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下村観山〈弱法師〉

明治時代、「新しい時代にふさわしい日本画」の創出という課題に、横山大観らとともに挑んだ画家の一人が、下村観山である。
その美学が、最も洗練された形で結実した作品の一つが、現在、重要文化財にも指定されている《弱法師》だ。
この作品は、美しい中にも、哀しみと希望を静かに湛え、見る者に忘れがたい印象を残す。
なぜこの作品は、これほどまでに胸を打つのか。
その誕生までの道のりと、作品に込められた工夫を読み解いていきたい。

①下村観山

下村観山(本名・春三郎)は、1873年に和歌山県で生まれた。
下村家は、代々紀州徳川家に仕える能役者の家だったが、明治維新と共に職を失い、男たちは新たな道をそれぞれ求めることとなった。
三男の観山が選んだのは絵の道だった。
9歳頃から狩野芳崖、橋本雅邦に師事し、粉本(絵手本)を通して狩野派の技法を学び、着実に実力を高めていった。
そして1889年、16歳の時に東京美術学校(現・東京藝術大学)に第一期生として入学する。そこでは校長の岡倉天心や、後に同志となる横山大観、菱田春草との出会いがあった。
そうした出会いにも刺激を受けながら、腕を磨き、1894年、卒業制作として〈熊野観花〉を手掛ける。

下村観山、〈熊野観花〉、1894年、東京藝術大学(パブリックドメイン)(出典:wikipedia)

この作品は、平安末期を舞台とする謡曲『熊野(ゆや)』をもとにしている。
ヒロインの熊野は時の権力者・平清盛の息子・宗盛の愛妾だ。故郷である遠江国に残した母が病気と聞き、見舞いに行きたいと願うが許されず、逆に宗盛からは花見への同行を命じられてしまう。
画面には、ちょうど一行が花見の場へと到着した場面が描かれている。左側に配された華やかな牛車からは、今しも熊野が降り立とうとしているが、その顔には憂いの色が濃い。母のことを思うと、その心は落ち着かない。
彼女がまとう美しい衣装や内部にまで豪華な装飾が施された車などの小道具、行き交う人々で賑わう通りの様子が、沈み込む彼女の内面をより強く際立たせている。
描くにあたって、観山は平安から鎌倉にかけての絵巻物や風俗を熱心に研究している。
その成果は、横長の画面の中に、年齢も身分も異なる多くの人物をはじめ、犬や馬、鳥などを配した構図や、衣服や車の文様に至るまで緻密に描き込まれた細部に反映されている。

謡曲は、能役者の家に生まれた観山には身近なテーマだっただろう。その内容をよく理解し、古典作品の表現も踏まえながら、堅実に画面を作り上げ、『熊野』の世界を的確に表現してみせた。
画家・観山の最初の到達点と言えるだろう。

②転機

卒業後、観山は母校で教鞭を執ったが、1898年に天心が下野したのに伴い、自らも職を辞して行動を共にした。そして、日本美術院の創設に参加し、新たな場所で、「新しい時代にふさわしい日本画」を追い求めていくことになる。
1903年には、文部省の命でイギリスに留学し、帰国までの約1年間にフランスやイタリア、ドイツ、オランダを巡った。そこで観山は古今の西洋絵画の名品に触れる。
作品を前にした観山は、自らの未熟さと日本画が持つ色彩や構成力の弱さという課題を強く意識し、恥じた。同時に、それらの弱点を克服するためにも、目の前の作品から何としてもヒントを得ようという思いを新たにした。
その意欲を胸に、観山は、ラファエロ〈小椅子の聖母〉やレオナルド・ダ・ヴィンチ〈モナ=リザ〉などの作品を自らの手で模写し、写実表現や陰影法を自らのものとしていった。
そしてこれまで積み重ねた日本画の諸技法に、西洋美術から学んだ技を融合させた画風を形成し、さらに磨き上げていく。
その成果の一端は、帰国後の1907年、第一回文部省美術展覧会(文展)に出品され、国家買上げとなった〈木の間の秋〉に見ることができる。

下村観山、〈木の間の秋〉1907年、東京国立近代美術館(パブリックドメイン)(出典:wikipedia)

