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ボッティチェリ〈春〉

たわわに実ったオレンジの林。
地面にはバラやアイリス、スミレなど500本以上もの草花が生えている。
そして、そんな美しい緑の園に集うヴィーナスをはじめギリシャ神話のキャラクターたちを描いたボッティチェリの〈春〉は、15世紀のフィレンツェを象徴する作品である。
絵の前に立つと、当時、学問と芸術の中心地として繁栄していたフィレンツェの自由で華やかな空気が匂い立つようだ。この絵には、フィレンツェ人たちの古典古代への憧れと、当時広まりつつあった新プラトン主義の思想が込められていると考えられている。

今回は、このボッティチェリの傑作〈春〉が生まれた背景と作品の魅力を紐解くことで、フィレンツェが最も美しく輝いていた時代へと近づいてみよう。

①フィレンツェ・ルネサンスとメディチ家

中世ヨーロッパでは、キリスト教の教義が社会や文化の中心となっていた。
しかし、ペストの流行や度重なる十字軍の失敗により教会の権威は揺らぎ始める。
その一方で、文化人たちの間では、現世の肯定や、それまでは教会の権威のもとに制約を受けてきた人間的な感情や理性を見直そうとする機運が高まっていく。その手本として、人々が目を向けたのが、教会から「異教」と見なされてきた古代ギリシャ・ローマの文化だった。
そこには、あらゆるものがあった。
「人間とは何か?」という問いに対する答え。理想の政治形態について。そして美……。
古典古代は、掘れば掘るほど新たなものが見つかる宝の山であり、多くの人々を夢中にさせた。

フィレンツェでも、古代文化に関心の高かった権力者コジモ・ディ・メディチの庇護のもと、人文主義者たちの集まるプラトン・アカデミーが形成された。そこには哲学者マルシリオ・フィチーノや詩人ポリツィアーノが参加し、プラトンの著作のラテン語訳や、思想の解釈をめぐって議論を重ねていた。
こうした文化的な空気の中で育ったのが、コジモの孫ロレンツォ・ディ・メディチ(豪華王)である。
ロレンツォは、その政治力によってフィレンツェを最盛期へと導くと同時に、祖父や父に倣い、多くの芸術家たちを支援した。
サンドロ・ボッティチェリもその一人である。

②ボッティチェリ

サンドロ・ボッティチェリ(本名アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ)は、1445年頃、フィレンツェで生まれた。
当初は兄の工房で、金細工師として修行を積んだが、15,16歳の頃、フィリッポ・リッピの工房に弟子入りし、画家としての道を歩み始める。

フィリッポ・リッピ〈聖母子と二人の天使〉、1460〜65年、ウフィツィ美術館(パブリックドメイン)(出展:wikipedia)

フィリッポ・リッピは、元々はカルメル会に所属する修道士であると同時に絵画も手がける画僧で、この〈聖母子と二人の天使〉のような優美で温かみのある聖母子像を得意としていた。
ボッティチェリは、弟子として師の技を間近で吸収していく。
そして、師がスポレートに去った後は、ヴェロッキオ(レオナルド・ダ・ヴィンチの師匠)の工房に共同制作者として参加するなど、経験を積んだ。そして、1470年に独立を果たす。

サンドロ・ボッティチェリ、〈剛毅〉、1470年、ウフィツィ美術館(パブリックドメイン)(出展:wikipedia)

公的デビュー作となったこの〈剛毅〉は、商工会議所を飾る美徳の擬人像の一つである。師リッピゆずりの優美な線描で表された女性は、「剛毅」のタイトルにふさわしい堂々たる存在感と威厳を湛えている。しかし、やや頭部を傾げたポーズからは、どこか夢見るような気配も漂う。
師リッピに多くを学びながらも、それを土台に独自の道を切り開こうとするボッティチェリの門出を象徴する一枚と言えよう。

やがてボッティチェリは、フィレンツェ有数の名門メディチ家の目にとまる。1481年には、メディチ家の推薦で、ローマへと派遣され、教皇庁の一大事業であるシスティーナ礼拝堂の壁画装飾にも携わるのである。

③名作誕生

ローマでの一年間は、ボッティチェリの名声を大いに高めることとなった。
メディチ家との繋がりも後押しとなり、ボッティチェリはいくつもの重要な注文を受けるようになる。
また、メディチ家の庇護のもとにあった人文主義者たちによる新プラトン主義の思想ーーキリスト教と古代哲学を調和させようとする試みも、ボッティチェリに少なからぬ影響を与えたと考えられている。
そのような背景のもと、生まれたのが名作〈春(プリマヴェーラ)〉である。

