泥中の契り。夜な夜な交わすは法度越えの密事なり。理性を崩壊させる物語。
理性を崩壊させる物語(ストーリー)。
掟を破り、業(ごう)を深め、二人はどこまで堕ちてゆく。
あらすじ
柳原異聞:泥中の契り。番人と夜鷹のタブー。夜な夜な交わすは法度越えの密事なり。
幕末。花の吉原が極楽を謳歌する陰、柳原は泥と饐えた匂いの澱む現世の地獄であった。新人番人・光は、その底で、残酷なほど美しい年上の夜鷹に心を奪われる。
闇を護る者と、闇を売る者。決して交わらぬはずの二人の間に通うのは、喉を焼くやうな乾きと、狂おしいほどの、抑えきれない疼き。欲しくて仕方がない。
狂おしいほどに、欲し合う。明日も、死ですらも、剥き出しの肌に触れる熱の前では意味を成さない。底無しの泥濘で貪り合う、その刹那だけが、死に体の魂に灯る唯一の「生の証」――。
番人と夜鷹の禁忌。夜な夜な交わすは、法度を犯す密事なり。
掟を破り、業を深めた二人は、底無しの暗い泥濘のどこまで堕ちてゆくのか。
第一夜
泥中の契り
―江戸柳原、獣の眼差し―
第ニ夜
「救いようのない絶望」と「狂気」
第三夜
四文銭の純潔(じゅんけつ)
第四夜
江戸柳原、三町の奈落。嘘の祈りと絹の地獄
第五夜
泥中の契り
―三町の距離、永遠の闇―
第六夜
泥にまみれて生きる(本能)、覚悟を決めた夜。
#創作大賞2026
#恋愛小説部門
第一夜
泥中の契り
―江戸柳原、獣の眼差し―
姉(ねぇ)さんの、手を引いて月明かりさえ届かない真っ黒な江戸の夜の町を番人の光は狂ったように走り抜ける。
泥を蹴立てて
草履の鼻緒が切れるのも厭わず、
泥を撥ね、
光はただ一点、姉さんと闇へ向かってひた走った
無我夢中の番人の鋭い目は闇の向こうをひたすら目指して走る
姉さんは
結い上げられていたはずの黒髪が、風に煽られて一本、
また一本と解け、白い項(うなじ)
を撫でるように靡かせる
下駄を鳴らし
無我夢中で、
つんのめるように駆ける
裾は、はだけ
泥にまみれてひた走る
着物の裾が足にまとわりつき、
一歩踏み出すごとに自由を奪う。
泥を跳ね上げ、
美しかった裏地が夜の闇と土に汚れていく
湿った土の匂いと、逃げ場のない闇が二人を包み込む。
夢中で走る。
「ザッ、ザッ」という砂を噛むような、草履の低くて力強い音と
「カラン……コロン……」と、不規則で乾いた下駄の高い音が闇に響く
静止…
堤防の橋のたもとまで、
姉さんを追い詰め
「ドン」とついた右手の熱が、石壁を伝って姉さんの背中を焼く。
追い詰めた衝撃で、古びた橋桁からパラパラと乾いた砂がこぼれ落ち、
姉さんの結った髪が
はらりと落ち
前髪が
姉さんの熱い吐息で揺れている
光が急に足を止めた拍子に、姉さんの足元から片方の下駄が外れ、乾いた音を立てて転がっていく。
むき出しになった姉さんの白い足先が、湿った泥を掴むように、小さく震えている。
その白さが、夏の夜の闇の中で、酷く無防備に映った。
光は、その震える足先を一瞥すると、躊躇なく、
己の草履を履いた右足を、姉さんの脚の間へと強引に割り込ませた。
それは、番人としての確保などではない。一匹の獣だ。
夏の江戸、湿り気を孕んだ空気が肌にまとわりつく。
川面からは泥と藻の匂いが立ち上り、遠くで鳴く夜鷹のしわがれた声が、どんよりとした闇をいっそう重く沈ませていた。
左手で掴んだ姉さんの手首は、
驚くほど細い。
けれど、その脈動はドクドクと野生の獣のように猛々しく、
掴んでいる自分の掌までをも支配していく。
視線が火花を散らす。
逃れようのない至近距離で、吐き出された熱い呼気が姉さんの白い首筋をなぞり、産毛を震わせた。
姉さんの強い目を、負けじと睨み返す。火花を散らすような視線の応酬。
心臓の音が、鼓膜のすぐ裏側で爆発するように鳴り響いている。
野生の本能
二人して狂ったように闇を駆け抜けた代償。
肺が焼けるように熱い。
「… … …はぁ… …」
「…はぁ…はぁ…」
喉元までせり上がった荒い息を、隠そうともせず、むき出しのまま彼女の首筋へと叩きつける。
お互いの鼻先が触れ合い、
「… …で?…はぁ… はぁ … …何をしようとしてんだい、番人さん」
夜鷹が、その錆(さび)の乗った乾いた相手を気圧す(けおす)ような声で、低く笑った。
切長の目が挑戦的に番人を射抜く。
その口角が、
勝ち誇ったように僅かに、
残酷に吊り上がった。
瞬間。
(……あぁ、そうかい。そうやって笑うんだな)
ドクン、と。
光の心臓が突き破らんばかりに血の流れを感じる。
すべてがどうでもよくなった。
ただ、目の前で
自分を嘲笑うこの「女」を、
完膚なきまでに沈黙させ、
支配したいという、
真っ黒な本能だけだ。
指先が、姉さんの着物の裾へと滑り込んだ。
ざらついた布地の感触。そのすぐ下にある、熱を帯びた、柔らかな禁域。
姉さんの
小さな悲鳴を飲み込むように
番人はその狂おしいほどに求めていた唇へ、激しく己を叩きつけた。
重なり合った熱。
それは、夏の重苦しい空気さえも沸騰させる、
獣たちの咆哮に似ていた。
【暗転】
万代橋(よろずよばし)の喧騒や吉原の豪華絢爛な「花魁道中」が江戸の華と謳われていた時代。
しかし、その華やかさの真裏には、光に届かなかった者たちが溜まる「吹き溜まり」がありました。
吉原の頂点花魁(おいらん)は、まさに江戸の偶像。
しかし、
一度そこから「足抜け(逃亡)」を試みれば、待っているのは地獄。
運よく生き延びても、かつての美貌を隠し、柳原の隅で「夜鷹(よたか)」として泥にまみれて生きるしかない――。
江戸柳原。
神田川が運ぶ湿り気と、夏の熱に腐りかけた饐えた匂いが混ざり合う、朝方。
柳の細い枝が項垂れる、
その界隈で唯一、
格式を気取った大木戸前で、光は細い腕に力を込め、重い竹箒で土の上の泥濘を掃いていた。
夜の務めを終えた女たちが、幽霊のように一人、また一人と闇の奥から戻ってくる――。
木戸の隙間から差し込む朝陽が、刺すように目に痛い。
ズキズキと波打つこめかみを片手で押さえ、低い唸り声を上げた。
昨晩、煮売屋で煽った安酒がいけなかった。
質(たち)の悪い酒が、今になって頭の中で暴れ回っている。
「……ったく、掃かねえわけにもいかねぇしな」
誰に聞かせるでもない独り言。
サッ、サッ。
箒の先を地面に這わせているというよりは、ただ重たい腕を左右に揺らしているだけに見える。
二つの影が歩いていた。
箒の先を地面に這わせているというよりは、
ただ重たい腕を左右に揺らしているだけに見える。
「おい、突き出し!いつまで寝ぼけてやがんだ」
ベテランの番人と
「突き出しさん、景気の悪い掃き方だねぇ」
錆びて乾いた低い声の夜鷹だ。
通りの向こう、
朝靄(あさもや)が淀んでいる先から聞こえ二つの影が染み出してきた。
現れたのは
裾の汚れた着物を引きずるように歩く夜鷹の女と
その三歩後ろ。
脇に薄汚れたござを抱えたベテランの番人だ
「……お、おはようございます。あ、姉さん、兄貴。お帰りなさい」
光は後退り挨拶をした。
姉さんは
(手ぬぐいで顔を半分隠し、肩を落として歩きながら)
「……あぁ? なんだい、朝っぱらからカサカサ音を立てやがって。耳に障るよ……。アンタ、昨日入ったばっかりの新しいのだね?」
「へ、へい! 大家さんに、清めておけって言われまして……」
ベテランの番人は
(夜鷹の担ぎ物を肩にかけ、あねさんの脇を抱えながら)
「ハッ、清めたところで、ここに入ってくるのは訳ありの野郎か、お上のガサ入れくらいなもんだ。無駄なことしてねえで、さっさと潜り戸を開けろよ」
姉さんは、
少し立ち止まり光の顔をジロリと。
光は後ずさりしながら、
(……なんて、綺麗なんだ。……この人は、本当に俺たちと同じ泥の中に住んでいるのか?)
