クレンペラーが改変したメンデルスゾーン「スコットランド」終楽章コーダとトイレ比喩の深遠なる関係
クラシック音楽ファンの皆さま、そして「ギリギリセーフ」にかける熱い思いをお持ちの皆さま、ようこそ。この記事では、フェリックス・メンデルスゾーンの名作「交響曲第3番《スコットランド》」の終楽章コーダをめぐる、ちょっと(かなり?)下品な比喩を取り上げます。と同時に、20世紀の大指揮者オットー・クレンペラーがいかにしてこのコーダを「漏らしてしまった」悲劇へと作り変えたのか、その音楽理論的背景にも踏み込んでみます。
「コーダ」とは何ぞや? ― よくクラシックの終結部を指す言葉ですが、こと「スコットランド」においては、まさに楽曲全体の行方を左右する心臓部。メンデルスゾーンのオリジナル版を「トイレに駆け込んで間に合う」快感にたとえるなら、クレンペラー版は「やっぱり間に合わずに漏らしてしまった」という悲劇のどん底。
より学術的にも、より下品にも、さあ両面から味わってみましょう。
1. 「スコットランド」ってどんな交響曲?
1-1. メンデルスゾーンの旅と発想
フェリックス・メンデルスゾーン(1809-1847)は、ロマン派の作曲家の中でもとくに繊細な和声感覚と叙情性を兼ね備えた逸材でした。彼がこの「スコットランド」交響曲(Op.56)に着想を得たのは、スコットランドの地を実際に旅した際と言われています。霧立ちこめる廃墟、厳かな古城、荒れ狂う海辺……ロマン派が好む「憂い」や「幻想」を刺激する絶好のモチーフがそこには詰まっていました。
1830年に構想を得た後、完成は1842年と意外に時間がかかっています。その間、細部の改訂や楽章の構成に試行錯誤を重ねた結果、全4楽章にわたって陰鬱なムードと情熱的なエネルギーが交錯するドラマティックな作品へと仕上がりました。
1-2. 第4楽章までの流れ
第1楽章(序奏付きのアンダンテ・コン・モート~アレグロ・ウン・ポコ・アジタート)
やや荘厳な導入部、低音部で不穏に動く弦のラインなど、灰色の空を思わせる風景が提示されます。第2楽章(ヴィヴァーチェ・ノン・トロッポ)
スコティッシュダンスを思わせる軽快なリズムが印象的。少し晴れ間が見えるようなエピソード。第3楽章(アダージョ)
再び陰鬱さに立ち返るようなメロディ。憂愁に沈む中間部がこの作品の核ともいえます。第4楽章(アレグロ・ヴィヴァコ)
いよいよ最終幕。波乱万丈の展開を迎えるなか、最後に待ち受けるコーダが長調(A長調)へと転じ、英雄的とも祝祭的とも言えるファンファーレで締めくくられる──はずでした。
2. 「トイレに間に合う」爽快な原曲コーダとは
2-1. なぜ「トイレ」にたとえられるのか?
古くからクラシックファンの間でささやかれてきた(あるいは近年ネット上で拡散された)通称 “トイレ比喩”。これは、長い緊張状態→劇的な開放というクラシック音楽の定番パターンを、誰もが経験したことのある「便意の限界」に例えたものです。
我慢MAX(緊張)
終楽章が激しく展開していくうちに、もう限界! というところまで追い詰められる。トイレ発見→最終的に解放(カタルシス)
コーダでA長調の堂々たるファンファーレが響き渡り、一気に晴れ渡る快感が訪れる。
このラストはまさに「ギリギリ間に合って、ほっと一息つける!」という感覚にぴったり。緊張と弛緩、影と光のコントラストが作品全体を通じて見事に集約され、聴き手も「ようやく救われた……!」と感じられるのです。
2-2. メンデルスゾーン本人の微妙な不満
ところが興味深いことに、メンデルスゾーンはこのコーダに対して「男声合唱的」とやや否定的な感想を漏らしていたという説も残っています。これは「まるで合唱で無理やり祝典ムードを盛り上げる」ような響きが鼻についたのかもしれませんし、あるいは自分の描くスコットランドのイメージと少し違う“大団円”に違和感を覚えたのかもしれません。
いずれにせよ、作品としては「Aマイナー→A長調」という明快な同主転調を経て、壮大に終わるのが一般的な形。誰がどう聴いても『最後はババッと間に合う』快感があるというわけです。
3. クレンペラーが仕掛けた改変コーダ:悲劇的“漏れ”の真髄
3-1. オットー・クレンペラーという巨匠
ここで登場するのが、20世紀の大指揮者オットー・クレンペラー(1885-1973)。彼は気難しい性格と斬新な解釈で知られ、マーラーやブルックナーなどの大作でも大胆なテンポ設定や改変を行うことが少なくありませんでした。
当時、「作曲家のスコアを絶対に尊重せよ」 という原典主義はまだ今ほど絶対視されておらず、巨匠たちは自分の音楽観を作品に反映させることを当たり前のようにやっていたのです。
クレンペラーは「スコットランド」の終楽章を指揮するにあたり、あまりに晴れやかすぎるコーダがどうにも腑に落ちないと感じました。そこでなんと、自作のコーダを追加・改変してしまったのです。1969年にバイエルン放送交響楽団と行ったライヴ録音では、その“改変版”が実際に披露され、多くのリスナーを驚愕させました。
3-2. 和声進行をあえて“救いのない”方向へ
