると、なだらかな扇山の向こうに由布岳と鶴見岳が並んでいた。二つの山は大きな肩を寄せ合うように空を支えていた。夕方になると太陽が油布・鶴見の頂に沈む。その姿はまるで絵本の中の山のように美しかった。
ぼくとひろし君は、菡萏の丘の上でよく遊んだ。石を並べて秘密基地を作ったり、寝転んでは流れる雲を眺めたり、チャンバラごっこをした。遊び疲れて二人並んで海の方を眺めていた。そのとき、ひろし君が言った。
「なあ、この丘がどうしてできたか知っちょるか」
ぼくは首を振った。
「知らん」
すると、ひろし君は得意そうな顔になった。
「昔な、海の中に瓜生島ちゅう島があったんち」
ぼくは黙って聞いた。
「それがある日、地震か津波か知らんけど、海の底に沈んでしもうたんや」そう言うと、ひろし君は遠くの海を指差した。ぼくもその先を見た。海は静かだった。
「そんでな、そんときに海の底から土が盛り上がって、この山ができたんち」
ひろし君は足元の地面を叩いた。ぼくは思わず辺りを見回した。いつも見慣れた景色だった。けれど、ひろし君の話を聞いたあとでは、何だか違って見えた。
もし本当にそうなら、この山は海の底だったことになる。ぼくらが駆け回っている丘には魚が泳いでいたのかもしれない。波が打ち寄せていたのかもしれない。
「ほんとか?」
「ほんとや。うちのじいちゃんが言いよった」
と、ひろし君は自信たっぷりに答えた。じいちゃんが言ったことなら本当なのだろう、とぼくは思った。海から吹いてくる風が少し強くなった。草がざわざわと鳴った。もう一度別府湾を見た。
陽の光を受けた海がどこまでも広がっていた。あの海の下には、沈んだ島がある。そして、その島の名残(なごり)がこの山なのだ。そう思うと、いつもの遊び場が急に古い伝説の舞台のように思えてきた。ひろ君は「もしかしたら、この一本松もその頃からあるんかもしれんな」と言った。ぼくは黙って一本松を見た。けれど、もし本当に瓜生島が沈んだのを見ていたのだとしたら、この丘の上で一番古い秘密を知っているのは、あの一本松なのかもしれないと思った。
十二、お姉さん
ぼくの住む貸間屋の二階へ上がると、長い廊下が奥までまっすぐ伸びている。昼間でも暗く、板張りの床は歩くたびにきしんだ。廊下の両脇には、襖で仕切られた部屋が並んでいた。どの部屋にも誰かが住んでいたはずだが、不思議と生活の音はあまり聞こえなかった。
そんなある日のことだった。襖が少し開いている部屋があった。ぼくは何気なく中をのぞいた。部屋は薄暗かった。窓際に小さな文机があり、その前にお姉さんが座っていた。白い腕を机の上へ伸ばし、何かを書いていた。鉛筆が紙を擦る音だけが、静かに聞こえた。お姉さんは髪を後ろでまとめていて、腰まで伸びていた。気配を感じたのか、お姉さんは顔を上げた。
「坊や、何しよるん」
小さな声だった。ぼくは急に恥ずかしくなって、何も言えなかった。お姉さんは少し微笑んだ。
「入り、怒らんけん」
お姉さんは文机の引き出しを開けた。ぼくは驚いた。中には短い鉛筆がたくさん入っていた。どれも二、三センチほどしかない。ずいぶん使い込まれて、木の部分は黒ずみ、先だけが尖っていた。
「この鉛筆、短かいやろ」
ぼくは黙ってうなずいた。
「まだ書けるんよ」
そう言って、お姉さんはその中から一本を選んだ。頭の部分に、金属製のキャップを付けると、書きやすい長さになった。ぼくは不思議だった。そんな小さなものを、どうして捨てないのか分からなかった。
「なんで、そんなん持っとるん?」
ぼくが聞くと、お姉さんは少し考えてから笑った。
「捨てるんが、かわいそうやけんな」
そう言った。けれど、その言い方は、鉛筆のことだけを言っているようには聞こえなかった。それ以来、ぼくはお姉さんの部屋へ、いくようになった。お姉さんは時々、明るい派手な服に着替えていた。鏡台の前に立ち、小さな鏡をのぞき込む。身支度を整えて、どこかへ出かけて行った。
あるとき母ちゃんが小声で言っていた。「あの人、昔はここで……」、そこから先は聞こえなかった。
文机の前に座ったお姉さんは、短い鉛筆を握っていつも何かを書いていた。指先だけが、静かに動いていた。今になって思う。あのお姉さんは、あの短い鉛筆を、自分のことのように思っていたのかもしれない。新しい鉛筆は長くて、まっすぐで、誰の手にも取りやすい。けれど、短くなった鉛筆は、もう捨てられるばかりだ。
それでも、お姉さんは言った。「まだ書けるんよ」。その言葉は、鉛筆に向けたものだったのか。それとも、自分に向けたものだったのか。
去年まで、この部屋には男たちの声があったのだろう。お姉さんは化粧をして、奇麗な服を着て、笑っていたのだろう。誰かの手に取られるように生きていたのだろう。けれど、法律が変わって、夜は終わった。人は散り、部屋だけが残った。そして、お姉さんだけが、そこにいた。使い古されて、短くなって、それでも捨てられずにいる鉛筆のように。
ぼくはその場を離れながら、あの短い鉛筆を思い出していた。短くなったからといって、すぐに捨てられるものもある。けれど、捨てられないものもある。それは、まだ使えるからなのか。それとも、そこに自分の生きてきた証が染みついているからなのか。ぼくには分かる術もなかった。ただ、去年まで娼妓だったお姉さんの、薄暗い部屋の短い鉛筆が、今でも忘れられなかった。そして、あの小さな声だけが、いつまでも耳に残っていた。