姉さんは、
弄ぶように微笑みながら
「……ふん。アンタの目は刃物のように鋭いね。綺麗な顔してるじゃないか。こんな掃き溜めを掃除するなんて、アンタも物好きだね。……ほら、これ」
「っ? これは……」
銭を一つ、ポイと光に投げる
「景気づけだよ。掃除が終わったら、汁でも飲んでな。あたしたちが寝てる間、しっかり番をしてなよ。……あーあ、腰が痛いや。行こうか」
姉さんの涼しげな、
それでいて射るような目に、
光は一目で心を搦め捕られてしまつた。
「へいへい。…ん?おい、こいつ見ろよ。あねさんの色気に当てられて、腰が抜けてやがる。おい新人、見惚れてねえで潜り戸を開けな。姉さんはお疲れなんだ」
潜り戸をくぐり、長屋の闇の中へと消えていく姉さんの後ろ姿。
2人は重い足取りで奥へと消えていく。
まだ少し体温の残った、「四文銭」。
光は顔が火が出るほど熱くなり、
慌てて四文銭をしまい、
箒を握り直す。
自分の胸の鼓動がうるさくて仕方がない。
「夜鷹」という言葉から想像していた汚らわしさは微塵もなく、
ただ一人の「高貴な、囚われの姫」のように映った
箒を再び持ったものも、
掃除を再開した光の手は、心なしか震えていた。
「……あんな綺麗な人を、こんな場所にいさせちゃ…」
掃除の手を動かしていても、頭の中にはさっきの瞳の残像が焼き付いて離れない。
箒がどこを掃いているのかも分からなくなる。
「……けっ、おれぁ一体何なんだ」その惨めさをごまかすように、
必要以上に激しく、乱暴に地面を掃き始めた。
「あんな女、おれの人生にゃ関係ねぇ… けどな…」
不意に、
自分の握る箒の柄がひどく汚れてささくれているのが気になった。
さっきまでは気にも留めなかったゴミや泥が、
急に「見せてはいけないもの」のように思えきた。
光は一心不乱に土を掃き始めた。
姉さんの背中を見送ったあと、
ふと己の身なりを眺めれば、
煤(すす)けた着物に
泥の跳ねた足。
その浅ましさが、胸を抉(えぐ)るように惨めに思えた。
――だが、あのお方が踏んだこの土を、汚れたままにはしておけない。
取り憑かれたように箒を握りしめた。
己の情けなさを掻き消すように、
ただ一心不乱に地を掃く。
掃き清められた朝方の長屋に、朝日が当たり始める。
それがあたかも、
姉さんの歩んだ軌跡を、この世で一番清らかな場所へと変えていく儀式のようであった
使い古した箒(ほうき)を壁に立てかけ、
逃げ込むように煮売屋の暖簾をくぐった。
店先は、
仕事を終えた夜鷹の番人たちで溢れ、むせ返るような酒の匂いと熱気が渦巻いている。
「いらっしゃい! 何にするんだい、小僧!」
威勢のいい店主の声に、
俺は喉の渇きを癒そうと、握りしめていたものを差し出した。
「酒だ! 一杯やってくれ!」
差し出したのは、さっきあのお方……あの夜鷹の姉さんから手渡された、
たった四文の銭だ。
その瞬間だった。
脳裏に、闇の中で射抜かれたあの潤んだ瞳が、雷のように突き刺さる。
――ドクン。
胸の奥で、今まで聞いたこともないような激しい鼓動が跳ねた。
「おいおい小僧、どうしちまったんだ! 酒はどうすんだい、出しちまうぞ!」
店主の急かす声
俺は慌てて、差し出した四文銭を奪い取るように掴み直した。
この銭を酒に変えて、あのお方の記憶と一緒に飲み干してしまうなんて、今の俺にはとてもできやしねぇ。
「……悪い。今日のところは、やめとくわ」
呆れ顔の店主を背に、
俺は煮売屋の温かな光を振り切って、再び夜の闇へと飛び出した。
「ったく……俺ぁ、何やってんだ……」
握りしめた手のひらの中で、四文銭だけが、いつまでも熱を帯びていた。
また夜は来て。
相変わらず、
光は大木戸の下で箒を持つ。
長屋の向こうから姉さんと、ベテランの番人が現れた。
手ぬぐいで顔を半分隠しながら光に近づく。
姉さんの目は、
残酷なほどに鋭く、そして熱を帯びていました。
姉さんは光に、横目――「流し目」で捉える。
光は乾いた竹の節が
掌の皮をじりじりと苛み、
握りしめる力が強すぎて指の関節は白く突き出し、
小刻みに震えている
通り過ぎる姉さんの裾から漂う、
安物の白粉(おしろい)の匂いと、夜鷹特有の、
どこか煤けたような女の香りが鼻を突く。
光は見ないようにしていた。
ーーが。
姉さんの視線が自分のうなじを、
背中を、
這うように撫でていることを肌で感じていた。
それは、
隠そうとしても隠しきれない
「惚れてしまった男」
の無様な背中であった。
滑稽なまでの純真
姉さんにとって、その光景は滑稽そのものだった。
明日をも知れぬ夜鷹の女に、未来ある若者が、箒をへし折らんばかりに握りしめて固まっている。
「へっ… 情けねぇ突き出しだな…」
ベテランの番人は光に向かって唾を吐き出しながら
もう一言、
「おい、この突き出し。使いもんになるか?姉さん、今晩どうだ?」
ベテラン番人は締まりのない、だらしのない薄ら笑いで、ふてぶてしく構えて言う
「へぇ〜…」
鼻でせせら笑いながら
舐めるように光を見つめ、
「今晩、あたいと一緒に商売へ行かないかい?」
その切れ上がった目尻に紅を差し、薄暗がりから
光をじっと見つめる姿は、
まるで獲物を狙う眼のようだ。
「……。あ、姉さんの……番人に?」
「嫌かい? 泥酔した野郎を追い払ったり、むしろを担いで暗闇を歩いたり……。綺麗な仕事じゃないよ。あたいの『汚いところ』を、全部見ることになるんだからね」
姉さんの切れ長の目が、新人の瞳をじっと見つめる。
試めされているのか。
単なる「憧れ」という夢想なのか、それとも「夜鷹の泥を共に被る覚悟」がある本物なのかを。
光は震える手で、
姉さんの商売道具である「むしろ」とそして暗闇を照らす小さな提灯をベテラン番人から奪い取るようにして抱えた
ベテラン番人は
「威勢だけは一人前だな」
とだらしなく笑う
「……威勢がいいね。行こうか?……」
姉さんはそう言って、歩き出した。
光の前を歩き出したその背中は、
どこか寂しげで、
小さく見えました。
長屋を出る二人。
毎日掃き清めていた長屋を、
二人は並んでくぐりぬける。
一歩外に出れば、
そこは弱肉強食の、
闇の深い江戸の夜。
担いだ荷物の重みを感じながら、
前を行く姉さんの、着物の裾から覗く「白い足首」を必死に追う。
姉さんのすぐ後ろを歩き、
姉さんの匂いを感じ、
姉さんを守れる場所にいく。
新人は提灯の火を強く握りしめ、夜の闇へと踏み出していく。
街灯もない真っ暗な神田川沿いの柳原土手。
遠くで夜回りの拍子木が
「カツン、カツン」と響く中、
柳の木の下にうずくまっていた女が、提灯を持ったばかりの新米番人に気づく。
「ねぇ、いい男。あたしのところへ寄っといでよ」
汚れたござの上に腰を下ろし、白粉(おしろい)の剥げた顔で、切れ長の目を細めてニヤリと笑う。
その背後には、ただ暗い水面が揺れている。
不気味過ぎる
そこは
江戸柳原の土手という、逃げ場のない、濃密な闇。
江戸の最底辺にある
「言葉の暴力」と「屈辱」
それぞれに耐える過酷な人間の業。
川沿いの暗がり。
姉さんが「むしろ」を敷き、
新人は少し離れた柳の木の陰で、
姉さんの着替えや荷物を抱えて控えていた。
「へっ、なんだい、しち面倒くせぇ……」
どこでひっかけたのか、
風上からでも鼻をつくような安酒の臭いをまき散らしながら、
一人の男がのっそりと現れた
首には使い古して薄汚れた手拭いをぶっかけ、日に焼けた面構えには隠そうともしねえ不機嫌がへばりついています
懐に手を突っ込み、
肩で風を切るその歩き方は、
まさに江戸の職人崩れといった風情
「おいおい、なんだい。その隅っこて突っ立ってる奴は。……新入りの突き出しか?」
客は、
姉さんに
金を投げ捨てるように渡すと、
ニヤニヤしながら
光を指差して嘲笑う。
どこでひっかけたのか、
風上からでも鼻をつくような安酒の臭いをまき散らしながら、
一人の男がのっそりと現れた。
首には使い古して薄汚れた手拭いをぶっかけ、
面構えには不機嫌がへばりついていま懐に手を突っ込み、
肩で風を切るその歩き方だ。
江戸の職人崩れといった風情。
「ハハハ! 見ろよ、あの面(つら)。おしろいの匂いにあてられて、腰が抜けてやがる。おい、突き出し! そんなにジロジロ見てんじゃねえよ。おめえみたいな青二才には、夜鷹の相手は一生早ぇんだよ!」
「……っ!」
光は、握りしめた拳が白くなるほど力を込めた。
汚い手で
姉さん触ろうとするこの男を、
今すぐ殴り飛ばしたい。
客を殴れば、
それは姉さんの商売を台無しにし、姉さんをさらに苦しめることに。
「おーい、姉さん。こんな『お飾り』じゃ、野犬一匹追い払えやしねえぞ。もっとマシな野郎を雇いな。……それともなんだ、坊や。姉さんの仕事ぶりがそんなに珍しいか? ギャハハハ!」
光は下を向き、唇を噛み締めました。
悔しくて、情けない。
馬鹿にされたことより、
姉さんの前で「頼りないガキ」として扱われることが、何より耐え難かった。
その時、
姉さんが静かに、
けれど氷のように冷たい声で客を遮りました。
「……おい。そこの客。あんまり無粋なことを言うもんじゃないよ。この子はあたいが選んだんだ。アンタみたいな安酒の臭いしかしない男より、よっぽど筋がいいのさ」
姉さんは、あえて客を睨みつけ、光のことを庇いました。
「用があるのは、あたいの『体』だろ? 余計な口を叩いてる暇があるなら、さっさと済ませな。……新人、アンタはあっちを向いてな。こんな掃き溜めの言葉、聞き流しちまいな」
客は「ちっ、愛想のねえ女だ」と吐き捨て、
姉さんの腕を強引に掴んで
「むしろ」の上へと押し倒した。
光は背を向け、
暗い川面を見つめた。
後ろからは、客の汚い笑い声と、衣擦れの音が聞こえてくる…
「… … なんて無力なんだ…」
惚れた女の前で「野暮」を晒すことほど、死ぬより辛いことはない。
姉さんに似合う、
非の打ち所のない男でいたい
という気負いが、
一瞬の失態でガラガラと音を立てて崩れ去る。