クレンペラー版コーダの最大の特徴は、原曲で予定されていたA長調の明確な確立をことごとく妨害する点です。簡単に理論的観点から見てみましょう。
長調の確信を弱めるディミニッシュ和音・半音階的進行
原曲で“ここぞ!”というタイミングにバシッとV→I(E→A)を決めるところを、あえてディミニッシュ和音(dim)やサブドミナント系の暗い和声にすり替え、ついに晴れ渡らせない。
これは、トイレに例えれば「さあドアを開けた! ……けど鍵が壊れて開かなかった……」みたいな絶望的な寸止め状態です。
主題を低音域に配して重苦しさを強調
原曲のファンファーレ的なモチーフ(※トランペットや上声部による凱旋)は、クレンペラー版ではチェロやファゴット、場合によってはホルンの暗いトーンで執拗に繰り返される。
輝かしさよりもむしろ「うめき声」に近い印象になり、聴き手の心をさらに沈ませる。
最終和音で“堂々たるA長調”が鳴らない
原曲なら、最後にA長調の和音を何度も強打して「やったぁ!」という解放に浸るのですが、クレンペラー版ではあいまいな終止、あるいは半終止のような形で曲がしぼむように終わる。
それはすなわち、「我慢の限界を超えて……もうアウト……(じんわり)!」という最悪の結末を意味します。
3-3. 漏らすなら、壮絶に漏らせ?
このようにクレンペラーは、明るい解決をわざと破綻させることで、「スコットランド」の根底にある悲愴と絶望を最後の一瞬まで突き詰めました。そこには「どうしてもギリギリで間に合わない」悲劇があり、まさに“漏らしてしまう”結末が待ち受けているのです。
4. 賛否両論:作曲家の意図を超える“惨事”か、新たな芸術性か
4-1. 賛成派の見解
クレンペラーの改変コーダを称賛する向きは、「この交響曲の真の姿は、救いようのない悲劇の中にある」と説きます。
スコットランドの荒涼たる地に象徴される、歴史的な苦難や廃墟感。
第1楽章から繰り返し暗示される陰鬱なイメージ。
それらを最後に“ハッピーエンド”へ転じさせてしまうのは、作曲家自身も少し戸惑っていたのでは?
クレンペラー版の「陰鬱フィナーレ」は、そうした問題意識をより徹底した表現で体現したというわけです。つまり「腸の限界」を目前にしても、ついに間に合わないという厳しさ、ロマン派的な「救いなきロマンティシズム」を感じ取ることができる、と評価するわけですね。
4-2. 反対派の反発
しかし、原典主義が重視される現代では、「作曲家が書いた通りに演奏しなければ、それはもはやメンデルスゾーン作品ではない」という声が強いのも事実。
「クレンペラーの改変は、単なる独りよがり。」
「爽快感を求めている聴衆から大事な“解放”を奪うなど、あんまりだ!」
「せっかくトイレに間に合う感動があるのに、これではみんなが漏らしてしまう!」
という具合に、トイレ比喩が先に立ってしまうと批判もまたインパクト抜群です。クレンペラー版に親しんでいない人が初めて聴くと、確かに「このまま終わるの? 何かお腹が痛いままなんだけど?」という強烈な違和感を抱くでしょう。
5. さらに“漏らし”を深掘り:人間の根源的快感と悲劇性
5-1. 「排泄=カタルシス」の象徴
芸術論において、よく言われるのが「音楽の最終和音は、性的エクスタシーや排泄時の快感にも似た究極の解放感をもたらす」という話です。モーツァルトやベートーヴェンの劇的な終止和音は、まさに快感のピーク。
「スコットランド」の場合も同じで、原曲コーダなら「ギリギリで便座に腰掛け、今だッ……ふぅ……!」と全身が軽くなるようなシーンを連想してしまうわけです。
5-2. なぜ漏らすのか?「悲劇」の美学
一方、クレンペラー版における“漏らし”には、「せっかくの快感を手にする直前で全てが水泡に帰す」という強烈なインパクトがあります。これもまた、人間ドラマの一端。大団円で輝かしい光が射すよりも、むしろ最後まで報われないほうが深い美や印象を宿すことがある。
「トイレ直前での惨事」ほど人間を絶望の淵に叩き落とす体験もそうそうありません。音楽的にも、それまで積み重ねた緊張を解放せずに終わらせることで、リスナーを強烈に揺さぶる効果が狙われているわけです。
6. 1969年バイエルン放送交響楽団との衝撃ライヴ
クレンペラーの「漏らしコーダ」を本格的に体験したいのであれば、やはり1969年バイエルン放送交響楽団とのライヴ録音が有名です。ライヴということもあり、聴衆の熱気やクレンペラーの生々しい指揮ぶり(場合によっては思いがけないテンポ設定など)がそのまま収録されています。
曲が終わっても「ズッ……ズズ……」という、微妙に空気が凍ったような雰囲気が感じられる瞬間がある録音もあるようです。
観客が「これで終わり!?」と困惑しつつ拍手している様子まで想像すると、あたかもコンサートホールが大惨事を迎えたかのような錯覚に陥ります。
もし音源が手に入るようでしたら、ぜひ原曲(一般的なオケが演奏する“ギリギリセーフ版”)と聴き比べてみましょう。この落差を体感するだけで、メンデルスゾーンの「スコットランド」が全く違う作品に聴こえてくるはずです。
7. まとめ:聴く人を選ぶ“漏れ”だが、一度は体感してほしい
7-1. 二つのコーダ、どっちを選ぶ?