「まだ書けるんよ」
廊下には西日が細く差していた。
十三、ブリキの船
廊下の突き当たりには、共同の洗い場があった。そこはぼくの遊び場だった。ぼくは排水口に栓をして水をためた。そしてブリキ製の船を浮かべて、ひとり遊びを楽しんだ。水の上をゆらゆら浮かぶ、ブリキの船にぼくは乗っている気分になっていた。
その日も、ぼくは夢中になって遊んでいた。水は流しから溢れ、床までびしょ濡れになっていた。そこへ大家さんが来た。
「こらっ、何しよるか!」
大きな声だった。ぼくは驚いて振り向いた。大家さんは太った女の人だった。腕を腰にあて、ぼくをにらんだ。濡れた床を見て、眉を吊り上げて怒った。
「またあんたか!」
ぼくは何も言えなかった。ブリキの船は、水の上でひっくり返っていた。しばらくして母ちゃんが呼ばれた。母ちゃんは何度も頭を下げていた。大家さんはしばらく文句を言い続け、最後に大きく溜息をついた。
部屋へ戻ると、母ちゃんは本気で怒った。「健二は、どうしてじっとできんのか!」。そう言うと、押し入れから紐を持ってきた。ぼくは何をされるのかわからなかった。母ちゃんはぼくの身体を紐で縛り、もう一方を、階段の親柱に結びつけた。「そこであたま冷やしとき!」。ぼくは声をあげて泣いた。廊下に泣き声が響いた。通る人がちらりとこちらを見た。紐は痛かった。涙と鼻水が止まらなかった。洗い場の窓から西日が差していた。泣きつかれたぼくは、いつのまに眠っていた。
どこかの部屋で赤ん坊が泣いていた。ぼくは目が覚めた。母ちゃんが紐を解いて、何も言わず、ぼくを部屋へ入れた。母ちゃんは部屋の中で黙って縫物をはじめた。ぼくは母ちゃんの横に座って縫物をぼんやり見ていた。あのころの母ちゃんは、いつも周りの人に気を遣って、疲れていた。
十四、麻疹
ある日、母ちゃんが、「ひろし君が麻疹にかかったらしい」と言った。ぼくは麻疹がどんな病気なのか知らなかった。ただ、しばらく遊べなくなった。真向かいのアパートの二階の窓は閉まったままで、ひろし君の声も聞こえなかった。夕方になっても、「遊ぼう」と呼びに来ない。ぼくは二階の窓を見た。母ちゃんは、「うつるけん、行ったらいけんで」と言った。けれど子どもには、「うつる」ということがよくわからない。
それからしばらくして、今度はぼくが熱を出した。身体が重かった。喉が痛く、目の奥まで熱かった。そして、赤い発疹がでた。母ちゃんが、「ああ、うつってしもたな」と言った。ぼくは布団へ寝かされた。汗をかいた。布団がじっとり濡れ、身体中が熱かった。天井を見ていると、木目がゆっくり動いて見えた。木目がぼくを見ていた。母ちゃんは時々、水を飲ませてくれた。風が鳴る音がした。廊下を誰かが歩く足音も聞こえた。ぼくは布団から出られなかった。ひろし君もぼくと同じように、寝ているのかなと、ぼんやり思った。麻疹という病気は、不思議と寂しい病気だった。身体が苦しいだけでなく、自分だけが世界から切り離されたみたいになる。
熱でうなされながら、ぼくは変な夢を見た。ドックの黒い水の底から、ジュウシマツが何羽も飛び立ってくる夢だった。鳥たちは短い鉛筆を嘴にくわえ、空の上でぐるぐる回っていた。目が覚めると、汗で襟元が冷たくなっていた。母ちゃんは、ぼくの横でうたた寝をしていた。数日たったら、発疹がなくなって、熱が下がって、ぼくは布団から起きれるようになった。
そんななか、ぼくたち家族はまた引っ越すことになった。父ちゃんの仕事がまた変わったのだ。わが家は、父ちゃんの仕事が変わると引っ越すらしい。
十五、生石(いくし)
昭和三十五年、ぼくは六歳になった。世の中は、日米安保闘争というものが激しくなっていた。東京では学生たちが国会議事堂構内で機動隊と激しく衝突していた。人々が密集して押し合いになったことで、樺美智子という東大生が死亡した。この出来事は当時の日本社会に大きな衝撃を与え、安保闘争を象徴する事件として知られるようになった。そんななか、池田勇人は、「所得倍増計画」を打ち出した。大分では、大分鶴崎臨海工業地帯の港湾浚渫(しゅんせつ)工事が開始され、重工業化への第一歩を踏み出された。「これから日本は豊かになる」。大人たちが、そんな言葉を口にしていた時代、目がクリっとした色の黒い『ダッコちゃん』人形が流行った。腕に巻きつけるビニール製の人形で、女の子たちが騒いでいた。けれど、そんな世の中の動きは、ぼくに関係がなかった。日本が変わっていくのに、家族の暮らしは相変わらず貧しかった。
この年、ぼくらは菡萏に近い、「生石」という町に引っ越した。生石は西大分駅が近いせいか、人の行き来が多く、活気があった。生石で暮らし始めた家は、古びた木造平屋建ての二軒長屋だった。中学を卒業するまで、ぼくは生石で暮らすことになるが、卒業後しばらくしてまた、引っ越すことになる。原因はやっぱり、父ちゃんの仕事が変わったためだ。まぁ、その話は後日に語るとして、生石の続きだ。