ああ、己の未熟が情けねえ、
地べたに潜りてえ
光は、やり場のない悔しさに打ち震える。
きまり悪そうに視線を落とし、
手持ち無沙汰に手ぬぐいをいじったり、
鼻の頭をこすったり落ち着かない
(何て、所に来ちまったんだ)
落ち込む間もなく、
姉さんは次に、
次にと客の相手をする
目の前では
惚れた女が次に、次にと抱かれていくのをただ見てるしかなかったのだ
(情けねぇ…)
(今の自分には何もできねぇ…)
朝霧が立ち込める頃、
仕事が終わった姉さんが光の肩に手を置いたとき、
彼女の指先は、
少しだけ震えていた。
ゆらりと姉さんは揺れる。
しくじりを引きずり、項垂(うなだ)れる光。その細い肩に、しなやかな指先が迷いなく置かれる。
姉さんの手のひらは驚くほど熱く、吸い付くように彼の身体を自分の方へと引き寄せた。
逃げ場を失った彼の耳元に、
黒髪から零れる白檀の香りがふわりと立ち込める。
姉さんはわざとだ。
薄紅を差した唇が、
彼の耳たぶを愛しむように、
湿り気を帯びてそっと触れた。
「……そういう一面、悪くないじゃないのさ……」
吐息とともに耳の奥へ直接流れ込む、艶を帯びた低い声
それは彼が死守しようとしていた「男の面目」
という薄っぺらな皮を
いとも容易く引き剥がしていく
「情けねえ」
という悔しさが
その吐息一吹きで、どうしようもない「疼き」に書き換えられた
耳元から首筋へ、さらに背骨を伝って火が走る
立てていた膝が微かに震え
膝の上で握りしめていた拳の力が抜けていく。
守りたかったのは「完璧な自分」だったはずなのに
今はただ、
耳たぶに触れる
その柔らかな感触をもっと深く、
もっと強くと、
喉を鳴らして求めたくなる
「……姉さん、それは、卑怯だ……」
掠れた声でこぼしたものの。
理性という糸が一本、
また一本と焼き切れていく、
真っ暗な焔(ほむら)だけ。
崩れゆく理性の淵で
光は気づく
プライドを守られたのではない。
彼女の慈しみという名の檻に、永遠に閉じ込められたのだと。
次の瞬間、
どちらからともなく重なる影は、
もう江戸の夜風など通さぬほどに、深く、密(ひそ)やかなものになっていた
夜の闇
光の顎を、
姉さんが
冷たい指先でクイと持ち上げる
「……泣きそうな顔しなさんな。アンタ、自分の本当の顔を知らないね?」
姉さんの切れ長の目が、
光の瞳を覗き込む
「いいかい、アンタの目はね、ただの優しい坊やの目じゃない。……蛇の目だよ。執念深く、狙った獲物を決して逸らさない、冷たくて綺麗な目だ」
「蛇……? 俺の目が……?」
「そうさ。自信をお持ち。アンタは、いい男になるよ。……蛇になって客を見張ってな。あたいに触れる男どもの喉元を、いつでも噛みちぎってやるっていう、その目でね」
姉さんは、
光の頬を優しく、
そして、
指の跡がつくほど強く撫でた
「……アンタが『蛇』になれば、さっきみたいな端役の男どもなんて、蛇に睨まれた蛙も同然さ。……さ、帰るか」
その言葉が光の心にすとんと落ちた瞬間、
彼の体温がふっと下がったような感覚があった
その瞳は、
もはや怯えも怒りも映していない
ただ、
冷たく、
静かに、
獲物の急所を品定めするような「蛇の眼光」
瞬き一つしない視線
光の背筋に冷たいものが走る。
長屋へ戻る道中、
姉さんは、
背後で気配を消して歩く光の変化を、肌で感じていた
姉さんは振り返り
「……ふふっ。毒を持たせちまったね。……でも、これで少しは長く生きられるだろうよ、アンタも。……あたいもね」
柳原長屋前、
朝を迎えようとしていた。
第ニ夜
「救いようのない絶望」と「狂気」
また次の
幾度迎える夜、
光は
物音ひとつ立てずに闇に溶ける「蛇」となった
姉さんを嘲笑う者、
彼女を乱暴に扱う客がいれば
闇の中から音もなく現れ、
その喉元に冷たい殺意を突きつける
とは言え。
深い闇が支配する宿場町の片隅、
光は、
ぎりりと奥歯を噛みしめて
提灯の柄を握りつぶさんばかりに力を込める。
自分が守るべきこの静寂の裏側で、
愛する女が
別の男の腕に抱かれている。
その事実が、
光の胸を、
どろどろとした嫉妬の炎で焼き尽くすのだ。
カチ、カチ、と夜の静寂を切り裂く拍子木の音
それは本来、
町の平穏を告げる合図。
しかし、
今の彼にとっては、
愛する女を汚す「客」への、
そして
動くことのできない自分自身への
呪詛の響きとなる。
今、姉さんは客の脂ぎった手に肌を許している
自分がこうして、
地を踏みしめ、
誰のためとも知れぬ夜番を続けている間に……
光の足は、
今すぐにでも踏み込み、
無粋な男を叩き出したい
という衝動に駆られている。
しかし、
腰に差した十手と、
肩にのしかかる
「番人」という役目が、
光をその場に縫い付けるのだ。
遠くで聞こえる猫の鳴き声さえも、
彼女の嬌声に聞こえてしまう。
風が木々を揺らす音も、
重なり合う吐息のように耳を刺す。
「あいつの指が、姉さんのうなじに触れたか。あいつの唇が、俺が触れたいと願ってやまぬその唇を塞いだか」
「俺の守るこの夜が、あいつらの褥(しとね)を温めている。皮肉なもんだ。姉さんを守りながら、俺自身の心は、あのに一番大切なものを盗まれ続けている」
姉さんを守らなきゃならねぇ立場でありながら、
その実、一番汚ねぇところへ差し出しているのは自分じゃねぇか――。
耳を塞いでも、
姉さんの、
あの、絞り出すような声が聞こえてくる気がしてならない
姉さんは、
あいつのことを『旦那』と呼びやがる。
俺の前では見せねぇ、商売の顔。
だが、
あの野郎の腕の中じゃあ、
ただの女になっちまってんじゃねぇのか……?
「情けねぇ…」
光は蛇となり、
ただ、
ひたすらに吠えたい衝動を、
喉の奥で無理やり飲み込む。
夏の夜、
熱を帯びた風が土手を吹き抜ける
いつものように茣蓙(ござ)を抱え、
顔を隠す布を被った姉さんの
数歩後ろを歩いていた
男たちの視線から、
そして商売という現実から姉さんを守りたい
その一心で、
彼は己の嫉妬を心の奥底、
蛇の腹の中に飲み込み、
無機質な「番人」に徹した
だが、
風が悪戯に姉さんの被り布を舞い上げた
露わになった姉さんの項(うなじ)、
そして宙に舞った布を掴もうと伸ばした光の手が
姉さんの指先に触れる
「……!」
指先から伝わってきたのは、
夏とは思えぬほど凍てつくような冷たさだった
そして、
あまりに細く、
肉の落ちた骨張った華奢な感触
「こんなに冷たく、壊れそうな身体で、毎晩男たちを相手にしているのか」
その事実に触れた瞬間、
抑えていた嫉妬と情愛が、
冷えた手首を掴む力へと変わる。
姉さんが驚いて振り向いた。
その切れ長の瞳に
すくめられた瞬間、
光の頭から理性が消え去った。
気がつけば、
彼は夢中で姉さんの腕を引き、
抱えていた茣蓙を草むらへ叩きつけていた。
荒い呼吸、
十手は床に転がり、
提灯の火が危うく揺れる。
その瞳に宿るのは、
これまで押し殺してきた獣のような独占欲と、
狂おしいほどの嫉妬。
押し倒された姉さんの背中が、
乾いた茣蓙の音を立てる。
見下ろす光の視線の先には、
闇夜に光る
姉さんの切れ長の目があった。
そこには拒絶も、恐怖もない。
ただ、
すべてを見透かしたような深い淵のような静寂と、
微かな愉悦が混じり合っている。
姉さんの細い指が、
今度は光の首筋に冷たく絡みつく。
姉さんは怯えるどころか薄く唇を吊り上げた
「たいしたもんだね?」
その一言は、
夜風よりも冷たく、
そして艶っぽい。
姉さんの冷徹な嘲笑。
「……へぇ、お役人様が形無しだね。その手で、夜鷹の喉笛を締め上げるつもりかい?」
姉さんは動じない
それどころか、
男の煮えくり返るような嫉妬を見透かし、
愉しむように
その胸板に指を這わせる。
「あんたのその真っ赤な眼……。さっきの客が、そんなに気に食わなかったのかい? 情けないねぇ。あたしは誰に抱かれたって、この闇に溶けるだけの女だよ」
番人の震える指先が、
姉さんの冷え切った掌に四枚の銭を押しつける。
姉さんは、
その銭の冷たさに一瞬だけ目を細めたが、
すぐにまた、
あの人を食ったような笑みを浮かべる。
「はは……。あたしを買い取るつもりかい?」
姉さんの言葉を、
光は口づけで塞いだ。
それは優しさなど微塵もない、
嫉妬という毒に侵された獣の行い。
他の男が触れたであろう肌を、
自分の指で、
舌で、
塗り潰していく。
姉さんの体は驚くほど細く、
骨ばっている。
その無機質な感触が、
姉さんがこうして
幾人もの男を受け流して生きてきた証拠のようで、
光をさらに苛立たせる。
職務を告げる拍子木は床に転がったまま。
提灯の火は今にも消えそうで、
闇だけが二人を濃密に包み込む。
欲のままに唇を重ねながら。
光の震える指先が、
泥に汚れた着物の裾を割り込ませるようにして、
その内側へと滑り込んだ。
夜風に晒され、氷のように冷え切った足首を掴んだ。
そこから這い上がる指先が、
白粉の匂いが染み付いたふくらはぎの、
驚くほど薄い皮をなぞる。
折れそうなほどに
華奢でありながら、
光の指を拒むことのない、
静かな絶望を湛えていた。
膝の裏の、湿り気を帯びた柔らかな窪みに指を沈めた瞬間、
光の背筋を、耐え難いほどの熱が駆け抜ける。
さらにその先。
太ももの、
まだ
誰の体温も残っていないはずの、
肉の奥に潜む「熱」を目指して、
光の手は迷いなく突き進む。
ざらついた布地の裏側で、
己の指先だけが知る彼女の真実を
暴くように。
見上げれば、姉さんの切れ長の目が、薄笑いを浮かべたまま見下ろしていた。
光は姉さんの太ももを掴んだまま
「はぁ…。はぁ…」
そのまま進む手が止まった。
光の心は満たされるどころか、
底なしの沼に沈んでいくようだ。
その「心」は依然として、
この底冷えする江戸の夜のどこかへ消えたまま。
闇の中の幕引き…
姉さんは
何事もなかったかのように、
光の手をゆっくり離し
立ち上がり、
乱れた裾を整える。
手慣れた仕草で茣蓙(ござ)を丸め、
