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ジョン・エヴァレット・ミレイ<オフィーリア>


ジョン・エヴァレット・ミレイ、〈オフィーリア〉、1851〜52年、テート・ブリテン(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)

緑が生い茂る中、川の中央では、白いドレスをまとった女性が静かに流されていく。その表情は虚ろで、自分の状況を理解しているのかどうかも定かではない。
シェイクスピアの悲劇『ハムレット』のヒロイン・オフィーリアの悲しくも美しい最期を描いたジョン・エヴァレット・ミレイの<オフィーリア>は、イギリス絵画の中でも最高傑作とされ、日本でも人気が高い。
「水に浮かぶ女性」という幻想的なイメージは、多くの人々を惹きつけ、絵画や文学をはじめ、様々なジャンルの作品に影響を与え続けている。
この〈オフィーリア〉は、どのようにして生まれたのか?なぜ、描かれてから200年近くが経過した現在も人を惹きつけてやまないのか?
作品誕生の物語を追うことで、その答えに迫ってみよう。

①ミレイとラファエル前派

ミレイは1829年にサウサンプトンで生まれた。早くからデッサンの才能を認められた彼は、8歳でロンドンの絵画教室で学び始め、1840年には、史上最年少の11歳でロイヤル・アカデミーの付属学校への入学を許される。
16歳の時にはアカデミーの年次展に入賞し、作品が展示される。
まさに天才少年と言って良いだろう。しかし、順風満帆の道を歩いているように見えながらも、ミレイの内面にはある不満が募り始めていた。


ラファエロ・サンツィオ、<キリストの変容>、1516~20年、ヴァティカン美術館(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)


ラファエロ・サンツィオ、〈美しき女庭師〉、1507〜1508年、ルーヴル美術館(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)


1768年の設立以来、アカデミーでは、盛期ルネサンスの巨匠ラファエロの作品を「美の規範」と位置づけ、その様式を模倣することを推奨していた。
理想を求め、決まり切った形式をただなぞる以外のことを認めないアカデミーの保守的なあり方に反発したミレイは、やがて同じ問題意識を抱く学友のハントやロセッティらと行動を共にするようになる。
そして、そんな彼らに大きな影響を与えたのが、批評家ラスキンが『近代画家論』の中で展開した「自然に忠実に」という主張だった。
自然や現実を徹底的に観察し、それらをありのままに緻密に描くことで、物の本質に迫ることができる。
アカデミーの掲げる理想とは対極とも言える教えに、若い画学生たちは大いに感銘を受けた。
そして、自然を手本に、目に見えるままに描いた具体例を初期ルネサンスのフラ・アンジェリコやボッティチェリ、ファン・エイクなど、ラファエロが生まれる前の時代の画家たちの作品に見出した。
それらは、技法こそ拙いが、ラファエロや彼の後の世代の画家たちが、「理想」を追求する中で失ってしまった素朴さや精神性をも備えていた。
新しい美を生み出すために、「ラファエロ(英名:ラファエル)よりも前の時代」に回帰すべし。
その思いを胸に、1848年9月、ミレイたちは『ラファエル前派兄弟団(P.R.B)』を立ち上げる。

②「自然に忠実に」ーーーミレイの挑戦

「自然に忠実に」というラスキンの主張は、ラファエル前派のモットーとなり、特にミレイとハントは忠実にそれを実践した。
作例として、〈両親の家のキリスト〉を見てみよう。

ジョン・エヴァレット・ミレイ、〈両親の家のキリスト〉、1849〜50年、テート・ブリテン(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)

少年時代のキリストとその家族(聖家族)を描いたこの作品は、ジャンルとしては「宗教画」に分類される。
しかし、登場人物たちは、従来の理想化された姿ではなく、現実の大工(労働者)の家族のように描かれている。
特に聖母マリアのやつれた顔は、ラファエロの描く気品ある聖母像とは対照的だ。

ラファエロ・サンツィオ、〈美しき女庭師〉(部分)、1507〜1508年、ルーヴル美術館(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)


ジョン・エヴァレット・ミレイ、〈両親の家のキリスト〉(部分)、1849〜50年、テート・ブリテン(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)


また、床に散らばったおがくずや、壁にかけられた様々な種類の工具など、緻密に描き込まれた細部が、現実感をより強めている。
これは、ミレイが実際に大工の作業場に泊まり込み、室内の様子や労働者の姿を徹底的に観察、スケッチした成果である。
「自然に忠実に」描くというラファエル前派の理念を具現化したこの作品は、まさにアカデミーの掲げる伝統的な美学への真っ向からの挑戦だった。
1850年にアカデミーの展覧会で発表されると、〈両親の家のキリスト〉は、激しい非難にさらされた。特に人気作家ディケンズは聖母を「醜い怪物」、キリストを「不細工な少年」などと口を極めて罵った。
対して、グループの擁護にまわったのがラスキンである。ミレイたちにとって、尊敬するラスキンが味方になってくれたのは心強かっただろう。
心機一転、新たに文学的テーマへと目を向けるようになったミレイは、1851年夏、新たな作品〈オフィーリア〉の制作に向けて動き始める。

