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ルドン〈グラン・ブーケ〉

縦約2.4メートル、横約1.6メートルの大きな画面いっぱいに描かれた青い花瓶と、そこに活けられたたくさんの花々。
それらは美しく、しかしどこか不気味でもある。まるで花瓶に活けられているというより、花瓶の中から意思を持って伸び、這い出してきているかのようだ。
この神秘的な花の絵を生み出したのは、オディロン・ルドン。印象派のモネと同じ年に生まれ、同じ時代を生きながらも、「目に見える世界」をそのまま描くことではなく、自身の心に映る世界を追求し続けた画家だった。
今回は、ルドンの歩んだ道のりとこの〈グラン・ブーケ〉が誕生した経緯を紹介しよう。

①幻想画家ルドンの原点

オディロン・ルドンは、1840年にボルドーで生まれた。病弱だったために生後2日で乳母と共に郊外のペイルルバート荘園に送られる。
点在する沼沢や林、単調な田舎道と葡萄畑が広がるだけの場所で、ルドンは11歳までを過ごした。

オディロン・ルドン、〈ペイルルバートのポプラ〉


特に何をしろと言われることはなかったし、元々体力もない少年は、日がな一日雲を眺めたり、カーテンの下や部屋の片隅などに身を潜め、一人空想遊びに耽ることを楽しみにしていた。
この子供時代の経験が、型にはまらない想像力と、闇とその対極にある光への関心を形作り、後の「幻想画家」ルドンの素地となったのである。

家族のもとに戻った後、当初は建築家を目指し、地元の画家ゴランについてデッサンを学んだ。が、20歳の時に国立美術学校の建築科の試験に失敗したことで、以前から親しんでいた絵の道へと本格的に進むことを決意する。
早速当時の画壇の主流であるアカデミズムの大家ジェロームの教室に入門したが、正確な形態把握や陰影法などのルールにしばられた描き方にルドンはどうしても馴染めず数か月で辞めてしまった。
一方その頃、19世紀半ばからは、「身近な現実」をありのままに描こうとする写実主義が台頭していた。印象派もその系譜を継ぐ存在である。
しかしルドンが画家として選んだのは、全く違う道だった。
彼は目で見たもの‐‐‐気球、電球など科学技術発展の産物や、30歳の時に従軍した普仏戦争で見たもの、哲学や文学も含めた幅広い読書体験など、「見ること」を通して自分の中に取り入れたものをそのまま描くことはなかった。それらをまず自分の中で醸成させ、独自の解釈を加えながら、象徴的・神秘的なイメージとして昇華させていった。

オディロン・ルドン、<リトグラフ集『夜』Ⅲ.堕天使はその時黒い翼を開いた>、1886年、岐阜県美術館(パブリックドメイン)(出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Redon_-_L%27ange_perdu_ouvrit_alors_des_ailes_noires,_1888,0619.166.jpg?uselang=ja)


例えば、この「堕天使」のモチーフは、1870年に勃発した普仏戦争の後に繰り返し取り上げられたものだ。この戦いでフランスはプロイセンに敗北し、第三帝政も倒れ、その後はパリ=コミューンの内戦など混乱が続いた。文字通り、フランスは強国の座から落ちたのだ。
自らも従軍し、戦禍をつぶさに見たルドンが、その記憶を託したのが翼を持ちながらも天に帰れなくなった堕天使のイメージだったのである。
この<堕天使はその時黒い翼を開いた>でも、左上のまばゆい光を眺める天使の目には悲しみが宿り、ルドンを含めた当時のフランス人の心情を彷彿とさせる。背中に生えた黒い翼はまるで瓦礫の破片のようだ。作品の基調をなす黒は、ペイルルバートでなじみ深い闇の色であり、その微妙な色調によって光と闇の対比が活きる。さらに、全ての色彩を削ぎ落し、黒一色で表すことで、翼を持ちながらも空に帰ることのできなくなった堕天使の哀切さが、見る者の胸に沁みてくる。

普仏戦争への従軍という経験は、虚弱体質だったルドンに一定の自信を与えた。
1872年にパリに出た彼は、夏はペイルルバートで木炭画を描き、秋以降はそれをもとにリトグラフを制作する、という生活を送るようになる。
そして1880年代からは、描きためた作品をもとにリトグラフ集を立て続けに出版していく。