再び夜の闇へと歩き出した。
「さ、いくよ」
その一言が、
光を突き放す。
つい数刻前、
折れそうに
震えていたはずの身体が、
今はもう「商売物」の顔に戻っている。
光は再び、
姉さん後ろをついて歩く
「蛇」に戻らざるを得なかった。
だが、一度味わった熱は消えない。
視界の端で揺れる姉さんの背中、
細い手首の感触、
そしてあの切れ長の瞳。
姉さんの残像が、
焼き付いて離れない。
(もっと、もっと触れたい。自分だけのものにしたい。)
腹の底で渦巻くのは、
純粋な愛などではない。
どろどろに濁った、
歪んだ独占欲だ。
土手の向こう、
客の男が姉さんに声をかける。
姉さんはいつもの、
あの冷たくも妖艶な
微笑みを浮かべ、
男を茣蓙へと誘う。
今、この瞬間。
姉さんは自分ではない別の男の腕の中にいる。
布一枚隔てた向こう側で、
他の男の息遣いが聞こえる。
番人として周囲を
警戒する光の指先が、
怒りと嫉妬で激しく震える。
蛇になったはずだった。
冷静に、
音もなく。
害する者だけを仕留める獣になったはずだった。
姉さんを買う男たちすべてを、
そして
彼らに微笑みかける
姉さん自身をも、
その牙で噛み砕きたい衝動に駆られている。
見守ることが「守ること」だと思っていた。
だが、今の光にとって、
見守ることは「自らを刻一刻と焼き尽くす処刑」に変わっていた。
暗闇に潜む光の瞳は、
もはや番人のそれではない。
嫉妬という名の猛毒に侵され、
いつ暴発してもおかしくない。
狂った獣の輝きを放ち始めていた。
夜明けの期待を裏切られ、
冷たい現実へと
引き戻された光の絶望が、
「無力さ」を浮き彫りにする。
単なる嫉妬から、
姉さんの人生そのものに対する
義憤と、
己の身分の低さへの呪いへと
感情が深まっていくのだった。
光が蛇になる
姉さんを守るため
ではなく、
自身を守るために蛇になったのだ。
長屋の朝、
姉さんが見せたのは
「昨夜のことは行きずり」
と言わんばかりの、
あまりに淡々とした態度だった。
何か決定的な言葉を、
あるいは
共に逃げる約束を期待していた光にとって、
それは
冷水を浴びせられるよりも残酷な拒絶だった。
そしてまた、夕刻が来る。
暮れなずむ空の下、光は再び、
姉さんの後ろを歩く「番人」の役割に身を投じる。
だが、心の中はもう、
昨日までの
自分ではいられなかった。
(なぜだ。なぜ、これほどまでに美しい人が、泥を啜るような真似をしなきゃならない。)
姉さんの美貌は、
夜の闇に紛れるには
あまりに惜しく、
その懐の深さは、
汚れた客を包み込むにはあまりに尊い。
湿った土手に敷かれた、
たった一枚の茣蓙(ござ)。
それが姉さんの世界のすべてであるという事実に、
光の胸は張り裂けそうになる。
(どうにかしたい。この泥沼から、姉さんを掬い上げたい。)
学もなく、金もなく、あるのは組織から与えられた「番人」という名前だけだ。
身請けする金などあるはずもなく
かといって
姉さんを養えるだけの伝手(つて)もない。
見ていられない。
男に抱かれる
姉さんの声を聞くたび、
自分の無力さが毒のように
全身を回り、
胃の底が焼けるように熱くなる。
守っているつもりで、結局はこの場所に縛り付けている片棒を担いでいるのではないか。
自分は「蛇」ではなく、
ただ姉さんの足首に絡みつく「足枷」ではないのか。
夕闇が深まり、姉さんがまた一人、客を誘う。
光は闇に溶けながら、
その光景を血の出るような思いで
見つめるしかなかった。
江戸という巨大な街の底辺で、
たった一人の女を救い出すことの絶望的な難しさが、
重くのしかかっていた。
第三夜
四文銭の純潔(じゅんけつ)
ある日の商売が終わり、
夜明け前の冷たい空気が二人の間を流れる。
いつもならそのまま長屋へ戻る道すがら、
光は立ち止まった。
震える手で懐から取り出したのは、
番人として泥にまみれ、
罵倒されながら、
血の滲む思いで貯めたわずかな持ち銭。
それを、
姉さんの掌に無理やり押し付けた。
「……頼みます」
絞り出すような声だった。
それは、
他の男たちのように
「遊ぶ」ための誘い文句ではない。
自分には身請けする金はない。
贅沢をさせる力もない。
だが
今この瞬間だけは
誰の番人でもなく
誰の所有物でもない
「男」として、
姉さんと向き合いたいという切なる願いだった。
「あんた、物好きだねぇ……」
掠れた声でそう吐き捨てると、
姉さんは
受け取ったばかりの四文銭を、
指先で弄んだ。
姉さんは番人に背を向けたまま、
闇の中にすっと白い項(うなじ)をさらけ出す。
そして、去り際。
ふいに止まった足。
衣擦れの音を立てて、
姉さんはゆっくりと
背中越しに振り返った。
湿った夜風が、
乱れた後れ毛を揺らす。
伏せられた睫毛が持ち上がり、
濡れたような流し目が番人の射抜いた。
「……何してんだい?突っ立って。来ないかと思ったよ」
唇の端に、
憐れむような、
それでいて誘うような微かな笑みを浮かべる。
光が息を呑む音が、静寂に響いた。
姉さんが消えて行く闇を睨みつけ、
光は震える手で自身の十手を握りしめた。
「惚れたら負けだ」――。
自分に言い聞かせたその言葉は、もはや空虚な呪文でしかない。
姉さんは知っているのだ。
自分が番所での役目を果たしている最中も、
他の男の腕の中で、
自分に見せた
あの「流し目」を振りまいていることを。
「……ちくしょうッ!」
胸の奥を焼くのは、凄まじい嫉妬。
そして、
法度を破り、
夜の闇に身を落とす自らへの恐怖。
だが、
それらすべてを塗りつぶしたのは、
歪んだ独占欲だった。
「俺が、……俺だけが、地獄を知っていればいい」
吐き出した吐息は熱く、
視界が真っ赤に染まる。
消えていく姉さんの背中を追いかけた。
その細い手首をへし折らんばかりに掴み上げたい衝動。
番人という「光」の立場をかなぐり捨て、
姉さんと同じ「闇」の深みへ飛び込む覚悟が決まった
瞬間、光の理性がぷつりと音を立てて弾けた。
もはや、一線を越えたのではない。
自らその一線を、
消し去ってしまったのだ。
二人は長屋の裏にある、
埃っぽい、置き小屋に身を潜めた。
じわりと夏の熱気が湧いて薄暗い小屋の中。
光は客として、
そして誰よりも
姉さんを愛する者として、
姉さんの身体を抱きしめる。
今、
この対価を払っている間だけは、
姉さんは「自分のもの」だ。
外で客を相手にしていた時の、
あの「商売物」の冷たさではない、
一人の女としての温もりを求めて、
光はむさぼるように彼女を求めた。
「はぁ… はぁ… 姉さん、あいつの時も、そんな声を出しやがったのか」
「……さぁね。はぁ… はぁ…あんたがもっと上手くやってくれりゃあ、忘れてやるよ」
肌を寄せれば、
指先一つ触れぬうちから、
脳の芯まで稲妻が突き抜けるよう。
まるで、
『これだったか』と、
魂が己の片割れを
見つけた心地にあり。
姉さんの深い心の奥底を照らし、
熱い情念が、
光の身体を芯から焼き焦がす。
これほどの
しっくりとくる肌の合いようは、
おそらく、ないだろう。
二人の間には、
もはや野暮な言葉など露ほども入り込む隙はない
ただ、一つに溶け合っては、
闇の中に散る火花を見つめるばかり……。
姉さんは、
いつも以上に激しく、
そして必死に自分を求める光の背中に
細い腕を回す。
「……あんた、馬鹿だね。こんなはした金、自分のために使いな。」
そう毒づく姉さんの声は、微かに震えていた。
切れ長の瞳には、
朝露のような
涙が浮かんでいるのか、
それともただの光の加減か。
光にとっては、
これが自分にできる
精一杯の
「身請け」だった。
数刻後には、
またただの番人と夜鷹に戻らなければならない。
朝日が昇れば、
この幸福は夢のように消えてしまう。
それでも、
この狭く暗い小屋の中で、
二人は確かに「泥の中の真珠」のような、
儚くも美しい時間を分かち合っていた。
夜明け前の薄紫色の闇が、
江戸の町を包み込んでいる。
仕事終わりの
いつもの風景。
しかし、
二人の間を流れる空気は
昨日までとは決定的に
違っていた。
付かず離れずの距離で影のように付き従っていたはずの彼が、
今は姉さんの細い指を、
折れんばかりに強く握りしめている。
冷たかった
姉さんの指先が、
光の熱に中(あ)てられ、
微かに温もりを帯び始めている。
いつもとは違う朝。
長屋へ続く路地は、
朝靄に濡れて光っている。
これまでは、
陽が昇れば「番人と夜鷹」という役割に戻り
それぞれの孤独に帰るだけだった。
狭いおき小屋。
姉さんは、
解けた髪をかき上げ、
朝日が差し込み始めた部屋の隅で、
光をじっと見つめる。
その切れ長の目は、
寝不足のせいか、
あるいは情念のせいか、
赤く充血していた。
「……朝だよ。夢は終わりさ。ここからはまた、ただの番人と夜鷹だよ。」
姉さんの言葉は拒絶のようでいて、
どこか
光がさらに踏み込んでくるのを待っているような、
残酷な色香を孕んでいる。
光は、
彼女の華奢な肩を
抱き寄せ、
その首筋に顔を埋めた。
「……戻れない。もう、一歩も戻れません、姉さん。俺の体には、あんたの毒が回りすぎた。」
白んでいく空の下、
二人の耳には、
外の喧騒が聞こえている。
豆腐売りの呼び声、
早起きの職人が下駄を鳴らす音、
隣の長屋で赤子が泣き叫ぶ声。
光は容赦なく
障子の隙間から入り込み、
埃の舞う室内を
あからさまに照らし出す。
平穏な日常の音が
遠くで聞こえ始める。
「……毒、か」
姉さんは小さく笑った。
それは、
この世の誰に対しても
見せたことのない、
あまりにも脆く、
あまりにも美しい笑みだった。
姉さんの細い指が、
光の頬をなぞる。
昨夜の闇よりも深く、
夜明けの光よりも熱い肌の感触。
「なら、あんた。このまま二人で、死ぬまで毒に回されてみるかい」
外では、
すでに江戸の町が日常を始め、
人々の足音が路地を急かしている。
だが、
二人の耳には、
ただお互いの脈打つ音だけが、