その家は裏通りにあり、東向きに建っていた。朝になると、戸の隙間から光が細く差しこんだ。隣の家とは、板壁で仕切られていた。板はところどころ反り返り、節穴から向こうが見えた。隣の家には離れ小部屋があり、小さいながら板葺きの屋根がついた、立派な門があった。門をくぐると踏み石が続き、玄関先には鉢植えまで置いてあった。ぼくは、その門が羨ましかった。門というものは、それがあるだけでちゃんとした家に見える。「ここから先は、この家の屋敷です」と言っているみたいだった。ところが、同じ屋根の二軒長屋なのに、ぼくの住む家は、門のない家だった。門のある家と門のない家との差だけは、妙にはっきり感じていた。塀がない。垣根もない。通りからいきなり家だ。まる見えだった。
家の前は空き地だ。雨が降るとぬかるみ、晴れると乾いて白っぽくなった。その空き地には、共同の井戸がある。石組みの古い井戸だ。けれど、ほとんど使われていなかった。水道が来ていたからだろう。井戸のまわりには苔が生え、手押しポンプもくたびれていた。
十六、幼稚園
生石に引っ越して間もなく、ぼくは幼稚園に通うことになった。幼稚園は家から少し歩いたところにあったが、ぼくには遠く感じられた。その幼稚園は私立の小さな幼稚園だった。ぼくは、ひまわり組で、同じ組にひとみちゃんという、おさげ髪の女の子がいた。丸顔のひとみちゃんはいつも笑っていた。ぼくはひとみちゃんが気になっていた。なぜ気になっていたのか、よくわからない。特別たくさん話したわけでもない。ただ、ひとみちゃんの席は、ぼくの隣だった。
ある日、お絵かきの時間があった。先生が白い画用紙を配り、「おひさまと家を描きましょう」と言った。教室にはクレヨンの匂いが広がった。みんなワイワイ言いながら描き始めた。ひとみちゃんは赤いクレヨンを持つと、おひさまを大きく描いた。おひさまから、元気な線が四方へ伸びていた。ぼくはその絵を横目で見ながら、同じようにおひさまを描こうとした。けれど、うまく描けなかった。丸は歪み、線もばらばらだった。おひさまというよりは、つぶれた赤い饅頭みたいになった。ぼくはなんだか恥ずかしくなった。ひとみちゃんに見られたくないと思った。すると、ひとみちゃんがぼくが描いた絵を見て、「大きな、おひさまやね」と言った。ぼくは何も言えず、赤いクレヨンを握ったまま黙っていた。窓の外では、夏の光が園庭に落ちていた。
お絵かきの時間が終わり、園児たちの帰る時間になった。
「先生さようなら」
子どもたちは椅子を戻し、小さな黄色いバッグを肩から下げて、わいわい騒ぎながらドアへ向かった。すると何人かの男の子がドアからではなく、窓を乗り越えて廊下へ出ていった。机の上から、窓枠に足をかけ、飛び降りた。ぼくは、それが格好よく見えた。だから真似をした。窓枠に手をかけ、片足を上げた。そのとき、後ろから先生の声がとんだ。
「竹田くん!」
ぼくはびくっとした。先生は怖い顔をしていた。
「そんなことしたら駄目でしょう!」
保育室じゅうに響く声だった。みんながぼくを見ていた。先生はぼくの腕を掴み、ドアのほうへ引っぱった。
「ここから帰りなさい!」
ぼくは何も言えなかった。顔が熱くなった。なぜあのとき、あんなに叱られたのか、今でもよくわからない。他の子も同じことをしていたのに、たまたま、ぼくだけ見つかったのかもしれない。けれど子どもというのは、自分だけが叱られると、世界そのものから拒まれたような気持ちになる。それからだったと思う、ぼくは幼稚園へ行かなくなった。本当にあの出来事が原因だったのかはわからない。記憶というのは、あとから理由をつけてしまう。もともと、うちには幼稚園へ通わせ続ける余裕が、なかったのかもしれない。月謝が払えなかったのかもしれない。父ちゃんも母ちゃんも、そのことは何も言わなかった。どちらにしても、あの日を境に、ぼくは幼稚園へ行かなくなった。
だから、ぼくは卒園していない。卒園式というものがどんなものなのか知らない。ひとみちゃんが、そのあとどうなったのかも知らない。幼稚園の前を通るときがあった。子どもたちの歌声が聞こえた。ぼくは道の向こうから、少し離れたところから聞いていた。
ぼくの家は毎日が貧乏だった。貧乏というのは、ただお金がないというだけではない。何かが途中で終わっても、その理由を誰も説明しない、ということでもある。だからぼくは、自分が幼稚園をやめた理由を、今でも知らない。
十七、一年生
昭和三十六年、ぼくが七歳になった年、国民健康保険という制度ができたらしい。ぼくが大人になって分かったことだけど、父ちゃんは国民健康保険に加入していなかった。
同じ年、『夢で逢いましょう』という番組が始まった。ガガーリンというソ連の宇宙飛行士が宇宙へ行き、「地球は青かった」と言った。ベルリンではいわゆる『ベルリンの壁』が築かれ、アメリカではケネディという若い大統領が誕生した。世界の出来事が、毎日のように流れ込んできた。けれど、生石の裏通りに暮らすぼくには、そんなことは何も知らなかった。
この年、ぼくは小学校へ入学した。入学式の日、母ちゃんはぼくの服の襟を何度も直した。「ちゃんとしとくんで」と言いながら、寝ぐせのついたぼくの髪を水で撫でつけた。幼稚園を途中でやめたぼくにとって、小学校へ入ることは、もう一度この世界へ入り直すことだったのかもしれない。もっとも、その頃のぼくは、そんなことを考えるほど利口ではなかった。小学校の校門を入ると、幼稚園と違ってとんでもなく広い校庭があった。正面には、堂々とした講堂が建っていた。右側には鉄筋コンクリート造りの校舎が建っていて、四角く、白くて、新しい匂いがしそうだった。それに比べると、左側の校舎は古かった。木造校舎で、壁も廊下も黒ずんでいた。新一年生のぼくの教室は、木造校舎のほうだった。
