長谷川等伯〈松林図屏風〉
早朝、ひんやりとした空気が立ち込める中、少しずつ松の木群が朝靄の中から姿を現し始める。
そんな清々しい日本の朝の風景を、墨の濃淡のみで描き出した〈松林図屏風〉が、今年もまた東京国立博物館で1月2日~26日に開催されるイベント「博物館に初もうで」で公開される。
作者の長谷川等伯は、16世紀後半に活躍した絵師で、北陸の一絵師から出発し、20年以上の積み重ねを経て、当時画壇のトップとして「天下一」の名を欲しいままにしていた狩野永徳と並び、時代を代表する絵師となった。
今回は、この〈松林図屏風〉公開に寄せ、絵師・長谷川等伯の軌跡と作品の魅力に迫ってみたい。
①北陸の絵仏師
長谷川等伯は、1536年能登国(現・富山県)七尾で奥山氏の子として生まれた。生まれた。奥山氏は、能登国の戦国大名畠山氏の家臣だったが、等伯は幼い頃に染物業を営む長谷川家の養子となる。
生家と養父母の影響から熱心な日蓮宗の信徒として育った等伯は、やがて絵仏師として僧の肖像画や仏画などを手がけ、地元では名の知られた存在となっていく。
この〈善女龍王図〉は、そんな彼が20代の頃に描いたと考えられている作品である。

善女龍王は、日蓮宗の根本聖典である『法華経』に登場する龍王の娘で、8歳で悟りに至り仏となったと言われている。
この仏画でも、『法華経』の記述に忠実に従い、ちょうど8歳頃の姿で表されている。
また、巧みな線描による細部描写と、赤や緑などの華やかな色使いからは、等伯の才能が伺える。
一人の信徒としての信仰心と、確かな技術とが結び付いた一枚と言えよう。
北陸には、この絵を含め十数点の作品が現代も残っており、同地で等伯が高い評価を得ていたことがわかる。
しかし、彼の中にはいつからか、野心が燃え盛っていた。
もっと大きな舞台で描きたい。絵師として、もっと上を目指したい、どこまで上り詰められるのか、勝負してみたい。
そして、長谷川家の養父母が亡くなった後、伝手をたどって彼は妻子を連れて京へと向かう。
1571年頃、35歳の頃だったと言われている。
②京へ
当時の京の画壇を牛耳っていたのは、狩野永徳率いる狩野派だった。
永徳は、室町幕府の八代将軍・足利義政に仕えた御用絵師・狩野正信の曾孫で、幼い頃から次代を担うホープとして、将来を嘱望されてきた。21歳の時には、門人たちを率いて大作〈洛中洛外図屏風〉(国宝)を手掛けている。
室町幕府が滅亡した後は、新たな権力者である織田信長や豊臣秀吉の御用絵師となって、大いに腕をふるった。
わずかな伝手をたどって、北陸から出てきたばかりの等伯にとって、永徳はまさに雲の上の存在に等しかっただろう。
信長や秀吉、諸大名からの注文のほとんどは、狩野派によって独占され、そこに割り込むことは至難の技だった。
しかし、等伯は諦めなかった。
伝統的なやまと絵や13世紀中国の画家・牧谿や日本の雪舟の水墨画など、先人たちの作品を幅広く研究、吸収していく。さらに、一時的ではあるが永徳の父・松栄のもとにも弟子入りし、最先端の流行や表現にも間近に触れた。
それらを元に、独自の画風を作り上げると、息子・久蔵をはじめとする門人たちに徹底的に教え込み、大規模な仕事にも対応できるシステムを整えた。
「長谷川派」の誕生である。
こうして、20年以上もの時間をかけて狩野派に対抗できるだけの画力と、戦力となる門人たちを揃えた等伯は、狩野派の手がまわりきっていない相手を狙い、長谷川派を売り込んでいく。獲得した顧客の中には、秀吉の茶頭・千利休もいた。
長谷川派の伸長ぶりを警戒した永徳は妨害工作を仕掛けたこともあったが、1590年に病死する。
その翌1591年、等伯は、秀吉が愛児・鶴松を弔うために建立した祥雲寺の障壁画を手掛けることとなる。
既に50代になっていた等伯は、長谷川一門の力を結集してこの大仕事に挑んだ。
こうして描き上がった作品群の中で最も名高いのが、〈楓図〉である。