まるで地鳴りのように響いていた。
これが破滅への
一歩だと知っていても、
光は姉さんの
首筋から顔を上げない。
昇りゆく太陽が
障子を白く焼き切るまで、
二人はただ、
互いの渇きを飲み干すことだけに
すべてを捧げていた。
昨夜の狂おしい
夜鷹の顔は、
もうそこにはない。
そこにあるのは、
冷徹なまでの
静けさを湛えた、
一人の
女の覚悟だけだった。
「いいかい。これから先、日向(ひなた)を歩く。……だが、その足元は、どこまで行っても地獄の泥の中だよ」
姉さんは光の首に手を回し、
自分の方へと引き寄せた。
鏡を見るような、
それでいて全く別の生き物を見つめるような、
熱のこもった眼差し。
光は、
彼女の首筋に深く、
深く顔を埋めた。
外では、
朝日が完全に昇り、
江戸の町が動き出した。
二人は立ち上がる。
朝靄が、
二人の影を不気味なほど長く、
黒く地面に引き伸ばす。
夜が明けたのではない。
誰にも壊せない「暗闇」を、
その魂の奥底に作り上げたのだ。
互いの魂が腐食し、
再生していく過程そのものが「毒」だった。
毒を抱いたまま、
残酷な日常の中へと足を踏み出していく。
密やかな情熱と、
逃れられない
破滅の予感に満ちていた。
夜明け前の薄紫色の闇が、
江戸の町を包み込んでいる。
仕事終わりの
いつもの風景。
しかし、
二人の間を流れる空気は、
昨日までとは決定的に
違っていた。
付かず離れずの距離で
影のように付き従っていた
はずの光が、
今は姉さんの細い指を、
折れんばかりに強く握りしめている。
長屋へ続く路地は、
朝靄に濡れて光っている。
これまでは、
陽が昇れば「番人と夜鷹」という役割に戻り
それぞれの孤独に帰るだけだった。
姉さんは、
解けた髪をかき上げ、
朝日が差し込み始めた部屋の隅で、
光をじっと見つめる。
姉さんの言葉は拒絶のようでいて、
どこか
光がさらに踏み込んでくるのを待っているような、
残酷な色香を孕んでいる。
光は、
彼女の華奢な肩を
抱き寄せ、
その首筋に顔を埋めた。
姉さんの細い指が、
光の頬をなぞる。
昨夜の闇よりも深く、
夜明けの光よりも
熱い肌の感触。
「なら、あんた。このまま二人で、死ぬまで毒に回されてみるかい」
これが破滅への一歩だと知っていても、
光は姉さんの首筋から顔を上げない。
昇りゆく太陽が障子を白く焼き切るまで、
二人はただ、
互いの渇きを飲み干すことだけに
すべてを捧げていた。
昨夜の狂おしい夜鷹の顔は、
もうそこにはない。
そこにあるのは、
冷徹なまでの静けさを湛えた、
一人の女の覚悟だけだった。
鏡を見るような、
それでいて全く別の生き物を見つめるような、
熱のこもった眼差し。
光は、
彼女の首筋に深く、
深く顔を埋めた。
外では、
朝日が完全に昇り、
江戸の町が動き出した。
毒を抱いたまま、
二人は再び、
残酷な日常の中へと足を踏み出していく。
密やかな情熱と、
逃れられない破滅の予感に満ちていた。
過ぎる夜も、続く幾夜も光は
陽が昇る前の
静寂の中で繰り返される、
切なくも歪な歪んだ儀式のように
番人の仕事で得た
わずかな報酬を、
一銭も残さず
姉さんの掌に握らせ続けた。
それは、
江戸の片隅で
誰にも知られずに行われる
「心中」にも似た行為だった。
光にとって、
その金は単なる
対価ではないのだ。
他の男に
姉さんの身体を
許さざるを得なかった
「嫉妬」を浄化し、
奪われた時間を取り戻すための、
命の削り屑のようなものでした。
小屋の土の匂い、埃っぽい空気。
そこで姉さんを「買う」時だけ、
光は惨めな番人でもなく、
彼女を愛することを許された
一人の男になれたのだ。
毎日手渡されるその金の
重みに、
次第に口を利かなくなっていきました。
光は狂気的なまでの執着で差し出し続けた。
「……あんた、これじゃあ食べるものも買えないじゃないか。」
姉さんの問いかけに、
ただ、
飢えた獣のような瞳で姉さんを見つめるだだった。
胃を満たすよりも、
姉さんの体温を、
自分だけのものとして確認できる数刻の方が、
生きていくために必要だった。
「もう…戻れやしねぇんだ… …。どうせ消える命なら、綺麗事など吐き捨ててやる。あんたと泥を啜(すす)り、毒を飲み干す。
それが生きる道だ。
死に場所をあんたの懐と決めた……これ以上の幸せがどこにある。」
光は姉さんの耳元で、
風のように低く
しかし断固とした声で吐き捨てた。
その言葉は、
祈りのようでもあり、
あるいは互いの首にかける縄のようでもあった。
今、この瞬間、
自分たちはこの世で最も強く、
最も哀しい
繋がりの中にいるのだと。
二人は
顔を見合わせることはしない。
ただ、
互いの存在を確かめ合うように、
死を抱きしめるように、
袖の中で指を絡め合った。
嘘の「客」と「遊女」。
そこで交わされる抱擁は、
表通りの茣蓙(ござ)の上で交わされるどんな言葉よりも、剥き出しの真実を孕んでいた。
光が姉さんの身体を求めれば求めるほど、
二人の結びつきは
「守る者と守られる者」という境界を越え、
共に奈落へ落ちていく共犯者の絆へと変わっていく
その一瞬のためだけに、
今日を生き、
明日もまた泥にまみれて金を稼ぐ。
番人の自分が、
姉さんに与えられるのは、
精々、
どこか遠い村での貧しい暮らしだ。
泥にまみれ、
あかぎれだらけの手で
野良仕事をする日々。
夜の闇でさえ隠しきれないあの気品と美貌を、
そんな生活で枯らしていいはずがない。
姉さんに必要なのは、
愛でも、
ましてや自分の汚れた忠誠でもない。
この泥沼から引き上げ、
温かい食事と、
柔らかな絹の着物を与えられる「金」だ。
(俺にできるのは、番人として姉さんが傷つかないように見守ること。そして……)
いつか、
金を持った旦那が、
見初めて連れ去ってくれること。
それが、
光がたどり着いた唯一の、
そして最も苦しい愛情の形だった。
「身請けの話が来たら、迷わず行きなよ、姉さん」
その言葉は、
自分自身の心臓を刺し殺す刃になる。
いつか、
自分が守るべき「この場所」から、
自分ではない
誰かの手によって姉さんが連れ去られていく。
長屋の薄暗い一室から、
光の当たる場所へと彼女が消えていく。
その時、
自分は一体どんな顔で見送るのか。
「蛇」として、ただ静かに、
冷えた茣蓙(ござ)を見つめるだけなのか。
光の瞳には、かつての嫉妬ではなく、
悟りにも似た、
深い、深い絶望が宿っていた。
第四夜
江戸柳原、三町の奈落。嘘の祈りと絹の地獄。
神は存在したのか。
光の祈りは、
あまりにも儚く叶う夜が来たのだ。
「身請けの話が来たら、迷わず行きなよ、姉さん」
そう口にするたび、
光の喉の奥では、
焼けつくような毒が逆流していた。
本当は、
誰の手にも渡したくはなかった。
この薄汚い長屋の埃の中で、
泥にまみれて二人で死んでいくことこそが、
光にとっての真実の幸福だったのだ。
「……あいつのところへ行けば、姉さんは今よりずっと、綺麗でいられる」
冷ややかな嘘をついた。
本当は、この泥の中で、
この腕の中だけで姉さんを朽ち果てさせたい。
己の甲斐性のなさが毒のように身に沁みるたび、
千枚通しで刺されるように
疼く。
あいつに譲るんじゃない。
見限られる前に、自分から姉さんを放り出すことで、
辛うじて「男」の皮を一枚、繋ぎ止めたいだけだ。
「あいつなら、姉さんを『女』にしてくれる」
そう告げた時の、姉さんの絶望に染まった目。
泣きつきもしない。
ただ、凍てついた月のような眼差しが、俺の卑怯な正体を見透かすように突き刺さる。
一生消えない「捨てられた」という毒を姉さんに飲ませた。
その傷跡の中で、
永遠に飼い慣らそうとする、最底辺の執着。
自分がこの卑怯な面(つら)を維持できなくなる前に、早く、その背中が見えなくなってくれと――。
自分以外の
誰かが与える未来を、
さも、
最高の幸せであるかのように語る。
姉さんが信じれば信じるほど、
光の心は壊れていく。
自分の手で
幸せにできない無力さを、
「愛」という名の嘘で塗り固め、
自ら、他人の手へと突き飛ばす。
ああ、なんと儚い祈りだろうか。
自分が幸せになりたいという
野獣のような本音を血の味のする嘘で飲み込み、
ただ、背中を送り出すためだけに神に願う。
姉さんが光の中へ消えるとき、
光は一人、
地獄の暗闇で、
その嘘の代償を一生かけて払い続けるのだ。
姉さんの幸せを願ったはずの
その祈りが、
実は
自分自身を永遠の飢えへと追いやる呪いであることも知らずに。
姉さんと光はまた今晩も江戸の夜を徘徊する。
その夜、現れた客は、
土手の泥を払うような男たちとは、
纏う空気からして違っていた。
纏う着物は、
最高級の絹が動くたび、
かすかな衣擦れの音が響く。
その男の周囲には、
極めて冷徹な静寂が張り付いていた。
土手の風さえ、
彼に触れることを拒むかのように、
不自然に避けて通る。
彼が立っている場所だけが、
そこだけ切り取られた異空間のように、
恐ろしいほどに清潔だった。
「……茣蓙など要らぬ。ここに在るべき代物ではないな。……」
男の視線は、姉さんの肌を、
まるで
埃のついた陶器を検品するように、
執拗になぞり続け
「よし…屋敷へ参れ」
その男の言葉は、
まるで
品物を見定め買うかのような言いようで
冷えた石を投げつけられるような感触だった。
光はただ、暗闇の中で息を呑んだ。
差し出された金の輝きに、
夜鷹という商売の理(ことわり)が
光と姉さんのささやかな約束を飲み込んでいく。
その男は、
姉さんを品定めし
終えた冷徹な瞳を、
ついでに足元の石ころでも見るかのように、
光へと向けた。
男は姉さんの腕を、
まるで
折れやすい小枝を扱うような所作で掴んだまま、
「……そこの男。お前も、
こちらへ…」
男は顎を使い、
光を招いた。
光の呼吸が止まる。
男の声には、
光が姉さんを想う情愛への敬意など、
塵ほども混じっていない。
男は、
姉さんの細い腕を掴んだまま、
