『老子講義録』 第二十六~第二十八講:民、死を畏れざれば、奈何ぞ死を以て之を懼れしめん 章第七十四 ~ 信言は美ならず、美言は信ならず 章第八十一 を読んで
本題に入る前に、うたってみました。
『柔のうた』
これは、平成3年(1991年)に行われた『老子』に関する講義録であり、第二十六講から第二十八講にかけて、林希逸の注釈を基に8章を講義しています。
第七十四章 民、死を畏れざれば、奈何ぞ死を以て之を懼れしめん
為政者が刑罰、特に死刑をもって民を脅かすことの無意味さを説いています。為政者が人々を刑罰で脅かしても、民は死を恐れるどころか、犯罪はますます増えるという現実を指摘しています。老子は、真に殺すことを司るのは「司殺の者」、すなわち天地万物の造物主(自然法則)であると考えます。為政者が造物主に代わって刑罰を細々と用いることは、へたな大工が名人(大匠)の代わりに木を切るようなもので、結局は自らを傷つけることになるとたとえています。これは、当時の君主が殺人を好んでいたことに対する老子の批判であり、公平無私な刑罰の適用を説くものです。
第七十五章 民の飢ゆるは、其の上の税を食むの多きを以てなり
逆説的な表現で為政者の過度な行いを批判しています。
* 民の飢餓: 為政者が過剰に税金を取り立てることが原因であると述べます。
* 民の難治: 為政者が過度に知恵や政治技術を用いることで、民は悪賢くなり、かえって治めにくくなると指摘しています。
* 民の軽死: 人々が長生きを過度に求めると、かえって命を粗末に扱い、早死を招くという逆説を示しています。
老子は、自らの生命を忘れるほどの無為自然の生き方こそが、かえって長生きにつながると説いています。これは、欲を捨てて生きる「無為」の思想を強調するものです。
第七十六章 人の生くるや柔弱なればなり
「柔弱」を「生」に、「堅強」を「死」にたとえ、柔弱であることの優位性を説いています。
* 人や草木: 生きているときは体が柔らかく(柔弱)、死ぬと堅くこわばる(堅強)という事実を例に挙げています。
* 軍隊や木: 強くあろうとする軍隊は敗北し、強く成長した木は枯れてしまうと述べています。
老子は、柔弱こそが生存と調和の道であるとし、強さや大きさを追求する生き方を戒めています。これは、道教の養生思想にも通じるものです。
第七十七章 天の道は其れ猶お弓を張るがごときか
天の道を弓にたとえて説明しています。
* 天の道: 弓を張ると、高い部分は抑えられ、低い部分は持ち上げられるように、余りある部分を減らして足りない部分を補うのが天の道であると説いています。
* 人の道: それに対して人間の道は、足りないものから削って、余りあるものに与えようとする、天の道に反するものであると批判しています。
老子は、聖人は手柄を誇らず、自分の優れた能力をひけらかさないことで、この天の道に従うことができると述べています。
第七十八章 天下の柔弱は水に過ぎたるは莫し
「柔弱」の象徴として水を用いています。
* 水の力: 水は最も柔弱に見えますが、堅く強いものを打ち破る力を持つと説いています。例えば、蟻の穴ほどの水漏れが巨大な堤防を壊すように、柔弱は堅強に勝るという思想を強調しています。
* 聖人の道: 老子は、一国の汚辱(垢)や不祥(不名誉)を受け入れる者こそが、天下の主となると述べています。これは、栄光を知りながらも辱めを受け入れることの重要性を説くもので、天の道に反するように見えるが、実際は正しい教えであるとしています。
第七十九章 大怨を和解すれども、必ず余怨有り
大きな争いを解決しても、必ずしも完全に恨みが消えるわけではない、ということを説いています。一般的には、徳ある支配者は、借りた側ではなく貸した側のような立場をとることで、争いを収めるべきだと解釈されます。
第八十章 小國寡民には、什伯有らしめ
理想の社会像として「小國寡民(小さな国、少ない民)」を提示しています。老子は、人々が隣国が見えるほど近くに住んでいても、お互いに交流せず、自らの生活に満足しているような、素朴で自給自足的な社会を理想としました。
第八十一章 信言は美ならず、美言は信ならず
真実の言葉(信言)と美しい言葉(美言)の関係について述べています。「信言は美ならず、美言は信ならず」の句に続いて、「善者は弁ぜず、弁者は善ならず」とあります。これは、本当の善人は雄弁ではなく、雄弁な者は本当の善人ではないということを意味しています。老子の教えは、飾らない言葉にこそ真実が宿るということを示しています。
老子講義:老子から学ぶ現代の知恵:柔弱と無為の道(NotebookLMで音声)でもまとめたよ