木造校舎へ足を踏み入れると、床がぎしりと鳴った。長い廊下は鈍く光っていた。下駄箱で靴を脱ぎ、上履きに履き替えた。上履きの白さが、なんとなく嬉しかった。周りでは新一年生たちが騒いでいた。名前を呼び合う声。笑い声。泣いている子もいたかな。ぼくは緊張しながら、一年四組の教室へ入った。教室の窓は南向きで、春の光が斜めに差し込んでいた。木の机と椅子がきちんと並んでいた。黒板には、白墨で「にゅうがく おめでとう」という文字が、太く大きく書かれていた。ぼくは自分の席を探した。教室の後ろのほうにあった。机の角は、幾人もの子どもが触ってきたせいか、少し丸くなっていた。ぼくは席についた。教室のざわめきが耳に入ってきた。その中で、ぼくだけが少し遅れて世界へ入ってきたような気がした。ぼくは教室を見回した。窓側の席に見覚えのある女の子がいた。おさげ髪をしている、ひとみちゃんだった。僕を見て、おどろいた顔をした、ように見えた。窓の外では、銀杏木が風に揺れていた。
しばらくすると、ふくよかな女の先生が教室へ入ってきた。白いブラウスに紺色のスカートを穿いていた。髪は後ろでまとめられていた。先生が教壇の前へ立つと、「今日からみなさんを担当する、二宮悦子です。みなさんは、今日から春日町小学校、一年四組の生徒さんになりました」と言った。教室の空気が急に静かになった。生徒たちはみんな前を向き、先生のはなしを聞いていた。ぼくは緊張していたのだと思う。知らない学校。知らない教室。知らない生徒。知らない先生。知らないだらけだ。
椅子に座っているとしだいに、おしっこがたまってきた。そして、あろうことか、ぼくは教室の中でお漏らしをしてしまった。足元が温かくなった。足先にはおしっこが広がった。周りの空気が変わった。誰かが笑った。誰かが声をあげた。ぼくは顔が熱くなり、机にしがみついていた。二宮先生が近づいてきた。「大丈夫よ」。と言った気もする。けれど、その声さえ、遠くから聞こえるようだった。その後のことは、記憶にない。
母ちゃんが呼ばれたのか。着替えをしたのか。教室のみんながどういう顔をしていたのか。何も思い出せない。人間というのは、恥ずかしすぎることが起きると、その前後をまとめて忘れてしまうのかもしれない。あれが、ぼくの小学校生活の始まりだった。つまりぼくは、小学校という場所へ、最初から失敗した姿で入っていった。
十八、新産業都市
ぼくが一年生になった年、大分市が『新産業都市』に指定された。市長の上田保は、せわしく動き始めた。もっとも、そのころのぼくは新産業都市という言葉の意味など分からなかった。ただ、大人たちの顔つきがどこかせわしくなり、町の空気が急に落ち着かなくなったことは覚えている。「工場ができるらしい」「人が増えるらしい」「家が足らないらしい」。そんな話が、井戸端や茶の間で飛び交っていた。県知事の木下郁は、明野の土地を買い上げて、大きな団地をつくることを決めたという。けれど、そのころの明野は、まだ団地の町ではなかった。どこまでも草が生い茂る、だだっ広い土地だった。昔は「猪野山」と呼ばれていたと、大人は言っていた。風が吹けば、草が一斉に揺れて、波のようにうねった。道らしい道はまだ細く頼りなく、雨が降ればぬかるみ、晴れれば赤土が舞い上がり、空ばかりが広かった。
その土地に、戦争が終わった昭和二十年。外地から引き揚げてきた人たちが入った。行く先を失った人たちが、木を倒し、草を刈り鍬を打ち込んだ。石だらけの土を耕し、小さな畑をつくり、粗末な家を建てて暮らし始めた。何もないところに、人が生きる場所をこしらえていったのである。
昭和二十三年、その開拓地には新しい名前がついた。明治村の「明」と猪野の「野」を合わせて、「明野」という地名がつけられた。明るい野、と書くその名前は、荒れた土地に生きようとした人たちの願いが、そのまま貼りついたような地名だった。
昭和三十六年になると、その明野もまた、大きく姿を変えようとしていた。昨日まで畑だったところへ杭が打たれ、測量をする見慣れぬ人間が歩き回り、やがてブルドーザーが土を削り始めた。草の匂いのする野原が、少しずつ消えていった。人が土地を開く。そしてまた、人の都合でその土地は別の形に変わる。明野という町は、そうやって誰かの手で耕され、誰かの夢を乗せ、また新しい暮らしのために姿を変えていった。あの広い空と、草波の揺れる猪野山は、今はもうない。猪野という地名だけが残り、あの景色は、もうどこにもない。
もっとも、そのころの明野の出来事は、ぼくは何も知るはずもなかった。明野という町は、戦争の引揚者が開き、行き場のない人たちが流れ着て、根を下ろそうとしていた土地だった。そして県の都合で形を変えていった土地だった。
あの時代、木下は行政を担い、上田は工業や観光に目を向けながら、戦後の大分県と大分市を前へ進めていった。
そんな時代に、父ちゃんは土建業という職についた。
