ィンセント・ファン・ゴッホ、<花咲くアーモンドの樹の枝>
〈花咲くアーモンドの樹の枝〉は、フィンセント・ファン・ゴッホが甥の誕生祝いとして、弟一家に贈った作品である。
薄青色の空を背景に、ごつごつした樹の枝が交錯し、白い可憐な花を咲かせている。その様は、強烈なエネルギーを放つ〈ひまわり〉や〈星月夜〉とは異なり、清新さとみずみずしさを感じさせる。
ゴッホが新しい命への祝福と希望を込めたこの一枚は、テオ一家にとっても家族の絆の象徴として大切に扱われ、膨大なコレクションの中核となった。
今回は、この〈花咲くアーモンドの樹の枝〉を軸に、ゴッホ(フィンセント)と彼の画業を支えた弟テオ、さらに2人の死後にその夢を引き継いだテオの家族の物語を紹介しよう。
①テオとフィンセント
テオドルス・ファン・ゴッホ(通称テオ)は、4人兄妹の2番目として1857年に生まれた。4歳年上の兄フィンセントとは性格の違いはあったものの仲は良く、強い絆で結ばれていた。
やがて、2人はそれぞれ10代半ばになると伯父の設立した美術商グーピル商会に就職し、別々の支店に配属される。
テオは、先にハーグ支店で働いていたフィンセントから美術館で見るべき作品についてアドバイスをもらいながら順調にキャリアを積み、後に印象派をはじめ前衛的な画家の作品を扱う画商としての下地を作っていく。
兄弟の未来は明るいものと思えた。
しかし、失恋をきっかけに仕事への熱意を失ったフィンセントは、商会のやり方にも疑問を持つようになったために、1876年解雇されてしまう。その後は語学教師をする傍ら、父と同じように聖職者になる道を志すも、神学部の受験に失敗。聖書の教えを説く伝道師としてベルギーで活動するも、常軌を逸した行動を理由に伝道委員会から活動を止められたことで、挫折に終わった。
その後、「最後の道」として、フィンセントが選んだのは画家だった。商会にいた頃に、レンブラントやフェルメールら17世紀オランダの作品や、19世紀後半にハーグ周辺を拠点に活動していたハーグ派の作品に触れたことで、絵に興味を持つようになっていたのも動機として挙げられる。
早速、フィンセントは色彩論やデッサンの技法書などをもとに独学で修練を積み、親戚筋にもあたるハーグ派の画家マウフェに指導を仰ぐなど、自分なりのやり方で新しい道に邁進していく。
そんな兄をテオは応援し、兄が制作に専念できるよう絵の具代や生活費を仕送りし続けた。
フィンセントがアルルに作ろうとした「芸術家たちの共同体(ユートピア)」も、テオの支援があってこそのものだった。
フィンセントがその生涯の中でテオに送った手紙は600通以上にものぼり、その中ではしばしば芸術論や自身が描きたいと思っている作品のアイディアについて語っている。
②〈花咲くアーモンドの樹の枝〉
1889年4月、テオはオランダで語学教師や翻訳家として働いていた女性ヨハンナ(ヨー)と結婚。翌年1月31日には、パリで息子が生まれる。
テオは「兄フィンセントのように辛抱強く勇気のある子に」なることを願って、フィンセント=ウィレムと命名。
知らせを聞いたフィンセントも喜び、まだ見ぬ甥のためにすぐに絵筆を取った。
描き上がったのが、〈花咲くアーモンドの樹の枝〉である。

アーモンドは、バラ科サクラ属に属する落葉高木で、南フランスでは2月に花が咲く。フィンセントもアルルに到着して間もない頃に、アーモンドの木だけでなく、コップに活けたアーモンドの木の枝も描いている。


