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natoaya
受容はあきらめではない―私がそう思う理由
歳を重ねるたびに、人に対する羨望や嫉妬が薄れてきたことに、最近気が付いた。
“私は私で良かった”と、心から思えるようになってきたのだ。
自分自身、決して自己愛が強いわけではない。
そしてナルシストでも、自信家でもない。むしろ、自己評価は低い。
「今幸せです!」と声高に叫べるほど満ち足りてもいない。むしろ人生は苦行だ、と感じる瞬間の方が多い。
それでも、“私は私で良かった”と思えるのはなぜだろう。
若い頃は、他人を羨むことは確かにあった。
「あの人のようにバイリンガルの環境で育っていたら、人生楽勝だな」とか、
「彼女みたいに小顔だったら良かったのに」とか、笑。
どれも傍から”見えている部分”に過ぎない。
やがて年齢と共に、わかってきた。
どんな人にも人生は良し悪しが伴うこと、そして、誰かにかわることなんて不可能だという現実に。
そうした現実を受け入れた今、羨望や嫉妬はほぼない。
何より、誰かを羨むことは、過去の自分の選択を否定することにもなる。
と言っても、私自身、悟りを開いたわけではない。
さらに言うと、幸せに対しては、まだまだ貪欲だ。
常日頃から、人生はプラマイゼロで最期を迎えられたら、万々歳だと思っているけれど、ネガティブな感情が先行している今、なんとかプラスに転じてほしいと願っている。
仏教の「諸行無常」という言葉には深く共感しているけれど、どこまでも幸せを追求する俗物的な自分もちゃんといる。
やはり、受け入れることは、あきらめることじゃない。
今の自分を受け入れながらも、とことん追求する。
それが、私にとっての「受容」だ。