十九、洋裁店
ぼくが小学校に入学してまもなく、母ちゃんは小学校の近くにあった洋裁店に勤めはじめた。母ちゃんは尋常小学校を卒業したあと、洋裁学校へいって手に職をつけた。「洋裁を覚えるため、しんけん勉強したんで」と、少し自慢そうに話していた。だから洋裁の仕事は、母ちゃんにとって天職だったのかもしれない。
洋裁店の一階は店舗になっていて、ショウウインドウには婦人服がいくつも並び、華やかだった。洋裁店の中へ入って、脇にある急な階段を二階に上がると作業場がある。そこには大きな裁断台があって、ミシンが何台もあり、色とりどりの糸巻きが並んでいた。布の匂いとアイロンの熱い匂いが混じっていた。カタカタカタカタと、ミシンの音が絶えず響いていて、お姉さんたちが下を向いて婦人服を縫っていた。裁断台には布生地が並び、床には裁ち落とした布切れが散っていた。あの頃、ぼくが着ていた服は、母ちゃんが、余った布切れを貰って作ってくれていた。母ちゃんは、お客さんが注文した婦人服を縫っていた。洋裁をしている母ちゃんはかっこよかった。
そんなわけで、ぼくは学校が終わると、よく、その洋裁店の二階へ上がった。「邪魔せんのよ」と母ちゃんは言ったが、追い返しはしなかった。ぼくは窓際に座り、お姉さんたちが働く姿をぼんやり見ていた。窓からは春日神社が遠くに見えた。洋裁店の周りには、お肉屋さん、お医者さん、ふとん屋さんなど、たくさんのお店が並んでいた。女の人たちは、仕事をしながらよく喋った。近所の話。子どもの話。誰それの旦那が浮気をした話など、にぎやかだった。母ちゃんは、家ではあまり笑わないが、店ではよく声を出して笑っていた。ぼくはその笑い声を聞くのが好きだった。
一年生のぼくは、店のお姉さんたちに可愛がられていた。「健ちゃんが来たよ」と声をかけられ、頭を撫でられた。『サクマ』の小さい缶から取り出したドロップを、「おかあさんに内緒よ」と言ってぼくの手に握らせた。ぼくは、ドロップを口の中で転がしながら、作業場に上がっていった。邪魔をしてはいけない、ということだけはわかっていた。
お姉さんたちはせわしなく働いていた。型紙に合わせて布地にチャコでしるしを付け、裁ちばさみで布をきり、ミシンを踏み、布同士を縫い合わせる。足踏みミシンの音は、まるで雨みたいに絶え間なく続いた。カタカタカタ、カタカタカタ、その音を聞いていると、時間が経つのを忘れた。霧吹きをかけ、アイロンから湯気が白く立ちのぼった。ぼくは、お姉さんたちの仕事をぼんやり眺めていた。布が服の形になっていくのが不思議だった。
そのうち、ぼくは眠くなった。ミシンの音。布の匂い。西日の暖かさ。それらがぜんぶ混じって、ぼくをゆっくり眠らせる。仕事が終わるころ、母ちゃんに肩を揺すられた。「健二、帰るよ」、目を開けると作業場の灯りが少し暗くなっていた。お姉さんたちは後片づけをしていた。「また明日ね」とお姉さんが言った。
ぼくは目を擦りながら、母ちゃんと一緒に階段を下りた。外へ出る。西大分駅のほうから列車の音が聞こえた。母ちゃんから、仕事帰の匂いがした。作業場の匂いと、少し汗の混じった匂いだった。ぼくは母ちゃんと並んで、夕日に向かって歩いた。黒い蝙蝠(こうもり)がぼくの頭の上を飛んでいった。子どものころの幸福というのは、案外こういうものだったのかもしれない。
二十、かぎっ子
小学校へ入学して、初めての夏休みが来た。朝から蝉が鳴いていた。昼になると道の向こうが揺れて見えるほど暑かった。あの頃の生石の裏道はまだ舗装されていない。電車通り——母ちゃんは、その国道をそう呼んでいた——はコンクリート舗装だった。父ちゃんは朝早く出て行って、帰りは遅く帰ってきた。顔も腕も日に焼け、土埃をつけて帰ってきた。母ちゃんも働いていたので、昼間は、家には誰もいなかった。ぼくひとりだった。だから、ぼくはみんなから「かぎっ子」と呼ばれていた。首から鍵をぶら下げていたわけではない。ただ、昼間ひとりで家にいる子ども、というだけだった。
ぼくは兄弟がいない。友達もいなかった。家の前の小さな空き地が、ぼくの遊び場だった。雑草が生え、土が剥き出しの遊び場だった。ぼくはそこで、石を並べたり、棒切れで地面に絵を描いたりして、ひとりで遊んでいた。ひとり遊びには、ひとり遊びの世界がある。石ころにも役があり、空き缶にも物語があった。子どもというのは、退屈の中から遊びを作る生き物なのかもしれない。
それでも、いつのまにか数人の友達ができた。おかしなことに、みんな女の子だった。なぜ男の子ではなく、女の子だけだったのか自分でもわからない。ぼくがおとなしかったからかもしれない。女の子たちは、いつの間にかぼくを遊びに混ぜた。お人形さん、お手玉、縄跳び、フラフープ。ぼくは最初、少し照れくさかった。けれど、一人でいるよりは楽しかった。女の子たちはよく喋った。些細なことで笑い、急に喧嘩し、またすぐ仲直りした。あたりまえだけど、お手玉は、ぼくより女の子のほうが上手だった。小さな布玉が、空中を飛んだ。縄跳びでは、ぼくはよく引っかかった。すると女の子たちは笑った。けれど、その笑い方は意地悪なものではなかった。フラフープが流行ったのも、そのころだったのかな。腰を振って大きな輪っかを回すのだが、ぼくはすぐ落としてしまった。「健ちゃんはへたやなあ」と言われ、笑われた。ぼくも笑った。
