福島県の風土:「中通り」優遇された福島・郡山、冷遇された白河・二本松
前回、福島県の概要とともに、浜通りの紹介をしたので、今回は「中通り」編。
⒈優遇された近代の街「福島・郡山」と冷遇された近世の街「白河・二本松」
中通りは興味深い歴史。江戸時代まで中通りの中心だったのは白河や二本松だったのですが、なぜか明治維新以降は福島や郡山にその主役を奪われます。というのも、維新政府と東北諸藩との戦いとなった戊辰戦争の東北征伐?が大きく影響しているのです。
⒈戊辰戦争の勝者として、明治政府主導で近代化を進めた福島市・郡山市
⒉戊辰戦争の敗者として、冷遇された白河市・二本松市
ということ。
⑴福島市の県庁所在地化
明治政府は、かつての中通りの中心だった「白河」や「二本松」を避け、福島盆地に県庁所在地を求めます。

(2026年4月撮影。以下無記名は同じ)
さらに山形県への鉄道交通の要衝の地としてあえて、二本松ではなく福島をハブ化(結節点化)することで、鉄道の街としての発展を維新政府主導で促します。

さらに当時6,000人しか人口のいなかった福島に東北最初(全国6番目)の日本銀行の支店をおくなど、福島市を明治維新以降の福島県の中心として資源を重点配分。

もちろん、明治政府側の視点からみれば、旧敵が残存している白河や二本松では明治政府が思うように近代化政策を推進できないという問題はあったはず。

まったくしがらみのない新しい街「福島市」を中通りの新たな拠点として開発することで、近代化を推進したのでしょう。

⑵郡山市の開発
郡山のまちづくりで見逃せないのが大久保利通が主導した安積疏水。

安積疏水開通の記念式典がここで行われた。
かつて猪苗代湖の水は、会津若松側に流れていても、中通り方面には流れていませんでした。なので水資源で農業が栄えていたのは猪苗代湖を起点にすれば会津若松であって、郡山ではありませんでした。

猪苗代湖から会津に流れる川に水門を作って郡山への疏水供給を調整
郡山は、盆地で水資源の乏しい安積原野と言われた広大な荒地だったのです。
明治政府側にすれば、戊辰戦争の天敵だった東北地方の歴史ある街を拠点にするわけもなく、近代化を推進する新たな街づくりとして南福島の中心に郡山を選定。

疏水を猪苗代湖から引っ張ることで、郡山の開発を推進。

野球場や競技場のあたりも沼だった。
この「安積疏水」の開発は、国営事業として9藩から旧士族500戸入植させるとともに、当時の国家予算3分の1を費やしたという国家の一大事業だったのです。。

明治6年(1873年)に入植が決まった「安積開拓」は、まずは今もその関連建築物が残る地元資本の開成社が主導。

そして明治9年(1876年)、大久保と同じ薩摩閥で総理大臣も歴任した松方正義などが鳥取や久留米、高知、松山など他地方の士族などを募集・移住させ開墾。
なので郡山は、北海道と同じように、近代が生んだ移民の地ともいえるのです。

⑶浜通りの中心だった白河
白河は、歴史的にも東北地方=みちのくの玄関として街道の重要な拠点であり、交通の要衝。軍事的にも「蝦夷」「藤原氏」から「伊達氏」まで、中央政権にとっては東北地方の巨大政治勢力を牽制するその要衝として重要な機能を果たしていました。

江戸時代には棚倉藩から移封された織田四天王(柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、明智光秀)の一人丹羽長秀の息子、丹羽長重が小峰城(白河城)を整備。

幕末、白河藩を治めていた阿部家は失脚して鎌倉に移封され、白河は新政府領となって新政府軍の命により二本松藩が守備。
江戸城無血開城で新政府軍が戊辰戦争で実質的に勝利したにも関わらず、長州の木戸孝允(桂小五郎)が、会津討伐を強く主張して東北方面に軍を進めたのです。
というのも、西欧列強に対抗するための中央集権強化が東北征伐のオモテ向きの理由ではあるものの、「蛤御門の変」で御所に大砲を撃つという前代未聞の不敬を働いた長州を、京都守護職の会津藩が徹底的に撃破したその恨みを晴らそうとしたためだというウラの理由もあったらしい。

「会津憎し」の新政府軍は、二本松藩や会津藩が先に白河を占領し、政府軍と佐幕派との戦争の舞台に(白河戦争)。この結果新政府軍は勝利して会津藩は降伏。しかしこの無益な戦争において白河では佐幕派927人、新政府軍113人が戦死してしまう。