サンドロ・ボッティチェリ、〈春〉1482年頃、ウフィツィ美術館(パブリックドメイン)(出展:wikipedia)


種々の草花が咲き乱れる緑の園の中央に立つのは、美の女神ヴィーナスだ。ゆったりと右手を持ち上げ、場の女主人らしい優雅さと威厳を湛えている。
その頭上では目隠しをしたキューピットが、手をつなぎ踊る三美神の一人を矢で射抜こうと狙っているところだ。
左端では、伝令神メルクリウスが杖を手に雲をかき分ける。

画面右側では、青い肌を持つ西風の神ゼフュロスが美しいニンフのクロリスを抱き寄せている。周囲の木々は風にあおられて大きくしなり、クロリスの口からは花がこぼれ落ちている。やがて彼女は左隣にいる花の女神フローラへと姿を変える。
それは、春になって温かな風が吹くとともに大地に草花が芽吹く瞬間を擬人化したものである。

この作品は、古代の詩人オウィディウスや人文主義者サークルにも参加していた詩人ポリツィアーノの作品が下敷きになっていると考えられている。そこには複雑な寓意が織り込まれ、現在でも、その解釈をめぐる議論が絶えない。
しかし、この作品の魅力はなんと言っても、それ自体が音楽を奏でるかのような流麗な線描と、緻密に描き込まれた180種類以上もの草花だろう。
画面から立ちのぼる華やかさと生命力は、作品が描かれた15世紀フィレンツェの輝かしく自由な空気を、今なお私たちに伝えている。

どんなに美しい季節でも、時が経てば移ろう。
1492年に、ボッティチェリのパトロンでもあったロレンツォ・ディ・メディチが亡くなると、メディチ家の専制に反発する共和派が発言力を強め、1494年、メディチ家はフィレンツェを追放される。
代わって台頭し、政治の実権を握ったのが、ドメニコ会の修道士ジローラモ・サヴォナローラだった。
彼は、激烈な弁舌によってフィレンツェに満ちていた享楽的で華美な風潮を「堕落」と批判し、贅沢を戒めた。そして、堕落の元凶として、装身具や美しい神話画、書物などを火に投じる「虚栄の焼却」を何度も行った。
そんなサヴォナローラに深く帰依したボッティチェリは、それまでの華やかな画風から一転して、激しい宗教感情を顕にした作品を手がけるようになる。
が、厳格で禁欲を旨とするサヴォナローラの神権政治は長くは続かなかった。1498年にはサヴォナローラ自身が焚刑に処されている。
ボッティチェリは、その出来事をどんな思いで見ていたのだろう?
1501年、彼は〈神秘の降誕〉を描き上げる。

サンドロ・ボッティチェリ、〈神秘の降誕〉1501年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー(パブリックドメイン)(出展:wikipedia)

キリストが馬小屋に誕生したのを祝して、天上で天使たちが舞い踊り、抱き合う一方、悪魔たちが慌てふためいて、大地の割れ目の中に逃げ込もうとしている。
そこには、救世主キリストの「降誕」という奇跡に対する強い歓喜の思いがある。が、かつてボッティチェリが〈春〉で表現した大らかで華やかな世界とは明らかに異質だ。

ロレンツォも、サヴォナローラもいなくなったフィレンツェは、かつての華やかさを完全に取り戻すことはなかった。
ボッティチェリも1510年に静かにこの世を去る。最晩年にあたる5年間は、ほとんど絵筆をとらなかったと言われている。
そのまま歴史の中に埋もれ、長く忘れられてしまう。
しかし、〈春〉をはじめとする作品たちは静かに残り続けた。
19世紀、イギリスのラファエル前派の画家たちによって、ボッティチェリは再び見出される。若き画家たちにとって、その流麗な線描と清澄な美しさは、ラファエロによって理想的な美が完成される前に確かに存在していた「純粋さ」「精神性」の象徴だった。
そして現在、ボッティチェリの〈春〉はもう一枚の代表作〈ヴィーナスの誕生〉と共に、華やかなりし時代のアイコンとして、フィレンツェのウフィツィ美術館の一室に飾られている。


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