描くことを通して、アーモンドの花は春の訪れとまだ見ぬ未来への「希望」の象徴として、そして自身の得意なモチーフの一つとして、フィンセントの中に根付いた。
1月末という時期に生まれ、自分と同じ名前をつけられた甥へのプレゼントとして、新しい命への祝福の思いを託すモチーフとして、これ以上にふさわしいものはなかっただろう。
青無地の背景にアーモンドの木の枝の部分だけを描くことで、花の存在はより引き立つ。また、画面を斜めに横切る枝は動きと共に空間の奥行きを感じさせる。
このような大胆な構図や太い輪郭線、枝の配置には、浮世絵からの影響が指摘されている。
フィンセントは文字通り自分の持てる全てを駆使して、自分の内から湧き上がる思いの全てーーー新しい命に対する愛情と祝福、そして明るい希望を、絵の中に籠めたのだ。
そんな兄からの心尽くしのプレゼントをテオ夫妻も喜び、絵はリビングに飾られることとなった。
③成功への道、そして……
フィンセント=ウィレムの誕生と前後して、兄を売り出そうとするテオの長年の努力もようやく実を結ぼうとしていた。
1890年1月から始まったベルギーの二十人会展にテオが送った6枚の作品が評判となり、そのうちの一枚〈赤いブドウ畑〉に買い手がついたのだ。

同じころにフランスの文芸誌『メルキュール・ド・フランス』では、評論家アルベール・オーリエがフィンセントに好意的な批評を書いてくれた。
その後、3月にパリで開催されたアンデパンダン展でも、フィンセントの作品は好評だった。印象派のモネは「展覧会で最高のもの」と絶賛したし、かつて喧嘩別れしたゴーギャンをはじめとする旧知の画家たちからも賞賛の声が寄せられたことを、テオは兄に宛てた手紙の中で報告している。
しかし、この時フィンセント本人は2月から始まった狂気の発作の只中にあった。以前から2,3ヶ月おきに襲ってきていた発作は今回は特に長く続き、4月の下旬にようやく回復した。5月にはオーヴェール=シュル=オワーズへと移り、主治医ガシェ博士に見守られながら<オーヴェールの教会>などの傑作を生み出していく。
7月6日には、パリに赴き、弟一家だけではなく、ロートレックら友人たちとも再会した。
だが、その3週間後、フィンセントは自らの胸を拳銃で撃ち、自殺を図った。
「こうするのが、皆にとって良かれと思った」
知らせを聞いて駆け付けたテオに、フィンセントはこう語ったという。
その後、29日の夜中、弟の見守る中、フィンセントは静かに息を引き取った。享年37歳。
事件はテオを激しく打ちのめした。
画家としての兄の成功を見ることは、テオにとって人生を賭けた夢だった。
何故、これからという時に、兄は自ら死を選んでしまったのか。
フィンセント=ウィレムのこともあんなに喜んでくれたのに。
何故?何故?
何度も自分に問いかけずにはいられなかっただろう。
だが、何もかもが終わったわけではない。自分の手元には900枚もの油彩画を含むフィンセントの膨大な作品がある。それを元に、フィンセントの回顧展を開こう。そして、兄フィンセント・ファン・ゴッホの名を人々の記憶に刻みたい。
それが、画商としての自分が兄のためにできる最大の事だ。
奮起したテオは新たな目標に向けて動き始めた。が、自身の体も既に1年前から病に冒されており、兄の死の衝撃によって急速に悪化していた。
そして1891年1月、テオもまた兄の後を追うように33歳で病死した。
画家フィンセント・ファン・ゴッホの名を不朽のものとする。
そんなテオの夢は、妻ヨーによって引き継がれた。
ヨーはフィンセントの膨大な作品を管理し、展覧会に貸し出したり、売却することで評価の確立を目指した。1924年に、〈ひまわり〉をロンドン・ナショナル・ギャラリーに売却したのもその一環である。
そして1925年のヨーが亡くなると、息子フィンセント=ウィレムがバトンを受け取り、1973年には、彼の尽力のもと、フィンセント・ファン・ゴッホ美術館(現・ゴッホ美術館)がアムステルダムに開館する。
家族の夢はここで大きな実を結んだ。
そしてフィンセント=ウィレムのために、伯父フィンセントが愛情を込めて描いた<アーモンドの木の枝>は、家族の絆、そして家族の夢の結晶たる美術館のアイコンとして、今もゴッホ美術館で展示されている。