夏の日差しは強く、暑かった。あの年の夏は、雨が降らなくて水不足になった。だけど、井戸があったので、近所のおばさん達は、たらいと洗濯板を持ってきて洗い物をしながら、井戸端会議をしていた。会議が終わると、子ども達は水遊びを楽しんだ。夕方になると、空き地に長い影が伸びた。母ちゃんが帰ってくると、ぼくは遊びをやめた。あのころのぼくは、ひとりでいることに慣れていた。けれど、本当はずっと待っていたのかもしれない。だから、女の子たちと遊んだあの夏のことを、今でも妙によく覚えていた。
二十一、京子
ある日、京子が、長い輪ゴムの紐を持ってきた。その紐は輪ゴムをいくつも繋げて作ったもので、1メートルくらいあった。京子は気の強い娘だった。日焼けした顔をしていて、いつも元気に喋った。「今日はゴム跳びをするけんな」と言って、空き地へみんなを集めた。二人の女の子が、ゴム紐の両端をそれぞれ持って、胸のあたりの高さに引っ張り上げた。それは3メートルくらいの長さに伸びた。京子は自分の短いスカートの端を、提灯パンツの中へ折り込んだ。すると半ズボンみたいな格好になった。
「いくよ!」
京子はそう言うと、数歩後ろへ下がった。それから軽くステップを踏み、ひょいっと、ゴム紐をきれいに跳び越えた。女の子というのは、縄跳びだけでなく、こういう遊びまで上手なのかと思った。次はゴム紐をもっていた女の子が跳んだ。その次は、もうひとりの女の子が跳んだ。みんな簡単そうに跳び越えた。
「次、けんちゃんの番!」
京子が言った。ぼくは少し緊張した。後ろへ下がり、京子の真似をして跳んだ。けれど、足が紐に引っかかった。バチン、と輪ゴムが脛に当たった。痛かった。三人の女の子が笑った。
「あはは、けんちゃんの下手くそ!」
ぼくは顔が熱くなった。また小学校でお漏らしした時みたいに、身体の中が熱くなった。京子は笑いながら、「もっと低くしよう」と言った。ゴム紐は、今度は膝頭くらいの高さになった。
「これなら跳べるやろ」
ぼくはもう一度やった。助走をつけ、思いきって跳んだ。
「跳べた!」
ぼくは思わず叫んだ。みんなが拍手した。京子は笑っていた。夏の光の中で、ゴム紐が細く揺れていた。女の子たちの笑い声が、空き地いっぱいに広がった。
あのころのぼくは、男の子らしさというものを、知らなかった。強くなくてもよかったし、負けても遊びから追い出されることはなかった。跳べないなら、跳べる高さまで下げてくれる人がいた。
京子はやさしかった。けれど、京子の兄は意地悪だった。ぼくはチビで、内気な子どもだった。だから、京子の兄は、会うたびにぼくをいじめた。頭を小突いたり、「泣き虫」と言ったり、わざと仲間外れみたいにした。ぼくは言い返せなかった。ただ黙って立っていた。京子は、「やめろ!」と兄を怒った。けれど兄は笑っていた。京子は、その兄との二人兄妹だった。
二十二、徹朗
ある日の午後だった。徹朗がぼくの家にやって来て、「おもしれえところがあるけん、ついてこい」と言った。ぼくは嫌だったけど、断るといじめられると思ったのでついて行った。徹朗は京子の一歳上の兄で、小学四年生だった。
ぼくは西大分駅の前にある、消防署の派出所前にいた。いつも赤い消防車が車庫に一台停まっているけど、今日は車庫がからっぽだった。
「誰もおらんな」
徹朗が言った。
本当に誰もいなかった。消防士の姿がない。
徹朗はまえから、この派出所でよく遊んでいた。なぜか、消防士のお兄さんたちと仲がよかった。だからここが徹朗の遊び場でもあった。車庫の奥には滑り棒が一本たっていた。天井の一画が丸く大きくくりぬかれていて、二階の天井を見ることができた。滑り棒がその大きな穴を突き抜けて、二階の天井まで伸びていた。———滑り棒とは、消防士が緊急時に素早く、一階へ降りるために設置されている棒のことである。———ぼくらはこっそりと車庫の中へ入り、滑り棒の横にある階段を軋ませながら二階へ上がった。二階には布団が何枚か畳まれていた。窓からは駅前の景色が見えた。
しばらく遊んでいるうちに、徹朗が反対側の窓を指差した。
「見てみんか」
派出所の隣には銭湯があった。黒い瓦屋根が陽を受けて光っている。
「何を?」
「女風呂や」
ぼくは意味がよく分からなかった。徹朗は窓枠に足を掛けた。
「ついて来い」
言われるままに窓から身を乗り出す。二階の窓と銭湯の屋根との高さはほぼ同じだった。徹朗はひらりと屋根に飛び移った。瓦が音を立てる。ぼくも恐る恐るあとに続いた。足の裏に瓦の熱が伝わった。落ちたらどうなるだろうと思いながらも、徹朗の後ろを這うように進んだ。銭湯の大きな屋根の上には小さな屋根があった。その屋根の下には、風呂の湯気を逃がすための小窓が設けられていた。徹朗はその小窓を覗き込んだ。
「見えるぞ」
興奮した声だった。ぼくも隣に並んで顔を近づけた。下をのぞき込むと、男風呂も女風呂も、両方見えた。ぼくは、こんなふうに見えるんだ。と思った、その時だった。
「こらあっ!」
突然、下から雷のような怒鳴り声が響いた。振り向くと、銭湯の入り口あたりにいたおじさんが、血相をかえて、ぼくらを見上げていた。
「何しよるかあっ!」