原曲版(「間に合った!」タイプ)
ロマン派らしい劇的なクライマックスと、最後に訪れる晴れ晴れしさ。
まさに大きな“お通じ”を得て「スッキリ!」と終わる快感がたまらない。
クレンペラー改変版(「やっちまった…」タイプ)
作品全体の暗さと悲しみを徹底的に貫き、最後に希望を与えない。
漏らしてしまった後の取り返しのつかない絶望が、妙に耳に焼きつく。
7-2. 聴き方のコツ:どちらが真の「スコットランド」か?
「どちらが正しいのか?」と問われれば、最終的には個人の好みや音楽観に委ねられます。メンデルスゾーンがオリジナルで書いた形をこよなく愛するのも良し、クレンペラーの大胆改変に拍手を送るのも良し。
ただ一つ言えるのは、この“コーダ騒動”を知ったうえで聴くと、同じ楽章がまるで違う意味を帯びて聞こえてくるということ。クラシック音楽はしばしば「スコアに従って真面目に聴く」イメージがあるかもしれませんが、実はこうしたおげれつな発想すら見逃してもらえるであろう余地があるのです。
7-3. 筆者の個人的見解
筆者としては、実を言うと“ギリギリ間に合う”快感も捨てがたい。しかし一度クレンペラー版を聴いてしまうと、「ここで決まらないなら、もう全部ブチまけて終わるしかねぇ」という陰鬱な情熱に胸を打たれ、原曲版に戻ったときもなんだか「本当にこの晴れやかさでいいのかな?」と疑いたくなります。
そう、いったん「漏らし」を知ってしまうと、純真な心には戻れない。クラシック音楽という高尚な世界に、そんな“汚れ”を持ち込むのはどうなんだ? と叱られるかもしれません。が、これもまた芸術の多様性。楽曲解釈は1通りではないのだと、改めて痛感させられます。
エピローグ:あなたはギリギリ派? 漏らし派?
いかがでしたでしょうか。メンデルスゾーンの「スコットランド」終楽章におけるコーダをめぐる謎と、クレンペラーの“漏らし”コーダの闇をご紹介してきました。少々下世話すぎる話だったかもしれませんが、もし苦笑しつつも最後まで読み進めてくださったなら、この交響曲への興味が高まったことでしょう。
とにかくスッキリしたい → 原曲コーダを聴く
深淵の悲劇に浸りたい → クレンペラー改変コーダに身を委ねる
どちらにせよ、壮大なるロマン派交響曲が生み出す緊張と解放は、人類普遍の“生理的快感”や“惨事”と意外なまでに似通っているのです。「高尚な芸術=崇高で清潔」という図式を崩してしまうかもしれませんが、音楽の本質はむしろ人間の身体感覚に根ざしているとも言えます。
最後に皆様に申し上げておきたいのは、「生きている限り、いつトイレが近づくかわからない」という身も蓋もない現実。音楽の中でも同じように、いつ長調の光が射すのか、あるいは射さずに終わるのか、最後まで分からないスリルを味わうことができます。
どうぞ次回「スコットランド」を聴く際には、ご自身の腹具合(?)と照らし合わせながら、ギリギリセーフになるのか、それとも壮大に漏らしてしまうのかを思い描いてみてください。きっと、新しい世界が開けるはずです。
以上、ここまで読んでくださった皆さま、ありがとうございました。どうか、お聴きになる際はトイレの位置を把握してからのほうが無難かもしれません。
追伸
私ひとりの力ではここまでひどい記事を形にすることは到底叶いませんでした。
ChatGPTを排泄・・・輩出したOpenAIに割れんばかりの拍手を!!
