優しい世界を守るのための不必要な嘘
最近「優しさ」について
考えてるんですが
例えば……
女性を殴る人と
殴らない人とでは
殴らない人の方が
優しいですよね
でも世の中には
殴られるのが気持ちいい
女の人もいるわけで……
そうなると
「優しさ」っていうのは
何なのか……
よく判らなくなって
きますよね
……すみません
次の曲行きます
これは、沙村宏明の短編漫画集『シスタージェネレーター』に描かれている井上陽水のライブでのMCだ。本当に井上陽水がライブでこのようなことを語ったのかは定かではないが、陽水なら言いそうではある。
最近、この漫画で語られている「優しさって何だろう」という問いを思い出すことがあった。
――優しさや気遣いが渋滞すると、なにかを見失って「よく判らなくなって」しまう。
先日、スーパーで買い物をしていた時のことだ。
僕はワイヤレスイヤホンでPodcastを聴きながら、夕食のメニューを思案していた。
その時、スマホが震えた。電話だった。
最近のイヤホンは高性能で、装着したままハンズフリー通話ができる。しかし、ここで一つ懸念が生じた。
耳に指先ほどの小さなイヤホンを詰めただけの人が、虚空に向かって喋る姿は、他人から見れば「独り言」に映るのではないか。
そのような不審な挙動をして、ご近所の皆様の心を乱すわけにはいかない。
ご近所の平穏を守るため、僕は必要のない嘘をつくことにした。
本当は不要だけれど、スマホを持ち上げ、イヤホンのついたままの耳に当てた。
「私は今、文明を利用して通信している健全な市民ですよ」というポーズだ。平和を維持するための工作である。
「今、大丈夫?」 通話相手は言った。
僕は周囲を気にしながら囁いた。 「大丈夫。でもスーパーにいるから、小声で喋るね」
すると相手も、なぜか声を潜めた。 「……そっか、それはごめん。わかった、小声で喋るね」
それは、寝た子を起こさないようにささやくような無声音だった。
いや、待て。
君の声は僕のイヤホンの中に閉じ込められている。
仮に多少音漏れしても、スーパーの「呼び込み君」がかき消してくれる。君が声を潜める理由は皆無だ。
しかし、通話相手はなぜかずっと、蚊の鳴くような声で会話を続けた。
スマホで電話をしているフリをする僕と、無意味に囁き続ける通話相手だが、誰もその不自然さには気が付かない。
そこには「だれかを思いやる気持ち」だけがあった。
誰も傷つかないために、みんなが少しずつ「なんか違うこと」をする。
ご近所の平和はこうやって守られている。
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