現在は、白河は小峰城の復元事業など、観光地化に向けたまちづくりを推進しているようでしたが、福島市や郡山市などの30万人を越える地方中堅都市と比較すると、人口は5.5万人規模にとどまり、ウルトラマンと牡丹で有名な近隣の須賀川市(同7万人)よりも少ない状況。

とはいえ、実際に訪れてみると治水のための直線化をあえてしなかったのか、自然のままの曲がりくねった谷津田川の遊歩道なども非常に魅力的fだし、

寛政の改革で有名な松平定信が整備したという巨大な堰止め湖の庭園「南湖公園」周辺の快適さなど、まったり住むにはちょうど良い環境。

中通りの最南端で東京からも新幹線で最速70分と、実際に住んでいる人には相当に快適な街ではないかと思われます。

⑷巨大な城跡を誇る二本松
白河城を築城した丹羽長重の息子丹羽光重が初代藩主として二本松藩に移封(1643年)。以降、丹羽家が幕末まで二本松藩を治めます。

今の大河ドラマにも出演している織田四天王だった丹羽長秀の丹羽家が二本松を二百数十年治めてきたというわけです。

その藩が幕末に徳川家への忠義から、他の東北諸藩とともに明治政府に抗うのですから、歴史というのは不思議なものです。

二本松の街は、街のど真ん中に「観音丘陵」があり、街を二つに分断した特殊な街。丹羽氏は城の直下を通過していた街道を観音丘陵の南側に付け替え、武家屋敷を丘陵の内側(=城側)に、社寺町家の屋敷を丘陵の外側に配置したのですが、その町割りの様子が今、訪れても実感できます。

手前の山が観音丘陵
二本松城自体は、東北随一の巨大な城跡で、蒲生家時代の石垣=野面積みから江戸時代以降の切り込み積みまでが俯瞰できるのですがこれは中世の城郭を上部に残したまま、その山麓に近世の城郭としての三の丸を建造したからだそう(『東北の名城を歩く 南東北編』139頁)。

その二本松市も、人口は5万人弱と少なく、地方の典型的な過疎化の街ですが、巨大な二本松城と「大七」などに代表される日本酒の名産地として名を馳せています。

以上、中通りに関しては「勝てば官軍負ければ賊軍」の人類普遍の法則が地方の都市形成にも大きく影響している、ということで、

人間の歴史は強者が弱者を飲み込む歴史であり、したがって軍事的にも経済的にも強者になるのが人間の歴史における正義とせざるを得ない。

日本も人口減少社会で厳しいとはいうものの中通りの現状を見れば、少しでも国力を上げていかないと、強者の思い通りにされてしまう、という人類普遍の法則をここでも感じざるを得ないのでした。

⒉なぜ「中通り」は果樹園が多いのか?
福島県は全国有数の果物の産地。

福島県の主要果実の全国順位と生産量・シェアは、以下の通りで、都道府県別でもおおよそ7位くらい。

特徴的なのは、多様な果物を豊富に栽培している点で、だからこそ福島県は「くだもの天国」と言われています。
なぜこれほど果物の生産量が多いかといえば、それは地理的事情と歴史的事情が絡んでいるのです。
地理的には、中通りは内陸性の扇状地の多い複数の盆地で形成されるため、斜面中心で水はけの良い土地が多く、さらに内陸性気候で降水量も少ないために「水田」にする場所が限られていたのです。

したがって、水はけの良い場所でも育ちやすく、湿気が苦手な桑を栽培することで養蚕業を発展させたのです。

ところが昭和以降、絹製品の代替となるレーヨンが開発され、ポリエステルなどの安価な化学繊維が普及するとともに、昭和恐慌とも相まって生糸価格は暴落し、養蚕業は衰退。
一方で、桑に適した農地(水はけが良い、湿気を嫌う、寒暖の差が激しいなど)は、実は果物の栽培にも適した農地。
特にモモは、レーヨン登場後の養蚕衰退期に、政府や県の奨励もあって急速に桑畑から転換された象徴的な作物だそう。
さらに鉄道網の普及で、日本一の消費地でもある首都圏と直結していたことも大きい。
このように、中通りは、地理的特徴を活かして養蚕業から果樹園業に業態転換することで、経済を維持・発展してきたのです。

*写真:二本松市 霞ヶ城にて