長谷川等伯、楓図(旧祥雲寺障壁画より)〉(国宝)、1591〜3年、智積院(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)
画面の中央に、70センチを越える太い幹の楓が配され、左右に大きく枝を広げている。シンプルでインパクトのある構図だが、樹の周囲には、紅葉した葉や鶏頭、菊など様々な種類の秋草が幹を包み込むように配され、見る者に寄り添うような優しい雰囲気を生み出している。
このように金地や無地の背景にメインモチーフを大きく描き出し、際立たせるスタイル(「大画様式」)は、もともとは狩野永徳が編み出したものだった。が、等伯はそれを取り入れつつも、アレンジを加えることで、独自の表現世界を作り出した。
金色に満たされ、美しい草木に溢れる世界はまさに仏が住む清らかな「浄土」であり、愛児を亡くした父・秀吉の心にも寄り添い、慰めてくれるものだっただろう。
1600年の関ヶ原の戦いの後、祥雲寺は廃寺になるが、〈楓図〉を含む障壁画の一部は、現在も智積院に受け継がれ、残されている。
③〈松林図屏風〉
天下人・秀吉の注文のもと、持てる全てを注いで制作した〈楓図〉は、等伯の代表作であり、画業の一つの到達点と言える。
一方で、この〈楓図〉を描いたのと同じ50代の頃に、等伯は、もう一つの「代表作」を生み出している。
〈松林図屏風〉である。


金地に濃厚な彩色によって華やかな世界を描いた〈楓図〉に対し、墨一色のみで描かれた〈松林図屏風〉は、余分なものが削ぎ落とされ、潔さを感じさせる。
松は雪にも耐えて、一年中緑色を保つことから、長寿の象徴とされてきた。日本美術でも吉祥モチーフとして好まれ、古くからやまと絵で描かれてきた。
が、この〈松林図屏風〉のように墨一色で表現した作例は他に類を見ない。
早朝、朝靄の中から少しずつ姿を現す20本ばかりの松の木群。ほぼ全体が見えているものもあれば、靄の向こうにぼんやりとしたシルエットとしてしか見えないものもある。
また左隻の遠方には、雪を頂いた山が浮かび上がっている。
作品の前に立ち、見入っていると、靄を通して差し込む朝の光や、辺りに立ち込める空気の冷たさもが実際に感じられそうである。
粗い筆致は、勢いを感じさせ、離れて見ると、風で揺れているかのように見える。
また、樹の一部は画面の端で断ち切られており、画面の外にも林が続いていることがわかる。
一体どこまで広がっているのだろう。
墨一色のみという制限のもと描くのは、簡単ではない。
墨以外の色を使えないという制約の中で、何をどのように描くかを、絵師たちは考え抜き、形にする。
また、墨一色で描かれている分、作品を見る者の想像力に委ねられる部分が多い。提供される情報が制限されているからだ。
現実にはどのような色なのか、という問いに始まり、筆勢や墨の濃淡によって表されるモチーフの質感、あたりに満ちる空気や光について、鑑賞者たちは想像せずにはいられない。
この〈松林図屏風〉も、気がつけば、作品の中に深く引き込まれ、まるで自分が広大な松林の中に迷い込んだような錯覚に陥る。靄の中から差し込むかすかな光や湿った大気すらも肌で感じられ、心が洗われるかのようだ。
この作品は、注文を受けて制作された〈楓図〉と異なり、等伯が自分自身のために描いたと考えられている。
祥雲寺の障壁画が完成した直後、等伯が後継者として期待を寄せていた息子・久蔵が26歳の若さで急死しており、その悲しみを乗り越えるために描いた、とも言われる。
また、もとは襖絵の下絵として描いたものを屏風に仕立てた、とする説もある。
どちらにせよ、この〈松林図屏風〉において、等伯はクライアントの意向などに縛られず、自由に心の赴くままに筆を動かしていたのだろう。それは、自分自身と向きあうことでもあった。
これまでに積み重ねてきたもの。今の自分自身にあるもの。描くことを通して、彼はそれらを見つめた。そして、これからのため、絵師として自分に何ができるか、何をすべきかを考えていたのだろう。
その後、等伯は1604年頃に「法橋」、さらに翌年にはその上の「法眼」の地位を朝廷から授与された。
さらに1610年には徳川家康から招かれ、江戸に向かうが、その道中で没する。71歳だった。
長谷川等伯は、北陸の仏画師から出発し、長い下積みを経て、天下人のために腕をふるい、「法眼」という民間の絵師として望みうる最高の地位をも手にした。
そんな彼の画業の両輪とも言うべき存在が、〈楓図〉と〈松林図屏風〉である。
これらの作品は、あらゆる点で対照的だが、等伯が自身の持つ全てを注ぎ生み出したものであり、現在は共に国宝に指定されている。
2025年には、まず1月に東京国立博物館で〈松林図屏風〉が、4月から大阪市立美術館で開催される『日本の国宝』展では〈楓図〉がそれぞれ展示される。
是非、足を運んで、これらの国宝に会ってみて欲しい。