前だけを見て歩く。
その掴み方は、
愛惜(あいせき)ゆえの強さではない。
逃げ出さぬよう、あるいは自分の「持ち物」が勝手に動かぬよう固定する、
万力のような無機質な暴力だ。
姉さんの足元は、
引きずられるようにして泥を蹴り、
これまで生きてきた土手の匂いを必死に手放そうとしている。
その二人の数歩後ろを、音もなく歩いた。
感情を捨て、熱を捨て、
ただひたすらに身を屈めて這う「蛇」となる。
蛇になった瞳には、
もう男への怒りも、
姉さんへの未練も映らない。
ただ、冷たい月光を反射する鱗(うろこ)のような硬い沈黙で、
己の心を何重にも巻き、締め付け、殺した。
もし、ここで少しでも
「人間」に戻れば、
光の口からは血を吐くような
絶叫が漏れてしまうだろう。
江戸の夜の静寂が、
三人の歩みを飲み込んでいく。
男の通る場所だけが、
不自然なほどに「無」に変わる。
賑やかなはずの夜の街も、
この男が歩けば、
すべてが色を失い、凍りついていくのだ。
その背中を見つめながら、毒を溜め込む蛇のように思考を止めた。
あの嘘の祈りが、いま、毒牙となって光自身の喉を突き刺している。
やがて、
闇の向こうに、
見たこともないような立派な屋敷が現れる。
男の屋敷は、
自分たちが夜な夜な泥をすすっていた土手から、
わずか三町(約三百メートル)ほどしか離れていなかった。
近い。あまりに近い。
だが、その数分の歩みは、
光にとって地獄への入り口だった。
男の屋敷の敷地内に入った途端、外の夜の音――江戸の雑踏や、遠くの橋で鳴る下駄の音――が、まるで水の底に沈んだかのように消えた。
屋敷の門をくぐり、
男は不意に立ち止まった。
男は掴んでいた姐さんの腕を離さないまま、
首だけをゆっくりと、光の方へ向けた。
「お前はここまでだ。……ここで待ちなさい」
その声は、
犬を庭先に繋ぎ止めるような、
あまりにも当然の、あまりにも無機質な響き。
光は、
蛇のように身を低くしたまま、
その言葉を飲み込んだ。
「ここで待て」という命令は、壁一枚隔てた向こう側の出来事をただ黙って聞き続けろという、
何よりも残酷な拷問だ。
姉さんの震える肩が、
ゆっくりと奥の闇へと消えていく。
彼女が最後に光を振り返ったのか、
それとも絶望で顔を上げられなかったのか、
蛇になった光にはもう分からない。
光の目の前で、
屋敷の戸はパタンと音を出して閉ざされた。
心臓の鼓動さえ、蛇のように遅く、
冷たくなっていく。
光は深い、深い、漆黒の静寂の中に、その身を沈めた。
ただの「番人」として立ち尽くすしかなかった。
門の向こう側で、姉さんが何をされているのか。
それを想像するだけで、
胃の底が焼けつくような嫉妬が再燃する。
だが、今の光は、
小屋で姉さんを抱きしめていた男ではない。
主人の命を待つ、一匹の狗(いぬ)に過ぎない。
俺が吐いたあの
「冷ややかな嘘」が、
望み通りに現実へと形を変えているはずだ。
自分が与えられなかった真っ当な白粉が姉さんの肌を飾り、食わせてやれなかった温かい飯が、
あの細い喉を通っている。
それこそが願った「姉さんの幸せ」だったはずなのに、
胸の奥が、焼けつくような後悔でせり上がってくる。
「……何が、あいつなら女にしてくれる、だ」
夜が明け、
朝陽が昇り、
埃が光に舞うのを見つめ、
天上の太陽に肌を焼かれ、
そして
また世界が藍色に沈んでいく頃、門が開いた。
現れたのは、
暗闇に咲く大輪の牡丹のような、
眩い姿だった。
絹の美しくい着物。
それは、
夜の闇を吸い込んだような深い色、
あるいは血のように鮮やかな赤か。
擦れる衣擦れの音、
微かに漂う高級な香油の匂い。
覗くうなじも、
指先も、
すべてが磨き上げられた工芸品のように美しく、
そこには「泥の中の姉さん」の面影はどこにもなかった。
まるで、花魁のような姿。
そのあまりの神々しさに、
声をかけることすら忘れて立ち尽くす。
怒鳴るわけでもなく、
追い払うわけでもない。
ただ、
用が済んだ道具を箱から放り出し、
元の場所へ戻すかのように、
そして迷いもなくパタンと軽く門を閉ざした。
自分が必死に貯めた銭で、
小屋の隅で触れていた
「あの姉さん」が、
遠い、遠い
世界の住人になってしまった。
姉さんの切れ長の目は、
以前よりも鋭く、
そしてどこか虚ろな光を宿している。
美しい着物に包まれた姉さんは、
確かに救い出されたように見えた。
だが、その美しさは自分と彼女を分かつ、絶望的なまでの「壁」に他ならなかった。
(これが、姉さんの本来の姿なのか……)
一生かかっても与えられなかった「美」を、
見知らぬ客は一晩で彼女に与えてしまった。
幸せだったはずの朝の記憶が、
絹の着物の光沢に押しつぶされ、
かつてないほど冷たく暗い影が落ちていく。
「ほーら番人さん、今日は大盤振る舞いだよ。……飲みにいこうか?」
その声は、
かつて泥の中で笑い合っていた時の温もりを、
無惨になぞっているだけだった。
「大盤振る舞い」――。
男に徹底的に蹂躙され、尊厳を奪われた代償として放り出された金。
それを、姉さんは「稼ぎ」と呼び、光を誘う。
光は、声が出せなかった。
叫びたかった。
その金を地面に叩きつけ、
あの大名屋敷に殴り込み、
男の喉笛を掻き切りたかった。
「……あぁ、そうだな、姉さん」
光は、蛇のように心を殺した
「……今夜は、高い酒を飲もう。姉さんの稼ぎでな」
光の視界は、
悔しさと悲しみで
歪んでいた。
二人は、閉ざされた門に背を向け、
ふらふらと夜の闇へと歩き出す。
足元には、夜鷹の商売場へ続く、あの汚い泥道が広がっている。
金持ちの街の輝きは、
もう二人の背中には届かない。
ただ、一歩歩くたびに、
姉さんの着物から、あの男がつけた匂いと、
壊れた心の音が零れ落ちていた。
「惚れたもん負け」という言葉が、これほどまでに重く、そして悲しく響く夜はない。
高い酒で感覚を麻痺させ、
いつもの薄汚れた置き小屋で、
互いの体温だけを頼りに繋がる。
男につけられた冷たい匂いを、
必死に泥と汗の匂いで上書きしようとするかのような夜。
朝方の薄明かりの中、
紫煙を燻らす姉さんの横顔は、
皮肉なほどに神々しく、美しい
「姉さん…花魁のようだな」
姉さんは、煙管をくゆらせたまま、
自嘲気味に笑う。
「……ふん。ようだ、じゃなく、花魁だったんだよ」
「なんせ売れたよ。……けどね。
あそこは、毎日毎晩、箱(見世)の中にいなきゃいけないんだ。
息の詰まるような規則、決められた時間、雁字搦(がんじがら)めの掟。
……もー、うんざりだ。出たくても、出られないんだよ」
姉さんは、煙をふぅっと吐き出し、光の頬にその指先を滑らせます。
「けどねぇ…花魁道中だけ、出られたんだよ?…ふ…何が起きたか想像できるか?」
姉さんの低く笑うような、あるいは泣き出しそうな瞳……。
姉さんは煙草盆にトントン、と煙管を叩き、静かに話しだした。
「道中ってのはさ、番人さん。
皆が、あたしを崇めるように見上げてくるんだ。
けれど、
あの高い下駄を一段
踏み出すたびに、
あたしの心は死んでいった。……ああ、このまま歩いていけば、また戻るだけなんだってね」
姉さんの目が、ふっと遠くなる。
「あの日……門のすぐそばまで来た時、ふと思ったんだ。このまま、この重い着物を脱ぎ捨てて、泥の中に飛び込んだらどうなるだろうって。……あたしはね、道中の真っ只中で、あの三枚歯の下駄を蹴り飛ばしたんだよ」
「禿(かむろ)たちが悲鳴を上げて、周りの男たちが血相を変えて追いかけてきた。
……あたしは、重い衣装を引きちぎるようにして脱ぎ捨てながら、ただ走った。
転んで、泥にまみれて、見物客に足蹴にされても、笑いが止まらなかったよ。
……あの瞬間、あたしは初めて、『物』じゃなく『人間』になったんだ」
煙管をくわえたまま、ふっと自嘲気味に笑った。
「重かったよ、あの着物は。まるで石碑を背負って歩いてるみたいでさ。
……でも、一枚脱ぐたびに体が軽くなる。
足裏に刺さる砂利の痛みさえ、
生きてる証拠だって思えた。
追いかけてくる奴らの怒鳴り声が遠ざかって、
ただ風の音だけが聞こえた時……ああ、あたしは今、初めて空気を吸ってるんだって、そう思ったよ」
さらに続けた
「……必死で逃げて、行き着いたのがこの泥土手さ。
ここなら、誰もあたしを『花魁』だなんて呼ばない。
ただの、くたびれた夜鷹。……皮肉なもんだよね、番人さん。
あんなに欲しがった自由の正体が、この寒くて汚い泥の上だったなんてさ」
「……姉さん」
姉さんが捨ててきた「箱」の重さを感じていた。
姉さんは、ふっと視線を落として、
空になった盃の縁を細い指でなぞりる。
「……番人さんよ。あの時、あたしがあのまま『箱』の中で、お人形さんみたいに黙って座ってりゃあ……。こうして泥を啜りながら、あんたみたいな色男と高い酒を酌み交わすことも、なかったってことだよ」
姉さんは、少し酔いの回った瞳で、光の顔をまじまじと見つめる。
「あんた、ほんとに色男になったよ。……惚れちまいそうだ」
姉さんは、煙管を置いて、ふらりと光の胸に額を預けた。
光は、自分の喉が熱く込み上げるのを、無理やり飲み込んだ。
「……よせよ、姉さん。俺は、あんたの番人だ。……今さら惚れたなんて言われたら、俺の心臓が持たないよ」
姉さんは呆れた顔しながらゆっくり立ち上がり
「さ、今晩も稼ぐよ」
そう言い優しく笑みを浮かべた
連日、その「客」は現れ続けた。
光が一生かけても拝めないような
大金が、
姉さんの価値を塗り替えていく。
かつては土手で客を待つ「夜鷹」に過ぎなかった姉さんが、
その男に買われるたびに、
「高貴な美しさ」を纏っていく。
番人としての仕事は、
もはや拷問に等しいものだった。
屋敷の門前で待ち続ける時間は、
一分一秒が心を削り取っていく。
門が開くたびに
現れる姉さんは、
昨日よりも、
一昨日よりも、
さらに凛として、神々しくすらあり。
(抱いていたのは、本当にこの人だったのか……?)