おじさんの声は屋根を突き抜けるほど大きかった。徹朗の顔から血の気が引いた。
「逃げろ!」
その一言でぼくは我に返った。熱い瓦の上を這うように逃げた。下ではおじさんがまだ怒鳴っている。
ぼくは足がもつれそうになりながら派出所の窓へ飛び込んだ。徹朗に続いて滑り棒に飛びついて滑り降りた。尻もちをついた。外へ飛び出すと、二人とも夢中で走った。駅前を抜け、路地を曲がり、ようやく立ち止まった時、徹朗は膝に手をついて肩で息をしていた。ぼくも息が苦しくて声が出なかった。しばらくして徹朗が顔を上げた。
「見つかったな」
そう言うと笑い出した。ぼくもつられて笑った。怖かったはずなのに、なぜかおかしかった。西の空が夕焼けいろに染まっていた。
家に帰ると母ちゃんが待っていた。
「けんちゃん、銭湯にいくよ」
ぼくは母ちゃんと一緒に、今帰ってきた道を歩いて行った。母ちゃんは女風呂の暖簾をくぐって入った。ぼくも、あとについて入った。番台には、さっき怒鳴っていたおじさんが座っていた。
二十一、自転車店
京子の家は、ぼくの家の隣にある。うちからから見ると普通の家だが、表へ周るとお店になっている。そうそう、思い出した。京子の家には五右衛門風呂がある。だから徹朗は銭湯に入ったことがない、のかもしれない。
京子の家は自転車屋だ。店にはたくさんの自転車が並んでいた。子ども用の小さな自転車。大人用の大きな自転車。荷台の大きな仕事用の自転車。店の屋根には、大きな看板が掛かっている。『五十嵐自転車店』。それが京子の父親がやっている店の屋号だ。店の奥で、タイヤのパンク修理をしていた。その工程は、タイヤからチューブを取り出して、チューブに空気入れ、水で満杯になったバケツにチューブを浸して、空気の漏れている箇所を見つけたら、そこに接着剤を塗って、四角く切られているゴムを貼り付ける。チューブをタイヤの中に戻して、空気を入れて修理完成だ。そのあとはサビの発生を防ぐために、油っけのないチェーンに油を差す。これはサービスだ。ペダルを回し、油をチェーンに馴染ませる。ギアとチェーンの触れ合う音が小さな店の中に響いていた。
徹朗は時々、店の手伝いをする。徹朗はパンクの修理の仕方を、ぼくに教えてくれた。でも、それは後日のはなしだ。
ぼくの家には電話がなかった。あの当時、電話のある家は少なかった。だから母ちゃんは、よく京子の家の電話を借りていた。「すみません、電話を貸してください」と、母ちゃんが申し訳なさそうに言うと、京子の母親は、いつも笑顔で「どうぞ」と言ってくれた。その黒い電話機は店の奥に置かれていた。ダイヤルを回すたび、ジーコロ、ジーコロ、と音がした。
京子の家は、ぼくの家より裕福に見えた。店があり、電話があり、賑やかだった。
二十二、ひとり
夏休みが終わり、二学期が始まった。朝夕の風が、少しだけ涼しくなっていた。学校の帰り道には、赤とんぼがとんでいた。そのころ、母ちゃんは今まで勤めていた洋裁店を辞めていた。なぜ辞めたのか、ぼくは知らない。給料のことだったのか、人間関係だったのか、それとも別の事情があったのか。子どもには、大人の事情は説明されない。
母ちゃんは、別府の流川にある『かねますや』という洋裁店へ通うようになった。毎朝、別大電車に乗って通いだした。別大電車とは大分と別府を結ぶ、別府湾沿いを走る路面電車のことだ。
母ちゃんは朝早く家を出た。まえは歩いて通える所に洋裁店があったから、仕事が終わるとすぐ帰ってきた。けれど今はちがった。暗くならないと帰ってこない。夕陽が消え、空き地の影が見えなくなるころになっても、母ちゃんは帰ってこなかった。父ちゃんは何時に帰ってきたのかな。記憶がない。
日が落ちると、京子たちも帰った。女の子は暗くなると外では遊ばせてもらえなかった。だから、ぼくはひとりになった。
小さな家の中は静かだった。時計の音、遠くを走る汽車の音、近くを走る電車の音、そして風の音。それだけが聞こえた。ぼくは窓から外を見た。街灯のない裏通りが、窓明かりで薄暗く伸びていた。ぼくはひとりでいることには慣れていた。けれど、「誰も帰ってこないかもしれない」と、ふと思う瞬間があった。
かぎっ子は、夜になると急に心細くなる。昼間は平気でも、暗くなると世界から取り残された気持ちになる。ぼくは畳に寝転び天井をぼんやりと見た。木目がぼくを見返した。ぼくは玄関の上がり框に座った。電車の走る音が聞こえてくると、「母ちゃんかな」と思った。その音だけが、淋しい家の中で、外の世界とぼくを繋いでいるような気がした。
二十三、テレビ
ある日、学校から帰ると、六畳の部屋に見慣れないものが置かれていた。茶色の厚い布が掛けられていた。それは四角く、大きく、棒の足が四本ついていた
「なに、これ?」
ぼくはランドセルを置いて近づいた。父ちゃんが、得意そうな顔で言った。
「テレビや」
