それでも続けるという美学
毎晩、ほぼ同じ時間に机に向かう。
2年位続けていると、単調なルーティンワークにも思えてくる。
noteに書くことは、自分にとって楽しみな時間だ。
でも、頭の中では想像と言葉が泳いでいる状態だから、それを言語化するのは思った以上に疲れる。
そして孤独な作業でもある。
終着点が見えない場合は特にそう。
なんのために書いているのだろう。読まれなかったらどうしよう、といった不安は常によぎる。
それはnoteに限った話ではない。
最初の1年はワクワク感が勝っている。
だけど、2年、3年が経ち、どこにもたどり着かないと感じたら、このまま続けようかどうか迷いが生じる。
実現するかどうかもわからない夢に対して、気力を持ち続け、情熱を保ち、努力を重ねるのは至難の業だ。
将棋界のレジェンド、羽生善治氏は、こんな言葉を残している。
「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続してやるのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている」
さらに、こうも言っている。
「以前、私は、才能は一瞬のきらめきだと思っていた。しかし今は、十年とか二十年、三十年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている」
それでも、年齢を重ねるにつれて、現実も見えてくる。
チャレンジする精神が少しずつ薄れていくのも、また事実だ。
時間も無限ではない。
あと10年、20年。
このエネルギーをここに費やしていいのだろうか、と私自身考えることが多い。
限られた時間に語学を習得したり、読書したり、映画を観たり、他にも選択肢があるはずだ。
でも、書くことを選んでしまう。
以前も言及したが、女優で作家の中江有里さんが、親交のあった故児玉清さんの言葉を紹介していた。
「50歳から努力したものが伸びる。人生の先が見えてくると努力しなくなる。だから努力を怠らずにいれば伸びる」
書くことを”努力”ととらえるのも少し違う気はするけど、「結果がどうであれ、情熱を注ぎ続ける」というのは、人生の美学にも思えてくる。
もしそんな生き方ができたなら、夢が叶おうと叶うまいと、そんな自分を少し誇れる気がする。