姉さんが美しくなればなるほど、
胸にある歪んだ愛は、
逃げ場を失ってひび割れていく。
自分が見つけた
「泥の中の真珠」を、
別の誰かが拾い上げ、
贅を尽くした箱に収めてしまった。
「おき小屋」
へ誘う姉さんの手は、
かつての
骨張った冷たさを忘れ、
滑らかな絹のようだ。
けれど、
光が姉さんを抱くとき、
その心はもう「幸せ」では満たされなかった。
(届かない。もう、すぐ側にいるのに、手が届かない。)
どれだけ強く抱きしめても、
姉さんの身体に染み付いた
高級な香の匂いが、
光に現実を突きつける。
「お前はただの番人だ。この女を幸せにしているのは、お前ではなくあの客だ」――闇の中からそんな嘲笑が聞こえるようだ。
嫉妬、羨望、自尊心の欠如、そして狂おしいほどの情愛。
届かぬ高嶺を仰ぎ見る
謙虚さは
いつしか
「手に入らぬならいっそ汚してしまいたい」
という
歪んだ独占欲に焼き切れ、
彼女を縛り付ける
甘い毒となり溢れ出した。
姉さんは、日に日に美しく、
遠くなっていく。
独占したいという衝動と、
自分と同じ泥沼に引き戻したいという
暗い欲望の間。
光の瞳には、かつての献身的な「蛇」の姿はなかった。
そこにあるのは、
獲物を自分の巣(泥)に引きずり戻し、
二度と誰にも見られないように隠し通したいという、暗く濁った「独占欲」だけだった。
「……あんたを……!」
光の唇を、姉さんの指が遮る。
「惚れたもん負け、なんだろう? ……あたしはね、あんたのその汚い心も、全部飲み込んでここにいるんだよ。……だから、今夜だけは、その毒をあたしに全部吐き出しちまいな」
姉さんの瞳が、
悲しげに、けれど圧倒的な美しさで光を射抜く。
光は、
自分がどんなに抗っても、
この女の掌の上でしか踊れない「無力な男」であることを再確認した。
その夜、
光は泣きながら姉さんを抱きしめた。
愛しているのに、壊したい。
触れたいのに、汚したくない。
その矛盾が光の魂を引き裂き、
――耳元で、猛毒の囁きが聞こえる。
「あんなに綺麗になったのは、お前の知らない男の手垢のせいだ。……いっそ、その白い肌を、お前の泥だらけの指で、二度と消えないほど汚してしまえよ」
泥の中の真珠を、
誰にも渡さないために、
自ら泥を塗って隠そうとするような歪んだ愛。
「蛇」として息を潜めていた
冷たさは、
沸騰するような「獣」の熱に取って代わられ。
姉さんの手を引いて
月明かりさえ届かない真っ黒な江戸の夜の町を
光は狂ったように走り始めた
泥を蹴立てて
草履の鼻緒が切れるのも厭わず、
泥を撥ね、
光はただ一点、姉さんと闇へ向かってひた走った
姉さんは
結い上げられていたはずの黒髪が、
風に煽られて一本、
また一本と解け、白い項(うなじ)
を撫でるように靡かせる
下駄を鳴らし
無我夢中で、
つんのめるように駆ける
裾は、はだけ
泥にまみれてひた走る
着物の裾が足にまとわりつき、
一歩踏み出すごとに自由を奪う。
泥を跳ね上げ、
美しかった裏地が夜の闇と土に汚れていく
「ザッ、ザッ」という砂を噛むような、草履の低くて力強い音と
「カラン……コロン……」と、不規則で乾いた下駄の高い音が闇に響く
堤防の橋のたもとまで、
姉さんを追い詰め
「ドン」とついた右手の熱が、石壁を伝って姉さんの背中を焼く。
追い詰めた衝撃で、古びた橋桁からパラパラと乾いた砂がこぼれ落ち、
姉さんの結った髪が
はらりと落ち
前髪が
姉さんの熱い吐息で揺れている
光が急に足を止めた拍子に、姉さんの足元から片方の下駄が外れ、乾いた音を立てて転がっていく。
むき出しになった姉さんの白い足先が、湿った泥を掴むように、小さく震えている。
光は、その震える足先を一瞥すると、躊躇なく、己の草履を履いた右足を、姉さんの脚の間へと強引に割り込ませた。
それは、番人としての確保などではない。
一匹の獣だ。
逃れようのない至近距離で、吐き出された熱い呼気が姉さんの白い首筋をなぞり、産毛を震わせた。
「… … …はぁ… …」
「…はぁ…はぁ…」
喉元までせり上がった荒い息を、隠そうともせず、むき出しのまま彼女の首筋へと叩きつける。
お互いの鼻先が触れ合い、
「… …で?…はぁ… はぁ … …何をしようとしてんだい、番人さん」
その錆(さび)の乗った乾いた相手を気圧す(けおす)ような声で、低く笑った。
切長の目が挑戦的に番人を射抜く。
その口角が、勝ち誇ったように僅かに、残酷に吊り上がった。
瞬間。
(……あぁ、そうかい。そうやって笑うんだな)
ドクン、と。
光の心臓が突き破らんばかりに血の流れを感じる。
すべてがどうでもよくなった。
ただ、目の前で
自分を嘲笑うこの「女」を、
完膚なきまでに沈黙させ、
支配したいという、
真っ黒な本能だけだ。
指先が、姉さんの着物の裾へと滑り込んだ。
ざらついた布地の感触。そのすぐ下にある、熱を帯びた、柔らかな禁域。
姉さんの
小さな悲鳴を飲み込むように
番人はその狂おしいほどに求めていた唇へ、
激しく己を叩きつけた
光は激しく姉さんに肌を打ちつけながら
自分の惨めさ、
情けを全て姉さん打ち続けた。
(俺は、あんたを救いたかった!)
(なのに、俺の腕の中で、あんたはあの男の影を纏って美しくなっていく!)
(俺じゃ届かない場所へ、あんたはどんどん昇っていく!)
光がぶつけているのは、情欲ではない。
それは、自分の無力さへの怒りであり、
あの屋敷の門の前で這いつくばるしかできない「番人」としての情けなさの塊だ。
身体が砕けそうな衝撃に晒されながらも、
姉さんは逃げようとはしない。
光が惨めさをぶつければぶつけるほど、
その光の髪を強く、
強くかき乱し、
その背中に爪を立てました。
「……あぁ、いいよ。……全部、あたしに寄こしなよ、光」
その声は、苦痛に歪みながらも、この世の何よりも深い包容力に満ちていた。
その痛みこそが
「生きている証」だと突きつけるよな痛みだ。
やがて、
獣の咆哮が静かな嗚咽へと
変わる頃、
光は姉さんの胸の中で、
抜け殻のように動かなくなった。
すべてを出し切り、
ぶつけ尽くした光の心に広がったのは、
満たされた安らぎではなく、
虚しさだけだった。
激しく打ちつけた自分の肌の痛みだけが、
唯一の現実。
柳原の土手に冷たい風が吹いた…
柳の枝を揺らす風から、湿り気が消えた。
夏の終わりを告げるような冷たい夜風が、汗ばんだ二人の肌を容赦なく撫で、熱を奪い去っていく。
光の耳に届くのは、
濁った水が岸を叩く重い音
すぐそばで聞こえる姉さんの、短く、震えるような呼吸音だけ。
すべてをぶつけ、すべてを剥ぎ取ったはずなのに。
自分の草履で踏みにじった、彼女の白い足先。
泥を跳ね上げ、無惨に汚してしまった高級な着物の裾。
それは、あの無機質な男が彼女に与えた「価値」を否定したかった光の、あまりにも子供じみた、そして残酷な「勝利」の跡でした。
(俺は、何をしているんだ……)
彼女が命懸けで守りたかった「自由」を、今、この手で最も醜い形で汚してしまったのは、あの男ではなく、この俺ではないのか。
「……気が済んだかい、光」
姉さんは、はだけた着物を直そうともせず、片方の下駄を失った裸足のまま、ゆっくりと空を見上げた。
雲に隠れた月が、微かな光を姉さんの横顔に落とした。
そこには、辱められた女の悲壮感など微塵もなく、ただ、嵐をやり過ごした後のような、静謐な強さだけがありました。
「あんたがぶつけたのは、あたしへの愛じゃない。……あんた自身の、ちっぽけな鏡だよ」
足元には、さきほど自分が蹴り飛ばした姉さんの下駄が、泥に半分埋まって転がっている。
「……姉さん」
光の声は、夜風にかき消されそうなほど細く、情けないものでした。
姉さんは、乱れた前髪を無造作にかき上げると、泥に汚れた足先を一度見つめ、それから小さく笑いました。
「見なよ。あんたのおかげで、またひどい有り様だ。……これじゃ、あの屋敷の男も、明日は門を開けちゃくれないだろうね」
姉さんの優しさだ。
俺ってやつぁ情けねぇ…
「……ったく。何しゃがんだよ」
姉さんは笑いながら、光の草履の足跡が残る地面を、裸足のまま一歩、
踏み出した。
第五夜
泥中の契り ―三町の距離、永遠の闇―』
長屋に着いた
姉さんは長屋を遠い目で見つめて深いため息をついた。
静まり返った長屋の空気は、湿った重さを孕んでいた。
大家が現れ姉さんを手招きし「こちへ…」と、呼び出した。
しばらくして。
闇に紛れて光を呼び出したのは、
おき小屋よりもさらに狭く、
朽ち果てた裏小屋。
二人は一言も交わさぬまま、
夜を明かした。
光は、姉さんの
纏う高級な絹の冷たさと、
その奥にある震える体温を、ただ静かに噛み締めていた。
東の空が白み始め、夜明けの光が板壁の隙間から差し込んだとき。
沈黙を破ったのは、
姉さんの、
今にも壊れそうな声。
「身請け話だよ……」
あの客が、ついに大金を積んだ。
姉さんの瞳に底なしの絶望が映る。
「……ねぇ、光。あんたといたいんだよ。……ここを出よう。こんな泥だらけの場所、もう捨てちまって、二人でどこかへ……ここを出ていこう。……もう、嫌なんだよ」
これまで一度も弱音を吐かず、
光を弄ぶ余裕さえ見せていた姉さんが、声を荒げて泣きじゃくる。
姉さんの目に、月光が反射して、
一筋の光がこぼれる。
「番人なんて、もうよしなよ。あたしも夜鷹は廃業さ。……あんたと二人、なぁ、ほら。泥を啜ってでも、お天道様から隠れてでもいい。……ねぇ、光。あたしを、ここから連れ去っておくれよ」
姉さんの涙が、光の粗末な着物に染み込んでいく。
かつて「金がない自分には彼女を幸せにできない」と諦めた。