②世界の広がりと画風の変化

アカデミズムや写実主義、印象派のどの傾向から見ても、ルドンの黒一色の絵は異端であり、時には嘲笑の対象ともなった。
しかし、時が経つにつれて徐々に評価する者たちが現れ始める。
その一人が、ユイスマンスら文学者たちだった。当時主流だった、現実をありのままに描く自然主義に飽き足らないものを覚えていた彼らにとって、ルドンの黒一色による幻想絵画は、まさに求めていた新しい表現の手本として映ったのである。
また、19世紀末、「それまでにない新しい表現」を求めた若い画学生のグループ、ナビ派のメンバーたちもルドンを自らの手本として敬愛するようになる。
一人我が道を進んでいたルドンにとっては、思いがけないことだっただろう。
しかし、彼らとの交流を通して、ルドンの世界は大きく広がっていく。
そして、そんなルドンに大きな転機をもたらした存在が現れる。1880年に結婚した妻カミーユだ。10歳以上の齢の差はあったが、堅実で実務的な性格のカミーユは、ルドンの創作、生活を大いに支えた。1886年には長男も生まれるが、生後6ヶ月で亡くなる。その3年後に次男アリが生まれると、ルドンは大いに喜び溺愛した。

オディロン・ルドン〈刺繍するルドン夫人の肖像〉、1880年、オルセー美術館(パブリックドメイン)(出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Redon_-_Madame_Redon_brodant,_RF_40490,_recto.jpg?uselang=ja)


ルドンは、もはや孤独に内面世界へ沈潜するだけの画家ではなかった。長く寄り添ってきた黒は、今のルドンにとっては重苦しく、精神を疲弊させるものとなりつつあった。
そこで彼は、これまで愛用していた木炭の扱いに近いパステルを手に取り、黒の世界から、少しずつ色彩の世界へと歩みだしていく。
この〈刺繍するルドン夫人の肖像〉は、結婚したばかりの時期の妻を描いたルドンの初期のパステル画作品であり、ルドンの変化を象徴する一枚と言える。

③〈グラン・ブーケ〉誕生

1900年代に入ると、新たなモチーフがルドンのレパートリーとして加わった。
花瓶に活けられた花の静物画である。
題材となったのは、カミーユが庭で摘んでくる花や、ルドンのアトリエのある野の花を家にある花瓶に活けたもので、それ自体はありふれた光景と言える。

オディロン・ルドン、〈花瓶の花束〉、1900〜1905年、メトロポリタン美術館(パブリックドメイン)(出典:https://www.metmuseum.org/art/collection/search/437379)


しかし、ルドンの描く花々は、同時代に生きたルノワールやゴッホの描いた花の絵とは明らかに異質だ。
画面の中で、花器は不思議な空間の中にぽつりと浮かび上がっているかのように見え、そこに活けられた花々は、輝くような色彩をまとい、いずれ枯れるという運命をほとんど感じさせない。

ルドン自身も自分の描く花についてこう語っている。

「再現と想起という二つの岸の合流点にやってきた花ばな」

つまり、ルドンの花は、目の前の花を見えるがままに描いたものではない。これまで描いた作品同様、想像力によって再解釈し、描く過程で新たな命を吹き込まれた花なのである。

ルドンが没するまでの間に描いた花瓶に活けられた花の絵は、約250点にのぼる。その中でも破格のサイズを持つのがこのパステル画<グラン・ブーケ>である。

オディロン・ルドン、〈グラン・ブーケ〉、1901年、三菱一号舘美術館(パブリックドメイン)(出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Odilon_Redon_-_Grand_Bouquet_-_Mitsubishi_Ichigokan_Museum.jpg)


この作品は、もともとはルドンの友人でコレクターであるドムシー男爵の注文で、食堂を飾る全16点の装飾パネルのうち中央を飾る1点として制作されたものだ。他の15点が1980年にドムシー家から国家に相続税納物として譲渡され、1988年にオルセー美術館に入ったのに対し、唯一この〈グラン・ブーケ〉は、長くもとの設置場所である食堂に留まり、2010年からは日本の三菱一号舘美術館の所蔵になった。
青い花瓶から咲き溢れる花々の種類を特定することは難しい。花は活けられているというよりも、花瓶の中から湧き出てきたように見え、中には宙にふわりと浮かんでいるように思えるものすらある。
これらは、地面に植わっていたものを伐ってきたものではなく、ルドンの代表作〈キュクロプス〉などと同じく、「意思を持った架空の生命」なのかもしれない。

黒一色の時代から、色彩の時代へ。
50歳頃を境に、ルドンの画風は大きく変わったように見える。
しかし、そのベースには、目で捉えたものを自らの想像力でもって解釈・構築し直す、という手法が一貫して存在している。
〈グラン・ブーケ〉は、その姿勢が豊かな色彩の中に結晶した、ルドンの一つの到達点と言えるだろう。


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