父ちゃんは、電車通りにある吉田電器店から買ってきたと言った。布を取ると、灰色の丸っこいブラウン管が現れた。ぼくは嬉しくて、部屋の中を跳びはねた。「テレビや! テレビや!」と、何度も叫んだ。けれど母ちゃんは、あまり喜んでいなかった。渋い顔をしていた。「こんな時に……」と、小さく呟いていた。我が家の暮らしを考えれば、とてもテレビを買えるような状態ではなかったのだろう。父ちゃんが月賦で買ったのかもしれない。子どものぼくでも、うちは貧乏なんだ、ということは知っていた。それでも、テレビが来たことは嬉しかった。吉田電器店のおじさんが屋根の上でアンテナをいじり、父ちゃんがテレビのスイッチいれると、とブラウン管に丸いテストパターンが映った。しばらくすると、「JOIP、こちらはNHK大分テレビジョンです」と音がなった。ぼくは魔法を見ているような気分だった。
六畳の狭い部屋の中へ、外の世界が流れ込んできた。それ以来、ぼくは京子たちとあまり遊ばなくなった。学校から帰ると、テレビの前へ座った。テレビが友達になった。でも昼間のテレビは砂嵐が吹いていた。夕方になると、テストパターンが映った。あの頃は、あきもせずテストパターンを、じっと見ていた。
『チロリン村とくるみの木』が好きだった。『ブーフーウー』が好きだった。あの三匹のこぶたを見ると、夢中になった。ぼくは、すっかりテレビの虜になった。テレビを見ているときだけ、一人でいることを忘れられた。父ちゃんも、『しんせい』を吸いながら黙ってテレビを見ていた。母ちゃんは『かねますや』から持ち帰った服を、しつけ糸で仮縫いをしながら横目で見ていた。六畳の部屋の中に、テレビの光がゆれていた。
けれど、ひと月もすると、ぼくは少し違う気持ちになった。ひとりで見るテレビは、淋しかった。テレビのおもしろい場面があっても、一緒に笑う相手がいない。驚いても、悲しんでもぼくはひとりだった、ぼくの隣に誰もいなかった。京子たちの笑い声の代わりに、テレビの音だけが部屋に響いた。
テレビは賑やかだった。けれど、その賑やかさのこっちにいるぼくは、自分のひとりぼっちを、前よりはっきり感じるようになっていた。ぼくは初めて、「たのしい」と「さみしい」は、同じ部屋に一緒に存在するのだと知った。
二十四、仏崎
十月のある日だった。朝から土砂降りの雨が降っていた。雨粒は屋根を激しく叩き、軒先から滝みたいに流れ落ちていた。空は一日中暗かった。土建業界は猫の手も借りたいほど忙しくなっていて、こんな雨降りの日でも、父ちゃんは働いていた。母ちゃんは、その日も別府に行った。ぼくは一人で留守番をしていた。外はまるで、世界中が、雨しかない、みたいだった。
夕方になり、テレビをつけた。大分のニュースが流れていた。アナウンサーが真面目な顔で話していた。
「仏崎で崖崩れが発生し——」
ぼくは、ぼんやりテレビをみていた。
「走行中の別大電車を直撃——」
その言葉を聞いた瞬間、胸が急に冷たくなった。別大電車。母ちゃんが毎日乗っている電車だった。テレビは、雨の中で土砂に埋まっている電車の映像を流していた。崖が崩れ、泥と木が塊のように線路に落ちていた。雨合羽を着た人たちが、スコップで土砂を取り除いている。ぼくは急に不安になった。
「母ちゃん……」
小さな声が出た。 六畳の部屋には、ぼくしかいなかった。テレビのひかりだけがちらちら動いていた。雨は止まなかった。時計の音が、やけに大きく聞こえた。ぼくは窓の外を見た。道には誰も歩いていなかった。もし、母ちゃんが電車に乗っていたら。もし、怪我をしていたら。もし、帰ってこなかったら。子どもの頭の中に、「もし」が次々浮かんだ。怖かった。ぼくはテレビの前に座ったまま、ひざを抱えていた。父ちゃんもいない。誰もいない。雨音だけが、ずっと続いていた。あの時ほど、「ひとりぼっち」を、感じたことはなかった。外の世界で大変なことが起きている。そして、その中に母ちゃんがいるかもしれない。子どものぼくは、ただ帰ってくるのを待つことしかできなかった。
雨は夕方になると、少し小降りになってきた。けれど、空気はまだ湿って重かった。時計の針は、ゆっくりと七時を過ぎていった。母ちゃんは、まだ帰ってこなかった。ぼくは六畳の部屋で、じっとしていた。テレビはついていたが、何が映っているのかわからなかった。心臓がドキドキしていた。胸のおくで、太鼓みたいに鳴っていた。不安というものは、時間が経つほど大きくなる。子どものぼくには、その不安を追い払う方法が分からなかった「もし母ちゃんが死んだら……」、そんな考えまで浮かんできた。浮かんではいけないことを考えてしまう。外では、雨だれの音がしていた。
突然、ガラッ、と玄関が開く音がした。ぼくは身体を硬くした。
「ただいまー」
母ちゃんの声だった。ぼくは急いで障子を開けた。
「おかえりなさい」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「電車が止まってしもうてねぇ、それでバスで帰ったから、遅くなってしもうた。おなか、すいたやろ」と言いながら、濡れたバッグを下ろした。ぼくは何も言えなかった。ただ、家に、母ちゃんがいるというだけで、ぼくはからだから力が抜けた。母ちゃんは、そんなぼくの顔を見て、「怖かったんか?」と、ちょっぴり笑った。ぼくは黙ってうなずいた。あの夜のことを、ぼくは今でも覚えている。
昭和三十六年十月二十六日。午後二時二十分。集中豪雨のため仏崎で崖崩れが起き、別大電車が埋没した。
ニュースは、乗客・乗務員三十一名が亡くなる大惨事、と伝えた。
子どものぼくは「帰ってくるはずの人が、帰ってこないかもしれない」。その恐ろしさを、初めて知った。