描かれているのは、当時観山が住んでいた茨城県五浦の木立だ。
金地の背景に、スギやヒノキなどの木々が林立し、ススキやキキョウなどの草花が画面の下半分を覆っている。
画面を斜めに横切るように描かれたヤマブドウの蔓は、江戸琳派の絵師・酒井抱一の〈夏秋草図屏風〉を想起させる。

金泥で描かれた葉脈も、琳派の装飾的技法に学んだものと言える。

一方で、植物は細部まで緻密に描かれ、幹にも立体感がある。
また、遠景から近景に向かうにつれて木々の色を次第に濃くしていくことで、光が中景にとどまり、柔らかな奥行きを生み出している。
さらに右隻の上方では、右上から左下に向けて金泥をはくことで、振り注ぐ陽光を表し、秋の空気をも感じさせる。

観山は、日本の秋の美しさという日本ならではのテーマを、東西の技術を融合させた新たな表現によって描き出してみせたのだ。

③〈弱法師〉

1914年、観山は大観らと共に、形骸化していた日本美術院の再興に参画する。
そして第2回再興院展に、自らの美学の結晶とも言うべき力作〈弱法師〉を出品する。


下村観山、〈弱法師〉、1915年、東京国立近代美術館(パブリックドメイン)(出典:wikipedia)



下村観山、〈弱法師〉、1915年、東京国立近代美術館(パブリックドメイン)(出典:wikipedia)
下村観山、〈弱法師〉、1915年、東京国立近代美術館(パブリックドメイン)(出典:wikipedia)


この作品は、謡曲『弱法師』が下敷きになっている。
主人公の俊徳丸は、河内国の長者・高安通俊の子として生まれたが、讒言によって追放されてしまう。過酷な放浪生活の中で、視力を失った彼は、盲目の乞食(弱法師)として春の四天王寺へ辿り着く。そして、再会した父・通俊の導きによって日想観(沈む夕日を心に留め、極楽浄土を思う瞑想法)を行う。
観山は、このクライマックスの場面を六曲一双の屏風に描き出した。

前景に描き出された梅の木は、金地の画面いっぱいに枝を広げ、その力強さが花の可憐さを引き立てている。
枝の向こうには、襤褸をまとった俊徳丸が立っている。過酷な放浪生活の中で視力を失い、「弱法師」と嘲笑われる身になっても、内面の純粋さまでは失っていない。梅の香りに春を感じながら、導かれるままに沈みゆく夕日へと向かい、手を合わせている。
その胸中に去来するのは、夕日の先にある極楽浄土、そして幸せだった時代に見た浪速の浦の風景だ。
絶望し、闇の中を彷徨いながら、それでも微かな救いの気配を感じた俊徳丸の横顔にはほのかな笑みが浮かんでいる。
この俊徳丸の姿は、観山自身の姪がモデルとなり、さらに盲目の目を表すにあたっては、兄の所蔵する「景清」の能面を参照したとされている。
そして左隻のちょうど俊徳丸と対照的になる位置には、俊徳丸にとって救いの象徴とも言うべき大きな朱色の夕日が描かれている。また、両者のちょうど中間にあたる梅の木の根元にある卒塔婆は、俊徳丸が心に思い描く浄土を暗示しているとされる。
つまり、俊徳丸、卒塔婆、夕日の三者が一直線になるように配されることで、謡曲『弱法師』のテーマそのものが浮かび上がるようになっているのだ。
そして、鑑賞者のいる現実世界と、俊徳丸の世界とをつなぐ媒介としての役割を担うのが、梅の木である。
〈熊野観花〉では、絵巻物などを下敷きに、現実世界として熊野の物語を描いた。
しかし、この〈弱法師〉では、金地の背景に主人公の俊徳丸と夕日、梅の木と限られたモチーフを使い、構図を工夫することで、俊徳丸の内面世界と物語のテーマそのものを描き出してみせたのである。
画家・鏑木清方は、〈弱法師〉について、「能の最も精錬された部分を悉く取り入れてある」(「文展作品と美術院作品と」、『審美』第4巻11号)と評した。
観山にとって、これに勝る賞賛はあるまい。
彼は琳派や狩野派など、日本画の諸流派や西洋絵画の技法に綿密に向き合っただけではない。謡曲の内容を深く理解し、解釈することもできた。
そうした誠実で堅実な姿勢こそが、〈弱法師〉をはじめ諸作品を底から支え、観る人の心を打ち続ける源となっているのだろう。


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