幸せも愛も手に入らない
最近、プログラムの関連から
どういったことをXのスペースやインスタLIVEで
話そうか、とよく考えます。
私のプログラムの目的は
もっともシンプルに言えば
「幸せに生きる人を増やす」ことです。
その焦点として
「人生迷子を1人でも減らす」
というミッションを掲げています。
でも、
「幸せに生きる」と言っても
幸せが人によって違うから
みんな悩むわけです。
「正解」がないですからね。
「幸せ」についての自分の考え方も
人生のなかで、一度立ち止まって
考える必要があると思います。
最近、自宅にあるフロムの著作
『生きるということ』を
ふと手にとりました。
フロムは著名な心理学者です。
『自由からの逃走』が
もっとも有名かと思います。
『生きるということ』のなかで、
こんな一節があります。
人は愛を持つことができるだろうか。もしできるとすれば、愛は物でなければならず、人が持ち、占有し、所有することのできる実体でなければならない。実を言えば〈愛〉というようなものはない。〈愛〉とは抽象概念であり、おそらくは女神であり異邦人である。しかしこの女神を見た者はいない。実際には、愛するという行為のみが存在する。
『愛するということ』でも
共通したことが書かれていますが、
とても意義深い一節だと思います。
私たちは、
多くの抽象概念を使っています。
自由も愛も、誠実も美も
抽象概念です。
これらは本来、
形があるものではありません。
しかし、
言葉にしてしまうと
「机」とか「パソコン」とか
「物と同列にある」と錯覚してしまう。
自由も愛も、
触れる物じゃないですし
手にいれることはできません。
私たちにあるのは
「自由に行動する」「愛する」という行為だけ。
そうした行為から
その概念を感じているに過ぎません。
でも、「愛」を物のように思うと
「愛が欲しい」と思ってしまい、
結局は手に入らなくて不幸になる。
これはまさに、
幸福についても言えることだと思いました。
幸福もまた、物ではありません。
だから、
幸福を手に入れる(所有する)
ことはできない。
多くのお金、豪華な家、車
見目麗しい恋人
わかりやすい
「幸福」の指標です。
それらは物ですから
それがすなわち幸福ではありません。
(恋人も「所有」しようとしている限り、
物、あるいはステータスでしかありません。)
幸福を手に入れることは、できません。
実際には、
「幸せに生きる」という行為があるだけ。
「あの人、幸せそうだよね」
と言ったとき、それが
「お金持ちだから」とか
「かっこいい/きれいな人と結婚してるから」とか
見てわかる
「所有」によって「幸せそう」と
判断しているなら間違いです。
その人が「幸せそう」に見えるのなら、
その人が「幸せに生きている」から
それだけなのです。
その「幸せ」の基準は人によって違います。
だからこそ、
自分の「幸せ」の基準となる
価値観を掘り下げることは必要です。
私がやっている「テツガクの明確化」
というサービスは、
要はこの「幸せ」の基準を
明確にすることなんだな、
とフロムの一節から感じました。
「幸せの基準」は人それぞれだけど
「幸せの基準の見つけ方」には共通性があります。
それを、実践しているという自覚が芽生えました。
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