③〈オフィーリア〉

オフィーリアは、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』のヒロインである。
宰相ポローニアスの娘で、主人公のハムレット王子とは身分の違いはありながらも愛し合っていた。
しかし、父王の死の真相を知ったハムレットは復讐の機をうかがうため、狂気を装うようになる。愛するオフィーリアをも冷たく突き放し、「尼寺へ行け」とまで言い放つ。そして、自分と母の会話を盗み聞きしていたポローニアスを誤って殺害してしまう。
恋人の豹変と父の死。相次ぐ出来事にショックを受けたオフィーリアは正気を失ってしまう。錯乱の末、花輪を柳の枝にかけようとして小川に転落、そのまま溺れ死ぬ。
彼女の死の様子とそこに至るまでの詳しい経緯は、ガートルードの台詞によって語られ、舞台上では直接は演じられない。
が、その情景をシェイクスピアの原文に忠実に画面の上に描き出してみせたのが、ミレイである。

制作にあたってミレイは舞台にふさわしい場所探しから始めた。
「柳の木が小川の上に斜めに身を乗り出し鏡のような流れに銀の葉裏を映している」(出典:『ハムレット(シェイクスピア全集1)』、ちくま文庫、p.223)という原文の描写に符合する場所を求めて歩き回った末、見出したのがサリー州のホグズミル川のほとりだった。
ミレイは辺りの風景を観察し、何ヶ月もかけて写生した。
12月にロンドンに戻ると、アトリエにバスタブを用意してモデルを浮かべ、人物の部分を描いた。
途中、バスタブの水を温めるろうそくの火が消えて、モデルが風邪を引き、モデルの父親に医療費を請求されるというアクシデントもあった。
が、1852年、ついにラファエル前派の最高峰とも言うべき作品が完成した。

ジョン・エヴァレット・ミレイ、〈オフィーリア〉、1851〜52年、テート・ブリテン(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)

ガートルード「……裳裾が大きく拡がってしばらくは人魚のようにたゆたいながら、きれぎれに古い賛美歌を歌っていました。身の危険など感じてもいないのか水に生まれ水に棲む生き物のよう」(出典;同上)

まさに原文で語られた通りの情景が、小さな草の葉や花びらの一枚にいたるまで写真のような緻密さで描き出されている。

ジョン・エヴァレット・ミレイ、〈オフィーリア〉(部分)、1851〜52年、テート・ブリテン(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)

オフィーリアは、今まさに生と死の間を揺蕩い、微かに開いた口元からは、かすれた歌声が切れ切れに聞こえてくるようにも思える。
ここに至るまでに何が彼女に起こったのかを思うと、痛ましさが胸に迫ってくる。
周囲に散らされている花々も、忘れな草(「私を忘れないで」)、ヒナギク(「無垢」)、ミソハギ(「純真な愛情、愛の悲しみ」)、赤いポピー(「死、眠り」)など、象徴的な意味を持たされたものばかりだ。
やがて時間が経てば、オフィーリアは水を吸ったドレスの重みで水中に引き込まれて消えてしまうだろう。
が、その後も川は何事もなかったかのように流れ続けるし、周囲の草木も冬の到来と共に枯れることはあっても、時期が来ればまた芽吹き、花を咲かせるだろう。
1人の女性に起きた悲劇をここまで鮮烈に表した作品が他にあるだろうか?
オフィーリアは何も知らなかったし、何も悪いことはしていない。ただ、巻き込まれただけだ。
彼女の死は、それ自体も悲しい。が、この後さらなる悲劇へとなだれ込んでいくことも、私たちは知っている。

〈オフィーリア〉発表の翌年、ミレイはアカデミーの準会員に選ばれている。
アカデミーへの反発から始まった「ラファエル前派」も、この出来事をきっかけに事実上の解散となった。
後に結婚して8人もの子供が生まれると、家族を養うために、時間と手間のかかるラファエル前派の細密描写を捨て、肖像画などを主に手がける人気画家となった。1896年にはアカデミーの会長にまで上り詰めている。
しかし、彼の作品で現在最も知られているのは、やはり〈オフィーリア〉だろう。
作品を見れば見るほど、描かれているモチーフについて知れば知るほど、そこに描かれた世界へと引き込まれる。
〈オフィーリア〉は、22歳のミレイが自分の持てる全てを注ぎ込んだ「最高傑作」であり、それが作品にも独立した命を吹き込んだと言えるかもしれない。


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