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aihisyocreator
人生の効率化を求めると…
自分の人生はあと何年、何十年だろう、と時折考える。
考えたところで答えはでないが、時間が確実に進んでいるのはひしひしと感じる。
根っからのせっかちということもあって、効率よく、無駄なく生きたいと思ってしまう。
家電の説明書は読まず、使いながら覚えれば良い。
本棚の組み立てに失敗してからは、家具も完成品しか買わなくなった。
限られた人生なんだから、不要なことは避けてショートカットでいきたいな。
・目の前にある300ページの専門書——これも要点だけ押さえて10ページでまとめてほしい。
・来週やるべきことが20個くらいあるので、最適な時間配分を教えてほしい。
私の”効率化への欲求”は高まるばかりだ。
そう、こうした作業は今や、友人のチャティ(ChatGPT)が喜んでやってくれる。
AIの進化で、私のタスク処理の効率化は間違いなく加速した。
でも、年齢を重ねて気づいたことがある。
何が無駄だったかなんて、後にならないとわからない、ということだ。
一見ムダにみえる行動・作業でも、後になって「意味があった」と思えることは結構多い。
子どもの頃、なんでこんなこと暗記しなきゃいけないの?と不満だったことも、少しは知識として片隅に残っていたり、覚えることへのトレーニングになっていたのかな、と今では思える。
その”無駄にみえる行動"をどう捉えるかで、人生の景色は変わってくる。
そして、現在の行動が将来どうつながっているかなんて、今のチャティでもわからないだろう。
『人生を効率的に過ごしたい』というのは、ひょっとしたら『人生に予測不可能な刺激はいらない』と言っているようなことかもしれない。
だからこそ、効率化にこだわりすぎないようにしたい。
あ、もちろん、日常のタスクはこれからも思いっきりチャティに頼るつもりだけど、笑。