けれど、
今目の前で泣き崩れているのは、
美しく着飾った「花魁のような女」ではなく、
ただ愛する男の腕の中で、
泥にまみれてもいいと願う「一人の女」だった。
姉さんの泣き声が、狭い裏小屋に響き渡る。
「姉さん、行けません……」
縋り付く姉さんの細い腕を、
光は一つひとつ、ゆっくりと剥がしていく。
その手には力がこもっていたが、
突き放すためではなく、
自分自身の心を殺すための力だった
「あんた程の女は、自分などでは到底幸せにできない。この手じゃ、あんたに粥一杯、満足に食わせてやることも、冬の寒さから守ってやることもできないんだ……」
光の目から、
初めて一筋の涙がこぼれ、
泥の床に落ちた。
姉さんは驚き、そして裏切られたような目で光を見つめる。
「金なんていらないって言ってるじゃないか! 苦労したっていい、あんたがいれば……!」
「ダメだ!」
光の怒声が小屋を震わせた。
「あんたは、あの美しい着物が似合う人だ。泥にまみれていい女じゃない。あの屋敷の主なら、あんたを一生、光の中に置いてくれる。……俺と一緒に逃げれば、あんたはただの逃亡者だ。一生、影に隠れて、怯えて暮らすことになる」
光は地面に膝をつき、深々と頭を下げた。
「姉さん、行って下さい。……それが、俺の最後の願いです」
「……あんた、本気で言ってるのかい?」
姉さんの声から温度が消えていく。
顔を上げなかった。
上げれば、彼女の悲しみに負けて、
その手を引いて逃げ出してしまうと分かっていたから。
「……身請けの話、受けて下さい。」
裏小屋に、
死のような沈黙が訪れる。
やがて、衣擦れの音が聞こえた。
姉さんが立ち上がり、脱ぎ捨てられていた絹の着物を拾い上げる。
「……分かったよ。あんたは、最後まで卑怯な男だね」
姉さんは、冷たくなった声でそう言い残し、一度も振り返ることなく出ていった。
朝の光の中へ消えていく
姉さん背中は、
これまでで一番美しく、
そして残酷なほど遠かった。
いなくなった後の冷たい
空気の中で、
ただ一人、
自分の汚れた拳を血が滲むほど握りしめていた。
これが自分の選んだ「愛」の形。
彼女を救うために、彼女の心を殺し、自分の未来を殺した。
江戸の町に、朝の鐘が鳴り響く。
姉さんが出て行った後、裏小屋の埃の匂いが
やけに鼻につく。
朝日が差し込む。
光の悲劇を嘲笑うような
「日常の朝」がそこにある。
残酷な朝を迎えた。
そこにはもう、守るべき主を失った、ただの「蛇」の抜け殻だけが残されていた。
(これで良かったんだ。)
__暗転__
第六夜
泥にまみれて生きる(本能)、覚悟を決めた夜。
姉さんが身請けされた数カ月後。
喧騒。三味線の音。
夕闇が迫る中、煌々と灯りがともる吉原。
見物客の人だかりを割って、豪華絢爛な「花魁道中」が進んでいく。
煌びやかな「花魁道中」が三味線の音と共に進んでいる。見物客の歓声。
その一本の暗い路地へと
入り込むと。
そこは、明かりもまばらな、泥の匂いがする夜鷹たちの吹き溜まり長屋。
男たちの荒い声と、湿った空気が支配する場所。
その長屋の入り口に、
夜の闇を割って、
金飾りが施された豪華な塗り籠(ぬりかご)が到着する。
屈強な供回りが数人。
本来なら大名や豪商が乗るような
その籠が、
泥濘(ぬかるみ)に止まる。
長屋の住人たちが
「なんだ、なんだ」と顔を出す。
その中に、ボロを纏い、死んだ魚のような目をした光がいる。
籠の扉が開く。
中から現れたのは、
かつてこの長屋で、
襤褸(ぼろ)を下げて
客を引いていたはずの姉さん。
夜鷹には許されないはずの、眩いばかりの高級な絹の着物を纏っている。
その凛とした、しかし冷え切った美しさに、野次馬たちが静まり返る。
姉さんは光に視線を送ることなく、
供回りを連れて大家の元へ向かう。
それを見送る光。
そこへ、大家が光の肩を叩き、「おい。……お前も来い」と短く告げる。
里帰りの宴。長屋には笑い声と酒の香りが充満している。
里帰りの宴席で、
姉さんがもてなしをいている。酒を注ぐ時に袖が少しめくれ、
手首にどす黒いあざが見える。
白粉(おしろい)で必死に隠した首元のあざが、
汗で浮き出てきている。
(あ、姉さん…?)
「おい、光こい」
振り向くと、大家が呼ぶ。
薄暗い奥座敷。
光は畳に額を擦り付け、
絶望に震えている。
大家はゆっくりと煙管の灰を叩き落とし、
光を見下ろす。
「……光、顔を上げな。あの旦那、うちの看板に泥を塗りやがった。幾ら夜鷹とは言えね。
あそこまでされて黙ってりゃ、俺の面目は丸潰れよ」
光が驚いて顔を上げる。
大家の目は笑っていない。
「金が必要なんだろ。……いいか、貸してやる。だがな、これはあの子を救う金じゃねぇ。
お前のこれからの人生、
一秒残らず俺が買い取る代金だ。
二度と日向は歩かせねぇ。
あの子を連れ戻した後は、
二人揃って死ぬまで俺の泥の中で這いつくばってもらう。……断るなら、今すぐ消えな」
光の喉が、
熱い塊でせり上がる。
救済なんて甘いもんじゃない。これは、心中よりも残酷な、終わりなき「奴隷の誓約」だ。
けれど、今の光には、その呪いこそが、姉さんを繋ぎ止める唯一の「光」に見えた。
「……はい……っ。……お願いします」
もう「番人」という綺麗な皮は剥がれ落ちた。
自分は、大家に魂を売った、ただの強欲な獣だ。
……
光は、地面に突いた拳を白くなるまで握りしめている。
最初は、肩がかすかに震えるだけだった。
光は、大家に最後の一礼した。
夜の長屋の闇へと駆け出していく。
その背中を見送りながら、
大家はふっと目を細め、消えかかった煙管の火をじっと見つめている――。
里帰りの宴。
笑い声と酒の香りが充満している。
その喧騒から離れた一角、化粧部屋。
姉さんは一人、大きな鏡の前に座っている。
光が、大家の指示で茶を運び込む。
部屋には、二人きり。
鏡越しに視線がぶつかる。
光は、鏡の中に映る彼女の首筋のどす黒いあざを見て、息を呑む。
姉さんは
鏡の中の自分を見つめたまま、
温度のない声で
「……綺麗だろう、光。あんたが望んだ通り、私はこんなに『光』の中にいるよ。……重いんだよ、この着物。……息をするのも、やっとだ。」
光の手が、お盆の上で激しく震える。
「光、あんたはあたいの番人だろ?」
「… … はい… 」
「商売道具がこんなんじゃ… こんなんじゃ…売れるもの物。売れないだろ?… 」
「……」
光は俯いた。
「……番人さん。……あんたは番人だろ?……だったら、あたしを……あたしを、迎えにきてくれないか?」
鏡の中の姉さんが自らが言った。
光は、
唇を血が出るほど噛み締めながら
光は、出口の戸に手をかけたまま、動けない。
腰に差した十手を、折れんばかりの力で握りしめる。
抱きしめたい。
今すぐその細い肩を抱き寄せ、この泥だらけの胸で泣かせてやりたい。
けれど、今の俺は、ただの番人だ。
この十手じゃ、あんたの着物の裾さえ守れやしない。
あんなに近くにいた姉さんが……今は、気が遠くなるほど、遠い。
光は深く頭を下げてその部屋を後にした
ある夜、
奥座敷の
行灯(あんどん)の光を受け、
光は大家のいる奥屋敷を訪れた。
本能のままに、
覚悟を決めた夜。
泥にまみれた襤褸(ぼろ)は
もうない。
光が纏っているのは、
大家が用意した、最高級の御召(おめし)。
夜の闇よりも深い濃紺の生地には、
仄(ほの)かな光沢があり、
歩くたびに絹が擦れる上品な音が、
静かな座敷に響く。
その姿は、
どこからどう見ても、
大店(おおだな)の若旦那、
あるいは高貴な武家の出。
しかし、
その御召(おめし)に包まれた体の中には、
大家の言葉によって呼び覚まされた、泥臭い執念が滾(たぎ)っている。
光は大家の前に座り、
静かに、
十手を畳に置き、
代わりに懐(ふところ)の
身請け証書に触れた。
「……行って参ります」
「……行っておいで。戻る場所は、空けておいてやるよ」
大家の言葉を背に、
長屋の番人の証である羽織を脱ぎ捨て、
一振りの脇差を
懐に差し込んだ。
光は、大家から貸し与えられた最高級の漆塗りの漆黒の印籠を持ち、
見事な細工の脇差を
腰に差した。
一歩一歩、土手の泥を踏みしめる。
その行列が長屋を出る時、近所の連中は「何事だ」と出てくるけれど、
先頭を行く光の、あまりに冷たく研ぎ澄まされた横顔を見て、誰も声をかけられなかった。
旦那の屋敷が見えた。
大屋敷の門を叩く供回りの声。
「江戸の若旦那、お見えにございます。主(あるじ)殿に、是非にとのお取次ぎを。」
重厚な門が、音もなく左右に開かれる。
その隙間から溢れ出したのは、柳原の闇を切り裂くような、傲慢なまでの黄金色の光だった。
その眩い光が、
門前に立つ光(ひかる)の姿を容赦なく捉える。
最高級の絹の光沢、大家が用意した偽りの威容、そして……。
光に照らし出された彼の顔には、かつての「番人」の面影はどこにもなかった。
自分の命をすべて火にくべ、後戻りのできない地獄へ足を踏み入れた男だけが浮かべる、不気味なほど深く、
歪んだ笑み。
光は、その眩しさに目を細めることすらせず、
真っ向から光を睨みつけながら、ゆっくりと口角を吊り上げた。
「江戸の若旦那」という皮を被った怪物が、今、光の渦へと飲み込まれていった。
姉さん、迎えに上がりました
深く頭を下げ
ニヤリと口角を上げて笑う
江戸柳原。
柳原の泥の匂いと、大名屋敷の沈丁花の香りが混ざり合ったような匂いが漂う。
冷たい夜露がひとしずく、石畳に落ちて砕け枯れゆく季節を感じる。
秋の月光に照らされ光は面を上げゆっくり門をくぐった。
(画面、暗転)
(――完――)
